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2016/10/03

北條九代記 卷第九 將軍家童舞御覽

      ○將軍家童舞(どうぶ)御覽(ごらん)

同二年二月二日、御息所、既に相摸守時宗の亭に入御(じゆぎよ)あり。是、將軍家二所(しよ)の御精進に依(よつ)てなり。翌日、將軍親王、御濱出(おんはまいで)まします。供奉(ぐぶ)の人は豫(かね)てより定められしかば、難澁せしむる義もなく、三日御逗留ありて、還御なりけり。同三月四日、御所の御鞠(おんまり)の壼(つぼ)にして、童舞を御覽あり。鶴岡法會の舞樂を引移され、舞童等(ら)を南北に分けらる。土御門大納言、花山〔の〕院大納言は簾中に候ぜられ、從二位顯氏(あきうぢの)卿、從三位基輔〔の〕卿、一條中將能基(よしもと)、八條中將信通(のぶみち)、六條少將顯名(あきな)、唐橋(からはしの)少將具忠(ともただ)等(ら)、伺候の輩(ともがら)、位階に隨つて著座(ちやくざ)あり。左の樂(がく)には、三臺(だい)、泔州(かんしう)、太平樂(たいへいらく)、散手(さんしゆ)、羅陵王(らりようわう)、右の樂には長保樂(ちやうはうらく)、林歌(りんか)、狛桙(こまほこ)、貴德(きとく)、納蘇利(なそり)と定めらる、伶人、舞童等(ら)、今日を晴(はれ)と出立(いでた)ち、色を盡して花を飾り、堂上堂下さざめきて、東國の聞物(もんぶつ)、何事か是(これ)に勝るべきとぞ思合(おもひあは)れける。夫(それ)、樂(がく)は、天地純粹の元氣を延(の)べて、性理靈昧(せいりれいまい)の峻德(しゆんとく)に法(のつと)る。凶惡邪穢(きようあくじやゑ)の路(みち)を塞ぎ、風(ふう)を移し、俗を變へ、君臣和して、上下契(かな)ひ、貴賤、敬(けい)に基き、長幼、順に軌(のり)とす。節(せつ)を合せて奏すれば、萬民、徳に歸し、曲を守りて調(しら)ぶれば、庶品(しよひん)、樂みに返る。この故に先王(せんわう)、樂を立つるの原(もと)、五聲(せい)、八音(おん)、律に應じ、鬼神感じ、道義治(おさま)る。手の舞(まひ)、足の蹈(ふ)む所、天文(てんもん)、生成(せいじやう)し、地理、長育す。誠に是(これ)、神(しん)、是、聖(せい)、既に、人、その德の施す所を蒙(かうぶ)る。抑々(そもそも)、大平の儀表(ぎへう)なり。松若、禪王、乙鶴(おとづる)、竹王(たけわう)等(ら)、童舞の祕曲を盡しければ、上下、感じ給ひける所に、又、左の方より管頭(くわんとう)、一越(いちこつ)に吹出(ふきいで)たる聲、遙(はるか)に雲外に響き、山海(さんかい)に亙る。色音、比和(ひわ)してめでたく調(とゝのほ)りける時、右近〔の〕將監中原光氏、賀殿(かてん)の祕曲を舞ひけるに、花の袂(たもと)は風に薰(かを)り、雪の袖は雲に翻(ひるがへ)る心地して、簾中(れんちう)も庭上(ていじやう)も感に堪へたる殊勝さは、心も詞(ことば)も及ばれず。一條中將能基朝臣、仰せに依(よつ)て、祿物(ろくもつ)を光氏に賜(たまは)る。天下安泰の德を表(あらは)し、當座の眉目、奇世(きせい)の伶人(れいじん)かな、と思はぬ人はなかりけり。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻五十二の文永二(一二六五)年二月二日・三日、三月四日に基づく。

