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2016/10/04

佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事

      堂の釜崩れの事

 

 正德三四年の頃、仁木彦右衞門、龜脇(かめわき)浦目付にて有(あり)しが、ならびの村、堂の釜といふ處、大きに崩(くずれ)たる跡見へければ、

「けしからぬ事哉(かな)」

と尋(たづね)侍りしに、德左衞門といふ祖父の語りしは、

「あの崩(くづれ)は、五十年餘りにや成侍(なりはべ)らん。我等、今年七十一に成(なり)候。二十斗(ばかり)の時成(なり)しに、此處は、田畑抔(など)も少(すくな)ければ、苫を織(おり)て、營(いとなみ)とし侍る也。堂釜村言(いふ)浜と申(まうす)は、居村の一里拾丁程也。そこに苫毛と申(まうし)て、茅などの多く生出(いきいで)候を取(とり)て、某(それがし)が如きもの、常の營(いとなみ)にいたし、小木湊へ持行(もちゆき)、茶煙草酒などと引替(ひきかへ)、用を足す事に候。然るに、五月半頃、日は忘れぬ。弐三人連にて、小木へ例の如く替物(かへもの)いたし、酒など打(うち)のみ歸りしに、小比叡境にて、日も早くれかゝり候得ば、道も急といへど、女連(づれ)も有(あり)て、笑ひ罵(のゝし)り、

『假令(たとひ)暮たりとて、いつもの道也(なり)』

など言て、堂の釜の上へ來れば、物のあいろも見へず。いつも通る道に巾弐三尺もやあらん、長は何百間か有けん、くろき物の見へければ、そつとどうてんして、弐三間も跡へとびのき、

『外の道より行(ゆき)なんか、是は世にいふなるうはゞみなん』

とおもひて、能(よく)々すかし見れば、嵩のひきく侍れば、ふしんにおもひ、手にて探り見れば、道の破さけたるなり。

『こはいかに』

と、まろび落(おち)て、たゞ一息に龜脇まで逃着(にげつ)き斯(かく)なん」

と語れば、皆人驚き侍りし。其夜丑みつ頃よりして、震動して、夥敷(おびたゞしき)音しければ、

「扨(さて)こそ、堂の釜の崩(くず)るならん」

と胸をひやしぬ。

「夜明(あけ)るやおそろし」

と、立出(たちいで)見れば、堂の釜の方は、黒雲覆ひて闇夜のごとくなり。扨晝方になりて震動も止(やみ)ければ、人々誘ひ、堂の釜へ行(ゆき)しに、元家の有(あり)し所も、崩(くづれ)返り、四五軒有し家、いづくへか行(ゆき)けん。海の方へ五町斗(ばかり)も築出(つきいだ)し、巾は三丁もや侍らん。中程に大なる池出來て、

「何ものか有(あら)ん」

と恐しく、村境の方は、別事なし。扨人々

「つゝがなしや」

と呼べば、家々より人出て、

「こなたへ」

と振けば、走り行(ゆき)て見るに、崩れたる處に住(すみ)たるもの共(ども)、子供までも、恙なく侍り。

「扨何として、助り給へる」

といへば、

「夕邊冷(すゞ)しく、山の鳴(なり)候得ば、夜起(おき)て、飯などたき、庭を見れば破裂候故、是(これ)わとぞんじ、飯など鍋ながら持出(もちいで)、諸道具持出し、子ども引連(ひきつれ)、逃(にげ)歸る跡、たゞ一崩(くづれ)に崩(くづれ)て、家もいづちへ行(ゆき)けん、哀、命ひろいしこそ」

と、嬉しがりき。扨、二三日も過(すぎ)て、所の童部など、崩跡へゆき、池の水も澄(すみ)候得(さうらへ)て、小き海魚とて多く見へければ、瓢など持(もち)て漉手にてとらへけるに、深き處には大きなる魚見へければ、近き里々にも、聞(きゝ)及び、某(なにがし)もまかりて、件(くだん)の魚、いくらともなくとり、持返りぬ。

