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2016/10/14

私の小説作法   梅崎春生

 

「私の小説作法」を書くことはむずかしい。今から十年前、昭和三十年二月号の「文芸」に、私は「私の小説作法」を書いた。それを読み返すと、その時の考えが今もほとんど変っていない。進歩がないといえるかもしれぬが、基本的態度というものは、そうそう進歩したり変化したりはしないものだ。

 人間の中に泥沼みたいなものがあり、それが現実に相捗(わた)って創り出されるのが、文学であり小説であるとその時書き、その泥沼の定義や分析をこころみている。小説作法が「ラジオの組立て方」や「碁の入門」などと根本的に異なる所以(ゆえん)をせっせと書いている。同じことを今なぞるのは気が進まないので、以下出来るだけ具体的に書く。

 題材がきまると、机の前にすわり鉛筆で一日五枚から十枚程度の早さで書く。下書きはしない。ぶっつけ本番で書く。書きくずしは一〇%くらい。百枚書くと十枚のロスが出る。寡(か)作の上にロスがないので、原稿用紙の使用量はごく少ない。

 題材は経験したこと、人に聞いた話、空想でつくり上げること、いろいろある。その混合型ももちろんある。書き始めて途中でうまくいかない場合、無理には書き続けない。放棄してしまう。全然捨ててしまうわけでなく、あたためておく。十五年ほどあたためて、やっと書いたこともある。長年あたためていると、枝葉が熟してきて、うまくいくような気がする。

 作品を創るに当って、必ずしも初めから順々に書くとはきめていない。全体を三分し、最後の三分の一を先に書き、次に中の部分、最後に初めの三分の一を書くということもやる。しかしこれは素人(しろうと)のやり方かもしれない。小説を書き始めたころ、私はしばしばこの方法をとった。初めから書くと形がつかないような気がしたからだ。初めから書き、流れにしたがって結末に到るのが本筋だろう。でも予定した結末に到らないことが、往々にあるのだ。結末を最初に書くと、中途で強引に筆を曲げねばならぬことが時時出来てくる。しかし余儀ない事情で(たとえば何月何日までに仕上げなければならない時など)この方法を採用することがある。作家としては、不名誉というべし。

 旅行はするが、板材旅行はしない。ただふつうの旅人として旅を楽しみ、その感じを身内に取り入れて戻って来る。あとになってその旅行先を小説に使う時、もー度そこへ行って確かめることはしない。体に残った漠(ばく)たる感じ、漠たる記憶をもとにして、書いてしまう。特別な構えは、作家に必要でない。記録なら正確さが必要だが、小説となると趣きが異なってくる。そう私は思っている。そのせいか、行ったことのある土地よりも、架空の場所(つまり行ったことのない土地だ)の方が、私は書きやすい。人から聞いたり地図で調べたり、それを空想で補って書く作業が、たのしいのである。

 それから手法について、他人が使い古したありふれた手口を、できるだけ使うまいと心がける。たとえば年代記風の書き方、私はこれは昔からいやで、読むのも書くのも退屈だ。だから必ずひっくり返して、順序をばらばらにして書く。小細工といわれれば、それまでだけれど。

「あの人はさすが作家だけあって、ものを見る目がするどい」

 こんなばかな話はない。目のするどさにかけて作家は、刑事や客引き番頭やバーのホステスには遠かに及ばない。現実面では作家はお人好しで、これほどだまされやすい人種はないのである。ただ番頭やホステスと違うところは、そこから虚実をないまぜて、一篇の小説に創り上げるというか、でっち上げるというか、そんな才が多少あるだけの話だ。それ以上でもなく、それ以下の人間でもない。常凡な俗物であるという自覚が、私のかえるべき初心なのである。

 

[やぶちゃん注:昭和四〇(一九六五)年一月三十一日附『毎日新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。なお、本篇は底本の「エッセイ Ⅰ」の掉尾に置かれてある(順序を変更したのは単に底本の編集権を侵害しないために過ぎない)。

『今から十年前、昭和三十年二月号の「文芸」に、私は「私の小説作法」を書いた』既にこちらで電子化注済み。

「書きくずし」「書き崩す」(「書き損なって無駄にする・書き潰す」の意の動詞)の名詞形。書き直しのために原稿用紙を反故にすること。]

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