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2016/11/30

谷の響 四の卷 二十 天狗人を攫ふ

 

 二十 天狗人を攫ふ

 

 弘化午の年、新寺町玄德寺の住職京師に昇り本山【本願寺なり。】の學寮にありしとき、最上のもの四人同道にて本山參りを致し、其うち一個(ひとり)の者四月二日に御剃刀といふを頂くとて出けるが、その日黃昏(くれあひ)に及べども來らず。同行のものいと不審(いぶかり)て人を雇ひて探索(たづねもとむ)れども、遂に踪跡(ゆくえ)しれずして三日を過たりしに、本山より其者を最上の寮へ遣はしていへるには、此もの發狂せしと見ゆるなればよくよく介抱すべしとて、醫師を添へられて送りたるに衆々(みなみな)いと愕然(おどろ)き、種々(いろいろ)劬(いたは)れども顏色靑ざめて物も得言はず、たゞ慴(ふるえ)怕(わなゝ)き動(やゝ)もすれば駈出んとするを、手を捕り足を押へて停留(とゞめ)置にき。されど日數ふるまゝに看病のものも勞疲(くたびれ)て耐へ得ざれば、本山の下知にて寮に居合せたるもの代々に晝夜とも傍にあらしめて扱ひさせたるに、十四五日ばかり過て漸々正氣なりければ、そのありし事址(こと)ども尋ぬるにいらへけるは、御剃刀を頂き廊下を通れる時、五十あまりの老人と覺しき修驗(やまぶし)のいと尊ふとげなるが一個(ひとり)來りて、我に善き廰堂(ざしき)を見すべし此方へ來よといふて、手を採ると覺えしが卽便(そのまゝ)飛鳥の如く走りて何處といふ差別も分らざりしに、修驗のいへるにはその着たる肩衣を取り棄てよと言へるから直(すぐ)に脱ぎすてたりしに、又暫くして懷中のものも棄てよとありければ、是は私先祖より傳へ來れる佛像にて、臺座の缺損(いたみ)を修覆せんためわざわざ大衢(みやこ)まで持來りしことなれば免許(ゆるし)玉はれと言ひしかど、更に諾(うべな)はずして彌(いよいよ)棄よと言ひしから、私も手を折りて萬般(さまさま)に願(ね)ぎたりしかば、さらば己れを棄つべしとてそのまゝ頸筋を摑(つかま)へて杳(はるか)に抛(なげ)られたりと覺しが、夢の覺たる意氣(こゝち)にて四邊(あたり)を觀望(みまは)せば、※廰(ざしき)の結構言はん方なく障子を開て見れば樓閣(にかい)とおぼしき故、梯子を索(たつ)ねて下りて見るに又※廰(ざしき)ありて初のごとし[やぶちゃん字注:「※」=「濵」より(さんずい)を除去したもの。]。こは何處にてあらんとその下を望觀(のぞみみ)るに、男か女かわからねど色淸らかにいと尊とげなる人の白き裝束を服し玉ひたるが獨御在(はし)て、私を囘視(かへりみ)玉ひて人を呼で過傷(けが)ばしさせぬやうに計ふべしと宣(のり)玉ひしを聞けるが、何とやらん凌懼(ものおそろ)しく身の毛逆立樣に覺しが、又昏迷(たふれ)てそのあとは知らずなりしと語りしなり。

 こはこれ嚮(さき)の修驗は天狗にて、その投墮されたる處は萬惶(もつたい)なくも内裡の御層樓(さんかい)にて、白き御裝束を穿(め)し玉ひたるはいといとかしこかれど今上皇帝にわたらせ玉ひしとなり。然るに檢非違使の御方にてこれを禁綱(いましめ)按察(ぎんみ)あれど、狂氣して何の辨へもあらざればそが懷中を査(あらた)め視るに、御剃刀頂戴の時御ながれを下さるよしにて其土器(かはらけ)が有しかばへ是必(さだめて)一向宗の徒(もの)なるべしとて本山へ屆けられしとなり。さるに此係りの醫師の話に、龍顏を上より拜する時は必ず死するものなり。されど狂氣の中は幾年も活延(いきの)べけれど、本性となりては活助(たすかる)ものなし。疾く國元へ下すべしとて、卒(にはか)に整點(したく)させて寮を退去(さらせ)けるとなり。こは此玄德寺も介抱してその者より直に聞たるとて語りしなり。

 

[やぶちゃん注:「攫ふ」「さらふ」。

「弘化午の年」弘化三年丙午(ひのえうま)。一八四六年。

「新寺町」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「玄德寺」既出既注であるが、再掲する。底本の森山氏の補註に『弘前市新寺町にある浄土宗法源寺塔頭であった大会山玄徳寺。文禄四年』(一五九四年)『南津軽郡浪岡に開創、慶安三年』(一六五〇年)『弘前に移転したという。今はない』とある。法源寺は同町の真教寺の真西に専徳寺という寺を挟んで現存するから(先のYuki氏のブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」にはこの「遍照山法源寺(弘前市新寺町・大浦城の移築門)」もある)、この法源寺の周辺(グーグル・マップ・データ)にあったのであろう。それにしても、まさに新寺町というだけに現在も軒並み、寺が密集している。

「本山【本願寺なり。】」通常は単にこう書いた場合、京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル門前町にある、浄土真宗本願寺派の本山龍谷山(りゅうこくざん)西本願寺を指す。

「最上」出羽国最上郡地方のことであろう(底本の森山氏もそう推定されておられる)。最上郡は現存する群であるが、古くのそれは遙かに郡域が広く、本書の記載に近い幕末時点では、出羽国に属し、全域が新庄藩領であった。ウィキの「最上郡」を参照されたい。

「四月二日」グレゴリオ暦では四月二十七日。

「御剃刀」「おかみそり」。元来は戒師が出家する者に戒を授けて髪を剃ることを指すが、ここは現行「帰敬式」と呼ばれている、宗祖親鸞の「教え」に基づき、仏・法・僧の三宝に帰依することを誓う儀式と思われる。東本願寺の公式サイト内の「帰敬式」によれば、受式すると仏弟子としての名前である「法名」(釋○○あるいは釋尼○○)が生前に授与されるとある。

「最上の寮」或いは天理教の「おやさと(親里)」のように、西本願寺には各地方(国・郡)に分けられた宿泊所(或いはそれを含む大きな奥羽レベルでの宿所で、さすれば、弘前の修行僧が一緒であるのも納得がゆく)があったものかも知れない。

「劬(いたは)れども」「勞はれども」。「劬」には「疲れる」の外に「労わる」の意がある。

「駈出ん」「かけいでん」。

「停留(とゞめ)置にき」「とどめおきにき」。二字へのルビ。

「ふる」「經る」。

「勞疲(くたびれ)て」二字へのルビ。

「代々に」「かはるがはるに」。

「傍」「そば」。

「過て」「すぎて」。

「漸々」「ようよう」。漸(ようや)く。

「事址(こと)」二字へのルビ。

「尊ふとげ」「たふとげ」。

「廰堂(ざしき)」二字へのルビ。

「此方」「こなた」。

「卽便(そのまゝ)」二字へのルビ。

「飛鳥」「ひてふ」。

「何處といふ差別も分らざりしに」何処(いづこ)へ参るかということさえも判らずに。周りが全く見えぬほどの速さで連れ行くその途中に。

「肩衣」「かたぎぬ」。ここは袈裟の意。

「大衢(みやこ)」二字へのルビ。「衢」は訓「ちまた」で、人が大勢集まっている、賑やかな通りの意から、町中、ここは「おほやちまた」で京都を指す。

「免許(ゆるし)」二字へのルビ。

「棄よ」「すてよ」。

「萬般(さまさま)に」二字へのルビ。「さまざまに」。いろいろと。

「願(ね)ぎ」「ねぐ」「祈ぐ」で、本来は神仏に向かって祈る・祈願するの意。仏像の破却はどうか御容赦あれと冀(こいねが)い。

「己れを」「おのれを」。お前を。

「覺たる」「さめたる」。

「意氣(こゝち)にて」二字へのルビ。

「觀望(みまは)せば」二字へのルビ。

「※廰(ざしき)の結構言はん方なく」(「※」=「濵」より(さんずい)を除去したもの)その座敷の間の入り口の様子の驚くべき広さと豪華さは謂いようもないほどで。

「開て」「あけて」。

「樓閣(にかい)」二字へのルビ。

「梯子」「はしご」。階段。

「索(たつ)ねて」読みはママ。手で支えてつつ。

「初のごとし」「はじめ」。先に見た座敷と、これまた同じような、豪華絢爛なる広座敷があった。

「何處」「いづく」。

「獨御在(はし)て」「ひとり、おはして」。

「呼で」「よんで」。

「過傷(けが)ばしさせぬやうに計ふべし」「けが(を)ば、しさせぬ樣にはからふべし」。怪我などを、致さぬように、はからってやるがよい。

「聞けるが」「ききけるが」。

「凌懼(ものおそろ)しく」二字へのルビ。

「逆立樣に覺しが」「さかだつやうにいおぼえしが」。

「昏迷(たふれ)て」二字へのルビ。

「嚮(さき)の」最初の。「嚮」は「向」に同じい。

「投墮されたる」「なげおとされたる」。

「萬惶(もつたい)なくも」二字へのルビ。「勿體なくも」。畏れ多くも。

「裡」「うち」。内裏。

「御層樓(さんかい)」「ごさんかい」三層構造の内裏の最上階の謂いか。但し、これが二条城ということにあるが、同城の天守は、取付矢倉が付属する層塔型五重五階の天守であったものの、これは寛延三(一七五〇)年に落雷で焼失、それ以降は再建されていない。それとも、江戸後期に三層階の建物が禁裏の中にあったものか。識者の御教授を乞う。

「穿(め)し」「召す」。「着る」の尊敬語。

「今上皇帝」恐らくは孝明天皇である。先代の仁孝天皇は弘化三年一月二十六日に崩御しているからである。

「檢非違使」「けびいし」。禁裏内の警察機構の長であるが、この当時のそれは有名無実と思われ、捕縛は判るが、以下のような尋問・聴取も任されていたかどうかは、甚だ疑問と思うが、如何?

「禁綱(いましめ)按察(ぎんみ)あれど」それぞれ二字へのルビ。

「辨へ」「わきまへ」。

「御ながれ」不詳。次に「土器(かはらけ)」とあるから、酒席で貴人や目上の人から杯を受けて、これに注いで貰う酒。辞書によれば、古くは飲み残しの杯を渡されてそのまま飲んだとあることを指すか。肉食妻帯を宗旨として許す真宗は酒を飲むことは禁じていないと思われる。或いは、酒に見立てた水盃かも知れぬが、まあ、識者の御教授を乞う。

「有しかば」「ありしかば」。

「是」「これ」。

「此係り」「このかかはり」。これに関わった。

「龍顏」天皇の顔。

「中は」「うちは」。

「本性」正気に戻ること。

「活助(たすかる)」二字へのルビ。

「疾く」「とく」。早く。

「下す」「くだす」。

「整點(したく)させて」二字へのルビ。私はピンとこない熟語である。

「こは此玄德寺も介抱して」これはこの、当時、修行僧として西本願寺に修学した、現在の住持も、彼の介護を輪番で担当して。

「直に」「ぢかに」。]

北條九代記 卷第十 一院崩御 付 天子二流 竝 攝家門を分つ

 

      〇一院崩御  天子二流  攝家門を分つ

 

