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2016/10/14

北條九代記 卷第十 天變祈禱 付 彗星土を雨す等の勘文

鎌倉北條九代記   卷第十

 

      ○天變祈禱  彗星土を雨す等の勘文

 

文永三年正月十二日、天變の御祈とて、宮寺に仰せて祕法を行はる。去年十二月十四日の曉、彗星(ひきぼし)、東の方に見ゆ。掃部助範元(かもんのすけのりもと)を初(はじめ)として、晴茂(はれもち)、國繼(くにつぐ)、御所にまゐり、「御愼輕(おんつ〻しみかろか)らず」と申しける所に、陰陽師晴平(はれひら)、晴成(はれなり)、既に彗星(けいしやう)の勘文(かもん)を進ず。是(これ)に依(よつ)て同十六日、將軍家は庇御所(ひさしのごしよ)に出御ありて、司天(してん)、曆學(れきがく)の輩を召して、變異の事を相尋ねらる。土御門大納言、左近〔の〕大夫將監公時(きんとき)、伊勢入道行願(ぎやうぐわん)、信濃〔の〕判官入道行一(ぎやういつ)以下の人々、多く參じて、簀子(すのこ)に候ぜられける所に、司天の輩(ともがら)、樣々申す旨、ありける。猶、愈々(いよいよ)伺ひ見て子細を言上すべき由、太宰〔の〕權〔の〕少貮入道心蓮(しんれん)を以て仰せ下さる。同十八日卯刻計(ばかり)に彗星(けいしやう)出現して、その長(たけ)二尺餘(よ)なり。芒気(はうき)、色、白く、室宿(しつしゆく)を犯して西方に見ゆ。年を越えて消退せざりければ、如何樣、世の變災なるべしとて、御祈禱を致されけり。若宮の別當大僧正隆辨は、金剛童子の法を修(しゆ)せられ、安詳寺(あんしやうじ)の僧正は、如法尊勝王(によほふそんしやうわう)の法を行はる。陰陽師(おんやうじ)業昌(なりまさ)は、天地災變の祭(まつり)を修(しゆ)し、同じき國繼は、屬星(ぞくしやう)の祭(まつり)を行へり。伊達〔の〕蔵人大夫、池(いけ)〔の〕伊賀〔の〕前司、御使として、各(おのおの)肝膽(かんたん)を碎きて、修法(しゆほふ)執行(とりおこな)はる。翌日(つぎのひ)、陰陽少允(おんやうのせうじやう)晴家(はれいへ)を御所の西の壺に召して、如法太山府君(によほふたいさんぶくん)の祭を奉仕(ぶじ)せしめ、將軍家、御壺に出御あり。鞍置馬(くらおきうま)一疋、銀劍(ぎんけん)一腰(ひとこし)、手箱(てばこ)二合に紺の絹を納れて出されけり。誠に重き御愼(おんつ〻しみ)とて、將軍家、殊に恐忌(おそれい)み給ふ。然れば、舊記の載る所、彗星(けいしやう)の出る事、自躰(じたい)には、光なし。日の暉(ひかり)を假(かつ)て現見(あらはれみ)ゆ。この故に、夕(ゆふべ)には東に指(さ)し、朝(あした)には西にさす。芒(はう)の及ぶ所に、必ず、災變あり。その色靑きは、王侯破れ、天子、卽ち、兵に苦(くるし)む。赤きは、賊兵起(おこ)り、黃なるは、女色(ぢよしき)より權(けん)を害あり。后妃、その位を奪はる。黑きは、水邊の賊兵、江河(がうが)を塞ぎて、所々に起(おこ)る。今、是(これ)、白色なるものは、將軍逆責(ぎやくせき)の瑞(ずゐ)なり、と申し沙汰しければ、又、傍に心ある輩は、「古(いにしへ)より以來(このかた)、異域(いゐき)、本朝(ほんてう)の記文を見るに、彗孛(けいはい)の現(あらは)るゝ時に災變ある事もあり。