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2016/10/09

諸國百物語卷之三 八 奧嶋檢校山の神のかけにて官にのぼりし事

     八 奧嶋檢校(をくしまけんげう)山の神のかけにて官にのぼりし事


Yamanokami

 奧嶋檢校といふ人、そのむかし六十餘(よ)まで官ひとつもせざりしゆへ、ほうぼうかせぎにあるくとて、熊野にて山みちにふみまよひ、大きなる木のかげにたちより、しばし、やすらいゐたる所に、木のそらより大きなるこゑにて、

「座頭、座頭」

とよぶ。奧嶋、おどろき、かうべを地につけ、へんじしければ、

「ひだるくは、これをくへ」

とて、あたゝかなる赤飯をあたへける。奧嶋、なに人なればと、ふしぎにおもひけれども、あまりにうへつかれたれば、

「かたじけなし」

とて、くひければ、又、大きなるこゑにて、

「座頭、さむくは、これをきよ」

とて、木のそらより、ふりそでの小そでを、をろしければ、奧嶋、いたゞき、此小袖を下にきて、上には、わがきる物をきたり。又、木のうへより、

「座頭、里へ出でたくは、みちをおしえてとらせん。わがこへにつきてゆけ」

と云ふ。

「かたじけなし」

とて、あゆみければ、あなたこなたと道をおしへけるが、はじめ、奧嶋ひとりあゆみきたるときは、いわがんせきにて、なかなか、あゆみがたかりしが、此こゑにつきてあゆみければ、たゝみのうへをあるくやうにおぼへて、ほどなく里に出でけるが、

「その家にやどをとれ」

と、をしへ給ふゆへ、をしへの家に宿をとりければ、ていしゆ、いろいろちそうして、まづ、赤飯をふるまひける。奧嶋、またこゝにてもせきはんをふるまふ事のふしぎさよと、おもひければ、ていしゆ、此けしきを見て、

「座頭どのは、なにとやらん、ふしぎなるけしきをし給ふものかな。いかなるゆへぞ」

と、とひければ、

「されば、その事、さきほど、此山みちにふみまよひ候ふ所に、かやうかやうのやうす候ひて、せきはんをたべ候ふが、此あぢわひに、すこしもたがい申さず候ふ」

とて、有りししだいをかたり、下にきたりし小袖をのぎて見せければ、ていしゆ、おどろき、

「さてさて、ふしぎなる事かな、それがしがむすめ、ことし、十五さいになり申すが、此ほど、疱瘡(はうさう)をいたし候ふが、山の神に、りうぐはんしければ、さはりなく、へいゆいたし候ふゆへ、赤はんをむし、むすめがはだにきたる小袖をそへ、山の神にそなへしが、さては座頭どのは山の神の氣に入り給ふ人とみへたり」

とて、ことのほかにちさうして、

「山の神をいのらんとおもふ人は、此座頭どのをちさうせられよ」

と、里中へふれければ、われもわれもと、ちさうしけるほどに、くわぶんに金銀をもうけ、七十三にて檢校になり、十らうのうちまでへあがり、九十までゐきられて、寛永十四年にはてられける也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右キャプションは頭の汚損がひどいが、「けんけう(或いは「げう」)山神のかけにて官に上事」である。

「奧嶋檢校(をくしまけんげう)」不詳。検校は中世・近世に於ける盲官(視覚障碍を持った公務員)の最高位(「検校」の下に降順で「別当」・「勾当(こうとう)」・「座頭(ざとう)」・「紫分(しぶん)」・「市名(いちな)」・「都(はん)」があった)の名称。ウィキの「検校」によれば、幕府は室町時代に開設された視覚障碍者組織団体である当道座(とうどうざ)を引き継ぎ、更に当道座『組織が整備され、寺社奉行の管轄下ではあるがかなり自治的な運営が行なわれた。検校の権限は大きなものとなり、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。当道座に入座して検校に至るまでには』七十三の『位階があり、検校には十老から一老まで十の位階があった。当道の会計も書記以外はすべて視覚障害者によって行なわれたが、彼らの記憶と計算は確実で、一文の誤りもなかったという。また、視覚障害は世襲とはほとんど関係ないため、平曲、三絃や鍼灸の業績が認められれば一定の期間をおいて検校まで』七十三段に『及ぶ盲官位が順次与えられた。しかしそのためには非常に長い年月を必要とするので、早期に取得するため金銀による盲官位の売買も公認されたために、当道座によって各盲官位が認定されるようになった。検校になるためには平曲・地歌三弦・箏曲等の演奏、作曲、あるいは鍼灸・按摩ができなければならなかったとされるが、江戸時代には当道座の表芸たる平曲は下火になり、代わって地歌三弦や箏曲、鍼灸が検校の実質的な職業となった。ただしすべての当道座員が音楽や鍼灸の才能を持つ訳ではないので、他の職業に就く者や、後述するような金融業を営む者もいた。最低位から順次位階を踏んで検校になるまでには総じて』七百十九両が『必要であったという。江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった』(下線やぶちゃん)。『江戸時代には地歌三弦、箏曲、胡弓楽、平曲の専門家として、三都を中心に優れた音楽家となる検校が多く、近世邦楽大発展の大きな原動力となった。磐城平藩の八橋検校、尾張藩の吉沢検校などのように、専属の音楽家として大名に数人扶持で召し抱えられる検校もいた。また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる』。『その一方で、官位の早期取得に必要な金銀収入を容易にするため、元禄頃から幕府により高利の金貸しが認められていた。これを座頭金または官金と呼んだが、特に幕臣の中でも禄の薄い御家人や小身の旗本等に金を貸し付けて、暴利を得ていた検校もおり、安永年間には名古屋検校が十万数千両、鳥山検校が一万五千両等、多額の蓄財をなした検校も相当おり、吉原での豪遊等で世間を脅かせた。同七年にはこれら八検校と二勾当があまりの悪辣さのため、全財産没収の上江戸払いの処分を受けた』とある。即ち、この「奥嶋」なる人物は才能や技術等に欠いていたから盲官の官位が上らなかったのではなくて、専ら昇進に必要な金がなかったからなのである。本話柄はそうした盲官の官位は金で買うのが普通であったという事実を理解していないと、よく判らない

