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2016/10/03

北條九代記 卷第九 無量壽院法會 付 大雨洪水

      ○無量壽院法會  大雨洪水

 

同六月三日、故秋田城介義景が十三年忌の佛事執行ひ、無量壽院に於いて経營す。去ぬる朔日より、今日に至るまで、三夜三日の中、十種供養あり。今正日を迎へて、多賽塔一基を供養せらる。導師は若宮別當僧正隆辨なり。説法の聲、空界に滿ちて、諸天も是に感じ、賢聖(けんしやう)、眼邊(まのあたり)、此座に影向(やうがう)し給ふらんと、参詣の貴賤、隨喜の涙を流さぬはなし。伊勢入道行願、武藤少卿(せうけい)人道心蓮、信濃〔の〕判官入道行一以下の數輩(すはい)、結緣(けちえん)の爲に法場(ほふぢやう)に列(つらな)り、往昔(そのかみ)の面影、二度(たび)此所に見渡(みえわた)る心地して、坐(そゞろ)に悲淚を拭ひける所に、説法の最中に、大雨、降出でつ〻、車軸を流して夥(おびたゞ)し。四方、打覆(うちおほ)ひ暗み掛(かゝ)りて、小止(こやみ)なく潟(うつ)すが如く降る雨に、物音も聞難(きこえがた)く、山上に構へたる聽聞所(ちやうもんじよ)の平張(ひらばり)、一同に崩倒(くづれたふ)れしかば、或は手足を打損(うちそん)じ、或は頸(くび)の骨を推折(おしを)られ、諸人、臥轉(ふしまろ)び、希有にして逃出(にげい)づる。山の嶺より路(みち)の北に滑落(すべりお)ちて半死半生に成りつ〻、前後を知らぬも多かりけり。さしも貴(たふと)かりける大法會、一時に打醒(うちさ)めて、匍々(はふはふ)下向する者も、雨に霑(ぬ)れ、泥に塗(まみ)れ、最(いと)見苦しき有樣なり。同十日、いとゞ、雨、降續(ふりつゞ)き、今日は、殊更、垂籠(たれこめ)て、暗(くらやみ)の如くにして、物間(ものあひ)も定(さだか)ならず、午刻(うまのこく)計(ばかり)に龜谷(かめがやつ)を初(はじめ)として、泉谷(いづみがやつ)の間(あひだ)、所々の山々、崩れければ、其邊(あたり)に住みける大家(け)小家(け)、或は大石の轉來(まろびく)るに打破(うちやぶ)られ、或は、山、裂落(さけおち)ちて土中に埋(うづも)れ、男女老少、逃惑(にげまど)ひ、啼叫(なきさけ)ぶ聲、雨の足に和(くわ)して響渡(ひゞきわた)り、世は早(はや)滅して、鎌倉は只今、泥の海になるべきなりと、貴賤上下、色を失(うしな)うて、足(あし)を空にぞ成(な)りたりける。夜に入りて、雨少しつゞ晴に成て、次の日は白日靑天なりければ、埋(うづ)まれたる者共の一門親族、淚と共に鋤鍬(すきくは)を用意して、土を掘りのけ、死骸を取出(とりいだ)す。或は資材雜具に堰(せか)れて未だ死(しに)もやらず、片息(かたいき)になりたる者もあり。或は柱、棟(むなぎ)の下に打倒(うちたふ)れて、平(ひら)に匾(ひし)げて死するもあり。歎悲(なげきかなし)む聲、洋々として物の哀(あはれ)を止(とゞめ)たり。空しき尸(かばね)を寺々に送りて、泣く泣く泉下(せんか)の客として、一堆(たい)の塚の主(ぬし)となし、經、讀(よみ)、佛事を營むも思寄(おもひよ)らざる憂(うれへ)を受け、俄(にはか)に無常を身に知りて世を厭ふ心より、尼、法師となりて、後世を求(もとむ)る人も多かりけり。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻五十二に文永二(一二六五)年六月三日・十日の条に基づく。私はこうした自然災害に対する権威の無力さを語ったシークエンスがすこぶる好きである。福島原発を言うまでもなく、である。

「無量壽院」廃寺。「新編鎌倉志卷之五」に以下のようにあり、以下のように私は注した。

   *

◯無量寺谷 無量寺谷(むりやうじがやつ)は、興禪寺の西の方の谷(やつ)なり。昔し此處に無量寺と云寺有。泉涌寺の末寺也しと云。今は亡し。按ずるに【東鑑】に、文永二年六月三日、故秋田の城の介義景が十三年の佛事を無量壽院にて修すとあり。義景は、藤九郎盛長が子にて、居宅甘繩(あまなは)なり。此邊まで甘繩の内なれば、此の寺歟。後に無量寺と云傳る歟。又【鎌倉九代記】に、禪秀亂の時、持氏方より、無量寺口(くち)へは上杉藏人憲長、百七十騎にて向へらるとあるは此所なり。今鍛冶(たんや/カヂ)綱廣が宅有。

[やぶちゃん注:底本では最後の「鍛冶」の左側に「カヂ」のルビが附く。現在の鎌倉駅から北西に向かったところに佐助隧道があるが、その手前の崖下に旧岩崎邸跡地があり、扇ヶ谷一丁目この辺り一帯を「無量寺跡」と通称する。二〇〇三年に、この旧岩崎邸跡地から比較的規模の大きい寺院庭園の遺構が発見されたことから、この辺りに比定してよいであろう。この庭園発掘調査により、庭園内の池が一気に埋められていること、埋めた土の中より一三二五年から一三五〇年頃の土器片が大量に出土していること、園内建物遺構の安山岩の礎石に焼けた跡があること等から、庭園の造成年代は永仁元(一二九三)年の大震災以後、幕府が滅亡した元弘三・正慶二(一三三三)年前後に火災があり、庭園は人為的に埋められたと推定されている。私には一気に庭園を埋めている点から、同時に廃寺となったと考えても不自然ではないように思われる(庭園発掘調査のデータはゆみ氏の「発掘された鎌倉末期の寺院庭園遺構を見る」を参照させて頂いた)。

