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2016/10/02

『コンティキ号漂流記』   梅崎春生

 

「太平洋に散在する島々の土人たちが、ほぼ白い皮膚と赤毛からブロンドにわたる髪の毛を持ち、顔貌が白人に酷似しているのが多いのは、彼等の祖先が太古、ペルーから移住してきたためである」

 この本の著者ヘイエルダールはこういう仮説を立てる。そしてその可能性を証明するために、バルサ材をつかって、古代インディアンの筏(いかだ)と寸分違わぬ複製をつくり、貿易風と赤道海流にのって、機械力なしの航海をこころみる。これはその航海記である。コンティキ号という筏の上の、夢と冒険にあふれた、たのしく魅惑的な記録である。

 読者がこの本にひき入れられるのは、その原始性に対してではなく、原始と文明の微妙な調和からくる、ふしぎな現実性と夢幻性のためである。全巻を通じて、著者の着実にしてユーモアをたたえた眼が、四周(まわり)の狂いなき叙述をくりひろげているが、その圧巻はやはり大洋における航海の部分であろう。ここでは限りなく広い海と、筏の四辺にあらわれる魚や海獣、そして空と日と星辰が、その主人公としてあらわれてくる。読者は筏の上のヘイエルダール等と共に、大海の中で木の葉のように揺られ、魚類たちと隔てなき親近な交渉をもつ。

 著者が言うように、エンジンとピストンでごうごうと航海する人々があずかり知らぬような、大洋のそのままの姿が、ここでは即物的にとらえられている。一夜の耽読に値する所以(ゆえん)である。

 

[やぶちゃん注:昭和二六(一九五一)年三月十五日附『東京新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「コンティキ号漂流記」これは恐らく、昭和二六(一九五一)年月曜書房刊の水口志計夫(みずぐちしげお)訳の「コンティキ号漂流記」である。水口志計夫(大正一五(一九二六)年~平成一七(二〇〇五)年)は英文学者で立教大学名誉教授。本作の全訳初訳で知られる。なお、本作の執筆・翻訳の経緯については、機構設計コンサルタント業「からくり工房」公式サイト内の「コン・ティキ号漂流記 THE KON-TIKI EXPEDITIONの記載が詳しい。