又、何事もなき時もあり。但し、事なきは少(すくな)し。或は災(さい)なき時に出現したるは、記錄に載せざる事もあり。又は他方の災變にして、本朝の事には預(あづか)らざる例(ためし)もあり。夫(それ)、國家の興亡は必ず彗孛(けいはい)の現はるゝには寄(よ)るべからず。或は國家、漫(みだり)に逆威(ぎやくゐ)を振(ふる)ひて、國郡(こくぐん)を制治(せいぢ)し、理非邪正(りひじやしやう)を云(いは)ず、我(われ)に阿順(あじゆん)する者に親(したし)み、意に叶はざれば、賢君子の人といへども疎(うとん)じて近ずけず。小罪(せうざい)を重く罸(ばつ)し、忠なきに賞祿(しやうろく)を與へ、侈(おごり)高く、怒(いかり)多く、賞罸、正しからず。法令、定(さだま)らず、朝(あした)に出(いづ)る事、夕(ゆふべ)には改(あらたま)り、國家の間(あひだ)、賢者(けんしや)、智慮(ちりよ)の人、諸藝堪能(かんのう)の輩(ともがら)、自然に斷絶し、佞奸(ねいかん)の者、多く集りて、主君の眉睫(びぜい)を搯(つま)み、奉行、頭人、邪曲(じやきよく)にして、家々に黨(たう)を結び、臣下、互に威を爭うて、不和なるに於ては、彗孛(けいはい)の災(さい)なくとも、重き國家の愼(つ〻しみ)なり。今の世の中は、なにはに付ても、危(あやふ)し危し」とて、彈指(つまはじき)するも、ありけるとかや。是(これ)をこそ珍事(ちんじ)と思ふ所に、同二月朔日の朝(あした)、日は出でながら、空、曇りて、四方、黑暗(くらやみ)になり、物の色合(いろあひ)、髴(さだか)ならず。巳刻計(ばかり)より、雨、降出でて、小止(をやみ)なし。晩景に及びて、泥の雨、頻(しきり)に降來(ふりきた)り、草木の葉に湛(たま)りては、枝葉、皆、垂臥(たれふし)たり。希代(きだい)の怪異かなと、諸人、色を失ひけり。夫(それ)、太平の世には、五日の風、條(えだ)を鳴さず。十日の雨、塊(つちくれ)を破らず。草木、潤ひ、五穀、豐(ゆたか)なりとこそいふに、是(こ)は、そも、何事の先兆(ぜんてう)なるらんと、怪み申し合ひけるに、主殿助(とのものすけ)業昌、舊記に依(よつ)て勘文(かもん)を進ず。「抑(そもそも)、古(いにしへ)は、垂仁(すゐにん)天皇即位十五年丙午に、星の降ること、雨の脚(あし)の如く、聖武天皇天平十三年辛巳六月戊寅(つちのえとら)に、洛中に米飯(べいはん)を降(ふら)す事、一日一夜、諸人、是を食(じき)するに、尋常の味(あぢはひ)に替らず。尤(もつとも)飢(うえ)を資(たす)けたり。翌年十一月には陸奥国(みちのくに)に紅(くれなゐ)の雪、降る。光仁天皇寶龜七年九月二十日には、石瓦(いしがはら)の降る事、雨の如し。同八年、旱魃(かんばつ)甚しく、井水(せいすゐ)、皆、絶えて、渇死(かつし)する事、夥(おびたゞ)し。是等の變異は上古一時(じ)の災(さい)なり。然るに、今、泥雨(でいう)の降る事は、極(きはめ)て先例を考ふるに、何の事とも知難(しりがた)し。只、深く御愼(おんつ〻しみ)あるべし」と驚き申しければ、聞く人、皆、手の内に汗を握り、如何なる事か出來(いでこ)んと、後を恐れざるはなかりけり。