「山の神のかけにて」「山の神」ウィキの「山の神」より引く。『実際の神の名称は地域により異なるが、その総称は「山の神」「山神」でほぼ共通している。その性格や祀り方は、山に住む山民と、麓に住む農民とで異なる。どちらの場合も、山の神は一般に女神であるとされており、そこから自分の妻のことを謙遜して「山の神」という表現が生まれた。このような話の原像は『古事記』、『日本書紀』のイザナミノミコトとも一致する』。『農民の間では、春になると山の神が、山から降りてきて田の神となり、秋には再び山に戻るという信仰がある。すなわち』、一つの神に「山の神」と「田の神」という二つの『霊格を見ていることになる。農民に限らず日本では死者は山中の常世に行って祖霊となり子孫を見守るという信仰があり、農民にとっての山の神の実体は祖霊であるという説が有力である。正月にやってくる年神も山の神と同一視される。ほかに、山は農耕に欠かせない水の源であるということや、豊饒をもたらす神が遠くからやってくるという来訪神(客神・まれびとがみ)の信仰との関連もある』。『猟師・木樵・炭焼きなどの山民にとっての山の神は、自分たちの仕事の場である山を守護する神である。農民の田の神のような去来の観念はなく、常にその山にいるとされる。この山の神は一年に』十二人の『子を産むとされるなど、非常に生殖能力の強い神とされる。これは、山の神が山民にとっての産土神でもあったためであると考えられる。山民の山の神は禁忌に厳しいとされ、例えば祭の日』(一般に十二月十二日、一月十二日など十二にまつわる日)『は山の神が木の数を数えるとして、山に入ることが禁止されており、この日に山に入ると木の下敷きになって死んでしまうという。長野県南佐久郡では大晦日に山に入ることを忌まれており、これを破ると「ミソカヨー」または「ミソカヨーイ」という何者かの叫び声が聞こえ、何者か確かめようとして振り返ろうとしても首が回らないといい、山の神や鬼の仕業と伝えられている』。『また、女神であることから出産や月経の穢れを特に嫌うとされるほか、祭の日には女性の参加は許されてこなかった。山の神は醜女であるとする伝承もあり、自分より醜いものがあれば喜ぶとして、顔が醜いオコゼを山の神に供える習慣もある。なお、山岳神がなぜ海産魚のオコゼとむすびつくのかは不明で、「やまおこぜ」といって、魚類のほかに貝類などをさす場合もある。マタギは古来より「やまおこぜ」の干物をお守りとして携帯したり、家に祀るなどしてきた。「Y」のような三又の樹木には神が宿っているとして伐採を禁じ、その木を御神体として祭る風習もある。三又の木が女性の下半身を連想させるからともいわれるが、三又の木はそもそもバランスが悪いために伐採時には事故を起こすことが多く、注意を喚起するためともいわれている』とある。この山の神がオコゼを好むという伝承についての考証は私の古い電子テクスト、南方熊楠の「山神オコゼ魚を好むということ」を参照されたい。「かけにて」は「お蔭で」の意。

