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2016/10/11

私の創作体験   梅崎春生

 

「創作体験」と題したが、実のところ、何を書けばいいのか、何を書きたいのか、はっきり判らない。作品は作品だけ出すもので、その体験を語るのは、蛇足のような気がする。蛇足を通り過ぎて、マイナスにもなりかねない。出来るだけマイナスにならないように、手探りで、創作体験の内側からでなく、外側から書いて見ようと思う。やはり個々の作品に即した方が書き易いから、まず「日の果て」について。「日の果て」をえらんだのは、外的な状況において、これが私の作品中もっとも有為転変に富んでいるからだ。

 昭和二一年九月、「素直」という季刊誌が発行され、それに私の「桜島」という作品が掲載された。

 その翌月に、「新生」という雑誌から、小説を書けと言ってきた。

「新生」というのは、終戦後まっさきに発行された綜合雑誌で、二年ぐらいで潰れたけれども、当時はたいへんな勢いで、派手な雑誌であった。「中央公論」や「改造」はまだ復刊されていなかったし、まったくラグビーの独走と言った感じの雑誌であった。

 そこで私は一〇日ほどかかって「独楽(こま)」という作品を書いた。この作品が「日の果て」の原型である。枚数は四六枚だ。しかし書き終えて、この作品は私の意にみたなかった。それでも私は「独楽」をたずさえて、「新生」の編集長の桔梗利一を訪い、意にみたないが一応お渡しする、と言って原稿を手渡した。(ここらの心理、今考えても、自分ながら不可解也。)桔梗編集長はそれを一読し、貴方も意にみたないだろうが当方の意にもみたず、と原稿を私に返却した。すなわち私はとぼとぼと帰宅し、「独楽」を机の引出しの底にしまい込んだ。

 その年の末、大地書房(この出版社も今はなし)から発行されている××(名前を今どうしても思い出せない)という雑誌から、小説を書けと言ってきた。それも一〇〇枚程度のものという注文である。

 私は「独楽」を書き直して、引き延ばして一〇〇枚にすることを考えた。そして直ちにその作業にとりかかった。

 

「独楽」のフィリッピン戦場の題材は、フィリッピンからの復員者の話を聞き、三〇分ほどメモを取り、それにいろいろと変形を加えて、小説に仕立てたものである。

 書き直すについては、更に変形を加え、小事件を書き足す必要に迫られた。そうしないと、とても一〇〇枚にはならない。

 今これを書くにあたって、四六枚の旧稿を戸棚から出して読み返して、いろいろ感慨もあり興味も深かった。一〇年も前に書いた旧稿だから、読み返してもそれほど自分にくっついていない。他人の原稿を読んでいるというほどまでには行かないが、半分ぐらいは他人の原稿になりかかっている。私の頭にあるのは「日の果て」の残像だから、旧稿「独楽」はひどく簡略に感じられる。

「独楽」の主人公は、「日の果て」とちがって「私」になっている。「私」が部隊長の命令をうけて、花田軍医を射殺に行く。矢野軍曹というのをつれて行くことになっている。

「日の果て」においては、主人公は途中で自分も逃亡の決意を固めるのだが、「独楽」ではそうでない。射殺しに行くことへの心理や情緒の動揺はあるが、結局花田軍医に追いついて、ピストルを擬し、

「銃殺! 大隊長命令!」

 と叫んで、いきなり射殺してしまう。その揚句、女から射たれる。

「矢野が大声で私の名を呼ぶのを、はるかなもののように聞きながら、私は次第に気が遠くなって行った」

「独楽」の末尾は、こんな文章で終っている。

 一〇〇枚に引き延ばすべく改作するに当って、主人公の逃亡決意を設定することによって、作品のねらいは大きく転換した。(それが成功か不成功かは別として)

 高城伍長(矢野軍曹)が一度主人公と訣別し、また考え直して行動を共にする。そういう設定で、主人公と伍長の心理のからみあいや、そんなところで枚数をかせいだ点が、新旧両作を見比べると、歴然としている。