 

[やぶちゃん注:標題は「天變祈禱(てんぺんきたう) 付(つけたり) 彗星(けいしやう)土(つち)を雨(ふら)す等(とう)の勘文(かもん)」と読む。「彗星(けいしやう)」は文字通りの彗星(すいせい)のことで、「勘文(かもん)」とは、「かんもん」と読んでもよく、正確には「朝廷」から諮問を依頼された学者などが由来・先例等の必要な情報を調査して報告(勘申(かんじん))を行った文章のことを指すが、武家が政権を執った中世に於いては、広く自分が考えたことを文書に纏めたものを一般的に「勘状(かんじょう)」と称したことから、「勘文」もそうした広義の意を持つようにもなったかと思われる。以上は、「吾妻鏡」巻五十二の文永二(一二六六)年十二月十四日・十六日・十八日及び翌文永三年の一月十二日・十三日、二月一日・十一日の記事に基づく。

「文永三年正月十二日、天變の御祈とて、宮寺に仰せて祕法を行はる」以下に続くように、異様な彗星出現を中心とした異変は前年末から発生しており、それを不吉な大事の前兆とみたことから、年が明け、年初の行事の一段落したこの日に鶴岡八幡宮寺に於いて修法(ずほう)が執り行われたのである。

「掃部助範元(かもんのすけのりもと)」幕府専属の陰陽師安倍範元。歌才でも知られ、宗尊親王の歌合などにも列座している。

「晴茂(はれもち)」既に「時宗執權 付 御息所御産祈禱」に出たやはり幕府専属の陰陽師。そこでは「はるしげ」とルビがあったが、いか様にも訓じるのは寧ろ、当時でも普通であった。

「國繼(くにつぐ)」同前。後の「晴平(はれひら)」「晴成(はれなり)」も同じ。

「御愼輕(おんつ〻しみかろか)らず」「(かなり不吉な前兆と拝察されますので)物忌みのための御慎みのそれは決して軽いものにては、これ、御座いませぬ。」。相当に程度の厳しい禁忌・謹慎が必要であることを言上(ごんじょう)したのである。

「庇御所(ひさしのごしよ)」「庇の間」を持った鎌倉幕府の公的に正式な、最も大きかったと思われる御所。「庇の間」は母屋 (もや) の外側に張り出して付加された部分で、周囲に妻戸などをたて、外に縁を巡らしたもので、ここに夜間は将軍家がましまさずとも廂番(ひさしばん)が宿直(とのい)をした。

「司天(してん)」天文博士(元は律令制で陰陽寮に属して天文の観測と天文生の教授とに当たった国立大学教授相当職)の唐名。

「曆學(れきがく)」天文博士や陰陽師の観測や占いに基づき、実際の毎年の暦の計算や作成に従事した官人。

「土御門大納言」土御門顕良。元の内大臣土御門定通三男。既出既注。

「左近〔の〕大夫將監公時(きんとき)」北条(名越)公時。北条氏名越流第三代当主。北条時章嫡男。「きみとき」とも読む。既出既注。

「伊勢入道行願(ぎやうぐわん)」二階堂行綱。評定衆。既出既注。

「信濃〔の〕判官入道行一(ぎやういつ)」二階堂行忠(行綱の弟)。政所執事。既出既注。

「簀子(すのこ)」廂の外側を繞る濡れ縁の部分。通路としての役割のほか、廂との境の御簾や几帳を挟んで応接の場としても使われた。

「太宰〔の〕權〔の〕少貮入道心蓮(しんれん)」武藤景頼。評定衆。既出既注。

「卯刻」午前六時頃。

「その長(たけ)二尺餘(よ)」その長さ(彗星核の尖端から尾の終りまでの見かけ上の長さ)は六十一センチ弱。

「芒気(はうき)」その穂先の部分の空気の光り具合。

「室宿(しつしゆく)」和名を「はついぼし」という二十八宿の一つ。北方玄武七宿の第六宿に当たり、現在の「秋の大四辺形」(ペガスス座α星・β星・γ星及びアンドロメダ座α星からつくられる四角形)で知られるペガスス(Pegasus) 座の主星はペガスス座α星で、占星学上の星域はβ星とよって構成される。これを「営室」とも呼ぶ。

「年を越えて消退せざりければ」「年を越えて」も「消退せざりければ」。「吾妻鏡」の文永三 (一二六六)年一月一日の条の最後に「昏黑。彗星見西。壁八度」(昏黑(こんこく)に、彗星、西に見ゆ。壁(へき)の八度)とある。「昏黑」どんより曇った闇夜の謂いであろう。「壁」は「壁宿」で和名を「なまめぼし」と称するやはり二十八宿の一つで北方玄武七宿の第七宿。主星はペガスス座γ星。星域はアンドロメダ座α星とによって構成される。「東壁」とも呼ぶ。注末の引用も参照されたい。

「御祈禱を致されけり」最初に示された一月十二日のそれを指す。

「金剛童子の法」密教で金剛童子)西方無量寿仏の化身とされる忿怒相の童子形をした仏教守護神。胎蔵界曼荼羅の金剛手院に配され、金剛杵を持っている)を本尊として安産・除災・延命などを祈る修法。

「安詳寺(あんしやうじ)の僧正」「安詳寺」という寺は知らないが、これは真言密教の小野流の一流派安詳寺流という古義の流れを汲む僧名か。

「如法尊勝王(によほふそんしやうわう)の法」如意宝珠(にょいほうじゅ:チンターマニ。本邦では一般的に下部が球形で上部が山形(やまなり)に湾曲して尖っている法具で仏や仏の教えの象徴と考えられる。地蔵菩薩・虚空蔵菩薩・如意輪観音などの持物としてよく見かける。無限の価値を持つも仏宝として祈りの対象となる)を本尊とする修法。

