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2016/10/29

譚海 卷之二 水戸栗田八郎兵衞事

譚海 卷之二

 

水戸栗田八郎兵衞事

○水戸家中に栗田八郎兵衞と云(いふ)人あり。譽田善光(よだぜんこう)の後胤也。黃門光圀卿家系御糺し無ㇾ疑(うたがひなき)事故、御抱(おかかへ)被ㇾ成(なられ)候。然しながら善光の子孫と云(いふ)斗(ばかり)にて何の藝術もなき家故、五十石俸祿玉(たま)はり、代々無役(むやく)にて水戸にあり。善光寺の事に拘りたる事あれば、いつにても進退自由成(なる)事免許也。善光寺開帳など有(ある)時は、詰切(つめきり)子細なしとぞ。元來栗田は信州の在名(ざいめい)なればかく呼來(よびきた)る也。其家にも往古より持傳(もちつた)へたる善光寺如來同作の本尊あり。家に佛間を別に構(かまへ)安置する也。此栗田代々一人づつ出家にする子供出來る、ふしぎの事也。養子或は娘などに遣したるがもどさるゝ事あれば、如來の御奉公人也とて、再(ふたたび)人のもとへ出す事なく、出家尼になし、家の本尊の香花(かうげ)をとらする事にする也と。

[やぶちゃん注:「栗田八郎兵衞」不詳であるが、実は「流れ星」氏のサイト「干潟八万石」の「こぼれ話」の銚子街道大田宿(太田宿の誤りと思われる。本文はそうなっている。現在の千葉県旭市内か。)の中の「水戸黄門一行が宿泊」の条に『徳川光圀が泊まる本陣を八郎兵衛家におき、家老栗田八郎兵衛他』四十『人を四郎兵衛宅に、側用人木村権三右衛門他』十五『人を市郎兵衛宅にというように、身分階級に応じて大田村、成田村の民家に振り分けた』と出る人物と同一人かと思った(しかし、当時、二十八万石の常陸水戸藩の家老で五十石とは少な過ぎるから違うのかなぁ?)。なお、幕末の水戸藩士に栗田八郎兵衛寛剛(天保二(一八三一)年~元治二(一八六五)年)なる者がおり、奥右筆などを勤め、元治元年の天狗党の乱では執政の榊原新左衛門に従い、松平頼徳軍とともに保守派や幕府軍と闘い、投降、下総古河で切腹した人物がいるが(講談社「日本人名大辞典」に拠る)、この人物の末裔かも知れぬ。

「譽田善光」底本の竹内氏注に、『信州善光寺の開創者本田善光、難波の堀江から仏像を拾い、善光寺を開創した話は名高く、戦国期に善光寺の別当として活躍した栗田氏はその末流と伝えていた。栗田は長野市内の地名。なお、善光寺は特定の宗旨に属する寺ではなく、近世は天台宗の大勧進と浄土宗の大本願(尼寺)とが、傘下の僧坊をしたがえて、協同で奉仕し、そのほか寺務に仕える妻戸方の僧坊もあった甲胃師の家名。初代の宗介は名工として名高く、平安末期近衛天皇から明珍の名を賜ったといい、中世を経て近世に及ぶが、特に十代宗安(室町期)や十七代信家(戦国期)が名匠として知られている』とある。「朝日日本歴史人物事典」の「本田善光」によれば、『伝説上の人物』で、欽明一三(五五二)年、百済の聖明王から献上された、天竺の月蓋長者作とされる阿弥陀如来像が悪疫流行のために物部氏によって難波の堀江に流し捨てられたが、都にのぼっていたこの善光が、そこを通ると、阿弥陀仏が水の中から飛び出し、背中におぶさったという。そこで彼は信濃国までそれを背負って行き、自分の屋敷に安置した後、阿弥陀の霊告によって、水内(みのち)郡芋井(いもい)郷(現在の長野市内)に移し、後に如来堂を建立して祭ったと伝えられる。それが長野市善光寺の古来より秘仏とされる本尊である舟形光背の阿弥陀三尊像であるとする。

「黃門光圀卿家系御糺し無ㇾ疑(うたがひなき)事故」水戸藩第二代藩主徳川光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年)自らが、家系を厳正に調査し、本多(誉田)善光の後裔で間違いなし、決したによって。

