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« 私の小説作法   梅崎春生 | トップページ | 谷の響 一の卷 四 河媼 »

2016/10/10

諸國百物語卷之三 九 道長の御前にて三人の術くらべの事

     九 道長の御前(ごぜん)にて三人の術くらべの事

 

 長德年中の相國ふぢはらの道長の御まへに、ゑい山(ざん)の僧欽朱(きんしゆ)と安倍淸明(あべせいめい)と醫師のしげまさと、三人同座してゐられけるが、菓子に瓜のいでけるを清明見て、

「此うりの内に毒あるうりあり」

と、うらなふ。道長、きこし召し、

「さらば、このかずのうりに、いづれが毒あらんと、かぢし給へ」

と仰せられければ、欽朱、うりにむかつて、印(いん)をむすび、かぢし給へば、たちまち、ひとつのうりをとりいでければ、重正(しげまさ)、ふところより、針をとり出だし、うりをさしければ、此うり、うごきやみぬ。道長、此うりをわりて見られければ、そのなかに、蛇一すぢ、ありしが、蛇のまなこに針あたりて、死してゐたり、三人ともに、その術につうじけるとて道長はなはだかんじ給ひけると也。

 

[やぶちゃん注:ずっと時代が遡った藤原道長(康保三(九六六)年~万寿四(一〇二八)年)の、しかも超弩級に知られた阿倍晴明(延喜二一(九二一)年~寛弘二(一〇〇五)年)絡みの法術怪談の登場である。

 

 この話、最も知られているのは「古今著聞集」(ここんちょもんじゅう:橘成季(生没年未詳:鎌倉時代の朝廷の吏員。九条道家近習)編の俗説話集で建長六(一二五四)年に初形が成立、後年、増補された)の「卷第七 第九 術道」(岩波日本古典文学大系本第二九五段)に載る「陰陽師晴明、早瓜に毒氣あるを占ふ事」であろう(昭和五八(一九八三)年刊「新潮日本古典集成」の「古今著聞集 上」(西尾光一・小林保治校注)を参考にしたが、読点を増やし、読みなども追加、恣意的に漢字を正字化、直接話法を改行するなどしており、参考底本とは大きく異なる。【 】は底本原文のポイント落ち割注)。

   *

 御堂(みだう)關白殿、御物忌(おんものいみ)に解脱寺(げだつじ)の僧正觀修(くわんしゆ)・陰陽師晴明(はるあき)・醫師忠明(ただあき)・武士義家(よしいへ)朝臣【時代不審也】、參籠して侍りけるに、五月一日、南都より早瓜(はやうり)を奉りたりけるに、

「御物忌の中に、取り入れられん事、いかがあるべき。」

とて、晴明にうらなはせられければ、晴明、うらなひて、

「一つの瓜に毒氣候。」

よしを申して、一つを、とり出(いだ)したり。

「加持(かぢ)せられば、毒氣、あらはれ侍るべし。」

と申しければ、僧正に仰せて加持せらるるに、しばし念誦の間に、その瓜、はたらき動きけり。その時、忠明に、毒氣治すべき由、仰られければ、瓜を取りまはし取りまはし見て、二(ふた)ところに針を立てけり。その後、瓜、はたらかずなりにけり。義家に仰せて、瓜をわらせられければ、腰刀(こしがたな)ぬきてわりたれば、中に小蛇、わだかまりてありけり。針は蛇の左右の眼(まなこ)に立ちたりけり。義家、何となく中をわると見えつれども、蛇の頸(くび)を切りたりけり。名を得たる人々の振舞、かくのごとし。ゆゆしかりける事なり。この事、いづれの日記(にき)に見えたりと云ふことを知らねども、あまねく申し傳へて侍り。