 文章も「日の果て」の方が、前作よりも、当然のことながら描写がこまかくなっている。あるいはくどくなっている。

 花田軍医のいるニッパ小屋に行きつくと、軍医は東海岸に出発したあとで、そこに狂者がいて讃美歌をうたっている。これは両作とも同じだが、「日の果て」ではその狂者が女であるのに対し、「独楽」では男である。シャツ一枚で下半身は裸の、ぼうぼう髭の男が「見よや十字の旗高し」という歌をうたっている。「日の果て」では、

「狂った女はきょとんとした顔を上げて宇治を眺めたが、ふいにごろりと横になり脚を立てた。裾から見ると股の部分が目にしみるほど白い」

 旧作「独楽」では、

「狂った男はきょとんとした顔付きで私を見ていたが、ふいにごろりと横になり、しきりに毛布の端をむしりながらぶつぶつ呟き出した。日の当った股の部分は鱗をつけたような垢である」

 旧作の方がよかったかも知れない。そのきちがい男を、どうしてきちがい女に書き直したか、その気持やねらいはもう私の記憶にない。技術や操作の関係でそうなったので、あまり高遠な文学精神から出たものではなかろう。ここらで色気をつけてやれと、考えたのかも知れないとも思う。

 二人は途中で司令部を通るのだが、「日の果て」では自分も逃亡の予定だという関係上、司令部には立ち寄らない。伍長にピストルをつきつけながら通過してしまう。

「独楽」では、司令部に厭な性格の副官がいるから、敬遠して立ち寄らないという形になっている。

 まあいろいろそんな具合にして、改変したりつけ加えたりして、旧作「独楽」の四六枚が新作「独楽」の一〇八枚に変貌した。

「独楽」という題名は、主人公が女からピストルでねらわれている短い時間に、独楽の廻っている幻想が瞼のうらにあらわれる、そこから振ったものだ。「日の果て」にはその幻想はない。

 四六枚を一〇八枚に引き延ばして、作品としての質が向上したかどうか、私は今でも疑問に思っている。

 とにかくそれを、大地書房の××誌に持って行った。

 翌年になり、新作「独楽」が掲載される間際になって、××は廃刊となり、ふたたび原稿は私の手に戻ってきた。書き直しても戻ってくるという点において、私は相当に自信を喪失した。

 昭和二二年春、桜井書店(これも今はなし)から『桜島』という単行本を出すことになり、発表した作品だけでは枚数が足りなかったから、この「独楽」を未発表のまま入れることにした。だから原稿はしばらく桜井の編集室に置かれていたが、そのうちに私と桜井書店の間に感情のごたごたがおこり、出版は取り止めになって、また「独楽」は私の手元に戻ってきた。

 それから「独楽」は、鎌倉文庫発行の「人間」の編集部に二カ月ほど預けられた。しかし編集部の誰もこの原稿を読まなかったらしい。「日の果て」発表直後、鎌倉文庫勤務の厳谷大四が賞めて呉れたから、あれはお宅に二カ月ほど預けてあったのだと言うと、彼は意外そうな表情で、そんな原稿見たことない、という意味の答えをした。

 

 六月頃、へんな男が私の家を訪ねてきた。

 新作家の創作シリーズみたいなものを出したい。枚数は一〇〇枚から一五〇枚まで。文庫本形式で出したいが、原稿はあるか?

 それで私は「独楽」の話をした。これは未発表のものであるがよろしいか?

 男曰く。未発表、なおのこと結構なり。

 私曰く。では渡すが、実は今金に因っているから、引換えに印税の半分をよこせ。

 男曰く。OKOK来週の月曜日に金を渡しましょう。

 私は早速鎌倉文庫におもむき、「独楽」を取り返し、その男に渡した。

 次の月曜日、私はその男に電話をかけた。男曰く、今週はちょっと具合が悪いから、来週の月曜日にして呉れ。

 さらに次の月曜日、私はふたたびその男に電話をかけた。男曰く、今週もちょっと金繰りがつかないから、来週にして呉れ。

 さらに次の月曜日、電話をかけた。返事は前と同じ。

 さらに次の月曜日、結果は同じ。

 

 青磁社勤務の那須国雄が私を訪ねてきた。今度「個性」という文芸雑誌を出すことになった。時に聞けば一〇〇枚の原稿が手元にあるそうだが、一応見せて呉れないか、という申し入れである。

