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« 『桜島』のこと   梅崎春生 | トップページ | 祖父遺品の絵葉書から――「松花江  和田香苗 筆」 »

2016/10/17

編集者の頃   梅崎春生

 

「群像」の創刊は、昭和二十一年十月。その二十一年に私は何をしていたか。当時の日記はあるけれど、今旅先だから取り寄せられない。

 二十一年の初め、私は創造社に勤めて「創造」という綜合雑誌の編集に従事していた。「創造」は戦前からあった雑誌らしいが、あんまりぱっとしない雑誌で、売行きもかんばしくなかったと思う。私がここに勤めたのは、一箇月半ぐらいでよく知らないが、間もなく廃刊したところをみると、そうとしか思えない。

 社長がいて(あたりまえだ)会計をやっているのがその社長の妾(めかけ)で、社員は二十人程度だ。皆働いているというより、のそのそ動いているという感じの雰囲気で、月給ももちろん安かった。(二百円程度。)私がここをやめた後、会計のお妾さんが、

「あれはすぐやめる男だと、初めから判っていたよ」

 と評していたと、人伝てに聞いた。のそのその中でも、私が一番のそのそしていて、働く気がないのを見破っていたのだろう。

 千葉県御宿の浅見淵氏から、はがきが来た。今度「素直」という同人誌をやるから、三十枚ぐらいの作品を書かないか、とのことなので、私は新生社に行き、懸賞応募の作品を取り戻し、浅見氏に送った。そのついでに、どこかいい働き口はないかと問い合わせた。

 すると浅見さんの返事では、創造杜というところは原稿料もろくに払わない社だそうではないか。八雲書店と赤坂書店に紹介状を書くから、行ってみろとのことなので、八雲書店に行き新庄嘉章氏に会い、赤坂書店に行き江口榛一氏に会った。どちらも合格、というのも変だけれど、来てもよろしいとのことで、当時私は柿ノ木坂に住んでいた。赤坂書店まで歩いて二十分見当で、それで赤坂書店に勤めることに決めた。復員以来ひどくものぐさになっていて、満員電車に乗るのがおっくうだったのである。八雲書店に勤めれば、運命の進路が若干変ったかも知れないと、後年久保田正文氏があそこを舞台に書いた小説を読み、そう思った。

 赤坂書店で出そうとしていたのは「胡桃」「素直」。社長は元来印刷屋で、雑誌には素人である。「胡桃」第二号が出たのは六月頃。「四季」系の詩の雑誌で、これがほとんど売れなかった。おかげで社長はがっかり、それ以来クルミ(果物の)を食べるのもいやになったそうである。印刷さえしてあれば、何でも売れる時代だったが、やはり詩の雑誌では飛ぶように売れるというわけには行かなかった。

 そこで「素直」の発行も延びることになった。印刷の方で儲(もう)けて、その暇にソチョク(社長は「素直」のことをそう呼んだ)を出そうというのだから、なかなかはかが行かない。はかが行かなきゃ、怠けられて楽な筈だが、「素直」第一輯には、私の作品ものることになっている。少しやきもきした。

 赤坂書店に入ってから、いろんな作家に会った。志賀直哉氏の家にも行ったことがある。赤坂書店は印刷屋だから、紙や印刷機を持っている。それで志賀氏の名入りの原稿用紙をつくり、それを届けに行ったのだ。私は包みをかかえて東横線で渋谷に出て、玉電で世田谷新町の志賀邸に行った。二階の座敷に通され、甘いものを御馳走になり、飼兎の話などを拝聴し、外に出た。世田谷新町なんて、私はまだ一度も行ったことがない。ちょっと散歩して行こうと、ぶらぶら歩いている中に、向うの方に何か見覚えのある建物が見える。はて、何だったかなと、そちらの方に近づいて行くと、これが都立高校(今の都立大学)で、私はびっくりしてしまった。つまり私は柿ノ木坂から歩いて行けばよかったのに、地理を知らないばかりに渋谷から廻った。鋭角三角形の長い二稜をたどった勘定になる。私は今でも東京の地理だの方向に、自信がない。ぶらぶら歩いていると、すぐに迷子になってしまう。

 原稿依頼や稿料を届ける時は、訪問するのに足が軽いけれども、稿料や発行の遅延のための訪問は気が重かった。

「君んとこは原稿料を払わないつもりか」

 面罵というほどじゃないが、そう詰め寄られて弱ったことが、何度かある。

「素直」は結局、二十一年九月に出た。「群像」に先立つこと一箇月。不定期ながら今でも続いているようだ。二十一年十二月に私は赤坂書店をやめた。もう文筆で食って行けるだろうから首にする、と江口編集長が言ったから、やめさせられたと言うべきかも知れない。