   *

以下、簡単に語注する。

・「御堂關白殿」道長。

・「解脱寺(げだつじ)の僧正觀修」(天慶八(九四五)年~寛弘五(一〇〇八)年)は平安中期の天台宗僧の通称。「勸修」とも記す。諡号は智静。「長谷の大僧正」とも称される。京都生まれ。俗姓、志紀氏。法性寺(ほっしょうじ:現在の京都市東山区にあり、創建時派天台宗であったが中世以後廃絶、明治になって再興され、今は浄土宗)座主(ざす)職を巡る円仁系・円珍系門徒の確執の中、岩倉長谷(ながたに:現在の京都市左京区)の解脱寺(道長の姉詮子の創建になり、この時、彼が再興したが、後に廃絶(室町時代とも江戸時代とも)し、今は遺跡が残るのみ)に移って、長徳二(九九六)年には園城寺長吏となった。有験の僧として知られ、死者を蘇生させた伝説を持つ。長保二(一〇〇〇)年に大僧正となったが、翌年に辞職、藤原道長が深く帰依し、道長建立の木幡浄妙寺(現在の京都市宇治市木幡にある藤原北家の墓所。寺は中世末に廃絶)の別当となった。

・「陰陽師晴明(はるあき)」安倍晴明。

・「醫師忠明(ただあき)」丹波忠明(正暦(しょうりゃく)元(九九〇)年~?)。丹波重雅(天慶(てんぎょう)九(九四六)年~寛弘八(一〇一一)年:権(ごんの)針博士・大舎人頭(おおとねりのかみ)・兵庫頭・掃部(かもんの)頭・穀倉院別当などを務め、長徳四(九九八)年に典薬頭となり、源頼光・藤原行成らの病を治療した。本話の「重正」はこの人物との混同が疑われる)の子。権(ごんの)針博士・医博士・典薬頭(てんやくのかみ)・侍医兼丹波守などを務め、朝臣(あそみ)の姓を授かった名医。万寿五(一〇二八)年には後一条天皇の病いを治療している。

・「武士義家」源義家(長暦三(一〇三九)年~嘉承元(一一〇六)年)では割注通り、時代が齟齬する。参考底本の頭注では酒呑童子や土蜘蛛退治で知られた道長の側近源頼光(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年)の名をモデル参考と思しい感じで掲げてある。

・「南都」大和国。

・「早瓜」参考底本頭注に『暑気をさり、渇きをいやし、酒毒を解くと歓迎された』とある。

・「御物忌の中に、取り入れられん事、いかがあるべき。」「御物忌みの最中に、外部からもたらされた物品・食物を受け取るというのは如何なものか?」。「られん」は尊敬語であるが、道長の自敬表現と見做し、敬意なしで訳した。

・「はたらき動きけり」ゆらりゆらりと生き物の如く、怪しくゆれ動いた。

・「取りまはし取りまはし見て」手でくるりくるりと回転させて全体を観察した上で。

・「腰刀(こしがたな)」腰に差す鍔のない短刀。鞘巻(さやまき:元来は鞘に実際の葛藤(つづらふじ)の蔓を巻いたが、後には漆塗りで蔓を巻いた形を模した)など。

・「わだかまりて」蜷局(とぐろ)を巻いて。

・「ゆゆしかりける」神がかっている。素晴らしい。

・「日記」記録。文書。

・「あまねく申し傳へて侍り」「古今著聞集」が初期成立した鎌倉中期(建長六(一二五四)年)の時点で、広く知られていた事実であることが判る。

 

 次に阿倍晴明以外の登場人物を総て別キャストにした話として、西行に仮託したトンデモ説話集「撰集抄」(建長二(一二五〇)年から遅くとも弘安一〇(一二八七)年頃までに成立したと推定される)の「卷八」の「第三三 祈空也上人手事」(空也上人の手を祈る事)の後半部に以下のように出現するものが挙げられる。そう長くないので全部を引用する(太字部分が本話と酷似する後半)。西尾光一校注一九七〇年岩波文庫刊のそれをほぼ底本として用いたが、一部の記号を排除、踊り字「〱」は正字化し、直接話法は改行、一部に読みと読点を追加した。読みは一部に限った。

