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2016/10/26

譚海 卷之一 豆州大島幷八丈島の事

豆州大島幷八丈島の事

○伊豆國四郡と云は、元來豆州三部に大島一郡を合(あはせ)ていへる事也。豆州より大島へ七里、大島よりにい島ヘ七里、にい島より三宅島ヘ七里、三宅島よりかうづ島へ七里、かうづ島よりとしまへ七里也。としまの先にはだか島と云(いふ)あり、一里四方程ある島也といへり、此(ここ)は行(いき)たる人もなし、里數もしれがたし。扨(さ)て八丈島は大島より東南、はだか島よりは東にあたれる島也。里數國禁(こくきん)にてしれがたし、已上を八島といふ。大島の産物矢〆(やしめ)といへる薪(たきぎ)一名(いちめい)島眞木ともいふ。牛の角此は島に放飼(はなしがひ)して角とるばかりにもふけたる事也。しひたけ・かつほぶし等也。にい島にも椎茸を産す。牛もありといへども角はおほく出(いだ)す事なし。椿の油を産す。八丈より出す所の織物は運上(うんじやう)にて米にてかへ納(おさめ)らるゝ也。尤(もつとも)八丈島には官府ありて官船のほか海舶の往來制禁也。

[やぶちゃん注:「幷」は「ならびに」。「矢〆(やしめ)」は特異点の原典のルビ。

「七里」二十七キロ四百七十九メートル。一律、これで揃えているが、後で「里數國禁」と述べているように実測値とは微妙に異なる。というより、三宅島を起点に後の島への距離を示すのは実際の海路から腑に落ちはするが、地図も頭にない読者は皆、江戸に近いところから遠いところとして、

 大島→新島三宅島神津島利島→「はだか島」(御蔵島:後注参照)→八丈島

の順に伊豆諸島は南或いは南東に点在しているとしか読まない。事実は無論、

 大島→利島新島→式根島→神津島三宅島→御蔵島→八丈島

の順である。

「にい島」「新島」。なお大島以下のここに出る伊豆諸島は現在は行政上は総て東京都。

「かうづ島」「神津島」。私が唯一行ったことのある伊豆諸島の島。夜の墓場の美しかったことは生涯、忘れない。二十三の時に訪れた……神津島では誰の墓とも分からなくなった壊(く)えた墓石に至るまで、毎日、美しい色とりどりの花を老婆たちが供えていた……私は深夜に独り、その瑞々しい花々に包まれた墓地を何ども訪ねたのだった……それは……不思議な……あの世の楽園……そのものだった…………

「としま」「利島」。

「はだか島と云あり、一里四方程ある島」順序と「四方」という謂い方からは、ほぼ円形を成し、概ね五キロメートル弱四方に入るところの御蔵島のことと思われるが、このような別名を現認出来ない。「裸島」或いは「波高島」などが考えられ、或いはもっと南の後に出る「八丈島」の記載を、この御蔵島と誤認し、しかもそれを「ハ丈島」(はだかじま)と誤読した可能性もあるように私には思われる。「八」はカタカナ「ハ」と読み違い易く、しかも「丈」は「たか」「だか」と訓じ易いからである。

「里數もしれがたし」御蔵島は江戸の南約二百キロメートル、直近の三宅島からは南南東十九キロメートルの附近に位置する。前者は換算すると約五十一里、後者は五里弱。

「里數國禁(こくきん)にてしれがたし」江戸の南亦二百八十七キロメートル、直近の御蔵島からは南南東方約七十五キロメートル附近に位置する。前者は換算すると約七十三里、後者は十九里ほどとなる。