 文章で食って行くのはたいへんなことで、二十二年は貧乏のどん底に落ちた。注文がないわけじゃなかったが、私はもうスランプに落ちていて、以後十五年ずっとスランプつづきのようである。

「群像」に最初に書いたのが二十五年四月号。以来大は七百枚から小は十四枚まで、小説を十篇書いた。ルポルタージュを書くために、浜松航空隊や砂川に行った。あまたの座談会に出て、つまらぬこと(時にはいいことも)をしゃべった。随筆や雑文に至っては数知れず。気分の上では毎号つき合っているような感じがしている。だから、赤ん坊の時見たのが、十五年目に会って成長ぶりにおどろく、という感じは「群像」にはない。

「群像」という名も初めは馴染めず、何だかやぼったい、同人雑誌みたいな名だと思っていたが、その中に板について来て、だんだん貫禄が出て、すこしも変でなくなった。十五年の歳月の重みが加わったせいもあるだろう。

 この文を書いている今日は八月十五日、終戦の記念日である。ここ信州はもう秋の気配で、萩、桔梗(きしょう)、松虫草などが咲いている。昨夜は雨が降り、雷が縦横に鳴りとどろいた。そのせいで今日は涼しい。

 あれから十六年も経ち、「群像」もそろそろハイティーンに入ると思うと、一体おれは何をして来たんだろうという感慨が、今おこらないでもないのである。

 

[やぶちゃん注:昭和三六(一九六一)年十月号『群像』に初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「群像」現在も続く、講談社発行の月刊文芸雑誌。梅崎春生の記す通り、昭和二一(一九四六)年十月の創刊である。ウィキの「群像」によれば、『群像新人文学賞を主催し、野間文芸賞と野間文芸新人賞の受賞発表も行っている。講談社の純文学部門を担う位置付けとされており、同社の『小説現代』が大衆小説部門を担っているのと対をなす』。『群像新人賞が優れた新進作家に多くの道を開いたこともあって、実験的な手法による作品が掲載されることが多い。主要文芸誌の中で、群像新人賞のみが評論部門をもっていることもあり、新人評論家発掘に功績がある』。三人『による〈創作合評〉、匿名時評〈侃侃諤諤〉などの名物コーナーもあり、それが特色ともなっている』。『この『群像』と、『新潮』(新潮社発行)、『文學界』(文藝春秋発行)、『すばる』(集英社発行)、『文藝』(河出書房新社発行、季刊誌)は「五大文芸誌」と呼ばれ』、『これらに掲載された短編・中編が芥川賞の候補になることが多い』。二〇一二年『現在、印刷証明付の月間発行部数は』七千部とある。

『二十一年の初め、私は創造社に勤めて「創造」という綜合雑誌の編集に従事していた』この事蹟は底本別巻の年譜には出ない。国立国会図書館の蔵書のこちらの書誌データによれば、第九巻第五号が昭和一四(一九三九)年五月発行とあり、第十九巻第六号が昭二四(一九四九)年六月発行とある。これで梅崎春生が「戦前からあった雑誌らしい」とするのが確認出来、「間もなく廃刊した」というところからはこの昭和二十四年六月辺りとして、しっくりくる。社長や社史・雑誌の詳細データは不詳。

「浅見淵」(あさみふかし 明治三二(一八九九)年~昭和四八(一九七三)年)は小説家・文芸評論家。ウィキの「浅見淵」によれば、兵庫県神戸市生まれ。早稲田大学文学部卒業。在学中に『朝』の『同人に加わり、初めて書いた小説「山」が下村千秋に推賞される。戦前は満洲国で文学活動を行った。戦後は井伏鱒二や上林暁らの「阿佐ヶ谷会」の主要メンバーで、尾崎一雄と親しく、随筆』「単線の駅」や回想記」あの日この日」によく出ている、とある。『文芸評論家としては梅崎春生、石原慎太郎、三浦哲郎、五木寛之らをいち早く見出し推したことで知られる』とする。

「新生社」同社の出していた『新生』が「私の創作体験」に既出し、そこで同社についても既注であるが、再掲する。月刊総合雑誌『新生』を昭和二〇(一九四五)年十一月に創刊した出版社。『新生』創刊号は岩淵辰雄・馬場恒吾・青野季吉・正宗白鳥といった戦時中に不遇だった自由主義者が名を連ねたもので、仮綴・三十二頁・定価一円二十銭であったが、忽ち、十三万部を売り尽くした。国民が如何に自由な言論に飢えていたかを如実に物語る出来事であったという。所謂、「大家」を動員して創作も毎号掲載したが、無名の青年青山虎之助が主宰する同社は、敗戦直後に続出した多くの出版社同様、長続きせず、『新生』も二年後の一九四七年二月・三月合併号で挫折、翌年一九四八年一月から復刊号を七冊出したところで廃刊となった(平凡社「世界大百科事典」の海老原光義氏の解説に拠った)。

