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2016/10/15

諸國百物語卷之三 十五 備前の國うき田の後家まん氣の事

   十五 備前の國うき田(た)の後家(ごけ)まん氣の事

 

 備前にうき田の後家とて何がしの女ばうありけるが、あるよのつれづれに、舞をまわせてきかれけるが、たかだちをまふとて、べんけいわりたておんまわし、と云ふ所をきゝて、後家、申されけるは、

「べんけい一人にはさやうにはせられまじきものを」

と、わらひて、坪のうちなるせつちんへ行灯(あんどう)をとぼし、用をかなへにゆかれけるに、せつちんの戸をひらきみれば、十二、三なる、かぶろ、よこさまにいねてゐけるが、後家を見てにこにことわらふ。後家、もとより心ふてきなる人なれば、ちつともをくせず、ふみこへ、いかにもゆるゆると用をかなへ、戸のかけがねまでかけ、心しづかに二、三げんほど、たちかへりければ、あとにて、からからと、わらふこゑ、耳につきぬくやうにきこへて、うしろより、ひきたをすとおぼへしが、そのまゝそこに、たをれふしぬ。人々おどろき、はしり出でてみれば、後家はいきたへゐたり。やうやうとして、よびいけければ、氣つきて、有りし事どもかたりけると也。後家、あまりにまんきあるゆへ、天狗、しやうげをなしけると也。

 

[やぶちゃん注:「備前の國うき田(た)」備前国(現在の岡山県東部)の「うきた」と言えば、戦国大名宇喜多直家(享禄二(一五二九)年~天正一〇(一五八二)年)とその嫡男(次男)宇喜多秀家(元亀三(一五七二)年~明暦元(一六五五)年)。直家の継室は円融院(鷹取氏或いは三浦氏の出とも)。秀家の正妻は、かの前田利家の四女秀吉と寧々の養女であった豪姫(天正二(一五七四)年~寛永一一(一六三四)年)であるが、以下の幸若舞(こうわかまい)「高館」の初演記録から考えると、後者がモデルならんか。秀家は「関ヶ原の戦い」で石田三成ら西軍方に属していたために改易となり、秀家は島津氏に匿われて薩摩に潜伏したが、慶長七(一六〇二)年に島津が徳川家康に降ったため、秀家は助命を条件に引き渡され、息子二人とともに慶長一一(一六〇六)年に八丈島に流罪となった(そのまま二十八年後に島で死去)。宇喜多家の没落後、豪は養母寧々に仕えていたが、洗礼(洗礼名マリア)を受けた後の慶長一二(一六〇七)年頃には金沢に引取られ、金沢西町に住んだ(以上、豪の部分はウィキの「豪姫」に拠った)。

「まんき」「慢氣」。傲り昂ぶる心・傲慢なる気性。「思い上がり」や「慢心」の意。

「たかだち」「高館」。幸若舞の曲名であると同時に幸若舞の代表的作品。上演記録の初出は天文一四(一五四五)年(「言継卿記」)。源義経主従が奥州の高館で討手の軍勢を待ち受けながら開いた宴の最中(さなか)、熊野より鈴木三郎が到着、義経より佐藤兄弟の残した鎧を賜った鈴木は、携えた腹巻の由来を物語った上でこれを弟の亀井六郎に譲り、翌日の合戦では兄弟ともに奮戦して果てる。弁慶は舞を一番舞って、敵(かたき)の中を斬って回るが、やがて、痛手を負い、義経と辞世の歌を交わした後、衣川の辺りで立往生するという筋である(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「べんけいわりたておんまわし」東京大学附属図書館蔵の霞亭文庫版「高たち」で影印を見たが、箇所を同定出来ない。弁慶立往生の辺り(この辺)とは思われるのだが(まさにその挿絵が載る)。ここと名指して下さる識者の親切を是非とも冀うものである。

「坪」屋敷内の塀などで囲まれた坪庭。

「せつちん」「雪隱」。厠(かわや)。

「行灯(あんどう)」「あんどん」に同じい。

「とぼし」「點(とぼ)し」。

「用をかなへに」小用をなさんと。

「かぶろ」「禿」。狭義には子供の髪形の一つで、髪の末を切り揃えて、結ばないでものを指すが、その髪形の「子ども」を指す(或いは単に「子ども」の意でも用いる)。

「よこさまにいねてゐけるが」「橫樣に寢ねて居けるが」。

「心ふてきなる人」「心不敵なる人」。私がモデルと考える豪姫は洗礼を受けている。そういう意味でも、イエス・キリスト以外の、超自然のこうした怪異や変化を断じて恐れない「不敵の人」とも言えるのではあるまいか?

「をくせず」「臆せず」。

「ふみこへ」「踏み越え」。歴史的仮名遣は誤り。ふんずけちゃうとこが凄い!

「いかにもゆるゆると用をかなへ、戸のかけがねまでかけ」ここは「戸のかけがねまでかけ」、「いかにもゆるゆると用をかなへ」の順列であろう。

「心しづかに」何事もなかったように、平気な感じで厠を後にし。

「二三げん」「げん」は「間」。廁からの距離。三メートル六十四センチから五メートル四十五センチほど。

「あとにて」後ろの厠の方で。

「耳につきぬくやうにきこへて」「耳に突き拔く樣に聽こえて」。

「ひきたをすとおぼへしが」何者かが、むんずと後ろから摑んで老女を引き倒したかと感じた、その瞬間。

「たをれふしぬ」「倒れ臥しぬ」。

「いきたへゐたり」「息絶え居たり」。歴史的仮名遣は誤り。気絶していた。何度も言うが、「息絶える」とは一般には死ぬことではなく(死ぬことを指すケースもなくはないが、実は稀れ。但し、その状態から重体化して意識が戻らずに結局死ぬというケースは、ままある)、失神・人事不省を指す。

「やうやうとして」ここは「樣々として」でとり、いろいろと介抱しての謂いとする。

「よびいけければ」何度も注した通り、「呼び生け」は「大声で名を呼んで生き返らせる」意の動詞「呼び生く」。死に瀕した者や、臨終の直後に行う民俗的呪術行為である。

「天狗」ここは山野に跳梁する有力な妖怪といった謂いで用いていよう。

「しやうげ」「障礙」或いは「障碍」。「障害」に同じい。懲らしめのための意想外の「妨げ」の意。]

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