「業昌(なりまさ)」既出。やはり幕府専属の陰陽師。

「天地災變の祭(まつり)」陰陽道の天変地異に対する鎮め祭り。既出。

「屬星(ぞくしやう)の祭(まつり)」既出既注であるが、再掲する。陰陽道で生年によって決まり、その人の運命を支配するとする星を属星(ぞくしょう)と稱する。生年の干支を北斗七星の各星に宛てたものであるが、この場合は個人ではないから、総ての属星(午年は破軍星、巳・未年は武曲(ぶごく)星、辰・申年は廉貞(れんてい)星、卯・酉年は文曲(もんごく)星、寅・戌年は祿存(ろくそん)星、子年は貪狼(どんろう)星、丑・亥年は巨門(こもん)星)を祀ったのであろう。

「伊達〔の〕蔵人大夫」不詳。伊達蔵人大夫資宗がいるが、この時には既に亡くなっている。

「池(いけ)〔の〕伊賀〔の〕前司」池(河内守)家系の一人か。

「肝膽(かんたん)を碎きて修法(しゆほふ)執行(とりおこな)はる。」粉骨砕身して修法の執行の諸事務などを奉行した。

「陰陽少允(おんやうのせうじやう)晴家(はれいへ)」「晴家」は「晴宗」の誤り。以下の言上や行った祭からみても、幕府専属の陰陽師の中でも最有力者であったものと思われる。「少允」は陰陽寮の三等官である「允」(判官)の最下級(三等)官。

「如法太山府君(によほふたいさんぶくん)の祭」正式な法式作法に則った(「如法」)泰山府君祭。通常は「ふくん」と濁らない。「太山府君」は中国の五岳の一つである東岳泰山の神で東岳大帝ともいう。山東省泰安県の泰山は古来から霊山で、天神が降誕し、また死者の霊魂が寄り集う冥府があるとされた。この山にあって人間の寿命や生死を司って死者の生前の行為の善悪を裁く最高神の一人として信仰されたのが泰山府君で、それを祀って死者を蘇生させたり、病気平癒や長寿福禄を祈った陰陽道の呪法。元来、この陰陽道の最奥義の修法は病気などの身体に関わる祈願を目的としたものである。

「誠に重き御愼(おんつ〻しみ)とて、將軍家、殊に恐忌(おそれい)み給ふ」これは一連の行事や物忌みが将軍宗尊親王の想像を遙かに超えるものであったことを意味している。

 

「然れば、舊記の載る所、彗星(けいしやう)の出る事、自躰(じたい)には、光なし。日の暉(ひかり)を假(かつ)て現見(あらはれみ)ゆ。この故に、夕(ゆふべ)には東に指(さ)し、朝(あした)には西にさす。芒(はう)の及ぶ所に、必ず、災變あり。その色靑きは、王侯破れ、天子、卽ち、兵に苦(くるし)む。赤きは、賊兵起(おこ)り、黃なるは、女色(ぢよしき)より權(けん)を害あり。后妃、その位を奪はる。黑きは、水邊の賊兵、江河(がうが)を塞ぎて、所々に起(おこ)る。今、是(これ)、白色なるものは、將軍逆責(ぎやくせき)の瑞(ずゐ)なり、と申し沙汰しければ」

 ここは「舊記の載る所……」以下、……瑞(ずゐ)なり」までの部分が、とある、まず一人目の学識自慢(ある意味では知ったかぶりの輩)の誰彼の意見の提示である。

●「自躰(じたい)には、光なし」とは、彗星それ自体は自らは発光しない、の意。

●「日の暉(ひかり)を假(かつ)て現見(あらはれみ)ゆ」太陽の光りを受けて(それを借りて)光り現われたように見えるのである。

●「芒(はう)の及ぶ所」彗星の尖端の光りの到る(即ち、彗星の進行するその先の)方向にある地域。

●「女色(ぢよしき)より權(けん)を害あり」支配している権力者が漁色に耽った結果として、政権全体にひどい乱れが起こり。

●「水邊の賊兵」海賊。

●「江河(がうが)を塞ぎて」海域や内陸水域を大規模に占拠してしまい。

●「所々に起(おこ)る」各所で反乱や騒擾を起こす。

 さて、問題はその後の部分で、

●「今、是(これ)、白色なるものは、將軍逆責(ぎやくせき)の瑞(ずゐ)也」とは、

 「今、まさに、今回のこのケースのように、その光りが白い彗星の場合は、将軍が何者かに反逆し、その結果として将軍が責めらたてられるという、悪しき前兆である。」

と「舊記」には書かれている、というのである。この喋っている男は、実は誰かのマワシモノっぽくは、ないか? だからこそ「傍」(かたはら)でそれを聴いていた「心ある」人物は実に正論でそれに応じているのではあるまいか?