「八雲書店」豪華な雑誌『芸術』を発行し、太宰治の自死直前に「太宰治全集」第一回配本を刊行(同社版は全十八巻だったが、十四回配本で同社の倒産によって途絶)したりしていることが、ブログ「出版・読書メモランダム」の古本夜話468 八雲書店、石川達三『ろまんの残党』、久保田正文『花火』で判る。『芸術』の編集顧問に次に出る新庄嘉章の名も見える。

「赤坂書店」後述の詩人江口榛一が戦前から経営していた(一部には「勤務」ともある)出版社らしい。

「新庄嘉章」(しんじょうよしあきら 明治三七(一九〇四)年~平成九(一九九七)年) は山口県出身のフランス文学者。早稲田大学仏文科卒。元早稲田大学教授。ジッド「狭き門」やロマン=ロラン「ジャン・クリストフ」の翻訳で知られる。

「江口榛一」(えぐちしんいち 大正三(一九一四)年~昭和五四(一九七九)年)は詩人で社会運動家。今や紳士になった街――池袋に既出既注であるが、再掲する。ウィキの「江口榛一」によれば、大分県生まれで、本名は新一。明治大学文芸科卒で、当初は教師や新聞記者を務めていたが、戦後、聖書の啓示を受けて詩作を行い、雑誌『素直』(これは梅崎春生の「桜島」の初出誌である)の編集長を経、昭和二九(一九五四)年に「近所合壁」(『新潮』の同年五月号)で第三十一回芥川賞の候補となった。翌年、受洗するも、既成の教会に飽きたらず、昭和三二(一九五七)年には『困っている人が自由になかの金を取って使うことを目指した』募金活動「地の塩の箱運動」を起こしたが、二年後に縊死自殺している。娘の江口木綿子(ゆうこ)さんによって「地の塩の箱連盟」として遺志が現在も続けられている(「「地の塩の箱運動」については北尾トロ公式サイト「全力でスローボールを投げる」の「昭和の根っこをつかまえに」の『第3回「地の塩の箱」の巻』に拠った)。

「どちらも合格、というのも変だけれど、来てもよろしいとのことで、当時私は柿ノ木坂に住んでいた。赤坂書店まで歩いて二十分見当で、それで赤坂書店に勤めることに決めた」この二文は「どちらも合格、というのも変だけれど、来てもよろしいとのことで(あったが)、当時(、)私は柿ノ木坂に住んでいた(関係上、)(「。」は除去)赤坂書店まで歩いて二十分見当で、それで赤坂書店に勤めることに決めた」とでもするのが文章としては正しいであろう。

『「群像」に最初に書いたのが二十五年四月号』未完の「日時計」。昭和二五(一九五〇)年四月・七月・九月・十二月号に隔月連載された。「日時計」は最初のパートの題名が「日時計」で、後の部分は「殺生石」というタイトルになり、それが「Ⅰ」から「Ⅲ」まで続き、その「殺生石(Ⅲ)」の末尾には『第一部了』と記しており、作者は書き継ぐ意志を持っていたらしいが、続編は遂に書かれなかった。

「小説を十篇書いた」「ある青春」(昭和二六(一九五一)年六月号)・「Sの背中」(昭和二七(一九五二)年一月号)・「雀荘」(昭和二八(一九五三)年六月刊・増刊号)・「砂時計」(昭和二九(一九五四)年八月号から翌年の七月号まで連載)・「炎天」(昭和三二(一九五七)年一月号)・「顔序説」(昭和三二(一九五七)年十月号。後の「仮象」(『群像』(昭和三八(一九六三)年十二月号)に一部流用されている。底本全集第六巻解題に拠る)・「モデル」(昭和三五(一九五〇)年二月号)・「駅」(昭和三六(一九六一)年七月号。これは後の「狂い凧」(『群像』昭和三八(一九六三)年一月号から同年五月号連載)の第十四節に固有名詞を訂正しただけでそっくり流用された。底本全集第六巻解題に拠る)など(これに先の「日時計」を加えると九篇。以上は全集各巻の改題で調べた)。

「ルポルタージュを書くために、浜松航空隊や砂川に行った」既に電子化した浜松の保安隊航空学校見聞記及び砂川のこと。]

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