   *

さても、平等院僧正の、目驚(おどろき)て人申(まうし)侍りけるは、空也上人と、内にて參りあひけるに、空也上人のひだりの御手のかゞめりけるを、僧正、

「それは、何とて、かゞみたまふにか」

と、問ひたまふに、

「これは幼くて高き所より落ちて打ちおりて侍り」

とのたまふ。

「さらば祈り直して參らせんはいかに」

とのたまはするに、

「さも侍らば、しかるべきことにこそ」

と侍れば、

「さらば」

とて、不空羂索(ふくうけんむじやく)の神呪(しんじゆ)をとなへて祈り給ふ事、三返(べん)いまだ終らざるに、手のかゞみ、直(なを)り給ひにけり。法のしるしも貴(たうと)く、僧正も貴くぞ、おぼえ給ふ。

 しかのみならず、一條院の御位(おんくらい)のとき、やまとより瓜を參らせて侍(はべり)けるに、雅忠と云(いふ)醫師の折節、御前にさふらひけるが、

「此瓜の中に、その一には大なる毒をふくめり。食ひなん物は、やがて失(う)すべし」

と申(まうす)。このよし、みかどに奏し奉るに、

「不思義にこそ。晴明、申(まうす)旨(むね)やある。彼を召せ」

とて、晴明と云(いふ)陰陽師を召(めさ)されて、

「この瓜の中には、いかなる事かある。占ひ申せ」

とおほせくださるるに、晴明ほどなく、

「大なる靈氣あり」

と奏すれば、

「さらば行尊に祈らせよ」

とて召されて、神呪にて祈り給ふに、やゝ時もかへず、おほくの瓜の中、大なる瓜一、いたじきより二三尺ばかりを躍りあがる事たびたびして、はては中より、二にわれて、一尺あまりなる蛇(くちなは)一筋、はひ出て、則(すなはち)、死にけり。いと不思議にぞ侍る。

 上古もかゝることをきかず、末の世にもあるべしともおぼえ侍らぬ事に侍り。雅忠、晴明、行尊の時の面目(めんぼく)、ゆゝしくぞ侍りける。いまの世のくだりて、かゝるめでたき人々もおはせぬこそ、世を背(そむ)きける事なれども、かなしくおぼえて侍れ。

   *

以下、簡単に語注する。

・「平等院僧正」天台僧行尊(ぎょうそん 天喜三(一〇五五)年~長承四(一一三五)年)。「平等院大僧正」の尊称で知られた。参議源基平の子。嘉承二(一一〇七)年に鳥羽天皇即位に伴ってその護持僧となり、加持祈祷によりしばしば霊験を現したことから、公家の崇敬が篤かった。後に園城寺の長吏に任じられ、保安四(一一二三)年には天台座主となったものの、延暦寺と園城寺との対立によって、六日で辞任している。天治二(一一二五)年、大僧正。崇福寺・円勝寺・天王寺(四天王寺)など、諸寺の別当を歴任する一方で、衰退した園城寺をも復興した。歌人としても知られ、「百人一首」にも「もろともにあはれと思へ山櫻花よりほかに知る人もなし」(元は「金葉和歌集」「雜部上」の部(五二一番歌))(以上はウィキの「行尊」に拠った)。

・「空也」(延喜三(九〇三)年~天禄三(九七二)年)知られた口称(くしょう)念仏の祖で浄土教の先駆とされる名僧であるが、ご覧の通り、行尊の生年以前に亡くなっており、二人が逢うこと自体が出来ません! 後の一条天皇・安倍晴明に至っては話になりませんデス!

・「不空羂索(ふくうけんむじやく)の神呪」天台宗の尊崇する六観音の一つである。不空羂索観音の真言。「不空」は「虚(むな)しからざる(真(まこと)の相)」、「羂索」(「けんさく」とも読む)は元は鳥獣などを捕らえる繩の意。「心に念ずる「不空」の索(さく)を以ってあらゆる衆生を洩れなく救済する観音」の意味。天台系の同観音の真言は「オン・アモキャ・ハラチカタ・ウンウン・ハッタ・ソワカ」(ウィキの「不空羂索観音に拠る)。

・「一條院の御位(おんくらい)のとき」一条天皇(天元三(九八〇)年~寛弘八(一〇一一)年)の在位は寛和二(九八六)年~寛弘八(一〇一一)年)。言わずもがなであるが、彼の中宮藤原彰子は道長の娘であるから、原話との絡みはある。しかし本話には道長は出ず、一条天皇がホストであることに注意。