●「異域(いゐき)」「本朝(ほんてう)」に対するので外国。

●「彗孛(けいはい)」彗星。「孛」は「光り輝くさま」以外に、「彗」同様に「ほうきぼし」の意がある。

 

「事なきは少(すくな)し」何事も起こらず、無事に済むことは確かに少なは見える。

「或は災(さき)なき時に出現したるは、記錄に載せざる事もあり」しかし、それは実際には彗星が出現したが、何事も変事の起こらずに過ぎた場合には、彗星の出現事態を全く記録を残さなかったケースもある。

「時に又は他方の災變にして、本朝の事には預(あづか)らざる例(ためし)もあり」それに彗星が出現したが、変事の起こったのが僻地や、とある辺縁的な地方の、或いはそうした所の局所的な地域での異変に過ぎなかったがため、京の朝廷は預かり知らぬこととして記録に残らず、人々の記憶にも残らなかったケースもある。

「寄(よ)るべからず」依るものであるとは限らない。

「漫(みだり)に逆威(ぎやくゐ)を振(ふる)ひて」特に理由もなく、悪逆非道な権威を揮って。

「制治(せいぢ)し」強権によって無理矢理に制圧し、独裁的支配を成し。

「理非邪正(りひじやしやう)を云(いは)ず」それが道理に叶っているか否か、それが邪(よこしま)なものかまことに従った正しいものか否かを問うことなく。

「我(われ)に阿順(あじゆん)する者に親(したし)み」自分(その権力者)に諂(へつら)って服従するふりをする奸悪なる者どものみと親しみ。

「法令、定(さだま)らず、朝(あした)に出(いづ)る事、夕(ゆふべ)には改(あらたま)り」朝令暮改。

「國家の間(あひだ)」一つの大きな国家の中に。

「諸藝堪能(かんのう)の輩(ともがら)」(賢者や知慮に優れた人、そして)諸芸に秀でているような人々。

「佞奸(ねいかん)の者」口先巧みに従順を装いつつ、その実、心の中は悪賢く、拗(ねじ)けている者。

「眉睫(びぜい)を搯(つま)み」「眉睫」は普通は「びせふ(びしょう)」で「まゆとまつげ」で、そこから非常に接近する譬え。「目睫 (もくしょう)の間」、非常に近いの意と同義に用いるが、ここは「気持ちが悪くなるほどに異様なまでに親しんで取り入り」の謂いであろう。

「邪曲(じやきよく)にして」激しい不正を行い。

「家々に黨(たう)を結び」各氏族どもが徒党を組み結び。

「彗孛(けいはい)の災(さい)なくとも、重き國家の愼(つ〻しみ)なり」彗星の禍(わざわ)いなんぞがなくとも、十分に致命的な、国家が重く慎まねばならないほどの危機的な状況ではないか。

「なにはに付ても」何事につけても。

「彈指(つまはじき)するも」前の訳知り顔に論じた輩(やから)を指弾(強く批難)する者も。 

「是をこそ珍事(ちんじ)と思ふ所に」この異様な彗星出現をこそ奇体なる珍事の極みと思うておったところが。

「巳刻」午前十時頃。

「小止(をやみ)なし」一時もやむことなく、蜿蜒と降り続く。

「晩景」夕方。

「泥の雨、頻(しきり)に降來(ふりきた)り、草木の葉に湛(たま)りては、枝葉、皆、垂臥(たれふし)たり」「吾妻鏡」文永三(一二六六)年二月一日の条に以下のようにある。

   *

○原文

一日乙丑。陰。雨降。晩泥交雨降。希代恠異也。粗考舊記。垂仁天皇十五年丙午星如雨降。聖武天皇御宇天平十三年辛巳六月戊寅日夜洛中飯下。同十四年壬午十一月陸奥國丹雪降。光仁天皇御宇寳龜七年丙辰九月廿日石瓦如雨自天降。同八年雨不降井水斷云々。此等變異。雖上古事。時災也。而泥雨始降於此時言語道斷不可説云々。

○やぶちゃんの書き下し文

一日乙丑。陰(くも)り、雨、降る。晩、泥、雨に交ぢりて降る。希代(けだい)の恠異(かいい)なり。粗(ほぼ)、舊記を考ふるに、垂仁天皇十五年丙午(ひのえうま)、星のごとくに、雨、降る。聖武天皇の御宇、天平十三年辛巳六月戊寅(つちのえとら)、日夜、洛中に、飯(いひ)、下(ふ)る。同十四年壬午(みづのえうま)十一月、陸奥國に、丹雪(たんせつ)、降る。光仁天皇の御宇、寳龜七年丙辰(ひのえたつ)、九月廿日、石・瓦、雨のごとく、天より降る。同八年、雨、降らず、井の水、斷(た)ゆと云々。

