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2016/10/17

甲子夜話卷之二 26 九鬼家節分の事

26 九鬼家節分の事

先年のことなり。御城にて、予、九鬼和泉守【隆國】に問には、世に云ふ、貴家にては節分の夜、主人闇室に坐せば、鬼形の賓來りて對坐す。小石を水に入れ、吸物に出すに、鑿々として音あり。人目には見えずと。このことありやと云しに、答に、拙家曾て件のことなし。節分の夜は主人惠方に向ひ坐に就ば、歳男豆を持出、尋常の如くうつなり。但世と異なるは、其唱を、鬼は内、福は内、富は内いふ。是は上の間の主人の坐せし所にて言て、豆を主人に打つくるなり。次の間をうつには、鬼は内、福は内、鬼は内と唱ふ。此餘、歳越の門戸に挾すひら木、鰯の頭、我家には用ひずとなり。これも又一奇なり。

やぶちゃんの呟き

「九鬼」ウィキの「九鬼やサイト「戦国大名研究」の九鬼氏」などを参照されたい。出自はよく判っていないが戦国の「九鬼水軍」で知られる。以下の隆国の叙述はしかし「九鬼氏」の祖先に鬼の血筋があることを暗に物語るもののようには取れる。

「九鬼隆國」(天明元(一七八一)年~嘉永五(一八五二)年)は摂津三田(さんだ)藩(現在の兵庫県三田市)第十代藩主で九鬼家宗家十一代。ウィキの「九鬼隆国」によれば、第九代藩主九鬼隆張(たかはる)長男として江戸で生まれ、寛政一〇(一七九八)年に父の隠居により跡を継いでいる。『勅使饗応役や奏者番を務めたが、そのためによる出費で藩財政が悪化した』。『外様大名ながら、幕府の儀式・典礼を高家とともに掌る要職である奏者番に任じられ』、天保一〇(一八三九)年には『城主格に昇格する。奏者番就任や城主格昇格は、阿波・淡路』二十五万七千石『の太守である蜂須賀氏から正室を迎えたことに起因するとも考えられる。藩政では京都から近藤顧一郎を招聘して、藩校の国光館を造士館として発展させた』。天保一四(一八四三)年六月に『長男の隆徳に家督を譲って隠居し、南嶽と号した』とある。静山より二十一年下である。

「問には」「とふには」。

「闇室」「あんじつ」と読んでおく。真っ暗な部屋。

「賓」「ひん」賓客。来客。

「鑿々」「さくさく」。オノマトペイア(擬音語)。

「答に」「こたへに」。

「曾て」「かつて」。

「件」「くだん」。

「惠方」「ゑはう」。

「就ば」「つけば」。

「歳男」「としをとこ」。

「持出」「もちいだし」。

「但」「ただし」。

「其唱」「そのとなへ」。

「鬼は内、福は内、富は内いふ」三田市のえべっちゃんのブログ「えべっちゃんの町おこし奮闘記」の三田の節分は「鬼は内」と「お化け」だよという記事が興味深い。それによれば、寛永一〇(一六三三)年に幕府は志摩国鳥羽藩の九鬼氏を、家督争いを理由に同藩五万六千石を分割、九鬼久隆を三万六千石で三田藩に移封したが、三田では藩主の名に「鬼」がつくから、『節分の豆まきに「鬼は外!」とは言い難く、「福は内、鬼は内」と言う様になったとか』言ったとか言わないとかと載り(断定はされておられない)、また、『これも昔、お婆ちゃんから聞いた話ですが、節分の夜に、男性が女物の和服を着て、お化粧をしたりお婆さんが若い女の子の格好をしたり』と、『まるで百鬼夜行、いやいや、今のコスプレ大会の様相で夜の街は「お化け」達がウロウロ徘徊していたそうです』。『調べてみると、この風習は「節分お化け」とも言われ、節分の夜、老婆が少女の髪型である桃割にしたり、逆に少女が成人女性の髪型である島田に髪を結ったりしたそうです。このような異装を行うのは、違う年齢や違う性など「普段と違う姿」をすることによって、節分の夜に跋扈するとされる鬼をやり過ごすためであると信じられたことから始まった邪気払いの風習の一つで、昔の三田にも、節分お化けが出てました』とある。この失われた習俗は実に惹かれる。是非とも、復活して貰いたいものである。またリンク先が引き、さらにリンクもされている「伊予歴史文化探訪 よもだ堂日記」の「鬼は内~」も必読で、それによれば、『「鬼は内~」と唱えるのは、九鬼家代々の伝統であったようだが、民俗学者の五来重によると、豆撒きのときにそう唱える例は、少なくないという』。『世の中には鬼の子孫という家筋はかなり多くあって、「鬼は内、福は内」という豆撒きをする家もすくなくない。鬼の子孫という伝承をのちのちまでもちつたえた家筋は、多く修験山伏の家筋であるが、祖霊を鬼として表象することは、実は一般的であった。それが仏教や陰陽道の影響で邪悪な鬼となり、地獄の牛頭馬頭や餓鬼となってからは「鬼は外」と追われる鬼になった』(五来重『宗教歳時記』一九八二年角川選書刊)。『九鬼隆国は鬼の姿をした客云々の噂を否定したが、九鬼家の豆撒きの唱えごとが「鬼は内~」であるということは、鬼の子孫であるとの伝承が同家にあるということをおのずから語るものであった。鬼の姿云々はそうした九鬼家の伝承から派生した噂であったのだろう』とある。

「上の間」「うへのま」。

「言て」「いひて」。

「打つくる」「うちつくる」。

「挾す」「さす」。

「ひら木」柊(ひいらぎ:シソ目モクセイ科モクセイ属ヒイラギ変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus var. bibracteatus)の葉のついた小枝のこと。これに焼いた鰯の頭を挿したものを「柊鰯(ひいらぎいわし)」と称し、節分に魔除けとして門口に挿し掲げた。ウィキの「柊鰯によれば、『柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないと言う(逆に、鰯の臭いで鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすとも説明される)。日本各地に広く見られる』。『平安時代には、正月の門口に飾った注連縄(しめなわ)に、柊の枝と「なよし」(ボラ)の頭を刺していたことが、土佐日記から確認』出来、『現在でも、伊勢神宮で正月に売っている注連縄には、柊の小枝が挿してある。江戸時代にもこの風習は普及していたらしく、浮世絵や、黄表紙などに現れている。西日本一円では節分にいわしを食べる「節分いわし」の習慣が広く残る。奈良県奈良市内では、多くの家々が柊鰯の風習を今でも受け継いでいて、ごく普通に柊鰯が見られる。福島県から関東一円にかけても、今でもこの風習が見られる。東京近郊では、柊と鰯の頭にさらに豆柄(まめがら。種子を取り去った大豆の枝。)が加わる』とある。

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