「童舞(どうぶ)」元服以前の子どもが社頭や貴人の前で舞う舞楽。「童舞(わらわまい)」と訓ずるのが一般的。元は公卿の子弟が天皇らの前で順に舞楽を舞って見せる儀式に基づく。但し、調べた限りでは、童舞のための決まった曲目が特にあるわけではないようである。

「將軍家二所(しよ)の御精進」源頼朝によって始められた、走湯山(現在の伊豆山神社)及び箱根山(現在の箱根神社)の二所権現と三嶋社へ参詣することを「二所詣(にしょもうで)」と呼ぶが、その精進潔斎(女性を遠ざける)、及び形式的な禊(みそぎ)のための「濱出」である。ただ遊んでいるのではない。

「三日御逗留ありて、還御なりけり」「吾妻鏡」によれば、出立は浜出の三日から四日後の二月七日で、還御は同月十二日である。延べ六日間であるが、前後と途中に移動行程から考えれば、必ずしも矛盾とは言えないし、「二所」は実は三ヶ所であるから「三日逗留」は自然とさえ言える。

「御所の御鞠(おんまり)の壼(つぼ)」御所の中の蹴鞠をする坪庭のことらしい。なお、確認であるが、幕府(御所)はこの四十年も前の泰時が執権であった嘉禄二(一二二六)年に、大倉幕府から若宮大路東側(小町大路西側の現在の一の鳥居近く。現在、「宇都宮辻子(つじ)幕府」などとも呼称される)へと移転、さらに嘉禎二(一二三六)年に恐らく同地区内に於いて新たに、現在は「若宮大路幕府」と呼称されているものに、建て替え移転されている。

「土御門大納言」土御門顕良。元の内大臣土御門定通三男。

「花山〔の〕院大納言」花山院(かざんいん)師継。花山院右大臣忠経四男。

「從二位顯氏(あきうぢの)卿」藤原顕氏。藤原顕家の子。内蔵頭(くらのかみ)。鎌倉幕府の行事にしばしば参加し、六条家の歌人(号・紙屋河)としても知られ、鎌倉歌壇でも活躍した。

「從三位基輔〔の〕卿」坊門基輔。左近衛中将坊門(藤原)清親の子。

「一條中將能基(よしもと)」一条頼氏長男。母は北条時房の娘。

「八條中將信通(のぶみち)」坊門信通か。ウィキの「坊門家」に、『基輔や忠信の子の有信の子である信通らは、九条道家に近侍し九条家一門との数代に渡る姻戚関係を築いていた一方で、関東祗候の廷臣として鎌倉幕府の将軍にも仕えるなどして一定の権勢を保っていた』とある。

「六條少將顯名(あきな)」藤原顕名。先の藤原顕氏の子。

「唐橋(からはしの)少將具忠(ともただ)」関東伺候廷臣。

「左の樂」左方。通常は中国・天竺・林邑(りんゆう:ベトナム)系の「唐楽(とうがく)」を奏する。

「三臺(だい)」は雅楽の曲名(以下同様)で、正しくは「庶人三台(そにんさんだい/しょにんさんだい)」。唐楽。ウィキの「庶人三台」によれば、「三臺」とは『古代中国の後宮の殿閣の名前に由来するらしい』。この曲は相撲(すまい)の節会(せちえ)の『際に奏されたが、舞は廃絶して現存しない』とある。

「泔州(かんしう)」。唐楽。六人又は四人の舞い。玄宗皇帝作とも、シルクロードの要衝であった甘州(現在の甘粛省張掖市)の風俗舞いともされる。

「太平樂(たいへいらく)」唐楽。「朝小子 (ちょうこし)」・「武昌楽」・「合歓塩 (がっかえん)」からなる長い合成曲。四人舞い。即位の大礼の後などで演じられる。「太平楽を決め込む」などの謂いはこの曲がすこぶる悠長な曲であることから、「勝手なことを言って呑気にしていること・勝手気ままにふるまうこと」の意となったものである。

