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2016/10/15

谷の響 一の卷 十二 神靈

 十二 神靈

 

 寛政の年間(ころ)にてあるよし、弘府(ひろさき)の鎭守八幡宮の御神躰を盜みしものありき。この盜賊(ぬすびと)は秋田のものゝ由【又南部のものとも言へり。】これ豫て巧(たくみ)し事にてありけん、土手町にて大澤村より來りし薪賣(たきゝうり)に逢ひて言ひけるは、今宵碇ケ關までの貨苞(にもつ)あり。僅(わつか)の物なれど夜中の行程(みち)なれば駄賃は二十匁取らすべし。承了(しようち)ならば、今日晡下(くれころ)に八幡宮の境内に來るべし、必ず其期外さぬやうにと言ひければ、薪賣はあやしく思へども元より貧しき者なれば、二十匁といふに心蕩(と)られて乃(いまし)了諾(しようち)して去りぬ。

 しかして日も倒景(いりあひ)に向はんとする頃、この薪賣馬を曳(ひい)て八幡宮の境内に往きたるに、かの盜兒(ぬすびと)拜殿の椽に出て衣襟包(ふろしき)を遞與(わた)したれば、これを馬に負はせてとく往きね、吾も後(あと)より追つくべしといふ故、卽便(そのまゝ)馬に駄(おは)せて出けるが奈何(いか)に思ひけんこの薪賣、最勝院の厨下(だいどころ)に入りて、吾は今往くところなるぞ、吾は今往くところなるぞと再び三囘(たび)言ひ捨て出でけるが、時(をりふし)境院(おてら)内の者夕飯について有けるが、什麼(いか)なる奴か可笑(おかし)き者と笑ひ居たるに、忽ち本社のかなたにて勵(はげ)しく太鼓を叩く音の聞えければ、童蒙等(わらわべども)の荒業(いたづら)ごとゝ思へど社前を汚してはならぬ事ゆゑ、院主よりこを咎むるに侍士(さむらひ)を使しけるに、かの盜兒(ぬすびと)赤裸になりて鈴(かね)の緒を犢鼻褌(ふんどし)に締め、汗浸(あせみづ)になりて沒法(やたら)に太鼓を擊てありけるに、膽落地(きもつぶし)て四邊(あたり)を視れば本社の扉開いてあるに、然(さて)こそとて窺ひ視るにかしこくも御神躰おはしまさねば、渠奴(きやつ)が爲業(しわざ)ならんと側なる帶もて急(はや)くこれが兩手をからげ、其まゝ捽(ひきづり)出して寺に來り斯と告げしかば、僉(みな)起噪(たちさわ)ぎて場(には)に壓置(ひきすゑ)いろいろ諾問(せむる)といへども、言語粉亂して狂人の如く更に人事を辨へず。さるにかの薪賣、馬を索いて社の區中(なか)を幾囘(いくど)も往反するからに忽ち見あたり、これも卽便(そのまゝ)捕へ得て馬の上なる包袱(つゝみ)を解開(ひらい)て見るに惶(かしこ)き御神躰にて在(ま)しませば、否(いな)や神司神巫(かんねき)を呼集(つと)へ、汚穢(けがれ)を祓(はら)ひ祝詞(のりと)をあげて本社に内(おさめ)奉りき。

 しかして此馬士(うまかた)を査問(ぎんみ)するに、これも盜兒(ぬすびと)と一般(おなじ)く譫言(たはごと)のみにて採(とり)處なければ、官廰(おかみ)に訴へけるに吏(やく)人來りてこの者共を龜甲町に御預りになりしが、盜兒は某夜井戸に墮(おち)て死せりとなり。薪賣は程なく本心に復(かへ)りて、ありし事どもを委曲(つばら)に上聞(まをしあげ)たるに、させる罪もあらざれば御免許(ゆるし)を得て歸りしとなり。神の冥罰實(まこと)に著明(いちゞる)きものなりと、己が租父なる人豫(かね)々語りし事なりけり。

 又、此事ありし二三年の後にてやありけん、御本社に内(おさめ)まつれる御佩刀(みはかせ)の失(うせ)にしことありて、萬般(いろいろ)搜(たづね)たれどもそれとさすべき手がかりなし。さるに二十日あまりも過たる頃、和德町稻荷宮の社司その本社に御供(ごくう)を奉りしに、其まゝにてありし事囘々(たびたび)なれば、不淨やあらんと淸潔(きよめ)を盡して奉れどもさらに享(うけ)玉ふことあらず。社司いと奇(あや)しみ怕(おそ)れて日々祝詞をあげて和(なご)め奉れるに、一夜の夢に稻荷神現はれ玉ひて宣(のり)玉ひけるは、堂の下の土(ところ)に寶劍ありて、眷屬(けんぞく)の者共僉恐るゝ故に御供(ごく)に着くこと能はず。この御劍はかしこくも八幡宮の御物にて迺頃(このころ)失せにしものにあれば、速(はや)く衙門(やくしよ)に上告(まをし)て本社に返し奉るべしと見て覺めたり。かゝるからに至る朝夙(とく)起出て官舘(やくしよ)に達し、堂の地中を搜るに果して一枚(ひら)の佩刀ありき。されども欛(つか)鞘(さや)ともに无(な)くして裸身なれば、新らたに飾(かさり)を設けて奉りしとなり。こも祖父なる人の譚(ものかた)りなり。

