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2016/10/31

譚海 卷之二 信州善光寺公事の事

信州善光寺公事の事

○信州善光寺の御朱印は千石也。且又(かつまた)善光寺は古來より淨土宗の寺なれども、檀林增上寺等の末寺といふことにもあらず、支配なき寺也。そのうへ江戸靑山の尼寺本願上人といへるより、善光寺由緒の寺にて、信州の住持と、江戸の尼寺と兩寺にて持來(もちきた)る事なり。近來靑山の尼寺諸侯の息女うちつゞき住持する事になりたるゆへ、自然と尼寺の威權(いげん)つよき樣になり、終(つひ)に信州の住持と御朱印配分の爭論(さうろん)おこり、公訴に及(および)たる事のありしに、公裁(こうさい)にも是非わかちがたく、千石の御朱印は善光寺如來へ付置(つけおか)れたる事なれば、如來所持の寺、御朱印進退すべきよし仰出(おほせいだ)されし時、兩寺ともに同作の如來所持ある事故、これもわかちがたく、最末(さいまつ)御吟味の所、善光寺眞の祕佛の本尊は、信州の寺にある事に決し、東叡山へ御吟味仰付(おほせつけ)られ、日光御門主より覺樹王院僧正へ祕佛の檢使仰付られ、僧正信州え發向祕佛拜見せられける。御門主よりも右の次第公儀へ仰上(おほせあげ)られ、いよいよ信州の寺御未印進退すべき事に定(さだま)り、尼寺住持公儀(こうぎ)へ召出(めしいだ)され、御朱印は信州の寺へ下さるゝ間、分米(ぶんまい)の義は兩寺相對(あひたい)に致すべしと仰渡(おほせわた)され、其砌(そのみぎり)直(ただち)に兩寺とも東叡山支配に仰付られし故、宗旨は淨土にて支配は東叡山より沙汰する事に成(なり)たり。右御裁許(ごさいきよ)相濟(あひすみ)たるに、御門主より千石の御朱印の内六百石は信州の寺へ、四百石は江戸尼寺へ分米すべきよし仰付られけるとぞ。

[やぶちゃん注:「公事」「くじ」と読む。民事訴訟。

「御朱印」将軍が花押(かおう)の代わりに朱印を押して発行した公的文書であるが、ここはそれで公定された寺領の石高。

「善光寺は古來より淨土宗の寺なれども、檀林增上寺等の末寺といふことにもあらず、支配なき寺也……」前条にも少し注(引用で)したが、善光寺はその総体は現在も非常に珍しい無宗派の寺院である。ウィキの「善光寺によれば、『山号は「定額山」(じょうがくさん)で、山内にある天台宗の「大勧進」と』二十五院、『浄土宗の「大本願」と』十四坊『によって護持・運営されている。「大勧進」の住職は「貫主」(かんす)と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。住職は「善光寺上人」(しょうにん)と呼ばれ、門跡寺院ではないが』、『代々公家出身者から住職を迎えている』、『古えより、「四門四額」(しもんしがく)と称して、東門を「定額山善光寺」、南門を「南命山無量寿寺」(なんみょうさんむりょうじゅじ)、北門を「北空山雲上寺」(ほくくうさんうんじょうじ)、西門を「不捨山浄土寺」(ふしゃさんじょうどじ)と称する』。『特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済』『が挙げられる』とある。

「江戸靑山の尼寺本願上人といへるより、善光寺由緒の寺」現在の港区北青山にある南命山(なんみょうさん)善光寺。松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」の南命山善光寺|港区北青山にある浄土宗寺院の頁によれば、こちらの青山の善光寺は、永禄元(一五五八)年谷中に創建され、宝永二(一七〇五)年、『光蓮社心誉知善上人明観』(みょうかん)『大和尚の代に当地へ移転、江戸時代には信州善光寺本願上人の東京宿院であったとい』う。以下、「江戸名所圖會」による善光寺の縁起によれば、