「散手(さんしゆ)」唐楽。一人舞いの武舞 (ぶのまい) で、番子 (ばんこ:舞楽で舞い人の下役。これと「貴徳(きとく)」に登場し、舞人に鉾(ほこ)を渡したりする) 二人を従える。

「羅陵王(らりようわう)」一般には「蘭陵王」と書き、「らんりょうおう」と読み、別名「蘭陵王入陣曲」、短縮して「陵王」とも呼ぶ。唐楽の一人舞い。以下、ウィキの「蘭陵王 (雅楽)」から引く。『華麗に装飾された仮面を被る勇壮な走り舞』い。『林邑の僧である仏哲が日本にもたらしたものと言われ』、『中国風の感じが残ると言われる美しい曲』である。『北斉の蘭陵武王・高長恭の逸話にちなんだ曲目で、眉目秀麗な名将であった蘭陵王が優しげな美貌を獰猛な仮面に隠して戦に挑み見事大勝したため、兵たちが喜んでその勇士を歌に歌ったのが曲の由来とされている』。『武人の舞らしい勇壮さの中に、絶世の美貌で知られた蘭陵王を偲ばせる優雅さを併せ持つ』。『この曲の由来となった伝説によると、高長恭はわずか五百騎で敵の大軍を破り洛陽を包囲するほどの名将であったが、「音容兼美」と言われるほど美しい声と優れた美貌であったため、兵達が見惚れて士気が上がらず、敵に侮られるのを恐れ、必ず獰猛な仮面をかぶって出陣したと言うもの』。『男性がこの舞を舞うときは伝説に則して竜頭を模した仮面を用いるが、女性や子供が舞う場合は優しい顔立ちであった高長恭になぞらえてか』、『化粧を施しただけの素顔で舞うこともある』とある。『この伝説に対応する史実としては、北周が兵を発して洛陽を包囲した時、援軍を率い城門の前に到着したものの城内の人間が敵の策謀を疑って門を開けなかったため、高長恭が兜を脱ぎ顔を晒したところ、類いまれな美貌にその正体を悟った門兵が扉を開き、無事に包囲を破って洛陽の解放に貢献したという記述が『北斉書』などの史書に見える』。『龍頭を模した舞楽面を着け、金色の桴(ばち/細い棒のこと)を携える』。『緋色の紗地に窠紋の刺繍をした袍を用い、その上に毛縁の裲襠 (りょうとう)と呼ばれる袖の無い貫頭衣を着装し、金帯を締める』。『女性や少年少女が舞う場合もあり、その場合は、舞楽面を着けずに桜の挿頭花を挿した前天冠を着け、歌舞伎舞踊と同様の舞台化粧をする場合がある』とある。

「右の樂」右方。通常は朝鮮半島・渤海系の「高麗楽(こまがく)」を奏する。

「長保樂(ちやうはうらく)」「長浦楽」「長宝楽」とも書き、「ちょうぼらく」とも読む。高麗楽。四人又は六人舞い。襲装束を着て舞う。

「林歌(りんか)」「臨河」とも書く。高麗楽。四人舞い。

「狛桙(こまほこ)」「狛鉾」とも書き、「こまぼこ」とも読む。高麗楽。四人舞い。参照した「楽曲解説(高麗楽の部・高麗壱越調)」によれば、『朝鮮の貢ぎ物を運ぶ舟が五色に彩られた棹をあやつって港に入る様子を舞にしたものという。舞人は、近衛役人の乗馬の装束であった錦のへりのついた裲襠装束に巻纓(けんえい)・老懸(おいかけ)をつけた末額冠(まつこうのかんむり)を身につけ』、四人の『舞人が五色にいろどられた棹を持って舞う。舞の途中で,棹をあやつって船をこぐ振りがある』とある。