同二月十七日、一院後嵯峨〔の〕法皇、崩御あり。寶算(はうさん)五十三歳、初(はじめ)、御位を後深草院に讓り給ひて後も、なほ、院中にして政事(せいじ)を聞召し給ふ事、二十餘年、世聞、物靜(ものしづか)にて、天下四海、穩(おだやか)なりければ、宸襟(しんきん)、御物憂(う)き事もおはしまさず。御遊(ぎよいう)、歌の會、諸方の御幸(ぎよかう)に月日を送らせ給ふ。御(ご)果報、いみじき天子にて渡(わたら)せ給ふ。この分にては何時(いつ)まで存(ながら)へさせ給ふとも、愈(いよいよ)、めでたき御事なるべしと雖も、人間(にんげん)愛別の歎(なげき)、四大離散の悲(かなしみ)は誰(たれ)とても遁(のが)まるじき習(ならひ)なれば、忽(たちまち)に無常の風、荒く吹きて、有待(うだい)の花、萎落(しぼみおち)させ給ひ、鼎湖(ていこ)の雲、治(をさま)りて、蒼梧(さうご)の霞(かすみ)に隔り給ふこそ悲しけれ。御遺勅ありけるは、「これより後の皇位は、新院後深草院と、當今龜山院と、御兄弟の二流、代々(かはるがはる)卽位あるべし」と仰せ置(おか)れしと、世には申し傳ふれども、實(まこと)には北條時宗、朝廷を分けて、二流とし、其勢(いきほひ)を薄くし奉らんが爲に、かの二流、代々(かはるがはる)、御治世あるべしと、計(はからひ)申しけるとぞ聞えし。是より以前、後鳥羽院、承久の亂の時、西園寺公經卿(さいおんじのきんつねのきやう)、志を鎌倉に通(かよは)し、左京大夫北條義時に心を合せて、京都の手術(てだて)を計(はか)られしかば、天下、静(しづま)りて後に、義時、其志を感じて西園寺を推擧し、禁中の事を執賄(とりまかな)はせ參らせしかば、公經卿より、子孫、榮え、官位高く昇進し、大相國(だいしやうこく)に經上(へあが)り、太政大臣實氏公の御娘(おんむすめ)、後嵯峨院の中宮となり、この御腹(おんはら)に後深草、龜山兄弟を生み參(まゐら)せらる。是等も皆、關東の計(はからひ)に依(よつ)て、この西園寺を執(しつ)せらる〻所なり。又、往初(そのかみ)は、攝政關白になり給ふは近衞殿、九條殿、只、二流なりけるを、四條〔の〕院仁治三年に良實公、關白になり給ふ。是(これ)、二條殿の御先祖なり。後嵯峨〔の〕院寛元四年に實經公、關白となり給ふ。是、一條殿の御先祖なり。後深草院建長四年に兼平公、攝政となり給ふ。是、鷹司殿の先祖なり。今に傳へて五攝家とは申習(まうしなら)はしける。是も鎌倉最明寺時賴入道の執權せむより、攝政關白の御家を數多に分けて權威を磷(ひすろ)げ參らせける所なり。今、又、相摸守時宗、執權の世に當(あたつ)て、天子の御位をも、二流に分ち奉り、變る變る、王位を繼がせ奉る事、偏(ひとへ)に皇孫、兩岐にして、王威(わうゐ)を恣(ほしいま〻)にさせ奉るまじき方便(てだて)なり。只、西園寺の家のみ、殊に當時は天子の御外戚となり、淸華(せいくわ)の家には肩を竝(なら)ぶる人なく、權威、高く輝きて、朱門金殿、甍(いらか)を磨き、榮昌(えいしやう)、大にす〻みて、紺宇玉砌(こんうぎよくぜい)、軒(のき)を合せたり。如何なる王公大名といへども、禮を厚く、敬を盡し、その心を取りて、崇仰(そうがう)せらる。出で入る輩(ともがら)までも餘の人は眉目(みめ)として、羨しくぞ思ひける。

 

[やぶちゃん注:標題中の「攝家門を分つ」の「門」は「かど」と訓じている。

「同二月十七日」文永九年(ユリウス暦一二七二)。前章後半の「二月騒動」(同年一月)を受けているので「同」となる。グレゴリ暦換算では三月二十七日。

「寶算(はうさん)」天皇の年齢を言う場合の尊称。

「宸襟(しんきん)」天子の御心(みこころ)。

「御(ご)果報」仏教的な前世からの御果報、の謂い。

「有待(うだい)」「うたい」とも読む仏語。「人間の体」の意。衣食などの助けによって初めて「待」(頼みとして期「待」されること)が「有」(保たれて「有」る)ものであるところから、かく言う。

「鼎湖(ていこ)」中国の伝説上の皇帝で五帝の第一とされ、漢方の始祖的存在である黄帝の亡くなった場所で盛大にして豪華な葬儀もそこで行われたという地の後の称。皇帝はここから龍に乗って登仙したともされるから、この「雲、治りて」はその情景を後嵯峨院の葬送の儀が滞りなく行われたことに擬えたものであろう。

「蒼梧(さうご)の霞(かすみ)に隔り給ふ」「蒼梧」は湖南省寧遠県にある山で、中国古代の五帝の一人である舜の墓があるとされる地であるから、ここも前の「鼎湖、雲、治りて」との対句表現で後嵯峨院が、春霞とともに(前に示した通り、旧暦二月十七日でグレゴリ暦換算では三月二十七日である)白玉楼中の人となって永遠に去ったことを示す。

「承久の亂の時」ユリウス暦一二二一年。

「西園寺公經」(承安元(一一七一)年~寛元二(一二四四)年)は第四代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇中宮姞子の祖父であり、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・幕府第五代将軍藤原頼嗣曾祖父となった稀有な人物で、姉は藤原定家の後妻で定家の義弟にも当たる。既注であるが再掲しておく。源頼朝の姉妹坊門姫とその夫一条能保の間に出来た全子を妻としていたこと、また自身も頼朝が厚遇した平頼盛の曾孫であることから鎌倉幕府とは親しく、実朝暗殺後は、外孫に当る藤原頼経を将軍後継者として下向させる運動の中心人物となった。承久の乱の際には後鳥羽上皇によって幽閉されたが、事前に乱の情報を幕府に知らせて幕府の勝利に貢献、乱後は幕府との結びつきを強め、内大臣から従一位太政大臣まで上りつめ、婿の九条道家とともに朝廷の実権を握った。『関東申次に就任して幕府と朝廷との間の調整にも力を尽くした。晩年は政務や人事の方針を巡って道家と不仲になったが、道家の後に摂関となった近衛兼経と道家の娘を縁組し、さらに道家と不和であり、公経が養育していた道家の次男の二条良実をその後の摂関に据えるなど朝廷人事を思いのままに操った。処世は卓越していたが、幕府に追従して保身と我欲の充足に汲々とした奸物と評されることが多く』、『その死にのぞんで平経高も「世の奸臣」と日記に記している』(平経高は婿道家の側近であったが反幕意識が強かった)。『なお、「西園寺」の家名はこの藤原公経が現在の鹿苑寺(金閣寺)の辺りに西園寺を建立したことによる。公経の後、西園寺家は鎌倉時代を通じて関東申次となった』(引用を含め、ウィキの「西園寺公経」に拠った)。

「大相國(だいしやうこく)」太政大臣。

「太政大臣實氏公の御娘(おんむすめ)」公経の子西園寺実氏の長女大宮院(おおみやいん)姞子(きつし)。

「四條〔の〕院仁治三年」四条天皇の一二四二年。

「良實公、關白になり給ふ」弟に第四代鎌倉将軍藤原頼経を持った二条良実(建保四(一二一六)年~文永七(一二七一)年)は、西園寺公経の推挙で同年一月二十日に関白宣下を受けている。但し、公経が死去とともに朝廷は実父(次男)でありながら、仲の悪かった九条道家に掌握されてしまい、不本意ながら、父の命で寛元四(一二四六)年一月に関白を弟一条実経に譲った。ところが寛元四(一二四六)年の宮騒動で父道家は失脚し、道家の死後(建長四(一二五二)年)、再び勢力を盛り返して、弘長元(一二六一)年には再び関白に返り咲いた。その後、文永二(一二六五)年に再び弟の一条実経に関白職を譲ってはいるものの、以後も彼は内覧として朝廷の実権を掌握し続けた。

「後嵯峨〔の〕院寛元四年」一二四六年。前注参照。

「後深草院建長四年」一二五二年。

「兼平」鷹司兼平(安貞二(一二二八)年~永仁二(一二九四)年)は関白近衛家実四男。

「磷(ひすろ)げ」既出既注。「磷」(音「リン」)は「流れる・薄い・薄らぐ」の意で「擦れて薄くする」「力の集中を弱らせる」の意。

「變る變る」「代わる代わる」。

「兩岐にして」二流に分岐させて(内部で対立を起こさせて朝廷のコアの部分をも弱体化させ)。

「淸華(せいくわ)の家」狭義の「清華家(せいがけ)」は公家の家格の一つで、最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する格式の家系を指す。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることの出来る当時の七家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)を指す。

「榮昌(えいしやう)」栄華。繁栄。

「紺宇玉砌(こんうぎよくぜい)」紺色で美しく彩色したかのように見える豪華な軒や、宝玉を彫琢して作られた階(きざはし)。孰れも貴人の絢爛たる豪邸を指す。

「その心」西園寺家当主の御心。

「を取りて」に取り入って。

「崇仰(そうがう)」崇(あが)め奉り、ありがたく拝み申し上げること。

「出で入る輩(ともがら)までも餘の人は眉目(みめ)として、羨しくぞ思ひける」西園寺家に出入りするというだけのことで、その人々までも、他の人々はそれだけでも「眉目」(みめ:面目・名誉の意)として、羨ましく思うたのであった。]

谷の響 四の卷 十九 食物形を全ふして人を害す

 

 十九 食物形を全ふして人を害す

 

 安政二乙卯の年のことなるが、上十川村の百姓某といへる者、腹の内にかたまりありていたくなやみけるが、醫藥もしるしなくほとほと死なんとして家内の者にいへりけるは、吾死して腹中にこの病をたくはへたらんにはうかぶよしなし、すみやかに腹をさいて塊物(かたまり)を取除くべしとてつひにむなしくなりにけり。さるにそのあくる日、屍を葬場へかついでひそかに腹をさいてそのこゞりを取出しこれをといて見るに、世にサモタチといふ茸の笠の徑(わた)り二寸餘りなるもの一ひらありて、この茸少しのきずもなく形狀そのまゝにてありしとぞ。斯ばかりの茸たゞに呑むべきよしもなく、又きりわらで食ふべきこともなき筈なるに、いとあやしきことなりとて、これが療治せる桑野木田の醫師島田某の語りしなり。又この醫師の話に、蕨に中(あて)られて苦しむもの、大かたは一本のまゝの蕨をはくことありき。こもきりたゝでくふべきものにあらざれど、數人を見るにみなしかありしなりと言へりき。

 さて、これによりて思ひ出ることあり。さるは文政の年間、同町に田中屋淸兵衞といへる豆腐屋ありしが、主淸兵衞なるもの性好んで鯡の子を食(くら)へつること數十年なりしに中(あて)られたることなかりしが、ある日これに中られいたく腹をなやみ、四日の間夜晝のわかちなく苦しみて、わづかの飮食も呑ともくだらず藥もしるしなさゞりしに、病て四日といふ夜に至りげつといふて吐下(はきくだ)せるものあり。こをとりて見るに一枚(ひとひら)の數の子の少しも缺損(かけいた)まぬ其まゝのものにて有りしとなり。病人はこの物を吐いてよりちとばかり落ちつきたる樣子なれども、精氣盡きたりけん其明方に失せにけりとなり。

 又これも同じ事なるが、文政の末年近隣なる高瀨屋三郎右衞門と言へるもの、小章魚(たこ)を食ひてこれに中てられ、又夜晝のわかちなく苦しみけるに病みて七日といふに、當れる小章魚の脚の八九寸なるもの一すぢを吐き出せり。これ亦痛みなく生のまゝにてありしなり。さるにこの人年六十にあまりて常によわき生れつきゆゑか、二日目に空しくなりぬ。又天保の年間、井桁屋小太郎といへるもの何にくひあてられしや、こも食ひたるものをそのまゝに吐きいたせる話ありしが、病みて三日にして失せたりき。こを醫師にたづぬれど、うへのぶべきあげつらひもあらざりしなり。さりとはあやしきことなり。

 

[やぶちゃん注:第一例(第一段落の主記載のもの)については、腹部を剖検して出ているところから、内臓に出来た巨大ポリープ(死因がそれならば癌であって播種していたのかも知れぬ)の可能性が高いように思われる。一部のポリープは素人が肉眼で見ても茸によく似ているからである。その後の蕨の例、数の子の例及び蛸の足の例は孰れもよく判らない。特に後者は二例とも死亡しており、気にはなる(数の子や蛸それ自体がその死因ではないと思われるが)。数の子のケースは実は鯡の卵巣ではなく、フグ類のような何らかの強い毒性を持った魚の卵巣、或いは深海性のワックス(高級脂肪酸)を多量に含んだ魚類の内臓や身の過食などが想起はされるものの、不明である。識者の御教授を乞う。

「全ふ」「全(まつた)う」が歴史的仮名遣としては正しい。

「安政二乙卯の年」安政二年は乙卯(きのとう)でグレゴリオ暦では一八五五年。

「上十川村」青森県黒石市上戸川(かみとがわ)村。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「ほとほと」殆んど。

「うかぶよしなし」死んでも浮かばれぬ。余程、痛みが激しかったのであろう。

「こゞり」「凝り」。凝り固まったもの。しこり。

「といて」「解いて」。内臓との癒着が激しかったことから、かく表現したものか。

「サモタチ」秋田県生まれの永田賢之助氏の紹介になる秋田の茸の詳述サイト内の「サワモダシ(俗称)」を見ると、標準主要種を「ナラタケ」としつつ、『近似種にナラタケモドキ、ヤチヒロヒダタケがある。これらをいっしょくたにサワモダシと呼んでいる』と記されてあり、『サワモダシは消化が良くないので食べ過ぎないこと。また、生だと中毒を起こすので料理には注意が必要サワモダシの幼体に似ているのが猛毒ニガクリタケ』と注意を喚起してある(下線やぶちゃん)。なお、

「ナラタケ」は菌界担子菌門菌蕈(きんじん)亜門真正担子菌綱ハラタケ目キシメジ科ナラタケ属ナラタケ亜種ナラタケ Armillaria mellea nipponica

