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2016/10/26

諸國百物語卷之四 六 丹波申樂へんげの物につかまれし事

     六 丹波申樂(たんばさるがく)へんげの物につかまれし事

 

 たんば申樂、妻子弟子をつれ、廿人ばかりにて、京へのぼりけるが、をりふし、山なかにて日くれければ、ぜひなく、山なかにて一夜をあかしけるが、女ばう、うみ月にて、その夜に、よろこびしけるを、とやかくと、いとなみて、夜のあくるをまちければ、夜のほのぼのあけに、としのころ、廿ばかりの女、そこを、とをりけるを、申樂、見てよびよせ、

「たれ人もぞんせず候へども、よき折から、とをり給ふものかな。ちかごろ、申しかね候へども、此子を、いだき給はらんや」

といへば、

「やすき事」

とて、かの子をいだきゐけるが、人々、すこしねむりたるまに、かの女、この子があたまをそろそろとねぶりけるを、申樂、めをさまし、つくづくとながめゐければ、いつのまにか、その子を、みな、ねぶりけしたり。申樂、をどろき、弟子どもをおこしければ、廿人ばかりのもの、一どに、はつと、をきあがるとひとしく、なにものともしれず、廿人ばかりの人をひつつかみ、こくうをさして、あがる。されども、申樂一人をのこしをきけるが、又、こくうより、しわがれたるこゑにて、

「それにのこりたる男も、とれ」

といへば、かの女、申しけるは、

「この男もとるべきとおもへども、りやうかはの脇指をさしてゐるゆへ、つかまれず」

と云ふ。その時、こくうより、

「つかまれずは、たすけよ、たすけよ」

とよばはりて、かの女も、いづくともなく、きへうせけり。申樂、大きにおどろき、夜のあくるをまちゐければ、ほどなく夜もあくるとおもひければ、ひるの七つじぶんにて有りしと也。

 

[やぶちゃん注:「丹波申樂(たんばさるがく)」中世、丹波亀山(現在の京都府亀岡市)及び綾部(現在の綾部市大島)に本拠を置いた猿楽(軽業(かるわざ)・奇術や滑稽な物真似などの演芸を主とし、奈良時代に唐から伝来した散楽(さんがく)を母胎に作り出された芸能。鎌倉時代頃からこれを職業とする者が各地の神社に隷属して祭礼などで興行し、座を結んで一般庶民にも愛好された。室町時代になると、田楽)(平安中期頃から流行した芸能で、農耕行事に伴う歌舞から起こり、後に専業の田楽法師が現れて座も発生した。本来は田楽踊りと散楽系の曲芸が主要芸であったが,鎌倉末期より猿楽能も演じ、独自の田楽能を上演した。室町後期には猿楽におされて衰退した)や曲舞(くせまい:南北朝から室町に流行した白拍子系と考えられる芸能で、少年や女性が立烏帽子(たてえぼし)・水干(すいかん)姿で男装し、男は水干の代わりに直垂(ひたたれ)で舞った。鼓を伴奏とする拍子が主体の謠と、扇を手にした簡単な所作の舞いで、専業者のほか、声聞師(しようもんじ)なども演じた。観阿弥が猿楽に取り入れで現在も曲(くせ)としてその面影が能に残る。後期は幸若舞がその主流となった)などの要素もとり入れ、観阿弥・世阿弥父子により能楽として大成された)集団。丹波に本拠地を置いた矢田猿楽、大島の梅若猿楽、それに加えて本拠地不明の日吉(ひえ)猿楽などが丹波猿楽の有力な猿楽の座であった。矢田猿楽は鎌倉時代から本座と呼ばれていた古い座で、京都法勝(ほっしょう)寺の法会や賀茂社の御土代祭(みとしろまつり)、住吉社の御田植神事などに摂津の榎並(えなみ)座や法成寺座とともに参勤、伏見の御香宮(ごこうのみや:現在の京都市伏見区御香宮御香宮門前町にある御香神社)でもかなり早い時代から永享九(一四三七)年まで楽頭職を保持し、春秋の神事に猿楽を奉仕していた(。ここではその座長を指している。

「うみ月」「産み月」。臨月。

「よろこびしけるを」目出度く出産したので。

「とやかくと、いとなみて」お産の世話や産後の看護などを滞りなく致いて。

「申樂、見てよびよせ」子の誕生を他者によって抱いて貰い、言祝(ことほ)ぎを受けようというのは、当時の通例の民俗習慣である。

「ちかごろ、申しかね候へども」このような早朝の、淋しき山中のこと乍ら。寧ろ、だからこその言祝ぎを求めてのことなのである。

「すこしねむりたるまに」「少し眠りたる間に」。出産の騒ぎで諸人(もろびと)は当然、寝ずの世話で疲れ切っていたから、みなみな、仮眠をとったのである。しかし、この睡魔は実は、変化(へんげ)の物の魔手によるものでもあったのである(最後の覚醒時の現実がそれを物語っている)。

「ねぶりけるを」舐るようにしているのを。

「その子を、みな、ねぶりけしたり」舐め尽くし消した、舐め舐めして、下ろし金(がねのような)舌で赤子をこそいで、総て完全に喰らい尽くしたのである。

「廿人ばかりの人をひつつかみ、こくうをさして、あがる」このシークエンスが美事である。赤子を舐め喰らったばかりか、座長の男を除いた二十人の者どもを皆、一瞬にして虚空に舞い上げて、餌食として掻っ攫ったのである。

「りやうかはの脇指」不詳。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には『未詳』としつつ、も『「両(りょう)が刃」とすれば山人の名剣である。あるいは刀剣の名か』とある。両刃の剣は神聖な古剣の形状ではあるが、私が無知なのか、この『山人の名剣』の意がよく判らぬ(単なる山の民伝承の宝剣のいいか。こうした芸能者は海人族や放浪する「ほかいびと」を遠い出自とするから、その謂いなら、分らぬではない)識者の御教授を乞う。

「ひるの七つじぶん」午後四時頃。]

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