此等の變異は、上古の事と雖も、時の災(わざは)ひなり。而るに、泥の雨、此の時、始めて降る。言語道斷・不可説(ふかせつ)と云々。

   *

「先兆(ぜんてう)」ルビはママ。旧事例の年時日の問題点と考証は本文の後に出るので、そこで注する。 

「主殿助(とのものすけ)業昌、舊記に依(よつ)て勘文(かもん)を進ず」上記の通り、「吾妻鏡」では彼が言ったことにはなっていない。それでは叙述し難く、インパクトも弱いので、現実の映像化を図るため、筆者が行った確信犯の改変である。

「垂仁(すゐにん)天皇即位十五年丙午」機械的な西暦への置き換えでは紀元前十五年相当。

「聖武天皇天平十三年辛巳六月戊寅(つちのえとら)」この年(ユリウス暦七七六年)の六月は「乙未(きのとひつじ)」であり、しかもこの旧暦「六月」には「戊寅」の日はない。但し、教育社一九七九年刊の増淵勝一訳「現代語訳 北条九代記」によれば、これは「吾妻鏡」を無批判引いた結果の誤りであり、「天平十四年辛巳六月戊寅」の誤りであるとある(但し、増淵氏は「戊寅」を「つちのととら」と誤って訓じている)。これに従うなら、「天平十四年辛巳六月」五日が「戊寅」で、この日はユリウス暦で七四二年七月十一日に当たる。調べてみると、これは「續日本紀」の条によったものを「吾妻鏡」の筆者が誤写したことが判った。「續日本紀」の原文は確かに、『天平十四年六月戊寅【五】○戊寅。夜、京中徃往雨飯』(本文は「京中、徃往(わうわう)、飯の雨(まめふ)る」と読むか)となっていることが確認出来た。

「光仁天皇寶龜七年九月二十日」ユリウス暦では七七六年十一月九日。

 

 以下、「吾妻鏡」巻五十二の文永二(一二六六)年十二月十四日・十六日・十八日の記事を纏めてセットで、次に翌文永三年の一月十二日・十三日、二月一日・十一日の記事を同じくセットで示す。但し、関係のないと思われる箇所を一部、除去してある。まず前者、次に後者。

 

○原文

十四日戊寅。霽。今曉。彗星見東方。爰掃部助範元最前令參御所。客星出見之由申之。次晴茂朝臣彗星之由參申。其後。國繼。晴平。晴成献彗星勘文。

十二月大十六日庚辰。天晴。將軍家出御于庇御所。召司天等數輩。被仰下變異事。土御門大納言。左近大夫將監公時。伊勢入道行願。信濃判官入道行一以下。人々多以候簀子。司天等任位次申之。十三日陰雲之由一同申之。晴隆。十四日曉有近太白之至。數返雖窺見客星彗星不見之由申之。範元申晴耀之由旨。而猶伺見。可申子細之趣被仰下。太宰權少貳入道心蓮奉行之。

大十八日壬午。天晴。卯尅。彗星出見。長二丈餘。

○やぶちゃんの書き下し文

十四日戊寅。霽る。今曉、彗星、東方に見ゆ。爰に掃部助範元、最前に御所へ參ぜしめ、客星(かくせい)出見の由、之れを申す。次いで、晴茂朝臣、彗星の由、參じ申す。其の後、國繼・晴平・晴成、彗星の勘文を献ず。

十六日庚辰。天、晴る。將軍家、庇の御所に出御、司天等、數輩を召し、變異の事を仰せ下さる。土御門大納言・左近大夫將監公時・伊勢入道行願・信濃判官入道行一以下、人々多く以つて簀子に候ず。司天等、位次に任せて、之れを申す。十三日、陰雲の由、一同、之れを申す。晴隆、十四日の曉(あかつき)、太白の至に近づくこと有り。數返、窺(うかが)ひ見ると雖も、客星・彗星、見えざるの由、之れを申す。範元、晴耀の由の旨(むね)、申す。而うして猶ほ伺ひ見て、子細を申すべきの趣き、仰せ下さる。太宰權少貳入道心蓮、之を奉行す。