「扨山の築出(つきいだ)したるは、何程にか」

と見れば、海の深き事、二十尋程もありし所は浪打際(うちぎは)となり、海の底は山となり、高く揚(あが)りしなり。扨海の底なる□高き所へあがり、日輪のさしければ、皆元々の出て、こ□の糸をさげたるやうに見べし。一兩日も過(すぎ)て、皆々腐(くさり)て近所へ寄られず、鼻をかゝへけるとなん。其跡の地は、田地となりて四五反もや侍らん。魚取(とり)し事も、汐は返りて常の水と成(なり)しとなん、其魚どもを持來て、あぶり煮て、喰(くひ)けれ共、土臭て喰(くは)れず。皆々捨しとなり。

「ほら貝大蛇など出(いで)しや」

と、所の(も)のにとへば、

「何か出(いで)けるやらん、怖しさにわけは見ざりし」

と語り侍りし。

 

[やぶちゃん注:□は判読不能字。本件は最早、怪談としてよりも、大規模な山崩れ(堂の釜地区の地表近くで発生した断層型地震か。ただの山崩れで五キロ離れた亀脇で体感振動するというのはちょっと考え難いように私には思われる)の貴重な実録記録として心して読むべきものである。

「堂の釜」現在の佐渡市小木堂釜(どうのかま)。先に出た佐渡市井坪の北隣り(真野湾寄り)。現在の航空写真を見ても平地がほとんどなく、山襞が大半を占めている。

「正徳三四年」一七一二~一七一五年。

「仁木彦右衞門」既出既注。佐渡奉行所地役人仁木彦右衛門秀勝。目付役で治部流の書をよくし、槍術に長じた。享保一六(一七三一)年没。

「龜脇(かめわき)」現在の佐渡市羽茂亀脇。小木堂釜から海岸線で三キロメートルほど、真野湾寄り。

「ならびの村」現在の小木堂釜と羽茂亀脇の間には、北に接して小比叡(こびえ:本文に出る)、その先に羽茂村山という地区が挟まっている。

「けしからぬ事哉(かな)」「不思議な場所だなあ。」。

「德左衞門」叙述から仁木彦右衛門秀勝の祖父ということになる。「今年七十一に成」るとあるから、この徳左衛門は一六四二(寛永十九)年から一六四五(正保二)年の間の生まれとなる。第三代将軍家光の治世である。

「五十年餘り」上記の正徳三・四年から五十余年前となると、一六六二(寛文元・二)年以前から一六六五(寛文五)年ぐらいまでとなる。第四代将軍徳川家綱の治世。

「苫」「とま」。菅(すげ) や茅(かや)などを粗く編んだ莚(むしろ)。和船や家屋を覆って雨露を凌ぐのに用いた。

「營(いとなみ)」生計(たつき)。

「堂釜村言(いふ)浜」「言浜」(いふはま)で砂浜の固有名詞か。現在の小木堂釜の北の部分から隣りの小比叡にかけては、島内有数の約四キロメートルにも及ぶ美しい砂浜海岸で素浜(すはま)海水浴場となっているから、この「言」は「素」の誤字のようにも見えるが、「いふ」とルビがあるから、或いはこの当時はこの現在の「素浜」の堂釜地区の砂浜を限定して「言浜」と呼称していたのかも知れない。

「居村の一里拾丁」「一里拾丁」五キロ十八メートルである。ここに「居村」とあるのは仁木の家からという謂いであろう。仁木彦右衛門秀勝が海上警備監視を担当する浦目付であったとすれば、現在の亀脇の瓜生崎辺りに住んでいたと考えると自然な気がし、そこからこの浜までは、現在の地図上の実測でも五キロ弱あるから、謂いとしては腑に落ちる。

「苫毛」このような地名は現存しない。

「某(それがし)が如きもの」この謂いからは仁木徳左衛門は農民か町人であったものと考えられる。

「茶煙草酒」「茶・煙草・酒」

「五月半頃」「半」は「なかば」。

「小比叡境」堂釜と「こびえ(の)さかひ」。ただ、小木から亀脇へ戻るルートでここに来てしまうと、堂釜は過ぎたことになる。不審。或いは後の「堂の釜の上」というのは、この小比叡との境の山の尾根のピークの謂いか。