「矢〆(やしめ)といへる薪(たきぎ)一名(いちめい)島眞木ともいふ」不詳。「島眞木」の読みは「しままき」(島の薪(まき))であろう。識者の御教授を乞う。

「牛の角此は島に放飼(はなしがひ)して角とるばかりにもふけたる事也」前条鰹魚を釣るに用る牛角の事を参照されたい。

「しひたけ」「椎茸」。現在も八丈島の特産品である。

「八丈より出す所の織物」八丈島を本場とする「黄八丈」のこと。ウィキの「黄八丈」より引く。『黄八丈(きはちじょう)は、八丈島に伝わる草木染めの絹織物。 島に自生する植物の煮汁で黄色、鳶色、黒に染められた糸を平織りまたは綾織りに織り、縞模様や格子模様を作ったもの。 まれに無地の物も染められることがあるが、地の黄色がムラになりやすく市場にはほとんど出回らない』。『むろん八丈島が本場だが、秋田県でもハマナス』(バラ目バラ科バラ属 Eurosa 亜属Cinnamomeae節ハマナス Rosa rugosa)『などを原料とした染料を用いた「黄八丈」が織られているため、そちらの八丈を「秋田黄八丈」、八丈島で生産される八丈を「本場黄八丈」と呼んで区別している』。『八丈刈安』(はちじょうかりやす:単子葉植物綱イネ目イネ科コブナグサ属コブナグサ(子鮒草)Arthraxon hispidus)『で染めた明るい黄色の色彩が特徴であり、現在は伝統的工芸品として国の指定を受けている。 鳶色が主体になったものは茶八丈、黒が主体のものは黒八丈と呼ぶことがあるが、黒八丈には同名の別の絹織物が存在するので混同しやすい。 黄八丈という名称は戦後になってからよく使われるようになったものであり、以前は「八丈絹」「丹後」と呼ばれていた』(下線やぶちゃん:本来ならここでも冒頭、「黄八丈」ではなく、それで呼ぶべきではあろう)。『伊豆諸島では八丈島の他に三宅島でも独自の絹織物が製造されている。三宅島のものは三宅丹後と呼ばれている』。『本居宣長は「玉勝間」にて「神鳳抄という書物に、諸国の御厨(神社の領地)より大神宮に奉る物の中に、八丈絹幾疋という表現が多く見える。したがってこの絹はどこの国からも産出したのである。伊豆の沖にある八丈が島というところも、昔この絹を織りだしたので島の名にもなったのに違いない……」と記している事から八丈島の島名の由来になったとされる』。『この島は古くから都からの流人によって絹織物の技術がもたらされていたため絹織物の生産に優れ、室町時代から貢納品として八丈の絹(白紬)を納めていたとされる。寛永年間にはタブノキ(八丈島ではマダミと呼ぶ)』(クスノキ目クスノキ科タブノキ属タブノキ Machilus thunbergii)『の樹皮を使った鳶色の織物が織られるようになり、寛政年間ごろに現在の黄八丈に使われる染色技術が完成されたといわれる。

江戸時代後期に、白子屋お熊の入婿殺人未遂事件を脚本化した浄瑠璃「恋娘昔八丈」(こいむすめむかしはちじょう)で黄八丈の衣装が採用されたことから爆発的な人気を誇った。お熊が処刑に臨んで八丈を着たのは確かだが、江戸時代中期には黄八丈の知名度は低く実際には鳶色か黒地の八丈と思われる』。『黄八丈の印象的な黄色は、ほかの地方では雑草扱いされるコブナグサというイネ科の一年草から取れるもの。ほかの草木に比べて群を抜いて美しい黄金色を染め出すことから、八丈島では本土で古くから黄色の染色に使われるカリヤスにちなんで八丈刈安と呼んで大事に栽培されている。これを用いて秋の初めに糸を染め始め、椿などの灰で「灰汁付け」(媒染)する』。『鳶色はタブノキの樹皮が原料で、何度も染液に漬けては乾燥させて赤みがかった濃い茶色を染める』。『黒色はいわゆる「泥染め」(鉄媒染)で得る。スダジイ』(ブナ目ブナ科シイ属スダジイ Castanopsis sieboldii)『の樹皮で染めた糸を自然の沼で「泥付け」して泥の中の鉄分とスダジイのタンニンを結合させることで黒が得られる。ちなみに泥染めで黒を染めると糸が脆くなり易いため』、『黒染めの古布は現代に伝わりにくい』とある。]

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