十八日壬午。天、晴る。卯の尅、彗星、出見(しゆつけん)す。長(たけ)二丈餘。

・「客星」は「きゃくせい」「きゃくしょう」(孰れも現代仮名遣)とも読み、常には見えず、一時的に現れる星を指す。これは広義には時期や明度の違いで普段は見えない恒星から新星や彗星まで含んだ謂いであり、ここでは彗星を除去した、それらの謂いで用いている。

・「陰雲の由、一同、之れを申す」全員が空を暗く厚い雲で星の観測が出来なかった報告し申し上げた、という謂いであろう。

・「太白星」金星。

・「至」不詳。所持する貴志正造訳注「全譯 吾妻鏡 第五巻」(一九七七年新人物往来社刊)ではこの字の右にママ注記があるから、この記載は不審らしい。

・「出見」出現。

 

○原文

十二日丙午。天晴。彗變御祈。金剛童子法大僧正隆辨。如法尊星王法安祥寺僧正。天地災變祭業昌。御使伊達藏人大夫。屬星祭國繼。御使池伊賀前司。

十三日丁未。霽。未尅雨降。酉尅屬晴。戌尅。被行彗變御祈。陰陽少允晴宗於御所西庭。奉仕如法泰山府君祭。雜事左近大夫將監宗政朝臣沙汰。所被奉獻鞍馬一疋。裸馬一疋。銀劔一腰也。此外。手筥二合【納紺絹。】。御雙紙筥。以上自御所被出之。御使常陸前司。將軍家出御其庭。

[やぶちゃん注:以上、一月(原文は「正月」)分。以下、二月。]

一日乙丑。陰。雨降。晩泥交雨降。希代恠異也。粗考舊記。垂仁天皇十五年丙午星如雨降。聖武天皇御宇天平十三年辛巳六月戊寅日夜洛中飯下。同十四年壬午十一月陸奥國丹雪降。光仁天皇御宇寳龜七年丙辰九月廿日石瓦如雨自天降。同八年雨不降井水斷云々。此等變異。雖上古事。時災也。而泥雨始降於此時言語道斷不可説云々。

廿日甲申。霽。寅尅。於御所被行變異等御祈。主殿助業昌。大學助晴長。修理亮晴秀。晴憲。大藏權大輔泰房。晴平。大膳權亮仲光等列座南庭。勤七座泰山府君祭。將軍家御出。縫殿頭師連奉行之。去十月十二日有御夢想。源亞相同時見夢。殊御怖畏云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十二日丙午。天、晴る。彗變の御祈。金剛童子法、大僧正隆辨。如法尊星王法、安祥寺僧正。天地災變祭、業昌。御使、伊達藏人大夫。屬星祭、國繼。御使、池伊賀前司。

十三日丁未。霽れ。未の尅、雨、降る。酉の尅、晴れに屬す。戌の尅、彗變の御祈を行はる。陰陽少允晴宗、御所の西庭に於いて、如法泰山府君祭を奉仕す。雜事は左近大夫將監宗政朝臣、沙汰す。鞍馬一疋・裸馬一疋・銀劔一腰を獻じ奉らるる所なり。此の外、手筥(てばこ)二合【紺絹を納む。】・御雙紙筥(おんそうしばこ)、以上、御所より之れを出ださる。御使は常陸前司。將軍家、其の庭に出御す。

[やぶちゃん注:以下、二月。]

一日乙丑。陰る。雨、降る。晩、泥(どろ)、雨に交りて降る。希代(けだい)の恠異なり。粗(ほぼ)舊記を考ふるに、

垂仁天皇の十五年丙午、星のごとくに、雨、降る。

聖武天皇の御宇、天平十三年辛巳六月戊寅の日の夜(よ)、洛中に飯(いひ)、下(ふ)る。

同十四年壬午十一月、陸奥國に丹(あか)き雪、降る。

光仁天皇の御宇、寳龜七年丙辰九月廿日、石・瓦、雨のごとく、天より降る。

同八年、雨、降らず、井の水、斷ゆ。

と云々。

此等の變異、上古の事と雖も、時の災ひなり。而るに、泥の雨、始めて此の時に降る。言語道斷、不可説と云々。

・「未の尅」午後二時頃。

・「酉の尅、晴れに屬す」午後六時頃。時期的に既にすっかり暗くなっている時間なので「雲がなくなって夜空は晴れた状態になっている」と言っているのであろう。

・「戌の尅」午後八時頃。

・「雙紙筥」草紙を入れる文箱。

・「天平十三年辛巳六月戊寅」注で既に述べた通り、「天平十四年辛巳六月戊寅」の誤り。

 

