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2016/10/27

諸國百物語卷之四 七 筑前の國三太夫と云ふ人幽靈とちぎりし事

     七 筑前の國三太夫(だゆふ)と云ふ人幽靈とちぎりし事

Sandayuu


 ちくぜんの國に三太夫と云ふ、あきんどあり。まいねん、大さかへあきなひ物をもちてのぼるとて、あまが崎へもたちより、あつきやと云ふを宿にしけるが、此あつき屋の下女にさゝといふ女ありしを、ていしゆ、三太夫が夜とぎにおこせけり。かようにする事、數年なりしとき、三太夫、ゆへありてひさしくあまが崎へものぼらず。としへてのち、のぼり、くだんのあつき屋へつきければ、ていしゆ、さまざま、ちさうをし、酒をしいて、

「さゝが、ゐたらば」

などと、たわぶれけるを、つかいにゆきつらんなどゝ思ひゐて、夜もふけゝれば、かやをつりてねにけり。やはんのころ、なに物やらん、かやのうちへはいるを見ればさゝ也。三太夫、うれしくて、

「なにと、久しや。ひるは、いづかたへ、ゆきつるぞ」

とゝふ。さゝ、いひけるは、

「われは今はこゝにもゐ申さず候ふ。こよひ、これまでまいり候ふ事、かならず、かたり給ふな」

と云ふ。三太夫、おもひけるは、さては此家を氣にちがいて出でたるか、又は、えんにつきたるにてあらんとて、さまざまとへども、しさいをいわず。さて、その夜はこしかた行くすへしみじみと物がたりしければ、ほどなく夜もあけがたになるまゝに、

「もはや御いとま申さん」

とて、たちいづる。三太夫もなごりをおしみて、かたみとて、しろきかたびらをとらせければ、

「かたじけなし」

とて、ひきかづき、おもてをさして出でければ、三太夫も心もとなく思ひ、あとをしたいて行きければ、西をさしてゆき、あまが崎をはなれける。さては、にしのみやへゆくらん、とおもひければ、さはなくて、なにはのかたへゆきけるが、つゝみのきはにて、かきけすやうにうせにけり。三太夫、夜あけて、ていしゆに、

「さゝは今ほどいづくにゐ申すぞ」

と、とひければ、

「その事に候ふ。さゝは、過ぎしはる、かりそめにわづらひつき、あひはて候ふが、今はのときは、そなたの御事をのみ申しいだし候ふ」

とかたる。三太夫、おどろき、

「さてさて、ふしぎの事の候ふ」

とて、過ぎし夜のしだいを物がたりしければ、ていしゆもおどろき、

「かのみうしなひたる所へ、つれゆかれよ」

とて、三太夫と同道して、ていしゆ、行きてみければ、さゝをうづめたる墓所にてありしが、くだんのしろきかたびらを、つかのうへにかづけをきたり。兩人ともにふしぎのおもひをなし、ねんごろにとぶらひてとらせけると也。三太夫はそのゝち、をやの名をつぎ、黑田右衞門の守(かみ)樣にほうかうをせられしと也。今にかくれなき事なり。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右キャプションは「三太夫云人幽灵とちきる事」。