「ヘイエルダール」トール・ヘイエルダール(Thor Heyerdahl 一九一四年~二〇〇二年)はノルウェーの人類学者・海洋生物学者で探検家。自説の証明のため、筏船の「コンティキ」号でペルーから南太平洋のトゥアモトゥ島まで実に約八千キロメートル弱の実験航海を行ったことで知られる。ウィキの「トール・ヘイエルダール」によれば、『当時はポリネシアの島々の住人(ポリネシア人)の起源は謎とされており、ヘイエルダール自身も調査を行った。その結果、南米ペルーにある石の像とポリネシアにある石の像が類似していること、植物の呼び方が似ていることなどを踏まえ、ポリネシアの住人の起源は南米にあると論文で発表。しかしこの説は学会からの反対にあう。当時の技術では船で行き来することなど不可能であるというのがその理由だった』。一九四七年、『ヘイエルダールとそのチームは、南米のバルサ材およびその他の地元の材料を用い、インカ時代の船を模したコンティキ号を建造。ペルーからイースター島への航海に挑戦した。巨石文化がインカ帝国から海を渡ってイースター島に伝えられ、同島に残るモアイ像が作られたことを実証しようとしたのである。コンティキはインカ帝国の太陽神ビラコチャの別名。いかだは、インカ帝国を征服した当時のスペイン人たちが描いた図面を元に設計された』。『コンティキ号は』一九四七年四月二十八日に五人の仲間と一羽のオウムと『共に出航し、曳航船によってフンボルト海流を越えた後は漂流しながらイースター島を目指した。出港から』百二日後の一九四七年八月七日にトゥアモトゥ諸島の『ラロイア環礁で座礁。彼らの航海を描いた長編ドキュメンタリー映画『Kon-Tiki』は、1951年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞している』。この漂流実験では一九四〇年代当時の現代の『航法機器やボートなども使用していた。 またアマチュア無線により、ノルウェーを含む世界各国との交信を行っていた』。『食料に関しては、実験を名目にアメリカ軍から提供された保存食の他は、海中から得た。ヘイエルダールは、「インディオの航海技術を立証するのが目的で、我々がインディオになる必要は無い」と述べていて、最初は保存食を用意して航海に臨むつもりだったようである。「筏のロープが波で擦り切れる」とか「バルサが水を吸って沈没するはず」など、航海前に出された否定的な意見を見事に覆したことで評判を呼んだ』。但し、建造を急いだことから、『乾燥していないバルサを使ったのが偶然に吉と出て、乾燥したバルサを使っていれば、海水の吸収が早くて沈没していた可能性があるとヘイエルダールは認めている』。また、一九六九年には『「アステカ文明はエジプト文明と類似しており、エジプトからの移民が作った文明ではないか」と考え、古代エジプトの葦製の船に大西洋を渡る能力があることを証明するため、パピルスと呼ばれる葦で作った船「ラー号」で、モロッコからカリブ海を目指した。ラー号は』五千キロメートルを『航海したところで破損したが、一年後の再挑戦では、見事にカリブ海のバルバドス島まで到達し』、一九七七年には『葦船「チグリス号」でインド洋を航海して成功している』。『この航海によって、南米からポリネシアへの移住が技術的に不可能ではなかったことが実証されたと一般には思われているが、南米大陸の太平洋側にはフンボルト海流という強力な海流が流れており、風上への航走能力を持たない』筏『ではフンボルト海流を越えてポリネシアへの貿易風に乗ることは困難である。実際、コンティキ号は軍艦に曳航されてフンボルト海流を越えた海域』(陸地から凡そ八十キロメートル)『から漂流実験を開始しており、この点をもって実験航海としての価値はさほど高くないと指摘されている』。『現在、人類学者・考古学者・歴史学者・遺伝学者などほとんどの研究者は、考古学・言語学・自然人類学・文化人類学的知見、および遺伝子分析の結果を根拠に、南米からの殖民は無かったとしている。ポリネシアへの植民はポリネシア人が考案した風上への航走能力を持つ航海カヌーを用いて、東南アジア島嶼部からメラネシア、西ポリネシア、東ポリネシアという順序で行われたと考えており、風上への航走技術を持たなかった南米の人々が自力でポリネシアに渡った証拠は無いと考えている』。『その一方で、本当にフンボルト海流を筏で乗り越えられないかどうかは不明だ』、『としてヘイエルダール説を擁護する意見も存在している。特にコロンブス以前に既に、オセアニア一帯で中南米原産のサツマイモが栽培されていたことから』、『南米からポリネシア方面への文化的影響は皆無ではなかったとする意見である。だが、この点についても』、『南米先住民がポリネシアに航海したと考えるよりは、ポリネシア人が南米大陸に来航してサツマイモを持ち帰ったと考える方が自然であり、現在のところ研究者の大半はそちらの仮説を支持している』。『また最近になって、カリフォルニア大学バークレー校の言語学者キャサリン・クラーらは、北米先住民チュマッシュ族とポリネシア系言語の語彙比較および出土物の放射性炭素年代測定から、ポリネシア人と北米先住民の文化接触の可能性を指摘した論文をCurrent Anthropology誌とAmerican Antiquity誌に投稿し、いずれの雑誌でも査読者の意見は割れたが、最終的にAmerican Antiquity誌に受領され』、二〇〇五年七月号に掲載された。但し、『この論文ではポリネシア側からの文化接触の可能性は示唆できても、南米側からの能動的な接触の証拠にはならない』。『また、「アステカ文明とエジプト文明との類似」についても、それぞれの文明が発生した年代が離れすぎており、「類似は偶然にすぎない」という説がほぼ主流である。特にピラミッドに関しては、技術が未発達な段階において、そこまで巨大な石造建造物を建設するには、どうしてもこの形にならざるを得ない(垂直に切り立った石壁とするには、ピラミッドよりも高い建築技術が必要である)ための類似であると考えられる』。但し、『ミトコンドリアDNAハプログループXおよびY染色体ハプログループR1の不可解な分布は、エジプト・ヨーロッパからアメリカへの移住が存在したとする、彼の説を支持する可能性がある』。『このようにヘイエルダールの学説には否定的見解が優勢であるが、自説を実証するために冒険を行ったヘイエルダールの業績自体は高く評価されている。ポリネシア人の東南アジア起源説を主張する学者たちからも尊敬の対象となっており、例えばこれまで唯一、オリジナルの古代ポリネシアの航海カヌーを発掘するなどの業績を持つ篠遠喜彦』(しのとおよしひこ 一九二四年~:ハワイ州ホノルルのバーニス・P・ビショップ博物館所属の日本生まれのアメリカの人類学者。ハワイ諸島やフランス領ポリネシアを始め、太平洋全域に及んだ人類学的探険調査によって知られる。ここはウィキの「篠遠喜彦」に拠った)も彼への敬意を明言している、とある。

「コンティキ号」前注で十分と思われるが、ウィキの「コンティキ号」からも一部を引く。同号はヘイエルダールらによって一九四七年に『建造されたマストとキャビンを持つ大型の筏』。『ヘイエルダールらは』『インカを征服したスペイン人たちが描いた図面を元にして、バルサや松、竹、マングローブ、麻など、古代でも入手が容易な材料のみを用いて一隻のいかだを建造した。図面に忠実に製作されたが、航海の終り頃まで機能がわからないパーツもあった』、『とヘイエルダールは語っている』。『コンティキ号は現在』、『ヘイエルダールの母国ノルウェーのオスロにあるコンティキ・ミュージアム(Kon-Tiki Museum)に展示されている』。Kon-Tiki Museumの公式サイトをリンクしておく。当時の実験航海の動画なども視聴出来る(但し、記載はノルウェー語)。]

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