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2016/10/03

チャップリンの「殺人狂時代」   梅崎春生

 

 ついに、ヴェルドゥ氏は捕えられ、法廷に引っばり出される。そこで彼は立って、抗言する。今、世界は、人類抹殺を奨励している。大量殺害の武器が、競争的に製造されているではないか。しかるに、自分の人類抹殺業は、ごく小規模の事業であり、自分のやり方は、ほんのアマチュアに過ぎない。大物を罪せずに、この自分を罰するのは、不合理というものではないか。

 暑い日の午後、「ムッシュウ・ヴェルドゥ」を観た。いろいろ問題はあるとしても、久しぶりのチャップリンの作品であるし、とにかく面白かった。

 ヴェルドゥ氏は、殺人者である。小金を持った独身女に、色仕掛けで取り入り、機会を見つけて殺害し、その財をうばうことによって生きている。それが彼の事業(ビジネス)なのである。そしてそれで、彼は、可愛い妻子を養っている。チャップリンの言によれば、十九世紀初めの殺人鬼トマス・ウェインライトと、青髯(ひげ)ランドリュの二人の性格ややり口をモデルにして、このヴェルドゥ氏をつくり上げたと言う。殺人者を喜劇に仕立てたところに、「奇妙な味」が出てきている。こういう「奇妙な味」は、むしろ、現代アメリカの好尚であろうと思われるが(現代アメリカの文学や演劇を通じて見て)、しかしこの映画は、米国では、極度に不評であったと伝えられる。

 また、獄舎で、インタービューに来た新聞記者に、彼は語る。数人を殺せば悪漢となり、百万人を殺戮(さつりく)すれば、英雄と呼ばれる。大量殺人が、戦争という名目で赦(ゆる)されているのは、可笑(おか)しな話ではないか。

 しかし、ヴェルドゥ氏は、死刑を宣告される。彼は法廷の人々に言う。

「極めて近いうちに、あの世で皆さんと、お目にかかりましょう」

 そして、いつものチャップリン映画と同じように、看守たちにはさまれた彼の後姿は、断頭台に向って、だんだんと遠くなってゆく。そこで、終り。

 以上で判るように、今までのチャップリンの映画と、かなり趣きを異にしている。またチャップリンの扮装にしても、れいの髭(ひげ)とドタ靴を捨てて、新しいチャップリンとして出て来ているし、トーキーだから、今までみたいに黙劇でなく、自由にしゃべりまくる。観念の骨格が初めにあって、そこから喜劇が展開されるところは、アメリカ伝統の喜劇というよりは、ルネ・クレエルのある種の作品に近似している。もちろん、その主題は、戦争や原爆というものに対する、強い抗議。

 この映画が、アメリカで不評であったのは、大半はそんな主題のせいなのだろう。そういうものを産み出さざるを得ない資本主義を、この映画ははげしく批難し、攻撃しているから。しかし、不評の因は、それだけではなかろう。

 かつてのチャップリンのオールドファンが、この映画におけるチャップリンの変貌に、ついて行けなかったのではないか、とも思われる。つまり、素朴な涙と哀傷と笑いと、それに始まり、それに終ったかつてのチャップリンは、この映画の中にはいない。ヴュルドゥ氏の中にある社会文明風刺は、彼の自然の演技から、自然に出て来たものではない。最初からはっきりと意図された、観念的骨組をもった風刺なのである。「偉大なる独裁者」は見ていないが、「ヴェルドゥ氏」は、それ以前の彼の作品とは、歴然と異質的なものであるように思われる。

 しかし、そんな観念的な意図というものは、映画の視覚的な実体と、しばしば遊離し勝ちなものである。その点で、この映画は、も一歩すすめば、映画としてはバラバラになってしまう危険性をはらんでいる。限界すれすれのところで、やっとまとめ上げられたような作品だ。同じ主題に関する限りでは、英国映画の「戦慄の七日間」の方が、見ていてムリがなかったように思う。「ヴェルドゥ氏」においては、そういう大上段的な主題と、チャップリンのミミックな演技が、時として、水と油のような不融和を感じさせるようだ。観る人によって、その印象は異なるだろうが、私は観ながら、しばしばそれを感じた。

 それにも拘らず「ヴェルドゥ氏」におけるチャップリンの演技は、今までの彼のどの作品よりも見事であり、洗練されている。俳優として、ほとんど最高の完成を感じさせる。その演技の、主題との微妙な食違いは、もうこれは余儀ないことだろう。完全に一致させるためには、チャップリンは、もうチャップリンでなくならねばならないだろうから。

 

 いろいろ文句はあるとしても、この映画は、チャップリンが自ら歩み、そこに打ち立てた大きな里程標であり、そういう意味でも、「一見に価する力作」とでも言うべきか。

 