「日も早くれかゝり」「ひも、はや、暮れかかり」。

「急」「きふ」。

「罵(のゝし)り」大声で楽しく騒ぎ合い。

「あいろ」「文色」「あやいろ」の転で、様子・区別・文目(あやめ)。

「巾弐三尺」幅が約六十一~九十一センチメートル。

「長は何百間」長さは一キロメートル以上。

「そつと」「慄(ぞ)つと」でとっておく。

「どうてん」「動顚」「動轉」。

「弐三間」約三・七~五・四五メートル。

「跡」「あと」。後ろ。

『外の道より行(ゆき)なんか、是は世にいふなるうはゞみなん』「……外(ほか)の道を通って行こうか……こ、これは……世に言うところの「蟒蛇(うわばみ)」に違いないぞ!……」。心内語。

「嵩のひきく侍れば」「嵩」は「かさ」で対象物の大きさ・量。特に体積を指す。「ひきく」は「低(ひき)く」で、物体にしては質感がなく、「地面より低く下にあるように判断されたので」の意。要は暗くて錯覚、則ち、逆転認識して、地面の上に長々とした物体が寝そべってているもの、と誤認したのである。

「破さけたるなり」「やぶれ裂けたるなり」。

「まろび落(おち)て」裂け目に落ちた、のではない。皆して転がるように、堂の釜の尾ねを走り下った、というのである。

「丑みつ」「丑滿つ」午前二時(過ぎ)頃。

「黒雲覆ひて闇夜のごとくなり」五月半ばであるから、本来なら晴れていれば、満月に近かったはずなのに、のニュアンスである。

「元家の」「もと、いへの」。

「五町」五百四十五・四五メートル。

「三丁」三百二十七・二七メートル。

「村境」堂釜と小比叡の村境(むらざかい)。この付近にも集落があったらしい。

「振けば」底本には「振」の右に編者注で『(招)』とある。

「破裂」「はりさけ」。

「童部」「わらはべ」と訓じておく。

「崩跡」「くづれあと」。海に押し出されて砂洲状に土砂が流出した部分。

「小き」「ちさき」と訓じておく。

「海魚」「うみざかな」と訓じておく。

「瓢」「ふすべ」。瓢簞。ヒョウタンを割って汲み取る柄杓にしたものであろう。

「漉手」「こして」或いは「すきて」。ヒョウタンの柄杓を静かに沈めて、紙を漉(す)くように掬(すく)いあげる漁法の意であろう。

「某(なにがし)」大人の男たちの謂いであろう。

もまかりて、件(くだん)の魚、いくらともなくとり、持返りぬ。

「二十尋」約三十~三十六メートルほどか。かなりの量の土砂流出があったことが判る。

程もありし所は浪打際(うちぎは)となり」

「皆元々の出て」この「元」は編者の補ったものであるが、ない方が意味が通ると思うのだが?

「こ□の糸をさげたるやうに見べし」不詳。子どもも大人も皆して、この流失して出来た場所の中央の池に釣り糸を垂らして、魚を盛んに釣り上げていたようだ、の謂いか?

「鼻をかゝへける」鼻を抓むほどの腐敗臭が池の周辺に漂っていたというのである。恐らくはその溜まり水は陸から流れ出した真水で、池が出来た当時は、前の海岸のそこに棲息していた根付きの海水魚や無脊椎動物が辛うじて生きていたものの、真水であることから、直ぐに死滅し、腐敗したものであろう。