「筑前の國」現在の福岡県北西部。

「あまが崎」「尼崎」。現在の兵庫県尼崎市。

「あつきや」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の本文は『小豆屋』とする。

「さゝ」笹であろう。

「夜とぎ」夜の閨の相手。宿屋の亭主自身が行っていた女中の売春行為である。江戸時代でも立派な犯罪行為である。

「おこせけり」「おこせ」は「寄越す」の意。

「ちさう」「馳走」。

「しいて」「強いて」。一方的に勧め。

「これまで」此処(あなたさまの寝床)まで。

「氣にちがいて」「氣に違ひて」(歴史的仮名遣は誤り)。店の気風・亭主・同僚・客などと気が合わなくなって。

「えんにつきたるにてあらん」「緣(ゑん)に付きたるにてやあらん」(歴史的仮名遣は誤り)。嫁に行ったのでもあろう。

「かたみ」「形見」。久しぶりに会ったその思い出の品。

「しろきかたびら」「白き帷子」白い裏をつけていない単衣(ひとえ)の着物。

「とらせければ」与えたところ。

「ひきかづき」「引き被(かづ)き、面(おもて)を」。頭からすっぽりと被って。婦人がお忍びで外を行く際に顔を隠す普通の仕草。

「おもてをさして」「表を差して」宿屋の外へ向かって。

「心もとなく思ひ」なんとなく気遣わしく、意味もなく不安な気がしてきたので。

「あとをしたいて」後をつけて。

「にしのみや」「西宮」。現在の兵庫県西宮市。

「なには」「難波」現在の大阪府大阪市。

「つゝみのきは」「堤の際」。

「今ほど」現在は。

「かのみうしなひたる」「彼(か)の見失ひたる」。

「くだんのしろきかたびら」「件の白き帷子」。

「つかのうへにかづけをきたり」「塚の上に被け置(お)きたり」。歴史的仮名遣は誤り。挿絵はこの瞬間をスカルプティングしたもの。

「黑田右衞門の守(かみ)樣」筑前福岡藩第二代藩主黒田忠之(ただゆき 慶長七(一六〇二)年~承応三(一六五四)年)。ウィキの「黒田忠之によれば、『江戸三大御家騒動の一つ、黒田騒動の原因を作った当主として記録に残る』。福岡藩初代藩主黒田長政と正室栄姫(大涼院・徳川家康養女)の『嫡男として筑前福岡、福岡城内の藩筆頭家老・栗山利安の屋敷にて生まれる。のち駿府城において、長政と共に将軍・徳川家康に拝謁している』。慶長一九(一六一四)年の『大坂冬の陣では長政が幕府から江戸城留守居を命じられた為、代わりに出陣している。この際、長政は忠之に、関ケ原の合戦の折に家康より拝領した金羊歯前立南蛮鉢兜を忠之に与え』、一万の『軍を率いさせている』。元和九(一六二三)年、『徳川家光将軍宣下の先役を仰せつかった長政と京都へ同行したが、長政が報恩寺にて病により死去し、家督を継ぐ。当初、江戸幕府』二代将軍徳川秀忠から偏諱を授かり、『忠長(ただなが)や忠政(ただまさ)を名乗っていたが、この時に忠之に改めた。以後、徳川将軍家は福岡藩の歴代藩主・嫡子に松平の名字と将軍の偏諱を授与していく』。『また、父の遺言で弟の長興に』五万石(秋月藩)、高政に四万石(東蓮寺藩)を分知し、これによって石高は四十三万三千余石となった。『忠之は生まれながらの大藩御曹司であり、祖父や父とは違い、性格も我侭であったという。外見は華美で派手なものを好み、藩の財力でご禁制の大型船舶、鳳凰丸などを建造したり、自らの側近集団を組織し』、倉八正俊姓は「くらはち」で、「倉八家頼」ともする。稚児小姓から忠之に仕えていた人物。忠之は先代からの家老職の家柄で、先勲も甚だしい栗山家出身の家老栗山大膳利章(としあきら:彼の父は栗山善助利安(としやす)で、かの軍師として名高い福岡藩黒田官兵衛(如水)孝高(よしたか)の筆頭家老で直参の家臣であった。官兵衛が有岡城に監禁された際の救出、関ヶ原の戦い前夜には大坂屋敷から孝高と長男長政(彼が後に福岡藩初代藩主となる)の両夫人を脱出させるなど、まさに黒田家の恩人でもあった。その善助の子が栗山大膳利章あった。)を殊更に忌避し、この正俊を寵愛、仕置家老(当代藩主が従来の家老の能力を不十分として、異例として新たに家老に取り立てた、実力主義で選ばれた新参家老)にまで取り立てているこれに大膳が激しく反発、以下に書かれる黒田騒動に発展するのであるが、彼は通称を「倉八十太夫(じゅうだゆう)」と称した。