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2016/10/29

甲子夜話卷之二 36 殿中にて板倉修理、細川侯を切りしときの實説

2―36 殿中にて板倉修理、細川侯を切りしときの實説

延享中、板倉某亂心にて、御城の厠中にて熊本侯細川氏を刃す。此時諸席の人騷亂一方ならず。又かの厠は柳の間に近し。時に此席の諸氏、多く散亂して坐に在らず。伯父本覺君は【諱、邦。壱岐守】遂に坐を立給はざりしとなり。此時、本覺君の見られしは、始めは何ごととも知らず人々騷ぎ立しが、厠の中より坊主衆六七人計して、一人を扶て出たるに、其人色靑ざめ、脇指を杖につき、肩衣の前後血流てあけになり、よろぼひ出たる體、忽胸わるく覺て能も見玉はざりしとなり。程經ても食に當られたるとき抔に、不斗思ひ出玉へば、胸あしゝと屢々云給しとなり。夫人佐竹氏の親く御物語を聞れしと淸に語給ひき。

■やぶちゃんの呟き

「殿中にて板倉修理、細川侯を切りし」旗本板倉勝該(かつかね ?~延享四年八月二十三日(一七四七年九月二十七日)が肥後熊本藩第五代藩主細川宗孝(むねたか 正徳六(一七一六)年~延享四年八月十五日(一七四七年九月十九日)を殿中で刃傷に及び、結果、細川を殺害した事件。板倉勝該は旗本板倉重浮(しげゆき)の二男として生まれたが、兄板倉勝丘(「かつおか」か)の養子となり、延享三(一七四六)年に兄の遺領六千石を相続、延享四(一七四七)年三月十九日に第九代将軍徳川家重に拝謁している。ところがそれから五ヶ月後の同年八月十五日、江戸城大広間脇の厠(かわや)付近に於いて、月例拝賀で出仕していた細川宗孝に背後から脇差で斬りつけ、宗孝は同日死亡した(後のウィキの「細川宗孝」の引用を見る限りでは、どうもその場で程なく死んだ(即死)模様である)。まず参照したウィキの「板倉勝該」によれば、『伝えるところによると、勝該は日頃から狂疾の傾向があり、家を治めていける状態ではなかったため、板倉本家当主の板倉勝清』(かつきよ 宝永三(一七〇六)年~安永九(一七八〇)年:当時は遠江相良(さがら)藩主。後に上野(こうずけ)安中藩主で老中となった)『は、勝該を致仕させて自分の庶子にその跡目を継がせようとしていたという。それを耳にした勝該は恨みに思い、勝清を襲撃しようとしたが、板倉家の「九曜巴」紋と細川家の「九曜星」紋が極めて似ていたため、背中の家紋を見間違えて細川宗孝に斬りつけてしまった』誤認殺人とされる。しかし『一方で、人違いではなく勝該は最初から宗孝を殺すつもりであったとする説も存在する。大谷木醇堂』(おおやぎじゅうどう:幕末の漢学者で昌平黌准博士ともなった人物)の「醇堂叢稿」に『よれば、白金台町にあった勝該の屋敷は、熊本藩下屋敷北側の崖下に位置し、大雨が降るたびに下屋敷から汚水が勝該の屋敷へと流れ落ちてきたので、勝該は細川家に排水溝を設置してくれるように懇願したが、無視されたため犯行に及んだという』ものである。『事件後、勝該は水野忠辰』(ただとき:三河国岡崎藩第六代藩主)『宅に預けられ』、同月二十三日に『同所で切腹させられた』とある。一方、殺されてしまった「細川宗孝」のウィキを見ると、前者の誤認殺人と断定してあり、同日、『月例拝賀式に在府の諸大名が総登城した際、宗孝が大広間脇の厠に立つと、そこで旗本』寄合席七千石(先の記載とは千石も異なるの板倉勝該に突然、『背後から斬りつけられ絶命するという椿事が出来した』。『勝該には日頃から狂気の振る舞いがあり、このときも本家筋にあたる安中藩主・板倉勝清が自らを廃するのでないかと勝手に思い込んだ勝該が、これを逆恨みして刃傷に及んだものだった。ところが細川家の「九曜」紋が板倉家の「九曜巴」紋とよく似ていたことから、宗孝を勝清と勘違いしたのである』。『宗孝にとってはとんだ災難だったが、これは細川家にとっても一大事だった』。三十一歳『になったばかりの宗孝にはまだ世継ぎがおらず、さりとてまだ若いこともあり、養子は立てていなかったのである。殿中での刃傷には』、ただでさえ、『喧嘩両成敗の原則が適用される上、世継ぎまで欠いては肥後』五十四『万石細川家は改易必至だった』。『この窮地を救ったのは、たまたまそこに居合わせた仙台藩主・伊達宗村である。宗村は機転を利かせ、「越中守殿にはまだ息がある、早く屋敷に運んで手当てせよ」と細川家の家臣に命じた。これを受けて家臣たちは、宗孝を城中から細川藩邸に運び込み、その間に藩主舎弟の紀雄(のちの重賢)を末期養子として幕府に届け出た。そして翌日になって宗孝は介抱の甲斐なく死去と報告、その頃までには』、『人違いの事情を幕閣も確認しており、細川家は事無きを得た』。この「殿中ウッカリ刃傷事件」の『報はたちまち江戸市中に広がり、口さがない江戸っ子はさっそくこれを川柳にして』、「九つの星が十五の月に消え」「劍先が九曜(くえう)にあたる十五日」など『と詠んでいる。「剣先」は「刀の先の尖った部分」を「身頃と襟と衽の交わる部分(=剣先)」に引っ掛け、また「九曜」は細川家の「九曜」紋を「供養」に引っ掛けた戯れ歌である』(リンク先にそれぞれの家紋が示されているので是非参照されたい。こちらには変更後の紋もある)。『大事件後、細川家では「九曜」の星を小さめに変更した(細川九曜)。さらに、通常は裃の両胸・両袖表・背中の』五ヶ所に『家紋をつける礼服のことを「五つ紋」というが、その「五つ紋」に両袖の裏側にも』一つずつ『付け加えて、後方からでも一目でわかるようにした。この細川家独特の裃は「細川の七つ紋」』 と呼ばれ、『氏素性を明示する際には』、『よく引き合いに出される例えとなった』とある。私は家紋の誤認というよりも、先の「醇堂叢稿」にあるようなつまらぬ遺恨が元にあり、精神に致命的な変調をきたしていた勝該が、気に食わない隣家の細川、その家紋が板倉本家の家紋とダブって、感情のフラッシュ・バックによって宗孝を襲ったとするのが正しいようには思われるのである。