・「雅忠」先に出た典薬頭丹波忠明の子に、後冷泉天皇や関白藤原頼通の病いを快癒させた名医丹波雅忠(治安元(一〇二一)年~寛治二(一〇八八)年)がいるが、やはり時代がゼンゼン合わない

「いたじき」「板敷」。

「二三尺」凡そ六十一~九十一センチメートル。この描写は、いい。

「一尺」約三十センチメートル。ここも数値が出るのがリアルに見えるが、ちょっと長過ぎく、ね? でも、それがより怪奇ではある。やっぱり、いい。

「世を背(そむ)きける事」通常、「世をそむく」とは出家遁世することだが、それでは意味が通らぬ。ここは尋常でない、俗人の人知では測り知れぬ超自然な能力の謂いであろう。

 

 而して、今一つ、ある。臨済宗僧虎関師錬(こかんしれん 弘安元(一二七八)年~興国七/貞和二(一三四六)年:京都出身)が元亨二(一三二二)年に漢文体で記した日本初の仏教通史「元亨釋書(げんこうしゃくしょ)」(全三十巻)の「四卷」の「園城寺勸修」の条である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を探し、やっと見つけた。視認して以下に原文の漢文白文の当該箇所を示す。但し、一部の漢字を補正(「瓜」は第五画がない)、一部に句読点と記号を恣意的に配した。

   *

術家、白藤府言、「某日、家内有恠。」。至期、相國、閉門謝客。晡時、有叩者。問之對曰、「和州之瓜使也。」。開門納之。于時修在座。大史安晴明、大醫重雅、預焉。相國、顧安大史曰、「家裏有齋祓。不知此瓜可甞不。」。晴明曰、「瓜中有毒。不可輙啖也。」。相國、語修曰、「許多瓜子何爲毒乎。」。修、誦呪加持。忽、一瓜宛轉騰躍。一座驚恠。重雅、乃、袖出一針、針瓜。其動、便、止。割見、中有毒蛇。針、中其眼。蓋、術家之言、是也。都下、嘆三子之精其術矣。

   *

「藤府」はあまり聴かないが、藤原道長の屋敷の意(後の「相國(しやうこく)」は太政大臣の唐名で藤原道長のこと)。「恠」は「怪」と同字。この話は「諸國百物語卷」が元にしたと思われる原型により近いものと私には思う。阿倍晴明に丹波重雅、そこに先の勧修が絡む話柄である。「重正」はもとより、「勸修(くわんしゆ)」も、この「諸國百物語卷」の「欽朱(きんしゆ)」と、これ、何となく音が近いではないか。だいたい意味はとれるが、わからんという人のために、国立国会図書館デジタルコレクションの、同書を恵空が注した「通俗元亨釈書和解」(明治二六(一九〇三)年法蔵館刊)の当該箇所を視認して電子化しておく(完全に手打ちなので読みは一部のみとした。その代り、句読点や濁点を追加、直接話法を改行して読み易くした。踊り字「〱」は正字化した)。

   *

ある日の事なるに、陰陽の術を卜(うらな)ふ人、藤(ふぢ)の相國の舘(たち)に言(まふ)し達しけるハ、

「某日(そのひ)、某(その)折節にもなりなバ、かならず、家の内に恠知(けち)の事あるべし、用心専要(せんえう)たり。」

と告知(つげしら)せたりしかば、その日において、かたく門を閉(とぢ)て、來(きた)れるをも、不逢(あはで)歸されけるに、夕方の七(なゝつ)時分にいたりて、表を叩(たゝく)ものあり。

「誰(たそ)や。」

と問(とひ)ければ、

「和州よりまいりたる、瓜の使(つかひ)にて侍る。」

と答へしゆへ、これハ別義もあるまじき事とて、門をあけて内に納(いれ)たりけるに、その時、勸修も同座に列なれたり。大史(たいし)安部晴明及び大醫重雅も同じく座して居たりけり。其時に相國は晴明が方を見やりていへらく、