 

[やぶちゃん注:「寛政の年間(ころ)」一七八九年から一八〇一年。

「弘府(ひろさき)の鎭守八幡宮」現在の弘前市八幡町にある弘前八幡神宮。弘前城の鬼門(北東)の押さえとして八幡村(旧岩木地区。原型の創建は、平安初期に坂上田村麻呂が東夷東征の際に岩木村に宇佐八幡宮の分霊を勧請、戦勝祈願をしたものとされる)から遷座されたもので、藩政時代は領内の総鎮守として筆頭の神格を持っていた。

「南部」南部地方。現在の青森県の南部と岩手県の北・中部などを総称する広域地域名。これは方位部位の「南部」ではなく、領主の「南部氏」に由来するもので、旧南部藩(中世以来の地の大名南部氏が近世初頭に陸奥国岩手郡盛岡に城を構え、陸奧国北部諸郡(現在の岩手県北上市から青森県下北半島)を領有した)などを含む地域。

「豫て」「かねて」。

「土手町」底本の森山泰太郎氏の補註に、『弘前城下の東部、土淵川を挾んでその土手に町並みを形成して、土手町(どでまち)という』今、『市内の中心街である』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。弘前八幡宮の南二キロほどにある。

「大澤村」森山氏補註に、『弘前市石川字大沢(おおさわ)』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「碇ケ關」森山氏補註に、『南津軽郡碇ケ関(いかりがせき)村。秋田県境に接する温泉町。藩政時代に津軽藩の関所があり、町奉行所が支配していた』とある。現在は合併によって平川市碇ヶ関として地名が残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「貨苞(にもつ)」二字へのルビ。

「僅(わつか)」ルビはママ。

「行程(みち)」二字へのルビ。

「二十匁」「匁」は「もんめ」。銀目(銀貨単位)。一匁は一両(小判)の六十分の一。当時(江戸後期)の一両を凡そ現在の五万円に換算する説に基づくなら、一万七千円弱で、しがない薪売りにとっては大変な高額賃金である。

「晡下(くれころ)」二字へのルビ。音は「ホカ」で「晡」は申の刻で、その刻「下」(さが)りの謂い。午後四時過ぎ。

「其期」「その期」。その時刻。

「心蕩(と)られて」「と」は「蕩」の字一字の読み。「蕩」には「落ち着きなく揺れ動く・揺らぐ・動かす」の意がある。

「乃(いまし)」「今し」で副詞(「し」は元は強調の副助詞)。丁度、その時。

「了諾(しようち)」二字へのルビ。

「倒景(いりあひ)」「入相」。夕暮れ時。日没時。

「盜兒(ぬすびと)」この「兒」は接尾語で、子どもの意はなく、名詞に附いて、その仕事(ここでは「盗み」)を職としている者の意を表わす。

「椽」縁側。本来は「椽」は「たるき」で庇の下に附くそれを指すが、近代、芥川龍之介などまでも、この字を「緣」の意味で誤って用い、遂に慣用化されてしまう。

「衣襟包(ふろしき)」三字へのルビ。

「遞與(わた)し」二字へのルビ。「遞」は「逓」と同字で「手渡す・送る」の意。

「最勝院」現在の青森県弘前市銅屋町(この話柄の場所とは異なる(後の引用を参照)。この話柄の頃は先の弘前八幡宮境内にあった。明治の神仏分離令でここへ移転した)にある真言宗金剛山最勝院。ウィキの「最勝院によれば、「津軽一統志」によれば、天文元(一五三二)年に『常陸国出身の弘信が、堀越城下(現・弘前市堀越)に堂宇を建立したことに始まる。江戸時代初期に弘前藩』第二代『藩主津軽信枚』(のぶひら)『が弘前城を築城したことに伴い』、慶長一六(一六一一)年、『城の鬼門に当たった現在地より北に三キロメートルほど離れた田町に寺院を移転し、弘前八幡宮の別当寺とされた』(下線やぶちゃん)。十二ヶ寺の『塔頭寺院を従え』、『藩の永世祈願所となった。近世には僧録所として、津軽藩領内の寺社を統轄する立場にあった』とあり、境内には重要文化財に指定されている日本最北に位置する五重塔(寛文七(一六六七)年に完成した旧大円寺の塔。総高三十一・二メートル(相輪含む))がある、ともある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「時(をりふし)」一字へのルビ。