「藝術」才知や武術の覚え。

「善光寺の事に拘りたる事あれば、いつにても進退自由成(なる)事免許也」善光寺の行事その他の寺務に関わらねばならぬ折には、栗田家の当主は、いつでも水戸を離れてそれに従事すること、お構いなしという免許を光圀公より頂戴しているということ。但し、本「譚海」の著者津村淙庵(元文元(一七三六)年?~文化三(一八〇六)年)の存命年中は、常陸国水戸藩は後の第五代藩主徳川宗翰(むねもと)・第六代徳川治保(はるもり)・第七代徳川治紀(はるとし)の治世であるので注意されたい。

「善光寺開帳」ウィキの「善光寺によれば、『開帳には、寺がある場所で開催する「居開帳」の他に、大都市に出向いて開催する「出開帳」があった。出開帳には、江戸、京、大坂で開催する「三都開帳」や諸国を回る「回国開帳」がある。何れも、境内堂社の造営修復費用を賄うための、一種の募金事業として行われた』とあり、『正式名は、善光寺前立本尊御開帳』と言い、現行では七年目ごとに一度(開帳の年を一年目と数えるため、六年間隔の丑年と未年)、『秘仏の本尊の代りである「前立本尊」が開帳される。前立本尊は本堂の脇にある天台宗別格寺院の大勧進に安置され、中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩の「一光三尊阿弥陀如来」となっている。開帳の始まる前に「奉行」に任命された者が、前立本尊を担いで本堂の中まで運ぶ』とあるが、「御開帳の歴史」の項によると、『居開帳は現在では丑年と未年に開催されているが、古くは一定間隔での開催ではなく、境内堂社の造営や落慶に合わせ』、『寺の都合により』、『開催されていた』とある(下線やぶちゃん)。そこにある「居開帳」に限ってみるなら、津村の存命中に行われたのは、寛保二(一七四二)年から文化元(一八〇四)年までの九回で、因みに、文化元年を以って「出開帳」は終わっている。なお、この本文の「善光寺開帳」には「出開帳」も含まれると考えてよいと私は判断する。とすれば、かなりの頻度で水戸外へ彼は自由に出ていたものと思われ、或いは、そうした名目で、この栗田八郎兵衛やその後継者らは、実は密かに幕府や他藩の政情を探っていたのではあるまいかとも考え得るのである。

「詰切子細なしとぞ」開帳の場に開帳の間中、ずっと詰めていても問題ないとのことである。これは藩士としては、破格の扱いであろう。さればこそ、私は前の注の最後のような隠密行動を疑うのである。

「元來栗田は信州の在名(ざいめい)」ウィキの「栗田氏によれば、『信濃栗田氏は、北信地方の武家氏族のひとつ。本姓は清和源氏の一系統の河内源氏頼清流村上氏の支流で、村上為国の子寛覚が顕光寺(延暦寺系山門派)別当となり信濃国水内郡(のち上水内郡)栗田村に住居して栗田氏となった。鎌倉時代から室町時代までは善光寺(園城寺系寺門派)別当職をも世襲し、犬猿の関係にあった両社を支配下に置く有力国人となる』とあって、『江戸時代には、庄内藩、水戸藩、松本藩とそれぞれに仕えた』と確かにあるのだが、別に「常陸国の栗田氏」を設け、『本姓は平氏。家系は桓武天皇を祖とする桓武平氏で、常陸国那珂郡の名族。川崎氏の支流にあたり、下小瀬の古城主・川崎次郎の後裔と伝える。茨城郡六地蔵過去帳に栗田又次郎の名を載せる。家紋は丸に二つ引き、女紋としては九曜の星を用いる。水戸藩の栗田寛』(ひろし 天保六(一八三五)年~明治三二(一八九九)年:幕末の水戸藩に仕えた国学者で歴史学者で、後に東京帝国大学教授となった)『もこの一族の末裔という』。『なお、佐竹氏の家臣としてもこの栗田氏の名が見える』ともあるのである。ますます怪しいぞ!? 善光寺系の栗田氏と、この水戸藩の栗田氏は実は違うのではないか?

「養子或は娘などに遣したるが」養子としたり、或いは娘で他家へ嫁入りした者。

「もどさるゝ事あれば」何らの理由により、養家から戻されたり、婚家から離縁されたりすることがあった場合には。

「出家尼になし」必ず、男子なら出家させて僧となし、女子なら尼にさせ。

「家の本尊の香花(かうげ)をとらする事にする」実家のその伝来の本尊の香華を供する役で一生を終わらせることとしている。それって、結構、残酷でしょ。或いはそうなるからね、と念を押して養子や嫁に出して、出戻ることがないようにしていたのかもね。]

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