「ナラタケモドキ」はナラタケ属ナラタケモドキ Armillaria tabescens

「ヤチヒロヒダタケ」はナラタケ属ヤチヒロヒダタケ Armillaria ectypa

で、

猛毒で死亡例も多い「ニガクリタケ」はハラタケ目モエギタケ科モエギタケ亜科クリタケ属ニガクリタケ Hypholoma fasciculare

である。「サワモダシ」と「ワモタチ」は音が近似しているように私は感じるので(特に東北方言ではこの二語は実はかなり似て聴こえるように思うのである)、これを最有力候補として掲げておく。

「二寸」六センチメートル。

「一ひら」「一枚」。「ひら」は薄く平らなものの数詞。

「斯」「かく」。

「きりわらで」「切り割らで」。

「桑野木田」現在の青森県つがる市柏(かしわ)桑野木田(くわのきだ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。五所川原の南西。

「蕨」「わらび」。シダ植物門シダ綱シダ目コバノイシカグマ科ワラビ属ワラビ Pteridium aquilinumウィキの「ワラビ」によれば、『牛や馬、羊などの家畜はワラビを摂取すると中毒症状を示し、また人間でもアク抜きをせずに食べると中毒を起こす』。また、『ワラビには発癌性のあるプタキロサイド(ptaquiloside)』が約〇・〇五~〇・〇六%含まれる』。『また、調理したものであっても大量に食べると全身が大量出血症状になり、骨髄がしだいに破壊され死に至る。しかし、ワラビ中毒がきのこ中毒のように問題にならないことから判るように、副食として食べている程度ならば害はない。またアク抜き処理をすればプタキロサイドはほとんど分解される』とあり、一九四〇年代に、『牛の慢性血尿症がワラビの多い牧場で発生することが報告され』、一九六〇年代には、『牛にワラビを与えると急性ワラビ中毒症として白血球や血小板の減少や出血などの骨髄障害、再生不能性貧血、あるいは血尿症が発生』『し、その牛の膀胱に腫瘍が発見された。これが現在のワラビによる発癌研究の契機となった』とある、更にウィキの「ワラビ中毒」によれば、『人でも適切にアク抜きをせずに食べると中毒を起こす(ビタミンBを分解する酵素が他の食事のビタミンBを壊し、体がだるく神経痛のような症状が生じ、脚気になる事もある)。また、調理したものであっても大量に食べると体じゅうが大量出血症状になり、骨髄がしだいに破壊され死にいたる。しかし、ワラビ中毒がきのこ中毒のように問題にならないことから判るように、副食として食べている程度ならば害はない。一方、ワラビ及びゼンマイはビタミンBを分解する酵素が含まれる事を利用して、精力を落とし身を慎むために、喪に服する人や謹慎の身にある人、非妻帯者・単身赴任者、寺院の僧侶たちはこれを食べると良いとされてきた』ともある。ダブるが、後者の最後の部分が面白く、示しておきたかったので敢えて引いた。

「文政の年間」一八一八年~一八三〇年。平尾は今まで「年間」を「ころ」と和訓している。

「同町」これは前提示の町を指すのではなく、筆者平尾魯僊の実家のあった紺屋町(現在の弘前市紺屋町(こんやまち)。弘前城の西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ))と「同」じ「町」の謂いである。

「主」「あるじ」。

「性」「しやう」。生まれつき。

「鯡の子」「にしんのこ」。条鰭綱ニシン目ニシン科ニシン属ニシン Clupea pallasii の卵巣である数の子。当時(江戸以前)のそれは、現在のそれとは異なり、の腹から取り出した卵塊を天日干しした「干し数の子」(水で戻して食する)である。私が小学生の頃までは、干し数の子が乾物屋の前で山積みされて、えらく安い値で売られていたのを思い出す。ウィキの「数の子」によれば、『日本以外の地域では近隣のアジア諸国、およびニシンの漁獲量が多い北米、ロシア、欧州などの地域でも、カズノコを食用にする習慣は一般的ではない。それらの地域では日本に輸出を開始する以前はカズノコを廃棄していた』とある。なお、数の子の有毒化というのは聴いたことがなく、同ウィキには、『数の子にはコレステロールが含まれているが、そのコレステロールを消し去るだけのEPA(エイコサペンタエン酸)が含まれている。コレステロール値が減少する結果も出ている。また痛風の原因となるプリン体は、ごくわずかしか含まれていない』とある。魚卵=尿酸値上昇とする馬鹿の一つ覚えは、やめたが、いい。私は好物である。

「食(くら)へつる」ママ。「くらひつる」。

「呑ともくだらず」「のむとも下らず」。大小便の排泄が停止しているようである。排便がないのはいいとしても、小水が出ていないとなると、これは重篤な腎不全が疑われ、それが彼の直接の死因なんではあるまいか?

「しるしなさゞりしに」「驗成さざりしに」。効果が全く見えなかったところが。

「病て」「やみて」。

「文政の末年」一八三〇年。文政は十三年十二月十日(グレゴリオ暦では翌一八三一年一月二十三日に天保に改元されている。

「近隣なる」これも紺屋町である。

「小章魚(たこ)」「こたこ」或いは「ちさきたこ」。「たこ」は「章魚」二字へのルビ。

「これに中てられ」何らかの細菌性食中毒(サルモネラ菌や腸炎ビブリオ)は別であるが、蛸の生食による蛸自体の病原性中毒は知られていないと思う。

「痛みなく」腐っておらず、しかも噛み砕いたりした損傷、切ったり調理したり痕が全く見られない、という謂いであろう。

「常によわき生れつきゆゑか」死因は別にありそうに私には思われる。

「天保の年間」一八三〇年から一八四四年。

「井桁屋小太郎といへるもの何にくひあてられしや、こも食ひたるものをそのまゝに吐きいたせる話ありしが、病みて三日にして失せたりき。こを醫師にたづぬれど、うへのぶべきあげつらひもあらざりしなり」確かに。何食ったか分らんわ、吐いたものがどんあもんだっか分らんわ、死ぬまでの三日間がどんな症状だったかも分らんでは、これ、「うへのぶべきあげつらひもあらざりしなり」(以上の事例で述べたような議論する素材も何もなく、如何なる判断も推理も出来ない)に決まっとるがね!

「さりとはあやしきことなり」最初の巨大ポリープ以外は、後に行けば行くほど、実は、「そうはいってもさ、これってさ、なんか、えらい怪しいなあ? もしかして、これらの何人かは、食中毒じゃあなくて、誰かに毒殺されたんじゃあ、ねえの?」って呟きたくなる私(藪野直史)がいるんですけど。]

谷の響 四の卷 十八 奇病

 

 十八 奇病

 

 安政元甲寅の年、藤崎村の左四郎と言へる者、ゆゑなくして兩眼つぶれたりき。醫藥さらにしるしなけれど痛むことなく、又手足言舌常のごとく食もかはらでありけるが、十日餘りにして言舌まわらずなれるが、その日のうちに死せりとなり。こは卒中病の中心にありたりしものと、療治したる御番醫佐々木氏の語りしなり。

 又、佐々木氏の話に、覺仙丁【舊覺仙院町なるよし、今は訛りて覺仙丁と云。】なる鎌田甚齋と言へる人、ゆゑなふして右の手をなやみけるが、瘡櫛(ねぶと)の如きもの一つ出てしだいしだいに腫れあがり、こぶしを付たるごとくなれど醫藥もしるしなくして破(やぶれ)もやらず、三四年のうちに冬瓜の大きさばかりになりたりき。さるにこの腫物は大指の根におこりて掌中文の外へわたらず、又腕首及差指へもわたらず。これをさぐり見るにかたくして頭骨(あたま)にふるゝが如く、重さ錢二十貫ばかり手にのせたるごとしとなり。この人かふきの生付にて、いたくなやめるときはこの腫物を抱へながら市中をかけめぐり、すこしくおこたるをまつてかへれりとなり。かゝる大きなるものゆゑ常に右手をふところにして左手をして抱へてありしが、ある日あやまりて臺所の板の間へ腫物をしいて倒れしが、忽ち破れて膿血二升ばかり出たりしが、さして腫物は小さくもならず。しかして一二年の後、癆症とおぼしくつひにやせおとろへて、いぬる丙辰の年身まかりしかどその腫物はかわることなしとなり。實に一奇病なるべしと語りけり。扨、この腫物は大指のもと二寸にたらぬところ、斯く大きく腫あがりしからにめきめきいたくのびて、四五分より七八分までありしとなり。

 

[やぶちゃん注:第一症例は恐らく、藩医佐々木の言うように(「卒中病の中心にありたりしもの」)、恐らくは脳の中心部で発生した脳卒中(脳梗塞(脳の動脈の閉塞或いは狭窄のために脳虚血をきたして脳組織が壊死或いはそれに近い状態になる症状の広義な呼称)の内、急性で劇症型のもの)であって、最初に脳の後頭葉にある視覚中枢が侵されて失明し、その後に左脳の側頭葉前方にあるブローカ中枢(言語野の一つ)がやられて失語、そこから梗塞が脳幹へと急速に進み、呼吸を掌る脳橋(中脳と延髄の間で小脳の前方)や延髄がやられて死に至ったものかとも思われる。

 第二症例は何だろう? 悪性腫瘍(皮膚癌か骨肉腫のようなもの)の一種で、一、二年後にはひどく瘦せ衰えている点からは、最後はこれが全身に播種して死に至ったものか? それとも鎌田の死因とこの腫れ物は直接の関係はないか(本文では「癆症」(労咳=結核)「とおぼしく」と記してもいる)? にしても、腫瘍が異様に重く(「重さ錢二十貫ばかり」(後注参照)を手に載せたような感じ)、異様に硬い(外側から触れると頭骨に触れるような感じがある)というのはどうか? 当初はガングリオン(Ganglion Cyst:結節腫)を考えたが、調べてみると、これにより該当しそうなものとして、手足の指に発生する良性腫瘍で「腱鞘巨細胞腫 (けんしょうきょさいぼうしゅ)」というのがあり、親指の付け根に生じ、少しく大きくなったとする点では、この症状と一致するようには見える(「古東整形外科・内科」公式サイト内の腱鞘巨細胞腫。外見所見及びレントゲン写真有り)。但し、これは腫れるものの、痛みはあまりないともあり、最大でも四~五センチメートルと、この叙述より小さい。本記載では最後に転倒して腫れ物の一部が破れ、多量の膿と血が噴き出したとし、しかも、腫れ物自体のコアの部分の大きさはそれほど小さくならなかったという叙述からすると、この「腱鞘巨細胞腫」に毛嚢炎等が併発したものであったものか? 専門医の御教授を乞うものである。

「安政元甲寅」(きのえとら)「の年」一八五四年。

「藤崎村」現在の弘前市藤崎町(ふじさきまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「覺仙丁【舊覺仙院町なるよし、今は訛りて覺仙丁と云。】」現在の青森県弘前市覚仙町(かくせんちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「覚仙町によれば、元禄一三(一七〇〇)年から享保六(一七二一)年に『かけて町名が覚勝院前之町・覚勝院町・横鍛冶町と変わり、平行して修験の正学坊が学勝院から覚勝院と変わり、寛政年間に現在の町名である覚仙町の町名が固定したもの(弘前侍町屋敷割・町絵図・分間弘前大絵図)』とある。

「鎌田甚齋」不詳。

「ゆゑなふして」「故無くして」。歴史的仮名遣はおかしい。「のうして」という音変化からの慣用表記か。

「瘡櫛(ねぶと)」「根太」で「固根(かたね)」とも称し、背部・腿部・臀部などにできる毛囊炎。黄色ブドウ球菌の感染によって毛包が急性炎症を起こしたもので、膿んで痛む。 前に出た「癰(よう)」「癤(せつ)」も基本的には同じい。但し、ここでは、それに似たものであって、以下の所見からはただの毛囊炎とは到底思われない。

「こぶしを付たる」「拳をつけたる」。

「冬瓜」「とうがん」。スミレ目ウリ科トウガン属トウガン Benincasa hispida。品種によって異なるが、果実は大きいもので短径三〇、長径八〇センチメートル程にもなり、重さは二 ~三キログラムから一〇キログラムを超える巨大果まである。以下の叙述からすると、左手で抱えなければならないほどであり、しかし掌には及んでいないとする以上、直径十センチほどか。

「この腫物は大指の根におこりて掌中文」(てのひらのもん)「の外へわたらず、又」、「腕首及」び人「差指へもわたらず」というのは先に示した「腱鞘巨細胞腫」の属性とよく一致するようには見える。

「ふるゝ」「觸るる」。

「重さ錢二十貫ばかり」この叙述が実はちょっと解せない。銭一貫文というのは永楽銭千個を穴に紐を通して一繋ぎしたもので「千匁(もんめ)」、現在の三・七五キログラムで七十五キログラムにもなってしまう。しかし乍ら、永楽銭は慶長一四(一六〇九)年までに幕府令によって使用が禁止されており、その後は「永銭一貫文」は「鐚(びた)銭四貫文」(鐚銭とは原義は「粗悪な銭」で、ここでは寛永鉄銭)とするようになっているから、これで単純換算するなら、十八・七五キログラムで、これならば、まあ、辛うじて掌に載せ得る重さではあるが、やはり重過ぎ、誇張が疑われる。