「秋田の城の介義景」は安達義景(承元四(一二一〇)年~建長五(一二五三)年)のこと。執権北条泰時・経時・時頼に仕え、評定衆の一人として幕政に大きな影響力を持った御家人。

「義景は、藤九郎盛長が子にて」は誤りで、安達盛長(保延元(一一三五)年~正治二(一二〇〇)年)は義景の祖父。彼の父は安達景盛(?~宝治二(一二四八)年)で、彼と義景が安達氏の磐石の権勢を創り上げた。

「上杉藏人憲長」は系図から見ると、上杉禅秀の乱の際の関東管領であった上杉憲基の祖父憲方の弟である上杉憲英の孫に当たる。

「鍛冶綱廣」現在も相州正宗第二十四代刀匠として御成町の山村綱廣氏に継承されている。]

   *

「十種供養」「法華経」の「法師品」に説かれてある十種類の供養。すなわち華・香・瓔珞 (ようらく) ・抹香・塗香(ずこう)・焼香・繒蓋幢幡(そうがいどうばん:絹製の傘及び幟旗(のぼりばた))・衣服・伎楽(ぎがく)・合掌の十種によって仏に供養することを指す。

「多賽塔一基」現存しない。

「諸天も是に感じ、賢聖(けんしやう)、眼邊(まのあたり)、此座に影向(やうがう)し給ふらん」が「参詣の貴賤」が思ったこと、「隨喜の涙を流」した感動的場面である。「天上の諸神仏も皆、この荘厳なる説法に感動し、賢くも神聖なるそのお姿を眼前に顕現なさるに違いない」の謂いである(「影向(ようごう)」とは仏菩薩や神などが仮の姿をとって人々の眼前に現れることを指す)。この高揚感が、一転、修羅場へと変ずるシークエンスにこそ筆者は作家として惹かれたのである。私もそうである。

「伊勢入道行願」二階堂行綱。評定衆。

「武藤少卿(せうけい)人道心蓮」武藤景頼。評定衆。

「信濃〔の〕判官入道行一」二階堂行忠(行綱の弟)。政所執事。

「結緣(けちえん)」原義は仏菩薩が世の人を救うために手を差し延べて縁を結ぶことであるが、ここは世の人が仏法と縁を結ぶこと、仏法に触れることによって未来の成仏・得道の可能性を得ることを指す。

「法場(ほふぢやう)」法会の場。

「往昔(そのかみ)の面影、二度(たび)此所に見渡(みえわた)る心地して」死したる安達義景の面影が再び、この玄妙なる法会によって再びこの場所に再臨するかのような心持ちがして。

「坐(そゞろ)に」無暗に。殊更に。

「潟(うつ)すが如く」時間が全く以って変わらぬように。

「山上に構へたる聽聞所(ちやうもんじよ)の平張(ひらばり)」この法会のために、庶民がその法会を拝むために設置された臨時の聴聞所に設置されていた簡易の平台。安手に、確認もなく、作られた、不安定な桟敷席であろう。

「匍々(はふはふ)」やっとのことで窮地を遁れ。

「最(いと)見苦しき有樣なり」私は言っておくと、このシークエンスに、にんまりするタイプの人間である。

「午刻」正午。

「泉谷(いづみがやつ)」亀ヶ谷坂を下った浄光明寺の附近。

「世は早(はや)滅して、鎌倉は只今、泥の海になるべきなり」が「貴賤上下、色を失(うしな)う」た連中の末法思想的認識の心内語である。

「足(あし)を空に」足が地につかないほどに慌て急ぐさま。

「平(ひら)に匾(ひし)げて死するもあり」ぺしゃんこに完全に潰されて死んでいる者もあtった。

「洋々として」広く激しいさま。

「泉下(せんか)の客」黄泉(よみのくに)へと死出の旅に旅立った者。

「一堆(たい)の塚」一つの仮に埋めた土饅頭。

 

 以下、「吾妻鏡」。

 

○原文

三日己巳。日中夕立。故秋田城介義景十三年佛事也。於無量壽院。自朔日至今日。或十種供養。或一切經供養也。而今迎正日。供養多寳塔一基。導師若宮別當僧正隆辨。布施被物十重。太刀一。南廷五。砂金卅兩。錢百貫文。伊勢入道行願。武藤少卿入道心蓮。信濃判官入道行一以下數輩。爲結緣詣其場。説法最中。降雨如車軸于時山上所搆之聽聞假屋顚倒。諸人希有而迯去。其中男女二人。自山嶺落于路之北。半死半生云々。

○やぶちゃんの書き下し文

三日己巳。日中、夕立す。故秋田城介義景が十三年の佛事なり。無量壽院に於いて、朔日より今日に至り、或ひは十種の供養、或ひは一切經の供養なり。而るに今、正日を迎へ、多寳塔一基供養す。導師は若宮別當僧正隆辨。布施、被物(かづけもの)十重・太刀一・南廷五・砂金卅兩・錢百貫文。伊勢入道行願・武藤少卿入道心蓮・信濃判官入道行一以下數輩、結縁緣の爲め、其の場に詣(まう)ず。説法の最中、降雨、車軸のごし。時に、山上に搆ふる所の聽聞の假屋、顚倒す。諸人、希有にして迯れ(に)げ去る。其の中、男女二人、山の嶺より路の北に落ち、半死半生と云々。]

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