 私は早速「独楽」が行っているなんとか出版社におもむき、原稿をとり返して来た。出版社ではすぐに返してくれた。

 例のへんな男は、この出版社につとめているのではなかった。原稿ブローカーであったらしいことが判った。

 私は「独楽」を那須国雄に渡した。

 それから青磁社の内にごたごたがおこり、片山修三、那須国雄は青磁社を離れ、新たに「思索社」というのを超した。私の「独楽」は「個性」ではなく「思索」に掲載されることになった。

 片山修三は私に言った。「独楽」を読んだが、最後の独楽の幻想のところがいかにもまずい。あれは書き改めたがよかろう。

 すなわち私はその部分に手を入れ、削除し、書き直した。書き直したからには、「独楽」という題名は成立しないので、あれこれ考えた揚句「日の果て」という題名にした。

「日の果て」は昭和二二年九月、「思索」秋季号に発表された。初稿を書いて丁度一年目である。

 原稿料はたしか一枚五〇円で、合計五〇〇〇円ばかり貰った記憶がある。

 しかしこの作品はその後、芝居や映画になり、単行本や文庫に入ったりしたので、現在のところ、はっきりした計算ではないが、一枚一万円ぐらいにはついていると思う。よく訓練された泥棒猫のように「日の果て」はあちこちにかけずり廻り、原作料や印税をくわえてはかけ戻ってくるので、その点において私はこの作品を大いに徳としているのである。

 その後、だんだん私は書けなくなってきた。

 行き詰ったと言ってもよろしい。

 その行き詰りの原因の一半は、私の文体にもあった。自分の文体の重さが、私を書けなくした。

 たとえば「日の果て」の文体は、文体のための文体と言ってもいいもので、その規格にあてはめて小説を書くためには、多少とも自己を歪めねばならぬ。

 私は小説を書きながら、どうも自分は本当のことを書いていない、と感じるようになってきた。うそを書いている、デッチ上げをやっている、その意識が私の筆をさらに重くした。

 昭和二四、二五年がその時期に当る。つまり私は、自分流に設定した「小説」というものの枠や形式に、しばられていたわけだ。

 その頃「群像」から長篇を依頼され、「日時計」というのを書き出した。この作品は途中で「殺生石」という題にあらため、二三カ月おきに飛び飛びに掲載して、四回をもってついに中絶の止むなきに到った。「群像」編集部でもこれには難渋したらしいが、私自身も大いに難渋した。

 長篇に失敗したことで、私はますます自信を喪失した。

 昭和二六年になった。この年の夏「新潮」から一〇〇枚程度のものを書けという依頼があった。

 その頃も私はなかなか書けなかったけれども、テーマはいくつか持っていた。テーマがあっても、それが小説の形にならなかったのだ。

 そのテーマの一つをえらんで、私は「新潮」の作品を書き始めた。二人の夜学の教師の心理的葛藤がそのテーマであった。

 私は一〇枚書いては破り、また初めから書き直し、一五枚書いて筆がとまり、暗然としてひっくり返った。

 書くことはちゃんとすみずみまできまっているのに、いざ文章にして見ると、小説にはならないのである。小説家失格だ。

 ひっくり返って、自棄(やけ)になり、そこらにころがっている童話本を開いて、童話をいくつか読んでいるうちに、ひとつこの童話の形式で小説を書いたらどうだろう、ということを考えついた。

 童話という形は非常に自由である。

 童話、説話体、あるいは講談の語り口。

 こういう形式は、たとえば筋を飛躍させるために、在来の私の小説形式では大へんな技術的困難を極めるところを、「さてお話し変りまして」という一行を入れることだけで、簡単にかたがついてしまう。さっと別の話にうつれるわけだ。

 この形式をとって、私は「新潮」の小説を、ほぼ一週間ばかりで、割にらくらくと書き上げた。「山名の場合」という小説だ。書き終えてこの形式が、予想通り柔軟にして使いやすく、どの人物の心理にも入って行けるし、同時に客観的な描写も出来る、便利極まる形式であることを認識した。