「鈴(かね)の緒」神社参詣の際に鳴らす鈴の下がった紐。森山氏補註に、『神社の拝殿入口上部に』吊るした『大鈴や鰐口などに下げた布をいう』とある。

「膽落地(きもつぶし)て」三字へのルビ。面白い漢語文字列と和訓である。

「御神躰」一般の神社では御神体は鏡であることが多い。

「渠奴(きやつ)」二字へのルビ。

「側」「そば」と訓じておく。

「捽(ひきづり)出して」引きずり出して。

「寺に來り斯と告げしかば」寺の戻って、かくかくしかじかの大事のあった告げために。

「諾問(せむる)といへども」二字へのルビ。

「言語粉亂」話の内容が全く意味不明であることを言っていよう。

「辨へず」「わきまへず」。見当識を全く失っている状態なのである。

「區中(なか)」二字へのルビ。

「往反」「わうはん」。往復。こっちもこっちで、意味不明に神社の境内をこれまた、行ったり来たりしているのである。

「見あたり」見つかってしまい。

「卽便(そのまゝ)」二字へのルビ。

「包袱(つゝみ)」二字へのルビ。「袱」は「ふくさ」で、一枚物又は表裏二枚合わせの方形の絹布で、進物の上に掛けたり、物を包んだりする。

「解開(ひらい)て」二字へのルビ。

「惶(かしこ)き」畏れ多い。

「否(いな)や」感動詞。意外な事態に驚いて、受け入れ難い気持ちで発する語。「これはどうしたことだ!」「何と! まあ!」。

「神司」「かんづかさ」「かむづかさ」「かみづかさ」などと訓ずる。神に仕える神官。神職でも上位の。現行の禰宜(ねぎ)などのグループを指す。

「神巫(かんねき)」ルビはママ。「覡」「巫」(かんなぎ)のこと。古くは「かむなき」で「神(かむ)和(な)ぎ」の意。「かみなき」「こうなぎ」などとも読む。神に仕えることを務めとする人。神を祀る際の雑務、神楽(かぐら)演奏や「神降ろし」などの際の雑多な実務に従事した、「祝(はふり(ほうり))」などと同じく、下級の神職を指す。

「呼集(つと)へ」「つと」はママ。「よいびつどへ」。

「汚穢(けがれ)」二字へのルビ。

「採(とり)處なければ」言っている意味の理解出来る部分が、これ、全く以って、ないので。

「龜甲町」森山氏補註に、『かめのこまち。城の北門外堀に面した町並みで』四神の『北方玄武になぞらえて亀甲を町名にした。この裏通り博労町に藩の牢獄があった』とあるから、「御預りになりしが」と言っても町内預かりなんぞではなくて、ブタ箱に入れられたのである。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在の行政地名では「かめのこうまち」と読んでいる。

「御免許(ゆるし)」「ゆるし」は「免許」二字へのルビ。

「冥罰」「みやうばつ(みょうばつ)」と読む。神仏が懲らしめに下(くだ)す罰のこと。

「己が租父なる人」「己が」は「おのが」。筆者平尾魯僊の祖父であった人物。

「御本社」同じ弘前八幡宮。

「内(おさめ)まつれる御佩刀(みはかせ)」「青森県歴史観光案内所」公式サイト内の弘前八幡宮の収蔵文化財を見ると、

 大太刀 慶長六(一六〇一)年 藤原國路作  刃長  百七・八センチメートル

 大太刀 文化元(一八〇四)年 橘繁宗作   刃長 八十二・五センチメートル

 大薙刀 慶長六(一六〇一)年 藤原國路作  刃長 九十一・二センチメートル

の刀剣類が挙げられてある(孰れも弘前市指定文化財)。薙刀を「御佩刀」とは言わないし、文化元年では新し過ぎるから、或いは最初の大太刀がこれかも知れぬ。

「和德町稻荷宮」森山氏補註に、『弘前市和徳(わっとく)町にある和徳稲荷社。津軽氏の津軽統一以前からの古社で、元和』(げんな)年間(一六一五年~一六二四年まで)二代藩主津軽信枚(のぶひら)が『再興し、領内稲荷社の筆頭とした』とある。「和德町」は前の「十一 鬼祭饌を享く」に既出既注であるが、地図で示しておくと、ここ(グーグル・マップ・データ)。稲荷神社は(同前)。

「御供(ごくう)」御供物(おくもつ)。

「其まゝにてありし事囘々(たびたび)なれば」本来ならば、お狐さま(現実には猫か犬か乞食)が食うために銜え去るのである。

「御供(ごく)」ルビはママ。「う」が発音から落ちることはしばしばあるので問題ない。

「御劍」「みつるぎ」と訓じておく。

「迺頃(このころ)」「迺」は漢語では「なんぢ」で二人称であるが、国字としては「この」という指示語にも使える。

「衙門(やくしよ)」音では「ガモン」官衙(かんが)・役所のこと。「衙」は「防ぐ」(柵や垣根を設けて害敵を防ぐ)の意や護衛をおいた天子の前殿天子の護衛兵の意が元であったが、それが広く「つかさ」「官庁」の意となったものである。

「上告(まをし)て」二字へのルビ。

「朝」「あした」。

「一枚(ひら)」薄く平らなものの数詞。

「佩刀」「御」がないからここは音読みして「はいたう(はいとう)」と読んでおく。「はかせ」や「はかし」では私にはサマにならぬ気がするのである。

「裸身」ここは逆に「ぬきみ」と和訓のルビを振りたくなる。]

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