「貴德(きとく)」「帰徳」とも書く。高麗楽。一人舞い。前注で示した「楽曲解説」によれば、『黒竜江の沿岸にある粛慎国の帰徳侯の舞であるという。中国漢の宣帝の神爵年間』(紀元前六一~紀元前五八)『に匈奴の日逐王が漢に降伏して貴徳侯になった(別資料には、漢を封じた匈奴の王が凱旋して帰徳侯になった)という故事によっている。毛べりの裲襠装束に竜甲(たつかぶと)、威厳のある面をつけ、太刀と鉾を持って舞う。面には鯉口と人面の二種があり、貴徳鯉口の面をつけたときは「鯉口吐気、嘯万歳政、天下太平、世和世理」の鎮詞を唱えるというが、今は唱えない。ときとして、番子(ばんこ)という従者が』二人、『鉾を持って舞台の下で舞人に受け渡しをすることもあるが、いま宮内庁楽部ではこの番子の作法は用いていない』とある。

「納蘇利(なそり)」「納曽利」とも書く。高麗楽。二人舞い或いは一人舞い。ウィキの「納曽利」によれば、左方の「蘭陵王」の番舞(つがいまい:舞姿の似た演目同士を組み合わせる演目の構成を言う語。雅楽ではこの概ねどの曲も番舞が決まっている)。『紺青色の龍頭を模した舞楽面を着け、銀色の桴(ばち/細い棒のこと)を携える』。『黄色系統の色の紗地に窠紋の刺繍をした袍を用い、その上に毛縁の裲襠 (りょうとう)と呼ばれる袖の無い貫頭衣を着装し、銀帯を締める』。『女性や少年少女が舞う場合もあり、その場合は、舞楽面を着けずに山吹の挿頭花を挿した前天冠を着け、歌舞伎舞踊と同様の舞台化粧をする場合がある』とある。

「伶人」楽人(がくにん)。演奏家。

「聞物(もんぶつ)」見聞きべき物。見逃してはならないもの。

「天地純粹の元氣」宇宙全体に満ち満ちているところの、ありとあらゆるものを産み出すところの純粋にして玄妙なる精気。

「延(の)べて」述べて。人に感得出来るものに変えたもので。

「性理靈昧(せいりれいまい)の峻德(しゆんとく)に法(のつと)る」本来の人の性質の原理であるところの霊性の非常に高邁なる徳の法(カルマ)に基づいているものである。

「風(ふう)を移し、俗を變へ、」世の風俗を、より良く、より高次なものへと遷移変容させ。

「契(かな)ひ」関係性がごく自然で好ましい状態で安定し。

「敬(けい)に基き」互いが相手を尊敬すという人倫の道に基づき。

「長幼、順に軌(のり)とす」長幼の序は極めて普通に自然に正しく規範として遵守される。

「節(せつ)を合せて奏すれば」私はここは「ふし」と振りたい。ここ以下は「鼓腹撃壌」を念頭において文を綴っている。

「庶品(しよひん)、樂みに返る」この世の総ての人々は、一切の曇りも翳りもない、原初の心からの楽しみの世界へと帰ることが出来る。

「五聲(せい)」「五音・五韻(ごいん)」に同じい。中国及び日本の音楽の理論用語で、音階や旋法の基本となる五つの音。各音は低い方から順に「宮(きゅう)」・「商(しょう)」・「角(かく)」・「徴(ち)」・「羽(う)」と呼び、基本型としては、洋楽の「ド」・「レ」・「ミ」・「ソ」・「ラ」と同様の音程関係になる。