 らくらくと書けたということと、割に評判がよかったということで、私はやや自信をとり戻した。

 そしてつづいて「群像」に「Sの背中」という小説を書いた。

 これはも一度その形式を実験するつもりで、題材は間に合わせに猿蟹(さるかに)合戦からとった。猿蟹合戦を現代の話にそっくり置きかえたものだ。

 猿沢佐介という男と、蟹江四郎という男、これがある飲屋の女(柿の種みたいに色が浅黒くて瓜実(うりざね)顔の)をはり合う。結局その飲屋の猿沢の借金を引き受けることによって、蟹江はその女を獲得して女房にする。その女房の死後、女房の日記で、女房と猿沢が姦通していたらしいという疑いにとらわれ、復讐の念を持つにいたる。

 白井(ウス)蜂須賀(ハチ)小栗(クリ)などをかたらって復讐というところまで行かずして、締切りが来たものだから、中途半端なところで打切って、そのまま発表した。この作品も割にすらすらと行った。

 これも割に好評判であったが、これが現代版猿蟹合戦だと読んで呉れたのは一人もなかった。名前の頭文字などで、あきらかにそれと打ち出しているにもかかわらず、誰もそれと読んで呉れなかったことが、私をおどろかせた。私の納得出来ないような批評が多かった。

 こちらが企画し表現した通りには読者は受取らない、ということをおそまきながら私は学んだ。そのことは私の内部にあるものを更に柔軟にした。

 そしてつづいて同じ形式で、「新潮」に「春の月」というのを書いた。筆の速さはますます好調で、この作品の後半の五五枚は一昼夜で書いた。

 同じ形式で三つも書いたものだから、私はこの方法において大いに習熟したが、実のところを言うと少々倦きた。

 それにマンネリズムにおち入る危険性もあった。小出しにするにしくはなし、と思ったが、やはり今でも大出しというほどではないが、中出しぐらいにしている。昔の方法と今の方法とないまぜにして出している。

 もうそろそろ新しい方法をあみ出したいと思うが、思うはやすく行うは難し!

 

 昭和二九年「群像」に「砂時計」という長篇を書き始めた。

 前に「日時計」という長篇で失敗したので、今度は「砂時計」で行こうというわけだ。「日時計」だの「砂時計」だの、どんな小説にもあてはまる巾の広い題名である。時間の経過を示すものと解釈すればいいのだ。

 そんなあやふやな気持で題名をえらぶのかと叱られそうだが、連載長篇というものは書き下し長篇とちがって、書き始めと同時に題をつけねばならない。

 書き始めて、あとあとの筆の進行で、予定がどんなに変るか判らないのに、題名をつけるなんてむちゃな話である。巾の広い、含みの多い題名をつけるにしくはない。

 短篇の場合でも、すっかり書き終えて、さて題は何としようと考え込むことが、私にはしばしばである。

 書き始めると同時に題がきまっているなんて、私の場合には稀有のことである。書き終えて無理矢理にくっつけるものだから、私の題のつけ方はいかにもまずい。自分で見ても苦しまぎれという感じがする。

 作曲家のように、自分の作品に「作品第何番」とつけるのが、一番いいと思うのだが、今までの慣習上、小説には題がないと困ることになっている。

 絵画の方は、題名は割に意味が重く、題名が絵の説明をするという働きを持っている。

 小説は、題があろうとなかろうと、内容がすべてを語っているのだから、どうも蛇足のような気がして仕方がない。

「砂時計」も今までのところ(昭和三〇年一月現在)どうにか書きついで来たが、もう砂が底からぽろぽろ落ちて、残りすくなになってきた。しかしこの作品は今継続中だから、これについて語るのは止めたい。この作品におけるさまざまの失敗、見込み違いは、完成の後に書きたいと思う。

 

[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年二月刊の岩波講座『文学の創造と鑑賞』第四巻に初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「日の果て」後に出るように、最終的には昭和二二(一九四七)年九月刊の季刊『思索』第七号(思索社発行)に初出し、翌年二月に同社から出た単行本「日の果て」に再録された。フィリピンのミンドロ島の戦い(昭和一九(一九四四)年十二月十三日から二月下旬にかけて日本軍とアメリカ軍によりフィリピン北部のミンドロ島で行われた戦闘)を舞台としたもので、本篇で梅崎春生自身が述べている通り、春生自身の戦争体験(彼自身は外地の戦争体験は皆無)に基づくものではない。完全な創作である。以下、エンディングの相違などは「青空文庫」の「日の果て」(全篇掲載)で比較して戴きたい。