「かふき」かぶき者。遊侠。伊達(だて)者。

「生付」「うまれつき」。

「おこたる」「怠る」。痛みがおさまる。

「二升」拳大・冬瓜大の腫れ物が潰れて出る膿血としては異様に多過ぎる。やはり誇張が疑われる。

「いぬる丙辰の年」本「谷の響」の成立は万延元(一八六〇)年で、その直近の「丙辰」(ひのえたつ)年は安政三(一八五六)年となり、本話柄は刊行の四年前の出来事ということになる。

「二寸」六センチメートル。親指の分岐する手首の辺りからの距離であろうから、腫瘍は第二関節(老婆心乍ら、言っておくと指先に近い方が第一関節である)にあったものと思われる。

「腫あがりしからに」腫れあがってきて、その後には。

「めきめきいたくのびて」みるみるうちにひどく腫れがひどくなって。

「四五分より七八分まで」一センチ二ミリ~一センチ五ミリから二センチ一ミリ~二センチ四ミリ。]

譚海 卷之二 雲州松江の城幷源助山飛火の事

雲州松江の城幷源助山飛火の事

○雲州松江の城は堀尾山城、繩張(なはばり)せしとぞ。則(すなはち)松江の湖水に臨て美景の地なり。城下の足輕町をさいか町と云(いふ)。白潟(しらかた)と云(いふ)濱べにて、橋より北の町を末沼町と云。その際(きは)に山あり、源助山といふ、兀山(はげやま)なり。往昔(むかし)源助といふもの所帶せしが、強訴(がうそ)の事により死刑に所(しよ)せられ、其(その)庽たゝりをなすゆへ塚に封じ鎭め祭りしとぞ。されど雨夜陰晦(あまよいんくわい)の時は、飛火(とびひ)となりて湖上を往來(ゆきき)す。源助山の飛火とて、はなはだ恐るゝ事也。湖水の廣井さ二里已上に及ぶ、その際(きは)に飛火出現すといふ。

[やぶちゃん注:「堀尾山城」出雲松江藩第二代藩主堀尾山城守(やましろのかみ)忠晴(慶長四(一五九九)年~寛永一〇(一六三三)年)。なお、彼には男子がなく、従兄弟の宗十郎を末期養子に立てることを望んだものの認められず、堀尾宗家は断絶、翌寛永十一年、若狭小浜藩より京極忠高が入部している。

「足輕町」江戸時代の武士の最下層に位置づけられた足軽は、居住地も城下郭外に置かれた。

「さいか町」現在の松江市雑賀町。(グーグル・マップ・データ)。町名は中世日本の鉄砲傭兵・地侍集団の一つである雑賀衆(さいかしゅう)に由来する。紀伊国北西部(現在の和歌山市及び海南市の一部)の「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」の五つの地域(五組・五搦などという)の地侍達で構成された集団で、高い軍事力を持ち、特に鉄砲伝来以降は数千挺もの鉄砲で武装し、海運や貿易も営んでいたが、天正一三(一五八五)年の豊臣秀吉による紀州征伐で解体された。その後、残党が松江城の築城に関わった豊臣政権の三中老の一人堀尾吉晴(忠晴の祖父)により、松江へ迎えられ、松江城守備のための鉄砲隊をここに住まわせたとされる。

「白潟」この宍道湖東端で大橋川に湖水が流れ入る、(グーグル・マップ・データ)。松江市灘町一帯。

「末沼町」これは現在の松江大橋北詰一帯の島根県松江市末次本町(すえつぐほんまち)のことであろう。(グーグル・マップ・データ)。因みに、ここは後に、かの小泉八雲が松江中学に赴任した当初、住んでいた地である。私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江』のパートなどを参照されたい。

「源助山」こういう山は現在は知られていないが、「源助柱(ばしら)」なら、かなり有名で、現在の松江大橋南詰に碑がある。小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (七)・(八では(リンク先は私の電子化注テクスト)、吉晴の治世、一向に架橋が成功しないため、人柱として生き埋めにされたのが「源助」だったとし、しかも彼は雜賀町に住む足軽人足であったともいうから、本話柄の前半との親和性が認められる。

「所せられ」「處せられ」。

「庽」不詳。私はこれは「厲」(音「レイ」)の誤字ではないかと疑っている。「災いを齎す悪鬼・疫病神・祟りを成す物の怪」の意であるが、その音を「靈(霊)」に通じさせたのではないか?

「雨夜陰晦」ひどく暗い雨夜(あまよ)。]

甲子夜話卷之三 10 林子幼年の頃の風鳶を鬪はせし有樣

 

3―10 林子幼年の頃の風鳶を鬪はせし有樣

蕉軒云ふ。風俗の時に從ひ移易すること、其一を言はん。某が幼年のとき、每春風鳶の戲を今に囘想すれば、信に盛を極しと云べし。そのときは擧世一般のことゆへ、誰も心付く者も無りし。其頃は實家の鍛冶橋の邸に住しが、南は松平土佐守、北は松平越後守にて、土州の嫡子、越州の弟、某と鼎峙して、各盛事を盡したり。且又、互に風鳶をからみ合せ、贏輸せしときは、附の者、伽の子共など計には無して、家中の若輩皆集りて、力を戮せ、人々戲には無ほどの氣勢にて、一春の間は誠に人狂するが如し。風巾の大なるに至りては、紙數百餘枚に至れり。其糸の太さ拇指ほどもありき。風に乘じて上る時は、丈夫七八人にて手に革を纏ひ、力を極めてやうやくに引留たり。或時手を離さゞる者あるに、誤りて糸をゆるめたれば、其者長屋の屋脊へ引上られ、落て幸に怪我なかりしが、危事なりとて、家老より諫出て止たりしこともあり。流石土州は大家のことゆゑ、種々の形に作り成したるもの數多ありしが、扇をつなぎたる數三百までに及べり。又鯰の形に作たるを、某が爭ひ得しに、其長さ、頭より尾までにて邸の半ありける。風箏なども奇巧を盡し、鯨竹唐藤の製は云までもなし。銅線などにて其音の奇なるを造れり。世上皆此類にて、枚擧するに遑あらず。天晴風和する日、樓に上りて遠眺すれば、四方滿眼中、遠近風巾のあらぬ所は無き計なり。今は小兒に此戲するも少く、偶ありても、小き物か、形も尋常なるのみなり。高處に眺矚しても數るほどならでは見ず。かく迄世風も變るものかと云ける。

■やぶちゃんの呟き

 最初に告白しておく……私は凧を揚げたことがない……揚がった凧を見上げた至福の思い出がない……ただ唯一の記憶がある……幼稚園の頃だ……新聞紙の長い脚を附けた奴凧をずるずると地面に引き摺りながら……泣いている独りぼっちの私だ…………

「林子」「蕉軒」前に注した林家第八代林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。「蕉軒」は「述斎」とともに彼の号の一つ。既に述べた通り、彼の実父は美濃国岩村藩主松平乗薀(のりもり)で、初名は松平乗衡(のりひら)、養子後の本名は林衡(はやしたいら)。寛政五(一七九三)年、満二十五の時に林錦峯(はやしきんぽう)の養子となって林家を継いだ。これは岩村藩上屋敷での幼少時の思い出である。

「風鳶」底本では「たこ」とルビする。凧。当時は「いかのぼり」とも称した。

「移易」「いえき」。移り変わること。

「某」「それがし」。

「戲」「たはむれ」。

「信に盛を極しと云べし」「まことにさかんをきはめしといふべし」。

「擧世一般」「きよせいいつぱん」。世を挙げて、ごくごく当たり前のこと。

「誰も心付く者」その(これから述べるような、一種狂的(ファナッティク)な)驚異的な流行りの実体を奇異に感じたり、批判をしたりする者。

「無りし」「なかりし」。

「鍛冶橋」現在の東京駅南西直近。

「住しが」「すみしが」。

「松平土佐守」時制から見て、土佐藩第九代藩主山内(松平)土佐守豊雍(とよちか 寛延三(一七五〇)年~寛政元(一七八九)年)か? 明和五(一七六八)年、家督継承。

「松平越後守」同じく時制的に見て、美作津山藩第五代藩主松平越後守康哉(やすちか 宝暦二(一七五二)年~寛政六(一七九四)年か? 宝暦一二(一七六二)年、家督継承。

「土州の嫡子」前注から、豊雍嫡男で、後の第十代土佐藩となる山内豊策(とよかず 安永二(一七七三)年~文政八(一八二五)年)か? であれば、乗衡より五歳年下である。

「越州の弟」当主が松平康哉であるとすれば、ウィキの「松平康哉によれば、康哉には直義・長賢・長裕・金田正彜という弟がいるものの、生年見て、直義(宝暦四(一七五四)年生まれ)ではないであろう(乗衡より十四歳も年上だからである)。

「鼎峙」「ていじ」。]鼎(かなえ)の脚のように三方に相い対して立つこと。鼎立。

「各」「おのおの」。

「盛事を盡したり」凧揚げを盛んに競い合ったものであった。

「贏輸」「えいしゆ」(「えいゆ」は慣用読み)。勝負。

「附の者」「つきのもの」。所謂、藩主子息の家臣から選ばれた子守役。

「伽の子共」「とぎのこども」。遊びや話し相手として特に選ばれた子ども(家臣の子弟らから選ばれた)。

「計には無して」「ばかりにはなくして」。その子らの者だけでは、これ、なくして。

「戮せ」「あはせ」。「合はせ」。

「戲には無ほどの氣勢にて」「たはむれにはなきほどのきせいにて」。遊びとは思えぬばかりに、大真面目にエキサイトして。

「人狂するが如し」「ひと、きようするがごとし」。まるで人々、これ、凧に関わっては誰もが狂ったかのようになったものであった。

「風巾」「たこ」。

「拇指」「おゆび」。親指。

「上る」「あがる」。

「丈夫」屈強の成人男子。

「纏ひ」「まとひ」。滑り止めと、摩擦による擦過傷を防ぐために革を手に巻いたのである。

「引留たり」「ひきとめたり」。

「屋脊」音なら「ヲクセキ」であるが、ここは「やね」或いは「むね」と訓じたい。

「引上られ」「ひきあげられ」。

「落て」「おちて」。

「幸に」「さひはひに」。

「危事」「あやふきこと」。

「諫出て」「いさめいでて」。

「止たりし」「やみたりし」。

「流石」「さすが」。

「數多」「あまた」。

「扇をつなぎたる數三百までに及べり」本物の扇を数珠繋ぎにした凧があって、その扇の数たるや、何と三百面にも及ぶ長大なものであった。

「鯰」「なまず」。

「邸の半」「やしきのなかば」。私の実家の屋敷地の半分もの大きさ。

「風箏」底本では「ふうさう」とルビする。これは以下の素材から見て、唸り凧、音を発するような構造や笛に類した仕掛けを施したものと思われる。現代中国語では凧は「風箏」と呼ぶことが多い。

「鯨竹唐藤の製」前者から「鯨竹」は判る。凧の鯨骨や鯨の髭や竹を凧の支え構造や唸りの装置に附属させて作製した凧であろう。「唐藤」は不詳。唐藤空木(フジウツギ科フジウツギ属トウフジウツギ Buddleja lindleyana)があるけれども、これ、草体から見て、凧の素材にはならないように見える。私の推測だが、或いはこれ、「唐籐」(からとう)で、籐椅子などの素材とする、熱帯性の蔓性植物である単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科トウ連Calameae に属するトウの類の静山の誤記ではあるまいか? あれなら、強靱で軽く、凧の素材や唸りの装置にもってこいであるように思われるのだが?

「云までもなし」「いふまでもなし」。

「此類」「このたぐひ」。

「枚擧するに遑あらず」「まいきよするにいとまあらず」。数え上げるに、きりがない。こういっている儒学者述斎の少年のような目の輝きが見えるようだ……私にはその喜びの記憶がない分、かえってそれを強く感ずるのである……

「天晴風和する日」「てん、はれ、かぜ、わするひ」。晴天で風はあるが、決して強風ではない(私には分らないけれど、凧を揚げるに最も相応しい風具合を述斎は言っているのであろう)穏やかな日。

「樓」「たかどの」。見晴らし台。

「遠眺」「えんてう(えんちょう)」。遠望すれば。

「四方滿眼中」四方、これ、見渡す限り。

「遠近」「をちこち」。遠きも近きも。

「計」「ばかり」。

「此戲するも少く」「このたはむれするもすくなく」。

「偶」「たまたま」。

「小き」「ちさき」。

「高處」「たかきところ」。

「眺矚」「てうしよく(ちょうしょく)」。「矚」は「注意して見つめる」の意。隅々まで眺めて、よく観察してみること。

「數るほどならでは見ず」「數る」は「かぞふる」。底本では「かぞゆる」とルビするが、採らない。上げられている凧は、これ、数えられるほど、少ししか、見えない。ちょっと淋しそうな少年乗衡が、ここに、いる…………

諸國百物語卷之五 二十 百物がたりをして富貴になりたる事 / 「諸國百物語」電子化注完遂!