或いは、本作の「三太夫」はこの佞臣の通称がヒントかも知れぬ。なお、この挿入部分では個人サイト「歴史の勉強」の黒田騒動を参考にさせて頂いた)、『郡慶成らを重用した。一方で』「筑前六端城(領内主要六拠点の支城)」城主を『始め、父・長政時代からの重臣たちと対立し、忠之は所領減封や改易などの強硬策をとった。ところが』、寛永九(一六三二)年、六端城の一つであった麻底良城主『栗山利章(大膳)によって幕府に「黒田家、幕府に謀反の疑いあり」と訴えられ、黒田家は改易の危機に立たされた。いわゆる黒田騒動である』。三代将軍徳川家光は寛永一〇(一六三三)年二月、『自ら裁定を下し、栗山の訴えは「精神的に異常であり』、『藩主への逆恨み」と裁断し、のち幕命により倉八は高野山、栗山は盛岡藩南部家へ預けられ追放された。藩主黒田家はお咎めなし(正確には名目上いったん改易後、旧領に再封する形を取った)であったが、このこともあり、長政と懇意の仲であった幕府老中の安藤直次、幕府古老・成瀬正虎らから連署で忠之へ書状が送られ、「御父上のように年寄どもとご相談の上」藩政を進めるように促された。その結果、忠之の側近政治は弱められ、福岡藩の政治は元の重臣を中心とした合議制色が強くなった』。ここに実に十年にも及んだ藩内抗争であった黒田騒動は幕を閉じたのであった。寛永一四(一六三七)年の『島原の乱に出陣し、武功を挙げ』、寛永一八(一六四一)年には『江戸幕府の鎖国令により長崎が幕府直轄地(長崎奉行地)となり、肥前佐賀藩と交代で長崎警備の幕命を受ける。この事により福岡藩は参勤交代に於ける参勤回数、当主の江戸滞在短縮など幕府から優遇を受け』ている。なお黒田騒動後の栗山大膳と倉八十太夫は、ウィキの「福岡藩の「黒田騒動」の条によれば、『大膳は騒動の責を負って陸奥盛岡藩預かりとなり、十太夫も高野山に追放された。なお、十太夫は島原の乱で黒田家に陣借りして鎮圧軍に従軍したが、さしたる戦功は挙げられず、黒田家復帰はならなかった。のち』、『上方で死去したという。十太夫の孫・倉八宅兵衛に至り、ようやく再仕官を許されている』とあり、一方の大膳は、ウィキの「栗山利章によれば、彼は事実上の流罪ではあったものの、百五十人扶持であり、『盛岡藩南部家も手厚く待遇した。盛岡在府中は、同様に対馬藩から盛岡藩預かりとなった規伯玄方』(きはくげんぽう:対馬藩の朝鮮との外交交渉を担当し、朝鮮へ使者として出向いたりもした、筑前国宗像郡出身の臨済僧。柳川一件(やながわいっけん:対馬藩第二代藩主宗義成(そう よしなり)と家老柳川調興(しげおき)が日本と李氏朝鮮の間で交わされた国書の偽造(実際に藩主導で偽造は行われた)を巡って対立した事件。家光の裁定は義成は無罪、調興は津軽に流罪。ウィキの「柳川一件の参照されたい)で国書改竄に関与したとされ、大膳が預かりとなった二年後の寛永一二(一六三五)年に盛岡藩に配流となった。盛岡では学問・文化の指導者として尊敬され、南部鉄器や黄精飴黄精飴(おうせいあめ:薬名を「王竹」「姜蛇」とも呼ぶ漢方薬「黄精」は「甘野老(あまどころ)」(単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科アマドコロ連アマドコロ属アマドコロ Polygonatum odoratum)の地下茎から取りだした煎汁で、胃腸や心肺に良いされるが、この煎汁を砂糖・飴・餅粉に混ぜて仕上げた求肥(ぎゅうひ)状の盛岡の伝統和菓子。岩手県の「黄精飴本舗長沢屋」についての記載を一部で参考にした)の創出などに関わったとされ、、また盛岡藩では南部牛が多く飼育されていたが、玄方は慶安三(一六五〇)年に第三代藩主南部重直に対して牛乳の使用を奨め、これは江戸時代に於ける牛乳の利用についての早い事例として知られる。万治元(一六五八)年に赦免となり、京都の南禅寺に移った。この部分は主にウィキの「規伯玄方に拠った)『とも親交があり、共に盛岡城下の文化振興に寄与した』。栗山大膳利章は承応元(一六五二)年に同地で死去した。墓所は盛岡城下の曹洞宗恩流寺にあり、規伯玄方の手になる忠節を讃えた碑がある、とある。]

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