   *

 南命山善光寺 同所(靑山)百人町(まち)右側にあり。信州善光寺本願上人の宿院にして、淨土宗尼寺あり。本尊阿彌陀如來は御長(みたけ)一尺五寸、脇士(けふじ)觀音・勢至の二菩薩は、共に一尺づつあり。称德天皇の景雲元年[やぶちゃん注:西暦七六七年。]八月十五日夜、法如尼(はふぢよに)和州當麻(たいま)の紫雲庵にて念佛誦持の頃、信州善光寺の如來、來現ありしを拝し奉り、直ちに一刀三禮(さんらい)にして其の御形を模(うつ)さる、是れ、則ち、當寺の本尊なり。

 當寺は永祿元年[やぶちゃん注:西暦一五五八年。]戊午(つちのえうま)の創建にして始めは谷中(やなか)にありしを、中興光蓮社心譽知善上人明観大和尚の時、宝永二年[やぶちゃん注:西暦一七〇五年。]、臺命(たいめい[やぶちゃん注:ここは将軍の命令。])に依つて、此の地へ遷(うつ)されけるととなり【今、谷中に善光寺坂と號(なづ)くるは、其の舊地なるが故にして、其の旧跡は今の玉林寺の地なりと云ふ】。什寶は中將姫、自(みづか)らの毛髮を以つて製造する所の六時の名號あり。

 觀音堂【本堂の左に並ぶ。堂内觀音百躰を安ず。本尊は聖觀音にして其の丈二尺ばかりあり、惠心僧都の作なり、當寺、むかし、谷中にありし頃、自(みづか)ら火中を遁れ坐給ひし靈像なりといへり。故に字(あざな)をして火除(ひよ)けとも、又は火災の時、榎(えのき)にうつり給ひしにより、榎觀世音とも稱ずるといへり。】。

   *

とある(以上はリンク先のそれと、ちくま文庫版を参考に恣意的に正字化して示した)。

「持來(もちきた)る」運営維持する。

「威權(いげん)」「威嚴」。勢力。

「つよき樣になり」「強きやうに成り」。

「爭論」紛争。

「公裁」公事による民事訴訟の裁定。

「如來所持の寺、御朱印進退すべきよし」本尊である如来を所持する寺が寺領配分を自由決定する権限を行使するのがよいという調停案を示したということを謂うのであろう。

「最末」最終的な、の意であろう。

「東叡山」東叡山寛永寺円頓院。天台宗。

「覺樹王院僧正」不詳であるが、覚樹王院大泉寺(最初は湯島にあったが、明和大火(行人坂火事)により一七七二年に焼失し、深川に移転)という寺はあった(現存はしない模様)。

「祕佛の檢使仰付られ、僧正信州え發向祕佛拜見せられける」ウィキの「善光寺によれば、この像は『三国渡来の絶対秘仏の霊像と伝承される丈一尺五寸』(四十五・四五センチメートル)『の本尊・一光三尊阿弥陀如来像が本堂「瑠璃壇」厨子内に安置されて』おり、『その姿は寺の住職ですら』、『目にすることはできないとされ、朝の勤行や正午に行なわれる法要などの限られた時間に金色に彩られた瑠璃壇の戸張が上がり、瑠璃壇と厨子までを拝することが通例とされる。数えで七年に一度の御開帳には、金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)が絶対秘仏の本尊の分身として公開される』とある。また、同ウィキの年表に、元禄五(一六九二)年に、『秘仏の本尊を検分する使者が幕府から派遣され実測された』とあるが、ここはそれを指すものか(下線やぶちゃん)。

「分米」通常は、検地によって定められた耕地の石高を指すが、ここは全寺領の石高の二寺へに分配配当高を指している。

「義」底本には右に『(儀)』という補正注がある。

「相對」双方が対等の立場にあることをいう。幕府の裁定としては粋な計らいと言うべきであろう。

「千石の御朱印の内六百石は信州の寺へ、四百石は江戸尼寺へ分米すべきよし」折半でないのは、明らかに寺の規模が異なり、従事する僧の絶対数も違うからであろう。部外者の私でも穏当な配分量と見る。]

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