 

     二十 百物がたりをして富貴(ふつき)になりたる事


100hukki

 京五條ほり川の邊に米屋八郎兵衞と云ふものあり。そうりやう十六をかしらとして、子ども十人もち、久しくやもめにてゐられけるが、あるとき、子どもに留守をさせ、大津へ米をかいにゆかれけるが、子どもに、

「よくよく留守をせよ、めうにち、かへるべし」

と、いひをかれける。その夜、あたりの子ども、七、八人、よりあひ、あそびて、古物がたりをはじめけるが、はや、はなしの四、五十ほどにもなれば、ひとりづゝ、かへりてのちには、二、三人になり、咄八、九十になりければ、おそれて、みなみな、かへり、米屋のそうりやうばかりになりけり。惣領、おもひけるは、

『ばけ物のしやうれつ見んための古物がたりなるに、むけうなる事也。さればわれ一人にて、百のかずをあわせん』

とて以上、百物かたりして、せどへ小べんしにゆきければ、庭にて毛のはへたる手にて、しかと、足を、にぎる。そうりやう、おどろき、

「なにものなるぞ、かたちをあらはせ」

といひければ、そのとき、十七、八なる女となりて、いふやう、

「われは、そのさきの此家ぬしなり。産(さん)のうへにてあひはて候ふが、あとをとぶらふものなきにより、うかみがたく候ふ也。千部の經をよみて、給はれ」

と云ふ。そのとき、かのそうりやう、

「わが親はまづしき人なれば、千ぶをよむ事、なるまじきぞ。ねんぶつにて、うかみ候へ」

と云ふ。かの女、

「しからば、此せどの柿の木に金子をうづめをき候ふあいだ、これにてよみて、給はれ」

とて、かきけすやうに、うせにけり。夜あけて、親八郎兵衞、かへりけるに、よいの事どもかたりきかせければ、さらば、とて、柿の木の下をほりてみれば、小判百兩あり。やがて、とりいだし、ねんごろにあとをとぶらひける。それより、米屋しだいにしあわせよくなり、下京(しもぎやう)一ばんの米屋となりけるとなり。

 

    延寶五丁巳卯月下旬

         京寺町通松原上ル町

             菊屋七郎兵衞板

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「百物語して福貴□成事」。文中の『ばけ物のしやうれつ見んための古物がたりなるに、むけうなる事也。さればわれ一人にて、百のかずをあわせん』は底本では二重鍵括弧はなく、本文続きであるが、特異的にかくした。

「京五條ほり川」この附近(グーグル・マップ・データ)。

「そうりやう十六をかしらとして、子ども十人もち、久しくやもめにてゐられけるが」「惣領十六を頭(かしら)にとして、子供、十人持ち、久しく鰥夫(やもめ)にて居るらけるが」。本篇ではこの貧しかった当時の米屋の父に尊敬語を用いている。正直、五月蠅く、ない方がよい。

「かいにゆかれけるが」「買ひに行かれけるが」。行く先が大津であるのは、問屋ではなく、名主や庄屋から直接に仕入れ買いに行ったようである。

「めうにち」「明日(みやうにち)」。歴史的仮名遣は誤り。

「古物がたり」「ふるものがたり」。

「しやうれつ」不詳。仮名表記と文脈に合うものは「勝劣」(百話で出現する物の怪の恐ろしさ具合が優れて恐ろしいか、或いは、意外にも大したことのない劣ったものであるかを見極める)であるが、これではあまりに余裕があり過ぎ、また「從列」「生列」(百話に合わせて物の怪が百鬼夜行となって列を成して次々と生まれ出現してくる)という語と造語してみても何だか締りがなくて弛んでしまう気もする。しっくりくる熟語があれば、是非、お教えいただきたい。差し換える。

「むけう」「無興」。

「せど」「背戸」。裏口の方。

「小べん」「小便」。

「そのさきの此家ぬしなり」「この今よりも以前の、そなたの住まうところの、この家の女主人で御座いました。」。

「産(さん)のうへ」異常出産のために子とともに亡くなったのであろう。夫も直前か直後に亡くなり、それ以前の子もなかった後家であったものか。

「あとをとぶらふものなきにより」「後(世)を弔ふべき者無きにより」。

「うかみがたく候ふ也」「成仏出来ずにおるので御座います。」。

「延寶五丁巳卯月下旬」延宝五年は正しく「丁巳」(ひのとみ)でグレゴリオ暦一六七七年。旧暦「卯月」はグレゴリオ暦で五月一日、同月は大の月で五月三十日はグレゴリオ暦五月三十一日に相当する。第四代将軍徳川家綱の治世。

「京寺町通松原上ル町」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「菊屋七郎兵衞」板木屋七郎兵衛(はんぎやしちろべえ 生没年不詳)。「菊屋」とも号した。京で出版業を営み、後に江戸にも出店した地本(じほん)問屋(地本とは江戸で出版された大衆本の総称で、洒落本・草双紙・読本・滑稽本・人情本・咄本・狂歌本などがあった。草双紙の内訳としては赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻が含まれる)。主に鳥居清信の墨摺絵や絵本などを出版している(ここはウィキの「板木屋七郎兵衛」に拠った)。

「板」板行(はんぎょう)。版木を刻して刊行すること。

 

 これが、本「諸國百物語」の擱筆百話目である。さて……今夜、あなたのところに起こる怪異は一体、何であろう……何が起きても……私の責任では、ない……ただ私の電子化に従って読んでしまったあなたの――せい――である…………

御無沙汰御免

回線業者の変更に伴い、昨日昼前から現在までネットと繋がらず、諸氏に御迷惑をおかけした。只今、無事接続した。これより「諸國百物語」第百話の公開作業に入る。くどいが、怪異出来は自己責任で――

2016/11/29

諸國百物語卷之五 十九 女の生靈の事付タリよりつけの法力

 

     十九 女の生靈の事付タリよりつけの法力(ほふりき)

 

 相模の國に信久(のぶひさ)とて高家(かうけ)の人あり。此奧がたは土岐玄春(ときげんしゆん)といふ人のむすめ也。かくれなきびじんにて、信久、てうあひ、かぎりなし。こしもとにときわといふ女あり。これも奧がたにおとらぬ女ばうなりければ、信久、をりをり、かよひ給ふ。ときはは、それよりなをなを、奧がたに、よく、ほうこういたしける。あるとき、奧がた、うかうかとわづらひ給ひて、しだひにきしよくおもりければ、信久、ふしぎにおもひ、

「もしは、人のねたみもあるやらん」

とて、たつとき僧をたのみて、きとうをせられければ、僧、經文をもつて、かんがへて申しけるは、

「此わづらひは人の生靈、つき申したり。よりつけといふことをし給はゞ、そのぬしあらはれ申べし」

と云ふ。信久、きゝ給ひて、

「よきやうに、たのみ申す」

とありければ、僧、十二、三なる女を、はだかにして、身うちにほけ經をかき、兩の手に御幣をもたせ、僧百廿人あつめて法花經をよませ、病人のまくらもとに檀をかざり、らうそく百廿丁とぼし、いろいろのめいかうをたき、いきもつかずに經をよみければ、あんのごとく、よりつきの十二、三なる女、口ばしりけるほどに、僧は、なをなを、ちからをゑて、經をよみければ、そのとき、ときは、檀のうへにたちいでたり。僧のいわく、

「まことのすがたをあらはせよ」

との給へば、ときは、ゑもんひきつくろひ、うちかけをしていで、うへなる小そでをばつとしければ、百廿丁のらうそく、一どにきへけるが、火のきゆると一度に、奧がたも、むなしくなり給ふ。信久、むねんにおもひ、かのときはをひきいだし、奧がたのついぜんにとて半ざきにせられけると也。

 

[やぶちゃん注:「信久」不詳。本話柄の時代設定は最後の私の注を参照されたい。

「高家(かうけ)」由緒正しき家系の家。

「土岐玄春」不詳。医師っぽい名ではある。

「てうあひ」「寵愛」。

「こしもとにときわといふ女あり」「腰元に常盤(ときは)といふ女有り」。歴史的仮名遣は誤り。

「をりをり、かよひ給ふ」しばしば常盤の部屋にお通いになっておられた。これは必ずしも秘かにではなく、正妻も承知の上のことであったかも知れぬが、話柄の展開上は、不倫事としないと全く面白くない。

「これも奧がたにおとらぬ」美人の、である。

「うかうかと」心が緩んでぼんやりしているさま、或いは、気持ちが落ち着かぬさまを指し、ここは心身の状態がすこぶる不安定なことを言っていよう。

「しだひにきしよくおもりければ」「次第(しだい)に氣、色重りければ」。次第次第に病「ねたみ」「妬み」。

「たつとき」「尊き」。

「きとう」「祈禱(きたう)」。歴史的仮名遣は誤り。

「僧、經文をもつて、かんがへて」僧が経文を唱えてて、それに対する病者の様子(反応)などを以って勘案してみた結果として。

「よりつけ」「依付(よりつけ)」。患者に憑依している物の怪を、一度、別な「依代(よりしろ)」と呼ばれる人間に憑依させ、それを責め苛み、而して正体を白状させた上で調伏退散させるという呪法。

「そのぬし」「其の主」。憑依して苦しめている物の怪。この場合は実際に現世に生きていて生霊を飛ばしている(意識的にか無意識的には問わない)人物。

「十二、三なる女」依代には若い処女の少女が向いているとされた。

「身うち」全身。

「ほけ經」「法華經」。

「御幣」「ごへい」。

「檀」密教で呪法に用いる護摩壇。

「らうそく」「蠟燭」。

「めいかうをたき」「名香を焚き」。

「いきもつかずに」息をしないかの如く、一気に。

「あんのごとく」「案の如く」。

「口ばしりける」その生霊が憑依して不断の調伏の祈禱によって依代から逃げ出すことも叶わず、苦しんで思わず、生霊自身が依代の少女の口を借りて、苦悶の言葉を吐き始めたのである。

「そのとき、ときは、檀のうへにたちいでたり」私は正直、この箇所は、上手くない、と思う。せめて、

 

 其の時、女の樣なるものの苦しめる姿(かたち)、朧(おぼ)ろけに檀の上に立ち出でたるが如く、幽かに見えたり

 

としたい。さすればこそ、「まことのすがたをあらはせよ」が生きてくると言える。さらに言っておいくと、迂闊な読者の中には、下手をすると、ここに実際の腰元の常盤がどたどたと登ってきてしまうというトンデモ映像を想起してしまうからでもある。

「ときは、ゑもんひきつくろひ、うちかけをしていで、うへなる小そでをばつとしければ、百廿丁のらうそく、一どにきへけるが、」ここも「常盤」を出してしまっては、B級怪談である。ここは例えば、

 

 かの面影(おもかげ)に見えし女、衣紋(えもん)引き繕ひ、打掛(うちかけ)をして出で、上なる小袖を、

「ばつ!」

としければ、百二十丁の蠟燭、一度に消えけるが、

 

としたい(複数箇所の歴史的仮名遣は誤り)。「打掛」帯をしめた小袖の上に羽織る丈の長い小袖で、武家の婦人の秋から春までの礼服であったが、江戸時代には富裕な町家でも用いられた。この蠟燭が一斉に消えるシーンは圧巻! 撮ってみたい! いやいや! それ以上に本話が語り終えたその時、九十九本目の蠟燭が消されることにも注意されたい! 残りは一本! いよいよ怪異出来(しゅったい)まで残り、一話!