「そもそも今日は家内(かない)に齋(いみ)の祓(はらひ)のある碑なりけれども、かゝる瓜は食しても苦敷(くるし)からぬ事なりや。」

と問(とは)れけれバ、晴明は曰、

「瓜の中に毒の侍る事なれば、たやすくまいる事無用なり。」

とありしかば、相國、これをきゝて、勸修に語りて曰、

「かほど數子(あまた)の瓜子(うり)の中にて、何(いづれが毒あるものならん。」

と問(とは)れしにより、勸修、そのまゝ咒(しゆ)を誦(じゆ)して加持せられたりしかば、忽(たちまち)、一(ひとつ)の瓜、しきりにおどり出(いで)て、ふしまろびぶるを、一座の人々、これを見て驚きあやしむ氣色(きそく)なりけり。其時にあたりて、重雅ハ、すなはち、袖よりしも、一(ひとつ)の針を取出(とりいだ)して、其瓜に刺(さし)たりければ、其動ける瓜、たちどころに靜まりてもとのごとくになれり。やがて、これを割剖(さきわり)て見れば、中に一疋の毒蛇あり。其眼(まなこ)を針にて通してぞありし。されば、先の占(うらなひ)を告(つげ)たる人の言(いへ)ることは此蛇の事としられたり。京中の傳へ聞(きく)人々、此三人、何れおそそかなるもなく、皆、其術(じゆつ)に長じたる事を奇特(きどく)の事と嘆じけり。

   *

以下、簡単に語注する。

・「七(なゝつ)時分」午後四時頃。

・「大史(たいし)」読みは「だいし」が普通。は神祇官・太政官(だいじょうかん)の主典(さかん)のうちで「少史」の上に位する職であるが、安倍晴明は「大史」であったことはない。天文博士で陰陽寮の中でも実力は高く評価されていたものの、陰陽寮の長官である陰陽頭(おんみょうのかみ)には就いていない。ウィキの「安倍晴明によれば、『天文道で培った計算能力をかわれて主計寮に異動し』、『主計権助』(ごんおすけ)『を務めた』。『その後、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官職を歴任し』、最終的に『位階は従四位下に昇った』とあり、太政官大史は正六位上相当であるから、最後の官位は「大史」より遙かに高位ではあった。

「氣色(きそく)」ママ。気色(けしき)。「氣息」で息を呑んでいるという感じを出したものか。

「奇特(きどく)」ここは所謂、「不思議な効力・霊験」の意。私はこの意の場合、やはり「きとく」ではなく「きどく」と濁りたくなる人間であるから、とても、いい。この恵空の釈文、実に、いい。

 ともかくも、にしても、この毒瓜、明らかに道長(或いは一条天皇)の命を狙った叛逆(大逆)行為であって、これだけが切り離されて、かくも語られ、瓜を持って来た使者の探索と捕縛、黒幕の正体を暴くところまで展開しないのが、やや不満の残るところだが、これはもう、ほれ! かの安倍晴明とライバル関係にあり、同等の恐るべき呪術を持っていたとされ、藤原道長の政敵であった左大臣藤原顕光に道長への呪祖を命じられたとされる非官の陰陽師蘆屋道満(あしやどうまん。「道摩(どうま)法師」とも)に決まってる、わけよ。

 

 余り必要を感じないが、取り敢えず「諸國百物語」の本文に必要な点を注しておく。

「長德」九九五年から九九九年。

「ゑい山(ざん)」比叡山。

「欽朱(きんしゆ)」不詳。前に述べた通り、「勸修」の音を聴き違えたか?

「安倍淸明」ママ。こう書かれるようになったのは、鎌倉末から室町初期に書かれた陰陽道書「簠簋(ほき)内伝」以降で、やはり「晴明」が正しい。

「しげまさ」後で「重正」と漢字表記するが、ここはまさに丹波重雅であって何ら、問題ない。

「かぢ」「加持」。加持祈禱。

「道長、此うりをわりて見られければ」本話は瓜の割り役を道長にしているが、大事を考えればあり得ぬ。やはり施術した本人である「しげまさ」が割るのが筋であろう。或いは、最初に不審を述べた責任上から見るなら、「阿倍淸明」である。]

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