「桜島」私は全篇電子化とマニアック全注釈版『梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注』(ブログ)及び同PDF縦書版を既に公開している。

『「新生」という雑誌』終戦直後の昭和二〇(一九四五)年十一月に新生社から発行された月刊総合雑誌。岩淵辰雄・馬場恒吾・青野季吉・正宗白鳥ら、創刊号は戦時中、不遇だった自由主義者が名を連ねたもので、仮綴・三十二頁・定価一円二十銭であったが、忽ち十三万部を売り尽くした。国民が如何に自由な言論に飢えていたかを如実に物語る出来事であったという。所謂、「大家」を動員して創作も毎号掲載したが、無名の青年青山虎之助が主宰する同社は、敗戦直後に続出した多くの出版社同様、長続きせず、『新生』も二年後の一九四七年二月・三月合併号で挫折、翌年一九四八年一月から復刊号を七冊出したところで廃刊となった(平凡社「世界大百科事典」の海老原光義氏の解説に拠った)。

「新生」というのは、終戦後まっさきに発行された綜合雑誌で、二年ぐらいで潰れたけれども、当時はたいへんな勢いで、派手な雑誌であった。「中央公論」や「改造」はまだ復刊されていなかったし、まったくラグビーの独走と言った感じの雑誌であった。

「桔梗利一」(明治四〇(一九〇七)年~昭和四〇(一九七五)年)漫画家清水崑を世に出したりした、編集者としてはかなり有名な人物らしい。

「その年の末、大地書房(この出版社も今はなし)から発行されている××(名前を今どうしても思い出せない)という雑誌」これは大地書房(後に「日本小説社」)発行の日本初の初の中間小説雑誌とされる月刊文芸雑誌『日本小説(にっぽんしょうせつ)』であろう。昭和二二(一九四七)年三月創刊で二年後の一九四九年終刊・倒産している。詳しくはウィキの「日本小説」を参照されたい。

「花田軍医」「日の果て」でも主人公「宇治中尉」が射殺命令を受けるターゲットの名前は同じである。

「高城伍長(矢野軍曹)」が改稿「独楽」、即ち、決定稿「日の果て」で宇治が連れて行くのが「高城伍長」で、原「独楽」のそれが「矢野軍曹」。

「ニッパ小屋」単子葉植物綱 Monocotyledoneae ヤシ目 Arecales ヤシ科 Arecaceae ニッパヤシ属 Nypa ニッパヤシ Nypa fruticans の葉で葺いた小屋。ウィキの「ニッパヤシ」によれば、『葉は軽く繊維質で丈夫であるため、植生が豊富な地域では屋根材・壁材として利用される。特にフィリピンでは伝統的に、竹を骨組みとして葉を編みこんだもの(nipa shingle)を作り、屋根材や壁材として用い、伝統的家屋(タガログ語:バハイクボ(bahay kubo))、(英語:ニパハット(nipa hut))を建設する』。『ニッパヤシの屋根は風雨に強い上風通しが良く、特に台風の多く湿度が高い熱帯アジアの風土に適している』とある。

『鎌倉文庫発行の「人間」』先と同じく平凡社「世界大百科事典」の海老原光義氏の解説によれば、『人間』は昭和二一(一九四六)年一月に鎌倉文庫から発行された月刊文芸雑誌で、大正期に里見弴や久米正雄らが発刊した同人雑誌『人間』の誌名を踏襲して創刊したものである。戦時中に久米正雄・川端康成・高見順ら、鎌倉在住の作家が蔵書を持ち寄って鎌倉で開業した貸本屋が「鎌倉文庫」の前身で、敗戦後は製紙会社と提携して出版社となり、社を東京に移して一時、活発な出版活動を行った。特に、木村徳三を編集長とする『人間』は多くの新人に舞台を提供し、戦後文学の生誕に大きな役割を果たした。母体の経営破綻によって昭和二五(一九五〇)年一月に発行元が「目黒書店」に移ったが、翌一九五一年の八月号を以って廃刊した。全六十八冊(別冊三冊)。