「むねんにおもひ、かのときはをひきいだし」「無念に思ひ、かの常盤を引き出だし」。

「ついぜん」「追善」。

「半ざき」「半裂き」。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に、『罪人の手足に二頭、または四頭の牛をしばりつけ牛を走らせて、体を裂く処刑。室町時代の処刑法の一つ』とする。こういう注を高田氏はわざわざ附しているということは、本話の時制を室町時代まで遡らせているということになる。]

2016/11/28

谷の響 四の卷 十七 骨髮膿水に交る

 

 十七 骨髮膿水に交る

 

 文政の年間、岩木川の渡守佐左衞門といへるものゝ妻、1疽(ようそ)と言腫物腰に出ていたくなやみけるが、二十日許りにて破れたるが、膿水に交りて髮毛及骨のくだけたる如きもの數日のうち出でたりしが、しだいしだいに痛もいえて本復せしとなり。伊香某こを評してこの病は女子にまゝあることにて、橘南溪が東西遊記にのせたる婦人胎中の子、死して不墮胎腐らんとして腫物となり、骨髮膿水と共に出るといへるものなりしと言へるはさる事なるべし。[やぶちゃん字注:「1」=「疒」+(「やまいだれ」の中に)「邕」。]

 又、己が近所に熊谷又五郎といへる人、黴毒(かさ)の爲に久しくわづらひしが、二年ばかりも過ぎて股にて有けんその瘡が出で、そのやぶれより骨の碎けたるもの多く出でたり。その後股は膝の如く二つに折れて有りしとなり。かさの骨にすみつくものにして、世間にまゝあれどみな難治の病なりと御番醫佐々木氏の言はれしが、果してこの人いえずしてつひに身まかれり。こは弘化年中のことなり。又、文政の年間己が家につかはれし三介といへるもの、ある夜龜甲町にて2(むか)骨を犬にかまれたるとていたくなやみ、勤ならずとて親元に行き療治せしが、彌增いたみてすでに死ぬべきほどに見得たるに、十日ばかりありてこの疵にはりたる膏藥に骨のくだけたるごときもの三ひらついて出たるに、そはみな犬の齒にてありしと言へり。ねんひは知らざれども、夫よりしだいしだいにいえて本にふくせるなり。醫師は龜甲町の吉村某氏なり。[やぶちゃん字注:「2」=「月」+「行」。]

 

[やぶちゃん注:第一段落の症例は、手塚治虫(私はアトム世代で特異的に手塚先生を尊敬しており、「鉄腕アトム」は全作、「ブラック・ジャック」はその殆んどを所持している)の「ブラック・ジャック」で助手となっているピノコで知られる(但し、ピノコのケースは女性患者が寄生性二重体症で、双生児の片割れを自分の体内に持ち続けて成人となった症例であり、ピノコはその嚢胞に封入された双子の胎児(女性)のばらばらになったものを人工的に少女に仕立てたものである。なお、ピノコのように人体の全パーツが殆んど揃って出てくることは実際にはない。ここの症例は、あくまで患者の婦人の卵巣に生じた一般的な良性卵巣腫瘍の中の一つである)、胚細胞性腫瘍の一種である「奇形膿腫」、正式には「卵巣成熟囊胞性奇形腫」、別名「皮様囊腫」、産婦人科医が「デルモイド」(dermoid cystと呼称するものである。これは良性卵巣腫瘍では実は最も多いものであり、その点、本文で伊香(「いか」と読むか)という医師が「女子にまゝあること」と言っていることとも符合する。なお、卵巣はその機能的性質上、ヒトの体内の中でも最も多彩な腫瘍(良性・悪性ともに)を作り出す臓器である。参考にさせて貰ったサイト「産婦人科の基礎知識」の「良性卵巣腫瘍」の「一般的な卵巣腫瘍について」によれば、この『奇形腫を取り出してメスで切ってみると』、『中から黄色い脂肪、髪の毛、骨や歯、時には皮膚の一部がどろどろと出てきます。 初めて見ると髪の毛などが入ってますのでとてもインパクトがあります。一般的に中に入っている髪の毛は数本ではなく大量で、hair ball といって、お風呂の排水溝に詰まった髪の毛の塊のようになって出てくることも多いです』とある。ここでも腫瘍が潰れた際に最初に出てきたものを「髮毛」とする。

 第二例に出る腫瘍は「黴毒(かさ)」、則ち、「梅毒」の、第三期(末期)に特有な肉芽腫であるゴム腫と思われる。ゴム腫は内臓・骨・筋肉・皮膚などに発生するゴム様の弾力のある大小の結節で、一般には顔面、特に鼻・唇・前額部・頭蓋骨に好発するものであり、大きさは粟粒大から鶏卵大以上にもなる。中央部は凝固壊死を起こして灰黄色を呈するが、その周囲は灰白色の結合組織層が取り巻いている。これはその壊死した中央部の組織や、その周囲の結合組織を、骨と見間違えたものではなかろうか? 直後にその腫れ物のあった大腿部の骨が「膝の如く二つに折れて」いたとあるから、大腿骨などが骨髄まで変性してしまい、骨自体が崩壊していた(即ち、腫れ物から出た骨は実際の自分の骨が変性して潰れ砕けたもの)のかも知れない。

「骨髮膿水に交る」「こつぱつ、のうすいにまぢる」と読んでおく。

「文政の年間」一八一八年~一八三〇年。

「岩木川の渡守」恐らくは最も知られた現在の五所川原市西部の岩木川右岸の寺町と左岸の小曲(こまがり)との間にあった「五所川原の渡し」であろう。

1疽(ようそ)」(「1」=「疒」+(「やまいだれ」の中に)「邕」)「癰疽」に同じい。漢方では十五センチ以下の中型の腫脹で、上皮が薄く、光沢があって、腫脹した頂点が黄色く化膿しているものを「癰」、それ以上で三十センチほどまでを「疽」と称し、こちらは上皮が硬く、光沢がなく黒っぽいものと区別するようである。

「言」「いふ」。

「腫物」「はれもの」と訓じておく。

「及」「および」。

「骨」「ほね」。

「橘南溪が東西遊記にのせたる婦人胎中の子、死して不墮胎腐らんとして腫物となり、骨髮膿水と共に出るといへるものなりしと言へる」前にも出た、江戸後期の医師橘南谿(宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)が天明二(一七八二)年から同八年にかけて断続して日本各地を巡歴した際に見聞した奇事異聞を基に編纂・板行した紀行「西遊記(せいゆうき)」及び「東遊記」を併せた称。刊行は寛政七(一七九五)年から同十年。私は所持するものの、今、俄かにはどこの部分にあるのか判らない。発見次第、当該部を電子化する。

「弘化年中」一八四四年から一八四七年.

「龜甲町」既出既注。再掲しておくと、森山氏の補註に、『かめのこまち。城の北門外堀に面した町並みで』四神の『北方玄武になぞらえて亀甲を町名にした』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在の行政地名では「かめのこうまち」と読んでいる。

2(むか)骨」(「2」=「月」+「行」。)向う脛(づね)、脛骨の部分を指すか。

「勤」西尾家での「つとめ」。

「彌增」「いやまし」。或いはこれで「ますます」と訓じているのかも知れぬ。

「三ひら」「三枚(ひら)」。「ひら」は薄く平らなものの数詞。

「犬の齒にてありし」これは実際には犬の歯牙とは思われない。向う脛を深く咬まれ、脛骨の前面の上部組織が損壊し、更に犬の唾液の中に一般的に常在する嫌気性グラム陰性桿菌のカプノサイトファーガ・カニモルサス(バクテロイデス門フラボバクテリア綱フラボバクテリア目フラボバクテリア科カプノサイトファーガ属カプノサイトファーガ・カニモルサス Capnocytophaga canimorsus))等に感染、激しく化膿したものではなかろうか(ウィキの「カプノサイトファーガ・カニモルサスによれば、「カプノサイトファーガ・カニモルサス感染症」は『主にイヌやネコなどによる咬傷・掻傷から感染し、発熱、倦怠感、腹痛、吐き気、頭痛などの症状を伴う。重症例では劇症の敗血症や髄膜炎を引き起こし、播種性血管内凝固症候群(DIC)や、敗血性ショック、多臓器不全に進行して死に至る事があ』り、『免疫機能の低下』している被害者が『重症化に繋がりやすい』とある(なお、この学名は『「イヌによるかみ傷」』(ラテン語の“canis”(犬)+ “morsus”(嚙み傷)に由来し、『犬の咬傷によって感染することから名づけられた』とある)。その後、損傷して化膿した嚢胞内に咬傷の際に欠損した脛骨の一部が吸収され、それが三個の犬の歯に見えたのではないかと私は推測する。老犬でもない限り、咬みついた犬の歯が患部に残ったり、また、それが大分経ってから、体外に出るというのは考え難いからである。

「ねんひ」年日。]

 

甲子夜話卷之三 9 長谷川主馬、農家の松を買置たる事

 

3-9 長谷川主馬、農家の松を買置たる事

表御右筆組頭勤る長谷川彌左衞門と云るが父は、主席と云て、御書物奉行を勤めたりしとなり。その人風雅人にて、殊に和哥を好み、人ももてはやす程なりしとなん。或時近在へ郊行して、農家に老松一株枝幹蟠りて數畝を覆ひ、いかにも風致の勝れたる有しを見て、その主人呼出し買取べしと云。主人おかしく思ひ、此大木移栽もならず、いかゞの事にやとて、口より出るまゝに、十數金ならば賣るべしと答ければ、卽ち懷袋より金を數の如く出して與へ歸りける。その蹤跡もなければ、奈何なることよと訝りしに、一日主馬來り、僕從に酒食敷物など持せ、松陰に坐し、終日觀賞諷詠して歸れり。それより春秋の天氣晴和なる時は、折々來りて、いつも同じさまにて有しとなり。かゝる淸韵高致の人、今は有べしとも思はれず。古人はかく迄もありしやと、昔忍ばしくぞ思はるれ。

■やぶちゃんの呟き

「主馬」「しゆめ(しゅめ)」。

「買置たる」「かひおきたる」。

「表御右筆組頭」「おもてごいうひつ(おもてごゆうひつ)くみがしら」と読む。「表右筆」は若年寄支配の幕府書記役。将軍身辺に関わる重要な機密文書作成業務を担当した「奥右筆」に対し(綱吉の代から設置)、それより有意に格下とされた、老中の奉書や幕府の日記記述、朱印状・判物の作成、幕府より全国に頒布する触書(ふれがき)の浄書(一件で約四百枚前後を作成せねばならなかった)、大名の分限帳・旗本等の幕臣名簿管理業務などの、一般公文書の作製を担当した役職を指す。表右筆は定員二、三名の組頭(役高三百俵で四季施代(しきせだい:「仕着せ代」とも書く。衣服代として諸役に与えられた別手当)銀二十枚)と三十名前後の表右筆(役高百五十俵で四季施代銀二十枚)から構成されていた(以上はウィキの「表右筆他を参考にした)。

「勤る」「つとむる」。

「長谷川彌左衞門」「川崎市教育委員会」公式サイト内の川崎区宮本町稲毛神社にある、享保一四(一七二九)年の銘文を持つ「手洗石」に出る「田中仙五郎」(=長谷川安卿(やすあきら ~安永八()年)なり人物ではあるまいか? 同解説に、この仙五郎は『御金奉行を勤めていた幕臣長谷川市郎左衛門安貞へ』延享三(一七四六)年に養子に入って、安卿を名乗り、『書物奉行などを勤めた人物である』とあるからである(下線やぶちゃん)。没年が確認出来たのは、久保田啓一氏胃の論文「川越市立図書館蔵『芙蓉楼玉屑』(続)――解題――」に拠る。そこには、安卿は『文雅の士として名高く、特に和歌を冷泉為村に学んで関東冷泉門の重だった存在であった』とあり、まず、彼と考えてよい。

「云るが父」「いへるがちち」。と称する者の父親は。

「云て」「いひて」。

「御書物奉行」「おしよもつぶぎやう」は寛永一〇(一六三三)年に設置された、江戸城の紅葉山文庫の管理・図書収集・分類整理や保存、文書類の依頼調査等を担当した。定員は通常は四名であったが、三~五名の増減があった。若年寄支配で、役高二百俵・役扶持七人扶持、本丸御殿の「焼火之間(たきびのま)」に詰めた(「焼火之間」とは中央に巨大な囲炉裏が切ってあったことに由来する。この隣りには先に紹介した表右筆より格上の奥右筆が詰めた御右筆部屋があった)。著名な書物奉行としてはかの青木昆陽がいる。配下に同心がおり、元禄六(一六九四)年)で四人、以降、増員されて、江戸後期には二十一人も持っていた(ウィキの「書物奉行他を参考にした)。

「郊行」「こうぎやう」と音読みしておく。郊外へ物見遊山すること。

「枝幹蟠りて」「えだ・みき、わだかまりて」。

「數畝」本邦の面積単位では「畝」は「せ」と読み、一畝(せ)は一アール(百平方メートル)と殆んど相同値。不定数で六アール前後となるが、三アール程度と考えてよいか。ともかくも伏龍の如く異様に低く枝を張った巨大な大松であることには変わりがない。

「買取べし」「かひとるべし」。買い取ろう。

「云」「いふ」。

「此大木移栽もならず、いかゞの事にや」主人の心内語。『これはかくも大木なれば移植することなど到底、不可能、さてもどうする積りなのか?』。

「口より出るまゝに」「出る」は「いづる」と訓じておく。戯れに、文字通り、「売り」言葉に「買い」言葉で。

「十數金」十数両。

「答ければ」「こたへければ」。

「懷袋」二字で「ふところ」と当て訓しておく。

「蹤跡もなければ」「蹤跡」は「事(ここは売買の成立)が行われた後(あと)」で、その後、一向に主馬から移植或いは伐採などの話がなく、誰もやって来ないので。

「訝りしに」「いぶかりしに」。

「一日」「いちじつ」。ある日。

「僕從」「ぼくじゆう(ぼくじゅう)」。従者。

「持せ」「もたせ」。

「淸韵高致」「せいいんかうち」「淸韵」は原義は「清々しい響き」、「高致」は「高尚な趣き・至高の境地」の意。四字で、「すこぶる清々しく美しい高尚なる風流心」の謂いであろう。

谷の響 四の卷 十六 肛門不開

 

 十六 肛門不開

 