「八音(おん)」古代中国の楽器分類法で、材質により「金(きん:鐘)」・「石(せき:磬(けい))」・「糸(し:弦楽器)」・「竹(ちく:管楽器)」・「匏(ほう:笙(しよう)・竽(う))」・「土(ど:壎(けん))」・「革(かく:鼓)」・「木(もく:柷(しゆく)・敔(ぎよ))」の八種に分類する。転じて「各種楽器」又は「音楽」を指す(なお、これとは別に仏教用語として(その場合は「はっとん」とも呼ぶ)如来の音声が具備しているとされる、八つの良い特徴をも指す。それは「極好音」・「柔輭(にゆうなん)音」・「和適音」・「尊慧音」・「不女音」・「不誤音」・「深遠(じんのん)音」・「不竭(ふけつ)音」とされ、「八種清浄音」「八種梵音声(ぼんのんじょう)」などとも呼ばれるが、ここではそれは考えなくてよい)。

「律」中国や日本の音楽で音程の単位を指す。十二律(一オクターブ内に半音刻みに一二の音があるので、この称がある。日本では古代に中国の理論を輸入したが、後に日本独自の名称を生じ、主として雅楽・声明(しょうみょう)・平曲・箏曲(そうきよく)などで用いられている)の一段階の差を示し、洋楽の半音(短二度)に相当する。

「天文(てんもん)、生成(せいじやう)し」(小さな掌はひらりと舞えば、そこには直ちに)天空、則ち、象徴としての一つの宇宙が生成(せいせい)し。

「地理、長育す」(わずかな蹠(あうら)がとんと大地を踏んだだけで、そこには直ちに)広大な大地が誕生し、豊饒の平野や峨々たる山脈と成るのである。

「神(しん)、是、聖(せい)」唯一無二の神聖にして不可侵なる存在。

「儀表(ぎへう)」模範。手本。

「松若、禪王、乙鶴(おとづる)、竹王(たけわう)」孰れも舞いを舞う童子らの名。

「童舞の祕曲」童舞いとして伝授されている門外不出の秘曲の舞い。

「左の方より管頭(くわんとう)」唐楽方の「竹(ちく)」(管楽器方)のコンサート・マスター。

「一越(いちこつ)」演奏の基準音で洋楽の「レ」に近い。呂旋法を使う一(壱)越調のこと。個人サイト「ガクテン」の「extra.2 もっと音階でこれや呂旋法を子細に確認出来る。要必聴!

「右近〔の〕將監中原光氏」鶴岡八幡宮楽所の伶人。知られる鶴岡八幡宮蔵の琵琶を弾く「木造弁才天座像」には、何と、「文永三年丙寅九月廿九日/始造立之奉安置舞樂院/從五位下行左近衞將監中原朝臣光氏」と刻銘がある。即ち、あの像の願主こそが彼なのである。参照した「鶴岡八幡宮」公式サイト内の宝物のパートの解説によれば、この像がまさにこの記事の翌年、文永三(一二六六)年九月二十九日に『舞楽院に安置されたこと、その際の願主が中原光氏であることがわかる』とし、まさにこのシーンの「吾妻鏡」の記事を概説した後、『なお、中原光氏の事跡は、ほかに『鶴岡八幡宮寺社務職次第』・『鶴岡八幡宮遷宮記』などにもみえ、逗子市神武寺の石造弥勒菩薩像の光背銘には』「大唐高麗舞師/本朝神樂博士/從五位上行/左近衞將監/中原光氏行年七十三/正應三年庚寅/九月五日」とある。正応三(一二九〇)年に七十三歳で『歿したことからすると、弁才天坐像造立は』四十九歳の折りのことであった、とある。これらから、光氏の生年は建保六(一二一八)年であることが判る。

「賀殿(かてん)」雅楽の舞曲。唐楽。一越調。本来は四人舞いの曲。曲は承和年間(八三四年~八四八年)に伝来、舞は林真倉(はやしのまくら)なる人物の作ともいう。

「庭上(ていじやう)」庭に控えている者たち。

「殊勝さ」特に優れている様子。

「當座の眉目」この時、この光氏の玄妙なる舞い姿を見た人々。

「奇世(きせい)の伶人(れいじん)かな」「何と、まあ! 世にも稀なる惚れ惚れする楽人(らくじん)であることよ!」。]

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