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2016/10/26

タルコフスキイを撮る夢

本未明のタルコフスキイを撮る夢――

僕はどこかの国の高台の修道院に匿われているタルコフスキイと面会している。

[やぶちゃん注:後からその修道院が遠景で映し出されるれるが、それは「ノスタルジア」ドメニコが世界の終末のために家族を匿うロケ地とよく似ていた。]

背後の壁は全体を大きなゴブラン織りが覆っていて、その上にルブリョフの「三位一体図」(троица:トローイツァ)が掛かっている。

[やぶちゃん注:ゴブラン織りは「鏡」の「作家」の家のもの、言わずもがな、「三位一体図」は「アンドレイ・ルブリョフ」の最後に映し出されるあれだ。]
タルコフスキイは、
「明日、官憲が私を捕縛に来る。その連行される一切が今回の私の作品のエンディングとなる。君は他の二人とともにそれを撮るのだ。」
と僕に命じながら、右手で絨毯の上に伏せしている犬の頭を撫でる。犬は僕を見て尻尾を振る。犬はシェパードである。

[やぶちゃん注:この犬は言わずもがな、「ノスタルジア」の「ゾイ」である。]

隣りの部屋に後の二人がいる。一人は長机の部屋の奥の端に僧衣を被っており、今一人は、その真反対にある出窓の前で外を見ている。二人とも暗く沈んでいる。

僧衣の男はアナトリー・ソロニーツィン、窓辺の男はトニーノ・グエッラであった。

[やぶちゃん注:前者 Анато́лий Алексе́евич Солони́цын 1934年~1982年)はタルコフスキイ組の私が最も好きなロシア人名優。後者はTonino Guerra 1920年~2012年) はイタリアの脚本家で「ノスタルジア」の脚本やイタリアでのタルコフスキイの複数のドキュメンタリー映像を手掛けた。]

翌日、官憲が修道院へやって来る。百人以上の重装備の機動隊である。彼らがタルコフスキイのいる納屋に近づいてゆく。しかし、その扉が自ずと内からゆっくりと開かれる。暗闇の納屋の中、そこだけスポットが当たるようにしてタルコフスキイが毅然として立っている(ここはモノクロ)。

[やぶちゃん注:この扉は「サクリファイス」の戦闘機音とともに激しく開くそれと同じ扉であり、開いた後のシーンの処理は「鏡」の少年期の「作家」のイメージ部分とよく似ていた。]

官憲に乱暴に引き立てられてゆくタルコフスキイ。

修道院からは徒歩である。その道は地肌も露わな赤土で、昨晩の雨でどろどろにぬかるんでいる。
私は師の捕縛を哀しんでその先導をする修道僧の役となり、ソロニーツィンにカメラを頼む。
下り道の崖側には牧羊の囲いに有刺点線が張られている。
僕は何度もずるずると滑りそうになる。
その都度、僕は右手で囲いを摑む。
その都度、僕の右の掌は甲まで錆びた鋭い有刺鉄線が突き抜けて、飛び出るのであった。
それをソロニーツィンが撮ってくれているのが判る。

[やぶちゃん注:この泥濘の道は「アンドレイ・ルブリョフ」でルブリョフ(ソロニーツィン演)と喧嘩別れした青年「ボリースカ」(ニコライ・ブルリャーエフ演)が鐘に最適な粘土を発見するシークエンスの道を恐ろしく長く高くしたようなものであった。有刺鉄線は「僕の村は戦場だった」で主人公「イワン」(同ブルリャーエフ演)を有刺鉄線でなめるシーンとダブった。なお、このシークエンス全体はタルコフスキイの好んだ、キリストのゴルゴダへの登攀の逆転したシンボライズであるように思われる。]
麓の町につく。

[やぶちゃん注:以下で実は、その町の老婦人と、先の「ゾイ」そっくりの犬が登場し、煉瓦の壁に掛かった三枚のルネサンスの絵画(その時は夢の中でその絵を誰の何としっかり認識していたのに今は失念してしまった)を僕がカメラ映りのよいように何度も掛け変えるシーンなどが挟まるのだが、超常的な現象が多発したりして、説明に時間がかかるので総て涙を呑んで割愛する。]

護送車が待っている。
その横にこちらを向いてグエッラが哀しげな表情で立っている。
僕は師タルコフスキイの先払いの演技をしながらも、
『グエッラって黙って立ってると、美事に「役者」やないけ』
と心の中で思ったことを覚えている。そうして、そうした総てを背後でソロニーツィンが撮っているのを背中に感じながら。
そう。そのグエッラへの感じは一種の嫉妬に近い感情であったことを告白しておく。僕は終始、僧帽を深く被っていて顔が出ないのである。ドキュメント映像には僕の顏は全く出ないのである。
タルコフスキイを載せた護送車が薄い霧の中をだんだんに小さくなってゆく…………

[やぶちゃん注:これも言わずもがな、「サクリファイス」のエンディングで狂人扱いされたアレクサンデルが救急車で運ばれるシークエンスのインスパイアである。出来れば、ここで今の覚醒した僕としては、「タルコフスキイ! また、いつか、どこかで!!」と叫びたかったのだが、夢の僕は、ささくれた唇から血を流してむっとした表情で目を大きく開いてそれを見ているばかりであった。しかしそれは「僕の村は戦場だった」のあの「イワン」の、見上げるきっとした強烈な表情にそっくりだったとは思うのである。]

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