[やぶちゃん注:昭和二七(一九五二)年十月号『群像』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「殺人狂時代」(Monsieur Verdoux)はチャールズ・チャップリン(Charles Spencer "Charlie" Chaplin 一八八九年~一九七七年:イギリス・ロンドン出身)製作・監督・脚本・主演になる一九四七年のアメリカ映画(作中の舞台設定はフランス)。日本での公開はこの一ヶ月前の九月二日。シノプシスはウィキの「殺人狂時代(1947年の映画)」などを参照されたい。同記載に本作を『生前、チャップリン自身がこの映画を最高傑作と評価していた』とあるが、私も後に「偉大なる独裁者」と出るヒットラーとナチズムをテツテ的にコケ下ろした「独裁者」(The Great Dictator 一九四〇年:アメリカ映画。やはりチャップリンの製作・監督・脚本・主演で、チャップリン映画初の完全トーキー作品。梅崎春生は『「偉大なる独裁者」は見ていないが』と述べているが、実は日本で「独裁者」が公開されたのはこの記事の八年も後の昭和三五(一九六〇)年十月二十二日であった)とどっちが好きか? と聴かれたら、ちょっと迷った末に「ムッシュ・ヴェルドゥ」を挙げるであろう。私は芝居も映画も本来、喜劇は好きでないからである。なお、主人公の名“Verdoux”であるが、私は後に出る「青髯」(フランス語: Barbe Bleue/英語:Bluebeard)のアナグラムと勝手に思っていたが、これについて、てん氏のブログ「Dancing the Dream 」の『今じゃ笑えない「殺人狂時代」~チャップリンの痛烈な皮肉』に、『「Verdoux」って、「Ver」+「doux」じゃないかしら?』『現代フランス語の ver」は、「蛆虫」「幼虫」などを意味する男性名詞』で、『「doux」は、「温和な、穏やかな、やさしい、おとなしい、柔和な」という意味』とあり、これはすこぶる首肯出来るものであった。則ち、“Monsieur Verdoux”とは――見た目は、車椅子の妻と可愛い息子の面倒をみる「優しいおじさん」、しかし、実は平気で女を騙しては殺害し、焼いて抹消する「人でなしの蛆虫オヤジ」――という謂いという説である。なお、ウィキによれば、『一方で、この作品がきっかけとなり、赤狩りによるチャップリン排斥の動きがますます加速』し、一九五二年の『アメリカ追放へとつながった』とある。撮影が終了して『後は公開するだけとなった段階で、チャップリンに対する非難は手の付けられないレベルに達していた。在郷軍人団体やカトリック団体などが猛烈な上映反対運動を繰り返し、上映を予定していた映画館などに脅迫を繰り返して上映をやめさせる動きを盛んに行った。こうした妨害を何とか排除しつつ』一九四七年四月十一日に『ニューヨークで封切られたが、興行成績は悲惨なもので』、『チャップリン映画で唯一純損失が出た映画でもあった』。『アメリカでこの作品が正当に評価されるようになったのは、ベトナム戦争に対する反戦運動が高まった』一九七〇年代になってからであった、とある。

「トマス・ウェインライト」十九世紀イギリスの文学者にして主に保険金目当ての連続殺人鬼トーマス・グリフェス・ウェインライト(Thomas Griffiths Wainewright  一七九四年~ 一八四七年)。AKIRA氏のブログ「殺人鬼資料館」の「トーマス・グリフェス・ウェインライト」によれば、一八二九年に『自らの祖父を保険金と遺産目的に毒殺。その後も義母、さらに妻の連れ子にも保険金をかけたうえで毒殺したディケンスやド・クインシーの友人でもあった文学者』。『彼は教養人ではあったが遊び好きで、財産を使い果たして保険金殺人を計画した。しかし続けて三人もの身内が急死したことで死因に不審を抱いた保険会社が支払いを拒否。裁判で争ううちに警察も動き出し、ストリキニーネによる毒殺が明るみになって逮捕された』。『彼は保険金目的の他に、妻の連れ子を毒殺した動機について「たしかに悪いとは思ったけど、あの娘は足首が太かったから仕方なかったんだ」などと理解しがたい供述をし、この話をオスカー・ワイルドが「芸術と犯罪」という本に殺人エッセイとして紹介したりもした』。『当時の法律により、流刑を言い渡されたウェインライトはその後、絵画を描いたりして余生を過ごしたという』とある。

「青髯(ひげ)ランドリュ」女性十人と少年一人を殺害したフランス人アンリ・デジレ・ランドリュー(Henri Désiré Landru  一八六九 年~一九二二年)。サイト「殺人博物館」の「アンリ・デジレ・ランドリュー」が詳しい。ストーブで殺人遺体を焼くというMonsieur Verdouxの死体処理設定は明らかに彼の犯行事実と一致する。なお、映画の主人公の姓名も“Henri Verdoux”である。

「数人を殺せば悪漢となり、百万人を殺戮(さつりく)すれば、英雄と呼ばれる。」"Wars, conflict, it's all business. "One murder makes a villain. Millions a hero". Numbers sanctify."(「戦争・紛争、それはすべてビジネスである。『一人の殺人は一人の悪役を創り出す。何百万人ものそれは英雄を産む。』数が殺人を神聖なものにする。」。この引用部分はウィキの「殺人狂時代(1947年の映画)」によれば、『元は英国国教会牧師で奴隷廃止論者であったベイルビー・ポーテューズ』(Beilby Porteus (or Porteous) 一七三一年~一八〇九年)の言葉であるとする。

「ルネ・クレエルのある種の作品」「ルネ・クレエル」はフランスの映画監督ルネ・クレール(René Clair 本名:ルネ=ルシアン・ショメット René-Lucien Chomette 一八九八年~一九八一年)。「ある種の作品」は「自由を我等に」(À nous la liberté 一九三一年作で本邦での公開は昭和七(一九三二)年)辺りか。

「不評の因は、それだけではなかろう」この時期、チャップリンは完全に共産主義者のレッテルを貼られていた。

「戦慄の七日間」ジョン・ブールティング(John Edward Boulting 一九一三年~一九八五年)監督の一九五〇年のイギリス映画Seven Days to Noon。調べて見たところでは、核兵器絡みのパニック・サスペンス映画らしい。私は未見。

「ミミック」mimic。ここは「笑わせるために(チャップリン的な特定の門切的喜劇的仕草を)繰り返す」の謂いであろう。]

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