「ほうぼうかせぎにあるくとて」「方々稼ぎに步くとて」。前々注末尾を、必ず、参照。

「木のそら」「そら」は「空」で天辺(てっぺん)の意。

「かうべを地につけ」目が見えないけれども、尋常ならざる位置から声が聴こえたので反射的に超自然の神聖を無意識に感じた故の拝跪であろう。この意識が続かなかったのは、彼が盲人であったこと、与えられたものが現実の食品や衣類であったからである。

「ひだるくは」「饑(ひだる)くは」。空腹であるなら。飢えてひもじいならば。「は」は係助詞で順接の仮定条件を示す。「ば」の濁音が落ちたものととってもよい。

「うへつかれたれば」「餓ゑ疲れたれば」。歴史的仮名遣は誤り。

「さむくは」「寒くは」。「は」は同前。

「はじめ、奧嶋ひとりあゆみきたるときは」この謎の人物に逢う前、奥嶋が独りで山中を踏み迷っていた折りには。

「いわがんせきにて、なかなか、あゆみがたかりしが」「巖(いは)岩石(ぐわんせき)にて、なかなか、步み難かりしが」。歴史的仮名遣は誤り。

「ちそう」馳走。饗応。後の出て来る里人の「ちそう」は酒食のそれではなく、金品の贈与で、それも「馳走」と一般に呼んだ。

「座頭どのは、なにとやらん、ふしぎなるけしきをし給ふものかな。いかなるゆへぞ」本「諸國百物語」の面白さはある意味、極めて近代的な戯曲的映像的表現手法にあると私は思う。ここでも「亭主、いろいろ馳走して、まづ、赤飯を振舞ひける」でフィルムがカットされ、「奧嶋、また此處にても赤飯を振舞ふ事の不思議さよと、思ひければ」で奥嶋の頭を傾げて不思議そうにするアップでカット、「亭主、此の氣色(表情)を見て」で亭主のアップ、そうしてこの台詞と続くのは、これ、実に映画的なモンタージュなのである。くどいように思える叙述が少しも五月蠅くないのは、それらが脳内で映像として分かり易く再現されるように書かれてあるからに他ならない

「のぎて」「脱ぐ」の方言として、今もかなりの広域で用いられている。

「疱瘡」天然痘(痘瘡(とうそう))。天然痘ウィルス(第一群 Group I(二本鎖DNA dsDNA viruses)ポックスウイルス科 Poxviridae チョルドポックウイルス亜科 Chordopoxvirinae オルソポックスウイルス属 Orthopoxvirus 天然痘ウイルス Variola virus )を病原体とする感染症の一つで、非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。歴史的に世界中で「不治の病い」「悪魔の病気」と恐れられてきたが、世界で初めて撲滅に成功(WHOによる地球上からの天然痘根絶宣言は一九八〇年五月八日)した感染症である。

「りうぐはん」「立願(りふぐわん(りゅうがん))」。歴史的仮名遣は誤り。神仏に願(がん)かけをすること。

「さはりなく、へいゆいたし候ふ故」「障り無く、平癒致し候ふ故(ゆゑ)」。歴史的仮名遣は誤り。天然痘は、致死率が四十%前後と高く、治癒しても全身性の瘢痕(はんこん:あばた)を残すことが多く、それが顔面に残った女性は人生が変えられてしまったのである。ここはそうした「あばた」も残らずに軽症で済んだことを言っているのである。

「むすめがはだにきたる小袖」奥嶋が肌身につけたそれ。言っておくが、奥嶋が天然痘に罹患しなかったことは幸いであったウィキの「天然痘」によれば、『天然痘ウイルスの感染力は非常に強く、患者のかさぶたが落下したものでも』一『年以上も感染させる力を持続する』とあるからである。

「くわぶん」「過分」。

「十らう」検校の中の最高位は「総録検校」と称し、その下に「一」から「十」までの十老検校がいた。この場合はその「総録検校」の下位の「十老検校」の地位層全体を指している。言わば、ナンバー2まで昇進した、というのである。

「うちまでへあがり」「内までへ昇り」「へ」は動作・作用の帰着点を示す格助詞か。或いは「内まで經昇(へあがり)り」官位を順にとんとん拍子で昇進したという謂いかも知れぬ。

「九十までゐきられて、寛永十四年にはてられける」「寛永十四年」一六三七年であるから、この奥嶋、天文七(一五三八)年、何と、室町時代の生まれである。冒頭に「六十餘」とあるから、本話柄内時制は慶長三(一五九八)年(豊臣秀吉死去)以降、まさに江戸幕府創成前後(徳川家康が征夷大将軍に任ぜられて江戸幕府が開府するのは慶長八年二月十二日)と考えられる。十老検校にまで昇った者で、ここまで生没年がはっきりいているのなら、実在し、ネット検索でもかかってくるのが当たり前なのであるが、それが全く不詳であるということは、やはり奥嶋検校なる者は作者によって創成された架空の人物と見るべきであろう。]

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