 最後に、湯浅吉美氏の優れた論文「『吾妻鏡』に見える彗星と客星について─鎌倉天文道の苦闘─」(PDF)からこの文永二年十二月十四日と十六日の記事についての解説を引きたい。なお、筆者は文永二年十二月十四日の記事を【12-1】、十六日のそれを【12-2】として表示されている。なお、注記号は除去した。

   《引用開始》

 まず【12-1】によると、最初に安倍範元が客星と報告した。続いて晴茂が参って彗星と申した。さらに国継・晴平・晴成らが彗星勘文を提出した。つまり現れた異星が、客星なのか彗星なのか、陰陽師らの間で意見の相違が生じたのである。

 次に【12-2】では、将軍宗尊親王自ら出御あって、陰陽師らの意見を徴したところ、結局は客星も彗星も見えないという答えであった。では、1日に範元らが、やれ客星だ、いや彗星だと騒いだのは何だったのか。このとき範元も客星と答申せず、いささか不自然に感じられる。何やら意図的に「将軍を安心させよう」としているようにも思える。しかし将軍親王は安堵せず、さらに観望を続けて報告するよう指示した。天変を畏怖し、それに備えねばならぬとの胸中であろう。

 ところが2日後、無情にも彗星が現れた。尾の長さが20度に及べば、誰もが気付く)。27日夕刻には西天の室宿(ペガスス座西部)に在り、越えて翌年元日の夜にもまだ壁宿(同東部)に見えた。そこで、1213の両日、御祈を行なっている。

 実際にはたしかに彗星が出現していた。太政官の『外記日記』には1211日から正月9日まで毎日のように出現記録があり、1213日から15日の間も続いて見えているから、【12-2】は一層不審である。ただし『一代要記』を見ると、16日より不見とある。南北朝時代の『師守記』(中原師守の日記)に7月5日から見えたとあるのは疑わしいが、ともかく多くの史料に記載されている。ゆえに、ひと月ほど彗星が見られたことは間違いない。『吾妻鏡』の記述は簡単に過ぎるけれども、鎌倉においても彗星の出現は凶兆と受け止められ、とくに将軍の身に悪影響を及ぼすと考えていたことがここでも窺われる。ただし【12-5】の中略部分に拠ると、正月の儀礼である垸飯(おうばん)は滞りなく行なわれたことが知られる。その点、日蝕など他の天変と比べて彗星・客星の変は、政務や行事に日程変更を逼る度合いは、鎌倉では強くなかったようである。

   《引用終了》

最後の【12-5】とは文永三(一二六六)年一月一日の記事。以下に総て示しておく。

 

○原文

一日乙未。天霽風靜。垸飯飯【相州御沙汰】。御簾前大納言。御劔越前前司時廣。御調度右馬助淸時。御行騰秋田城介泰盛。御馬五疋。昏黑。彗星見西。壁八度。

○やぶちゃんの書き下し文

一日乙未。天、霽れ、風、靜かなり。垸飯【相州の御沙汰】。御簾(みす)、前大納言。御劔(ぎよけん)、越前前司時廣。御調度、右馬助淸時。御行騰(おんむかばき)、秋田城介泰盛。御馬五疋。

昏黑(こんこく)、彗星、西に見ゆ。壁(へき)の八度。

・「相州」北条時宗。但し、この時はまだ連署である。

・「御簾」将軍と同じ御簾内にいて控える者の謂いか。

・「前大納言」土御門顕方(生没年未詳)。中院(なかのいん)(土御門)通方の子であるが、土御門定通の養子となった。

・「越前前司時廣」北条時広(貞応元(一二二二)年~建治元(一二七五)年)。北条時房次男北条時村の子で当時は既に評定衆。和歌が得意で将軍の歌席寄人や歌仙結番に選ばれた、北条家一門随一の風流文化人であった(以上はウィキの「北条時広に拠った)。

・「御行騰」本来は旅行や狩猟などの際に足を蔽った布或いは革製の防具を指し、現在も流鏑馬(やぶさめ)の装束に用いる(元は「向か脛(はぎ)」に穿(は)く意)が、ここは将軍の新年の行事としてそれを穿かせる行事があり、それを担当したということか。

・「秋田城介泰盛」幕政を主導する中枢の一人安達安盛。当時は北条(金沢)実時とともに越訴方頭人(おっそかたとうにん:「越訴方」は文永元(一二六四)年に新設された幕府訴訟機関。それまで一次審理を行っていた引付衆が担当していた越訴(主に正規の法手続を省略してなされる再審請求)等を専門に扱う部署。そこの長官)。

 最後の彗星の記事については、前の「年を越えて消退せざりければ」の私の注を参照のこと。]

 

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