 又、この成田の話に鍛冶町の某といへるものゝ娘、肛門なくして兩便とも前陰より出るとなり。今に世にある人にて、交りし者の語れるとなり。又、この人の知合某なる人、天保のはじめ一男兒をうめり。こも肛門なくして兩便陰莖より出けるから、醫師を請ふて肛門をひらかしむれど、兩三日をすぐればまたとぢてしるしをなさず、つひに二年ばかりにして死せりとなり。

 

[やぶちゃん注:前話「十五 半男女」の提供者と同じで、やはりまたしても連関の強い下ネタである(特に第一例)。

 まず、前話で注した通り、ここに出るのは「鎖肛(さこう)」或いは「直腸肛門奇形」と呼ぶ先天性疾患の一つで、やはり先に引いた「日本小児外科学会」公式サイト内のタイトル「鎖肛(直腸肛門奇形)」を見ると(総てのページでリンクも引用も事前連絡を要求しているのでリンクも直引用も行わない。タイトルで検索されたい。図もあって分かり易い。一部は前話注とダブらせてある)、思ったよりも発生頻度は高く、新生児の数千人に一人位の割合で発生し、消化管に関わる先天性異常の中では最も多い疾患であり、生後約一ヶ月までの新生児期に緊急手術も必要になる病気とする。直腸や肛門は胎児初期に於いては膀胱等の泌尿器系と繋がって一つの「腔」を形成しているが、妊娠二ヶ月半頃までにそれぞれが各器官に分化して発育形成され、女児の場合は分離した直腸と尿路の間に膣や子宮が垂下してくるのであるが、この発生途中で異常が生じると、女児では直腸と子宮や膣との間に繋がった通路(瘻孔(ろうこう))が生じることがあると記す。ここで、この娘の証言が真実であるとすれば、この第一例の娘の状態と、疾患的には一部は一致する(小児科学会の記載は膀胱や尿道は挙げていないが、尿道と膣はごく接近しており、先天的奇形疾患としてここにも瘻孔形成があったとしても不自然とは思われない)。

 但し、第一例のような尿道と膣と肛門が完全癒着して、鳥類のような一つの総排泄腔となるような奇形が仮にあったとしても、その女児が何事もなく成人し、しかも性交渉まで可能であるというのはどうも不審なのである。百歩譲ってそうした重度の奇形が実際にあったとしても、第二例のように幼少で死亡してしまう(便は雑菌が多く、二次的な感染症を惹起し易いし、瘻孔の位置によっては、子宮や膣に重大なダメージや疾患を引き起こしかねないのではないか?)のではあるまいかとも私には思われるのである

 しかもこの話、その娘本人が、ある時、肉体関係を持った男にあからさまに語った、とする如何にもな噂話なのであって、これ、いわば、典型的にして常套的なアーバン・レジェンド(都市伝説)の構造に酷似し、事実では実はないのではないかと私には深く疑われるものなのである。

 ただ、第二例の男児のケースは、高位型(膀胱の後部までしか直腸が来ていない)或いは中間位型(尿道後部まで直腸が来ている)と呼ばれる「鎖肛(直腸肛門奇形)」で、それぞれが膀胱或いは尿道が直腸と瘻孔を形成している実際の症例記載と考えられる。その場合、本文に出る通り、実際に大便は陰茎から排泄されるのである。

「鍛冶町」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「某といへるものゝ娘」ここまで出せば、この娘、ある程度までは候補を限定出来よう。少なくとも「あの娘かも」といった噂は直きに出来上がる。とすれば、これは彼女に振られた男が遺恨を持って流した、根も葉もない流言、極めて悪質なセクシャル・ハラスメントとも考え得るのである。

「知合」「しりあひ」。

「天保のはじめ」天保は一八三〇年から一八四四年。

「兩三日」「りやうさんにち(りょうさんにち)」と読む(或いは「にち」は「じつ」)。二日か三日。これは正常位置の肛門辺りから乱暴に切開して直腸を穿孔するのであろうから、傷口が塞がるようなもので、癒着も起こり、直腸に穴を開ける以上、より重度の感染症や組織壊死を引き起こすから、この施術を複数回行ったとするなら、この子、二年ももったこと自体、奇跡と言えよう。]

谷の響 四の卷 十五 半男女

 

 十五 半男女

 

 文政八九年の頃のよし、弘前の禪寺正光寺に納所して居たる者、元は松前の生れの由にて二十一二の年なるが、顏貌(かたち)みにくからず又言葉つき立居ふるまひ婦女子(をみな)とひとしかれば、世の人これを半男女と評して交合したるものもまゝありとの風説なり。さるに、己が知れる成田某と言ひし人、これも二十一二の若盛りの頃にて隣松寺に納所して有し時なれば、この者をためし見んといろいろ心を盡して、つひに交合(まじは)ることを得たりき。そのさま女子に替ることなく、又彼も感ずるは常にことならず。しかるにこの陰處はきんの下肛門の上にありて、さねなきまでなり。又陰莖も尋常なれど、おこることよわければ女子に交合ることなりがたしと言へり。又肛門には穴なくたゞ形のみ有るから、大便はこの陰處より出るといへり。その後一兩年すぎて古郷へ反りしが、いと氣味わろきものなりと此成田が語りしなり。

 

[やぶちゃん注:「半男女」古典的には「ふたなり(二形)」や「はにわり(半月)」などと呼称したから、これもそう訓じている可能性があるが、平尾の風雅な当て和訓に馴染んでくると、私は「なからなんによ」と読みたくはなる(但し、世間でかく呼んでいたとなるとそれでは長過ぎる感もある。実は南方熊楠の「鳥を食うて王になった話」(大正一〇(一九二一)年から翌年の『現代』連載)で「二 半男女」と章を設け、こうしたヘルマフロディトス(半陰陽。後述)を詳述しているのであるが、その「半男女」に熊楠は「ふたなり」とルビしている。呼称の謂い易さから考えて、ここもやはり、そう読むのが無難であろう)。

 さて、これは医学的には先天性の生殖器奇形で、男女両性の生殖器を持つ「半陰陽(Hermaphroditism)」のように一見、見えるのであるが、しかし、観察上の叙述を読むと、どうも私は違うのではないかと強く感じるのである。

 この青年は、その「陰處」(これも私は敢えて「ほと」(女性器の古称)と訓じたい。音読みではどうも陰湿でお洒落な響きでないからである)「は」、「きん」(金玉=睾丸)の下」(後部)にあって、さらにその後ろに「肛門」(実はらしき場所・痕跡)があるとし、「さね」(陰核=クリトリス)は存在しない「までなり」(様態を成す)とある。確かに実際の「半陰陽」では実際、睾丸のすぐ後ろに女性器が続いているケースがかなり多く見られる。

 しかし、これ、実は彼の「陰處」(ほと)は陰核も陰唇も陰毛も全く描写されておらず(あるのは、彼との性交中の体感は女性との性交の感じと全く変わらなかったということ、彼も女性のようにエクスタシーを感じているように見えたという、必ずしも「冷静」ではない観察的報告だけである)、女性生殖器の陰門の形状というよりは、これ、〈単なる穴〉である。

 さらに前面には「陰莖も尋常」についているとする(但し、「おこることよわければ」(勃起しても、極めて弱いために)女性との性交渉は成立し難い、コイツスは不可能であると附記している)。

 問題は実はその後の部分であって、また、「肛門には穴」が「なく」、「たゞ」、「形のみ有る」とあることである。これは――通常の肛門のある臀部の位置は、凹んだようになっているだけで、肛門が全く開口しておらず、肛門の形成が途中で停止したような感じの痕(あと)のようなものあるだけである――という意味でしか私には採れない。そうして、これは肛門が何らかの事態によって閉塞してしまった痕だというのではなくて、生まれつき、肛門が開孔していないと読むべき箇所である。

 しかも次の部分では、肛門が開いていないために、「大便はこの陰處」(ほと)「より出ると」本人自身が言った、という事実が示されるのである(この告白は若衆道(但し、この場合は一見、特異であるが)の関係性から見ても、真実を語っていると考えてよい)。

 彼は満で二十か二十一で、それまでそうした形で大便の排泄を普通に行ってきており、何らの異常を生じていないとするならば、この一見、女性器に見える開口部こそが、本来の肛門部からずれて生じた先天的な肛門形成異常と読む方が自然であるように私には思われる。半陰陽の女性器に直腸が繋がってしまっている状態で、二十年もの間、何らの感染症や不具合が起こらなかった(大便には多数の有害細菌が含まれるから、半陰陽の女性器部分から大便の排泄が行われ続ければ、そこが何らかの病変を起こす可能性が高いと私は考えるからである)というのは私にはちょっと不審だからである(但し、次の「十六 肛門不開」の第一事例の娘(成人してコイツス経験有り)は小便も大便もともに性器(その叙述に従うなら「前陰」で狭義の「膣」或いはその前方部分であるが、どうもこれは本人が関係を持った男に語ったとする噂話で、いわば。典型的常套的なアーバン・レジェンド(都市伝説)の構造を持っており、やや怪しいものである)から出るとし、第二例は生まれた男児に肛門がなく、陰茎から大便を排泄したとし、人工的に肛門を開いても二、三日ですぐ塞がってしまったとある。但し、この男児は生後二年目に亡くなっている。当然であろう)。私は医師ではないから、大方の識者の御叱正を俟つものではあるが、これは「鎖肛(さこう)」或いは「直腸肛門奇形」と呼ぶ先天性疾患の一つで、「日本小児外科学会」公式サイト内のタイトル「鎖肛(直腸肛門奇形)」を見ると(総てのページでリンクも引用も事前連絡を要求しているのでリンクも直引用も行わない。タイトルで検索されたい。図もあって分かり易い)、思ったよりも発生頻度は高く、新生児の数千人に一人位の割合で発生し、消化管に関わる先天性異常の中では最も多い疾患であり、生後約一ヶ月までの新生児期に緊急手術も必要になる病気とする。直腸や肛門は胎児初期に於いては膀胱等の泌尿器系と繋がって一つの「腔」を形成しているが、妊娠二ヶ月半頃までにそれぞれが各器官に分化して発育形成されるが、この発生途中で異常が生じると、男児の場合、直腸と膀胱や尿道との間に繋がった通路(瘻孔(ろうこう))が生じることがあるとあり、このケース(私が想定した通り、この青年が「半陰陽」ではなく、男性であった場合)とほぼ合致するように私には読めるのである。

「文政八九年」西暦一八二五、一八二六年。

「正光寺」底本の森山氏の補註によれば、『弘前市西茂森町。曹洞宗松種山正光寺。文禄元年創建、慶長年間』、『弘前に移る』とある。現在は弘前市西茂森(にししげもり)。寺はここ(グーグル・マップ・データ)。現在でも西茂森地区は寺院が非常に多い。

「納所」「なつしよ(なっしょ)」。ここは狭義の、禅寺に於いて金銭などの収支を扱う部署・部屋、或いはそうした会計実務を担当した僧侶を指す。

「松前」現在の北海道南部の渡島総合振興局管内にある渡島半島南西部の松前町(ちょう)。

「顏貌(かたち)」「かほかたち」。

「婦女子(をみな)」三字へのルビ。

「己が」「わが」。

「成田某」「二の卷 十四 蟇の妖魅」の話の登場人物と同一のような気がする。あれも尼僧との交接で猥褻絡みであったからである(但し、その尼僧は何と蟇蛙の化けたものだったというオチがつく)。

「隣松寺」底本の森山氏の補註によれば、『弘前市西茂森町、曹洞宗幡竜山隣松寺。由来不詳なるも』、『慶長年間』、『弘前に移り、末寺八ケ寺を支配した。津軽四代藩主信政の生母を葬り、寺領百石を寄付した』とある。現在は同じく弘前市西茂森(にししげもり)で、ここ(グーグル・マップ・データ)。]

諸國百物語卷之五 十八 大森彦五郎が女ばう死してのち雙六をうちに來たる事

 

     十八 大森彦五郎が女ばう死してのち雙六(すごろく)をうちに來たる事

 

 丹波のかめ山に、大もり彦五郎とて、三百石とる、さぶらひあり。此人の女ばう、かくれなきびじんなりしが、産(さん)のうへにてむなしくなり給ひければ、彦五郎もなげきかなしび給ひけれども、かひなし。この内儀に七さいのときよりつかわれしこしもと女ありしが、この女、ことになげきて、七日のうちにはじがいをせんとする事、十四、五度におよべるを、やうやうなだめをきて、はや三とせをすごしける。一もんより、あひいけんして、彦五郎に又、つまをむかへさせけり。のちの内儀は女なれども、よくみちをわきまへたる人にて、はじめの内儀をよびいだし、ぢぶつどうにてまいにちゑかうせられければ、はじめの内儀も、くさばのかげにては、よろこび給ふと也。はじめの内儀ぞんじやうのとき、かのこしもとと、つねづね、すご六をすきてうたれしが、あひはてられても、そのしうしんのこりけるにや、よなよな、きたりて、こしもとゝすご六をうつ事、三ねんにおよべり。あるとき、こしもと、申しけるは、