「厳谷大四」(いわやだいし 大正四(一九一五)年~平成一八(二〇〇六)年)は文芸評論家。童話作家巌谷小波の四男。東京生まれ。早稲田大学英文科卒。戦時中、「日本文学報国会」で事務をとり、戦後、「鎌倉文庫」の編集者から『文藝』や『週刊読書人』の編集長を務め、昭和四〇(一九六五)年から自身も文筆活動に入った。文芸編集者としての経験から文壇の裏面史に詳しく、また、次兄巌谷栄二は児童文学研究家であり、彼の息子(四の甥)は、かのフランス文学者巌谷国士(いわやくにお)である。

「那須国雄」(大正六(一九一七)年~)は作家・編集者・評論家。ウィキの「那須国雄」によれば、『東京生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。太平洋戦争時中ヴェトナムの日本大使館に勤務。戦後、『個性』『人間』編集次長』。昭和二四(一九四九)年、『「還らざる旅路」で芥川賞候補。フランス語の翻訳などしたのち、アフリカ評論家となる』とある。

「片山修三」(大正四(一九一五)年~昭和五七(一九八二)年)兵庫県西宮市出身。慶応義塾大学文学部中退。戦前は横光利一に師事して『三田文学』に小説を発表、戦後は小説を断念し、昭和二一(一九四六)年『思索』を編集発行、さらに思索社社長となって経営に勤めるとともに『哲学』『個性』といった雑誌を編集した(日本アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。

「この作品はその後、芝居や映画になり」私は映画しか知らない。八木プロダクション及び青年俳優クラブの昭和二九(一九五四)年の製作で、山本薩夫監督・宇治中尉を鶴田浩二が、高城伍長を原保美が、花田軍医中尉を岡田英次が演じた。

『昭和二四、二五年がその時期に当る。つまり私は、自分流に設定した「小説」というものの枠や形式に、しばられていたわけだ』ここに示された時期、梅崎春生は昭和二四(一九四九)年三月に月曜書房から単行本「桜島」を再刊、五月に「黄色い日々」(『新潮』)、八月に「ルネタの市民兵」(『文芸春秋』)を発表、十月に単行本の短編集『ルネタの市民兵』(月曜書房)から刊行、翌昭和二五(一九五〇)年には、三月に後に出る「日時計」(『群像』)に発表、五月に単行本「限りなき舞踏」(小山書店)を刊行、『群像』七月号に「日時計」の続編を「殺生石」というタイトルで発表した。それが「Ⅲ」まで続き、同作は九月号・十二月号『群像』に隔月連載された。その「殺生石(Ⅲ)」の末尾には『第一部了』と記しており、作者は書き継ぐ意志を持っていたらしいが、続編は春生の逝去に至るまで遂に書かれることはなかった。この七月からは「南風」を『婦人画報』に連載(翌年五月完結)、八月に「無名颱風」を『別冊・文芸春秋』、十一月に「庭の眺め」(『新潮』)に発表、同月、短編集「黒い花」(月曜書房)を刊行している(この年の秋には「黒い花」が松竹で大曾根辰夫監督で映画化され、芸術祭参加作品となっている。以上は底本の別巻年譜に拠った)。

「山名の場合」昭和二六(一九五一)年十一月号『新潮』初出。先に書かれた初期構想の「二人の夜学の教師の心理的葛藤」「のテーマ」そのままに生かされた作である。梅崎春生の成人向け作品でありながら、敬体書かれた確かに「童話」を思わせる文体で書かれてある。

「Sの背中」昭和二七(一九五二)年一月号『群像』初出。「青空文庫」のこちらで全篇を読める。

「春の月」昭和二七(一九五二)年三月号『新潮』初出。佐藤紫寿氏のブログ「文学・まったり・ウェブログ」の「#5 梅崎春生 『春の月』 ~月ニ、化カサレタ?~」のレビューがよく書けている。

「砂時計」昭和二九(一九五四)年八月号から翌年七月号『群像』連載が初出。Otosimono氏のブログ「おしゃべりのあとさき」の『梅崎春生「砂時計」』のレビューがよく書けている。これは連載終了の二ヶ月後の昭和三〇(一九五五)年九月に講談社から単行本化されており、ここでの春生は少し、不安を字背に感じさせているが、構成上の無理は感じられるものの、まずは完結した梅崎春生の数少ない(唯一のと言ってもよいか)長篇小説とは言えるものである。]

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