「四五反」「反」は「たん」。三千九百六十七~四千九百五十九平方メートル。一反は三百坪で畳六百畳である。

「ほら貝」海産の大型巻貝である軟体動物門 Mollusca 腹足綱 Gastropoda 吸腔目 Sorbeoconcha フジツガイ科 Ranellidae ホラガイ属 Charonia ホラガイ Charonia tritonis のことである。山に年経た海の法螺貝が住んでおり、それが神通力を得て、龍となって昇天するという「出世螺(しゅっせぼら)」伝承は、実はかなりメジャーで日本各地に残っている。ウィキの「出世螺によれば、妖怪としての「出世螺」は天保一二(一八四一)年刊の奇談集桃山人(とうさんじん)著「絵本百物語」で知られ、『ホラガイが数千年を経て龍となったものとされる』。それに『よれば、深い山に住むホラガイが山に三千年、里に三千年、海に三千年住んだ末に龍に化身したものであり、山からこの出世螺が抜けた跡を「出世のほら」と呼び、静岡県湖西市の遠州今切れの渡しも法螺の抜けた跡とされている』。『江戸時代の外科医・武井周作の著書』「魚鑑」(うおかがみ:天保二(一八三一)刊)『によれば、深山の土中には巨大なホラガイが棲んでおり、これが山中に三千年住んだ末、大規模な山崩れと共に土の中から抜け出し、さらに里に三千年、海に三千年住んだ法螺が龍に化身したものが出世螺だという』。また、「絵本百物語」によれば、『螺の肉を食べると長生きをするといわれるが、実際にはそのようにして長生きした人の話は確認されていないため、これが由来となって嘘をつくことを「ほらをふく」というようになったともいう』。『ホラガイが龍に化身して山から抜け出すという話は、ほかの古典の文献や』近代の民間伝承にもある。「東京近郊名所図会」によると、明治五(一八七二)年八月二十五日午後に激しい雷雨があり、道灌山(現・荒川区西日暮里)の北川の崖が崩壊して穴跡ができ、山に千年住んだ法螺が抜けて昇天した跡だと評判になったという』。『この抜けた穴は明治末期まで残っており、付近にはほかにも抜け穴が多く、地面が急に陥没することもあったという』。『また日暮里の花見寺でも明治初期の夏、轟音とともに真っ黒いホラガイが土を蹴散らして空へ飛び去ったという伝承がある』。『しかしこの日暮里近辺の怪異の正体は、彰義隊が残した火薬、弾丸、地雷などの自然発火や、彼らが隠れ家として掘ってあった大穴の陥没といった現象がホラガイによるものと見なされたとの説もある』。松浦静山の「甲子夜話」(静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文政四(一八二一)年(十一月十七日甲子の夜)。因みに私は同書正字電子化ってい)によれば、『ホラガイは蛟の一種であり、山腹の土中に住んでいるものとの記述がある、山が震えて激しい雷雨が起きたときには山から飛び出すことがあり、これを法螺抜けといい、正体を見た者はいないが、地中から蛟が現れるものとされている』[やぶちゃん注:捜してみたが、この記載、どうしても見当たらない。ただ、正規論文にも引用されてはある。不審。]。『牟婁郡(現・和歌山県)の民俗誌』である雑賀貞次郎(さいがていじろう)著「牟婁口碑集」(昭和二(一九二七)年刊)に『よれば、かつて和歌山県西牟婁郡西富田村(現・白浜町)では村の大池から法螺が現れたとある。大水が発生した年、濁流の中に大きな黒い物体が流れて行くのを目撃した者がおり、その跡には池に洞窟ができていた。土地の口承ではホラガイは海、川、山でそれぞれ千年、』計三千年の『歳月を経た末、神通力を持つ大蛇と化すといい、そうしたホラガイが抜け出たものだといわれた』(下線やぶちゃん。実はこの徳左衛門の言葉の「ほら貝大蛇」という語の並びの親和性がよく判る)。『江戸時代には山岳を観察しながら暮していた山伏たちが、こうした山中の法螺抜けの伝説を広め、崖などに自然にできている穴を「洞(ほら)」と呼ぶのも法螺(ほら)が抜けた穴という意味であり、そこから抜けた法螺が龍となって昇天するなどと話して回ったが、その途方もない話を当時の人々は嘲笑し、このことから嘘をつくことを「ほらをふく」というようになったともいう』。『このような俗信はもとは中国から伝わったものらしく』、十七世紀初頭の明の謝肇淛(しゃちょうせい)撰の考証書「五雑組」には、『福建省で暴風のために洪水が起きた際、人々は蛟が出現したのだろうと語ったという記述がある』とある。また、本「佐渡怪談藻鹽草」の次の「法螺(ほら)貝の出(いで)しを見る事」も参考になる。

「わけ」「譯」。ある対象の状態や様子。]

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