「柳の間」「やなぎのま」江戸城本丸殿中の居間。「大広間」(江戸城内の広間の中で式日などに国持ち大名や四位以上の外様大名などが列席した部屋)と「白書院」(しろしょいん:大広間の奥隣りに位置し、先の「赤穂事件」の刃傷で知られる「松之廊下」で連結された建物。上段・下段・帝鑑之間・連歌之間の四室が田の字型に並んでおり、大広間に次ぐ格式を持っていた。公式行事で使われ、大掛かりな行事の際には大広間と一体化して使われた)との間にある中庭の東側にあり、四位以下の大名及び表高家(おもてこうけ:官位を持たない高家(伊勢や日光への代参・勅使の接待・朝廷への使い・幕府の儀式・典礼関係などを掌った。足利氏以来の名家の吉良・武田・畠山・織田・六角家などが世襲した。禄高は少なかったが、官位は大名に準じて高かった)。基本、幼年者や事務に未熟な者らであった)の詰め所であった。名は襖(ふすま)に雪と柳の絵があったことに由来する。

「時に此席の諸氏、多く散亂して坐に在らず」これは事件とは無関係に、多くの者がたまたま諸事私用によって座を立っており、在席着座していた者が極めて少なかったことを指しているようである。

「伯父本覺君は【諱、邦。壱岐守】」松浦邦(まつらくにし 享保一七(一七三二)年~宝暦七(一七五七)年)は、平戸藩第八代藩主松浦誠信(さねのぶ)の長男で世嗣。延享元(一七四四)年に徳川吉宗に拝謁し、この事件の前年の延享三(一七四六)年に叙任したが、家督を継ぐことなく宝暦七(一七五七)年に二十六の若さで早世してしまった。代わって弟の政信が嫡子となったもののこれも早世し、結果、政信の子であった清(静山)が祖父誠信の養嗣子となって家督を継いだのである(ここはウィキの「松浦邦」に拠った)。静山は宝暦一〇(一七六〇)年生れであるから、彼が亡くなった時は三歳、恐らく逢っていたとしても、静山に記憶はなかったであろう。

「遂に坐を立給はざりしとなり」「ついにざをたちたまはざりとなり」。事件当時は数えで十六で、「立たなかった」のではなく、「立てなかった」のである。後の最後の述懐部分を見ても、無理もない。

「坊主衆六七人計して」「坊主」は「茶坊主」(将軍や大名の周囲で茶の湯の手配や給仕・来訪者の案内接待等、城中のあらゆる雑用に従事した。しばしば、時代劇で城内を走るシーンが出るが、殿中にあって日常に走ることが許されていたのは、彼らと奥医師のみであった。なお、刀を帯びず、剃髪していたために「坊主」と呼ばれたが、僧ではなく、武士階級に属する。因みに芥川龍之介はこの末裔であった)。「計」は「ばかり」。

「扶て出たるに」「たすけていでたるに」。

「脇指」「脇差」。

「肩衣」「かたぎぬ」武士の礼服の一つ。袖がなく、小袖の上に肩から背中を覆って着るものをいう。下には半袴(はんばかま)を着した「継上下(つぎかみしも)」とも呼ぶ。

「血流て」「血、ながれて」。

「あけになり」「朱(あけ)に成り」。

「よろぼひ出たる體」「よろぼひいでたるてい」。「よろぼふ」は「蹌踉ふ」「蹣跚ふ」などと漢字を当て、「よろよろと歩く・よろめく」或いは「倒れかかる・崩れかかる」の意で、ここダブルの意味である。

「忽」「たちまち」。

「覺て」「おぼえて」。

「能も見玉はざりし」「よくもみたまはざりし」。正視なさることはことはお出来にならなかった。

「程經ても」その後、かなり経った後でも。

「食に當られたるとき抔に」食事を摂っておられる際などに。

「不斗」「ふと」。

「思ひ出玉へば」その折りの凄惨な様子をお思い出されたりなさると。

「胸あしゝ」「胸惡しし」。気持ちが悪くなった。

「云給しとなり」「いひたまひしとなり」。述懐なさっておられたとのことである。

「夫人佐竹氏」松浦邦の正室であった壽(「ひさ」か)。彼女は出羽久保田藩第五代藩主佐竹義峯(元禄三(一六九〇)年~寛延二(一七四九)年)の娘であった。

「親く」「したしく」。

「聞れし」「きかれし」。

「淸」静山自身の自称。

「語給ひき」「かたりたまひき」。夫人佐竹氏への敬意。

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