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2016/10/15

甲子夜話卷之二 24 上野と芝、ものごと違たる評

2-24 上野と芝、ものごと違たる評

或人年始の參拜とて、上野へ詣しに、折しも夕方にて風烈しく寒氣も強かりしに、手水所の石鉢は氷張滿て、その中央に僅計水の見ゆるほどになり。傍に蓋手桶に杓そへ出し置。の蓋を明れば湯氣立登り、人々快く手洗い口そゝぎて拜しぬ。其翌日芝に詣づるに、時は正午計なれど、その日も同じく寒甚し。これも石手水鉢の外に手桶は出したれど、御老中方と云紙札を付たり。されば餘人は手洗ふべきやうもなければ、氷打砕きて、石鉢にて手洗ながら、手桶の中を見れば、朝とく湯や入れけん、みな氷にて有けり。上野は夕方まで幾度か湯を入かへつらん、殊に衆人の爲に公にせし心ざし厚きことなり。芝は晝の比氷張れども、湯を換る心も付ざるか。其上に老中の人に限りて湯を設ると云も、狹き心ならずや。総て兩山の風習高下あること、諸事かくの如しと語りしは、げにもとぞ思はれける。

■やぶちゃんの呟き

「上野」現在の東京都台東区上野桜木(上野公園及びその周縁)にある天台宗東叡山寛永寺。第三代将軍徳川家光を開基(秀忠隠居後の寛永二(一六二五)年に現在の東京国立博物館敷地内に本坊(貫主の住坊)が建立されたのを同寺の創建としている)とし、徳川家康・秀忠・家光の三代の将軍が帰依した天海を開山とする。本尊薬師如来。参照したウィキの「寛永寺の「徳川家と寛永寺」の項によれば、『近世を通じ、寛永寺は徳川将軍家はもとより諸大名の帰依を受け、大いに栄えた。ただし、創建当初の寛永寺は徳川家の祈祷寺ではあったが、菩提寺という位置づけではなかった。徳川家の菩提寺は』第二代『将軍秀忠の眠る、芝の増上寺(浄土宗寺院)だったのである。しかし』、第三代『将軍家光は天海に大いに帰依し、自分の葬儀は寛永寺に行わせ、遺骸は家康の廟がある日光へ移すようにと遺言した。その後』、第四代将軍家綱の廟、第五代綱吉の廟は孰れも『上野に営まれ、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となった。当然、増上寺側からは反発があったが』、第六代『将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、幕末まで続いた』。『また、吉宗以降は幕府財政倹約のため、寛永寺の門の数が削減されている』。徳川将軍十五人のうち六人(家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉・家定)が眠っている。

「芝」現在の東京都港区芝公園(東京タワー直近。同タワーの敷地の一部は増上寺の元墓地)にある浄土宗三縁山(さんえんざん)広度院増上寺。ウィキの「増上寺によれば、『空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという。その後、室町時代の』明徳四(一三九三)年、『酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、真言宗から浄土宗に改宗した。この聖聡が、実質上の開基といえる』。『中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、通説では』天正一八(一五九〇年)の徳川家康『江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが菩提寺となるきっかけだったという。貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い』、慶長三(一五九八)年に『家康によって現在地の芝へ移された。『寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる』。『また、徳川家の菩提寺であるとともに、檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林の筆頭となった』。増上寺には徳川将軍十五代の内、六人(秀忠・家宣・家継・家重・家慶・家茂)が葬られている、とある(家康は日光東照宮、家光は日光の輪王寺、最後の第十五代将軍慶喜は谷中霊園に葬られている)。

「違たる」「たがひたる」。

「手水所」「てうづしよ(ちょうずしょ)」。

「張滿て」「はりみちて」。

「僅計」「わづかばかり」。後の「正午計」の「計」も「ばかり」。

「傍」「かたはら」。

「蓋手桶」「ふたてをけ」。

「杓」「ひしやく」或いは「しやく」。

「そへ出し置」「添へいだしおく」。

「明れば」「あくれば」。

「寒」「かん」。

「御老中方と云紙札を付たり」『御老中(ごろうじゅう)方(がた)』専用と云う札を附けてある。

「朝とく湯や入れけん」朝早くに湯を入れたまま、ほっぽりっぱなしにしているのであろう。

「幾度か湯を入かへつらん」幾度か定期的に湯を入れ替えていたのであろう。

「殊に衆人の爲に公にせし心ざし厚きことなり」ことに庶民大衆のために公平に成しておるその志しの、なんと、誠実なることであろう。

「比」「ころ」。

「湯を換る心も付ざるか」「ゆをかふるこころもつかざるか」。冷めてしまった湯を暖かなものに替えるという誰でも思いつはずのことさえも思い至らぬという為体(ていたらく)なるか。東洋文庫版は「換る」に「かゆる」とルビを振るが、採らない。

「設る」「もうくる」。

「云も」「いふも」。

「総て兩山の風習高下あること、諸事かくの如しと語りしは、げにもとぞ思はれける」「高下」は「かうげ(こうげ)」で「高低(たかひく)」「程度の高さが甚だ異なること」の意。世間で『何事に於いても、寛永寺と増上寺両山は、日常の仕来りやら、行事の習わしやら、その「常識」や「誠意」の程度に、これ、えれえ、差があることは、一から十に至るまで万事万端総てに於いて、ほれ、この通りデエ!』と語っておることは、まっこと、その通りじゃわい、と自然思われたことであったわ。

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