「よなよな、あそびに御座候ふ事、すでに三ねんにおよべり。われ、七さいのときより、ふびんをくわへさせ給ふて、かやうにせいじんいたし候へば、いつまで御奉公をいたし候ひても、御をんはほうぢがたく候へども、今は又、かはりの女らうも候へば、もしもかやうに、夜な夜な、御出で候ふ事、しれ申し候はゞ、ねたみにきたり給ふかとおもひ給ふべし。今よりのちはもはやきたり給ふな」

と申ければ、

「まことにそのはうが申すごとく、此すご六にしうしんをのこしたるとは人も、いふまじ。今よりのちは、まいるまじ」

とて、かへられけるが、そのゝち彦五郎ふうふの人に、こしもと女、物がたりしければ、

「さては、さやうにありつるか」

とて、すご六ばんをこしらへ、かの内儀の墓のまへにそなへて、ねんごろにとぶらひ給ひけると也。

 

[やぶちゃん注:本話柄は、邪悪な悪心を持った者が一人として登場しない非常に清澄にして透明なる美しい怪談で、コーダ近くに相応しい。

「大森彦五郎」不詳。

「雙六(すごろく)」これは盤双六で、古くエジプト或いはインドに起こったとされ、中国から奈良時代以前に本邦へ伝わった室内遊戯。盤上に白黒一五個ずつの駒を置き、筒から振り出した二つの骰子(さいころ)の目の数によって駒を進め、早く敵陣に入った方を勝ちとする。中古以来、成人男子の賭博(とばく)として行われることが多くなり江戸末期まで続いた。発音は「双六」の古い字音に基づく「すぐろく」の転訛したものである。

「丹波のかめ山」現在の京都府亀岡市荒塚町周辺(旧丹波国桑田郡亀岡)にあった亀山城。丹波亀山藩藩庁。

「産(さん)のうへにて」子は残されていないから、異常出産で母子ともに亡くなったものと思われる。

「じがい」「自害」。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、『殉死。当時、恩義ある人、義理ある人の死に際して殉死の風習があったため、これに対する、つよい禁制が出されていた』とあるが、ウィキの「殉死」によれば、『主君が討ち死にしたり、敗戦により腹を切った場合、家来達が後を追って、討ち死にしたり切腹することや、または、その場にいなかった場合、追い腹をすることは自然の情及び武士の倫理として、早くから行われていた。中世以降の武家社会においては妻子や家臣、従者などが主君の死を追うことが美徳とされた。主君が病死等自然死の場合に追い腹を切る習慣は、戦国時代になかったが、江戸時代に入ると戦死する機会が少なくなったことにより、自然死の場合でも近習等ごく身近な家臣が追い腹をするようになった。ところが、カブキ者が流行り、追い腹を忠臣の証と考える風習ができ、世間から讃えられると一層真似をする者が増えた。遂には近習、特に主君の寵童(男色相手を務める者のうち、特に主君の寵愛の深い者)出身者、重臣で殉死を願わないものは不忠者、臆病者とまで言われるようになった』。第四代将軍徳川家綱から第五代綱吉の『治世期に、幕政が武断政治から文治政治、すなわちカブキ者的武士から儒教要素の入った武士道(士道)へと移行』し、寛文三(一六六三)年の武家諸法度寛文令の改訂『公布とともに殉死の禁が口頭伝達され』、寛文八(一六六八)年に起った宇都宮藩での「追腹一件(おいばらいっけん:同年二月十九日に藩主奥平忠昌が江戸汐留の藩邸で病死したが、忠昌の世子長男奥平昌能は忠昌の寵臣であった杉浦右衛門兵衛に対して「未だ生きているのか」と詰問、杉浦が直ちに切腹した事件)では『禁に反したという理由で宇都宮藩の奥平昌能が転封処分を受けている』。この後、延宝八(一六八〇)年に『堀田正信が家綱死去の報を聞いて自害しているが、一般にはこれが江戸時代最後の殉死とされている』。天和三(一六八三)年の武家諸法度天和令に於いて、『末期養子禁止の緩和とともに殉死の禁は武家諸法度に組み込まれ、本格的な禁令がなされた』とある。「諸國百物語」は第四代将軍徳川家綱の治世、延宝五(一六七七)年四月に刊行されたものであはあるが、ここまでの話柄の時制は、それよりも遙かに前であるものの方が圧倒的に多かった。従って本件が家光以前であれば、必ずしも高田氏のそれは有効な注とは言えない。

「一もん」「一門」。大森一門。大森氏の主家。

「あひいけんして」「相ひ意見して」。後妻を迎えて世子を設け、家系を存続させることが侍としての本義であるといった説得をして。

「はじめの内儀をよびいだし、ぢぶつどうにてまいにちゑかうせられければ」「初めの内儀を呼び出だし、持佛堂にて每日囘向せられければ」。後妻となった女性は、なんと、亡き先妻のためにわざわざ持仏堂を設け申し上げ、そこに先妻の御位牌をお迎え申して捧げ奉り、そこでまた、毎日、欠かさずに回向をなさったので。

「くさばのかげ」「草葉の蔭」。

「ぞんじやう」「存生」。

「そのしうしんのこりけるにや」「その執心、殘りけるにや」。その双六にて遊ぶことへ、強い執心が残っていたものか。ゲーム・アプリにうつつを抜かして致死事故を起こす現代人には、これを以って笑う権利など、ない。

よなよな、きたりて、こしもとゝすご六をうつ事、三ねんにおよべり。あるとき、こしもと、申しけるは、

「ふびんをくわへさせ給ふて」「不憫を加へさせ給ひて」。お可愛がり下さいまして。

「かやうにせいじんいたし候へば」「斯樣に成人致し候へば」。

「御をんはほうぢがたく」「御恩報じ難く」。

「かはりの女らう」「代はりの女﨟」。二代目の高貴なる女主人。後妻である現在の内儀を指す。

「しれ申し候はゞ」家内や近隣に者どもに知れてしまわれ遊ばされては。

「ねたみにきたり給ふかとおもひ給ふべし」彼らは皆、貴女さま(先妻)が後妻に対して妬みを以ってその執心から化けて出て来られているにではなかろうか、と思うに違い御座いませぬ。それでは貴女さまにとっても、また、心から貴女さまを追善なさっておられる今のご内儀さまにとっても、心外で無用な心配を引き起こすこととなるのでは御座いますまいか? といったこの腰元の誠意溢るるニュアンスであることをおさえておかねばなるまい。

「彦五郎ふうふの人に」彦三郎夫婦二人に対して。]

 

2016/11/27

谷の響 四の卷 十四 閏のある年狂人となる

 

 十四 閏のある年狂人となる

 

 福館村某の妻、閏月のある年はかならず狂人となりて經年やまず、明る正月より本にふくして全く常の人なりき。さてその狂のおこれるときは家に居ることなく、何處となくへめぐりて野山及林の内或は祠なとに伏し、飢るときは何方へも往て食を乞ひ、いろいろのたわごとをいふて歌ひつ舞ひつ啼つ笑ひつして、おかしきこともいと多かり。されど遠くは走らず、一二里の近きあたりにのみさまよへり。はじめ狂病の起りしとき、子供ら及夫(をつと)なる者もさまざま制せる由なれど、つやつや聽かで狂ひ出にしかば、つなぎ置くこともならず、又人のわづらひをなすにもあらねば今はたゞよるべきと思はるゝ家々の人を賴みおきて、時々謝儀を贈りしとなり。所の人これを福館村の閏馬鹿とよべり。嘉永七寅年も閏年ありて、專ら狂ひ歩行しを岡本三彌といへる人、したしく見てその由緣をきけるとて語りしなり。

 

[やぶちゃん注:「閏のある年」ウィキの「閏月」より引く。『太陰暦は、空の月の欠けているのが満ちそして再び欠けるまでを「一か月」とし、それを』十二回繰り返すことで十二ヶ月、即ち。『「一年」としている。しかしこの月の満ち欠け(平均朔望月=29.530 589日)による12ヶ月は約354.3671日であり、太陽暦の一年(約365.2422日)とくらべて約十一日ほど『短いので、この太陰暦をこのまま使い続けると暦と実際の季節が大幅にずれてしまう。このずれは11×3=33日』、つまり、三年間で一ヶ月分ほどになる。『そこで日本の太陰太陽暦ではこの太陰暦の』十二ヶ月に約三年に一度、一ヶ月を加え十三ヶ月とし、『季節とのずれをなるべく少なくする調整をする。この挿入された月を閏月という。これは二十四節気の節気と中気を、一年』十二ヶ月『それぞれの月に割り当てるが(立春を一月の節気、雨水を一月の中気とするなど)、暦をそのまま使い続けると二十四節気とは次第にずれが重なってくる。そのずれで中気が本来割り当てられた月のうちに含まれなくなったとき、その月を閏月としたものである。閏月の挿入の有無が太陰太陽暦と太陰暦との違いである。閏月の月名は、その前月の月名の前に「閏」を置いて呼称する。例えば「四月」の次に挿入される閏月は「閏四月」となる。また閏月が加わることにより、年末に立春を迎えることがある(年内立春)』とある。また、『閏月をどの時期に入れるかについては、同じ時代でも地域によって食い違うことがあった。例えば日本では古来より西日本では伊勢暦、東日本では三島暦が主に用いられたが、時として閏月を挿入する時期が異なっていたので、日本国内で日付の異なる暦を使っていた事がある』ともある(引用部下線はやぶちゃん)。これから考えると、彼女の精神が不安定になり、放浪癖が生ずるのは概ね三年に一度ということになるが、寧ろ、彼女は事前に来年が閏月が配される年だということを、暦売りなどが販売する暦で知り、それによってある意味、自律的に精神変調をきたしたのであろうと考えた方が自然な気がする。或いは、彼女は独自に、一年間分の、暦などよりも正確な体内時計を保持しており、暦を見ずとも、その季節の大きなズレ(閏月を配さねばならぬ)を生体認識していたとも考え得る(その場合、外界の自然の微妙な変化や気温や湿度の変化も判断材料としていた可能性もある)。そうして、その現実の自然界と形式上の時間の時差幅がある一定値を越えた際、それが何らかの理由で彼女の精神に作用し、そうした放浪現象を惹起させていたと考えることは、私には強ち、非科学的とは思われないのである。

「福館村」底本の森山氏の補註によれば、『南津軽郡常盤村福館(ふくだて)。津軽平野の中央部の農村』とある。現在は南津軽郡藤崎町(ふじさきまち)福舘。ここ(グーグル・マップ・データ)。東北方向に山岳部がある外は、八キロ圏内(後注参照)ならば、平野部が殆んどである。

「祠なと」ママ。「やしろなど」。

「飢る」「ううる」。

「何方」「いづかた」。

「往て」「ゆきて」。

「啼つ」「なきつ」。「泣きつ」。

「及」「および」。

「つやつや」一向に。

「狂ひ出にしかば」「くるひいでにしかば」。

「つなぎ」「繫ぎ」。

「人のわづらひをなすにもあらねば」これといって他者に危害を加えたり、困惑させるような問題行動を起こすわけでもないので。

「よるべき」立ち寄るであろう。彼女の放浪時の行動半径が一~二里(四~八キロメートル)圏内に限定されているからである。また、彼女は東北辺縁の山岳地帯には入り込まなかったのであろう。

「嘉永七寅年」同年は甲寅(きのえとら)で、この年は七月(大)の次に閏七月(小)がある。グレゴリオ暦一八五四年。なお、同年は十一月二十七日(グレゴリオ暦一八五五年一月十五日)に安政に改元している。

「步行しを」「あるきしを」。

「岡本三彌」。「三の卷 九 奇石」の情報提供者。]

谷の響 四の卷 十三 祈禱の禍牢屋に繫がる

 

 十三 祈禱の禍牢屋に繫がる

 

 又、この嘉之といふものその後大赦にあひて家にかへりしが、かゝるわるかしこきものなれば、日蓮宗の尊き由緣を語りて人を欺く。時々病家に雇はれて祈禱などして施物をうけ、活(よ)わたりの補助(たすけ)になせるとなり。さるにいぬる安政二乙卯年のよし、ある人の内に病人ありけるが、こを請ひて祈禱を賴みければ、一坐經文を誦して後いふ、この病人に狐がつきてあるなればそれそれの供物をとゝのへ供ふべしとあるに、主の曰く、この病人には狐のよるべき由つやつや有らず、さりとはいぶかしきことなりと言へば、さらば其證(しるし)を見すべしとてふたゝび祈りたるに、あやしきかなこの病人その振舞さながら狐に等しきことの多かれば、家内の者もあきれてみやるばかりなるに、程なく祈禱もをへてほこりかにいふに、主いよいよあやしみてこは必ず汝がつけたる狐なるべし。元來この病者狐につかるべきほどのわるあばれはせぬものなるに、斯有(かゝる)怪しき動止(ふるまひ)するは其まゝにすておかれずといふに、嘉之もいかでさる邪法をなさんとて互に言ひつのり、果は高聲に罵りあひたるに、家内こぞつてなだめたりしとなり。さるにこの事何より聞え上げしや、又他に犯せる罪ありしや、程なく嘉之牢屋につながれ、明くる辰の年の三月御ゆるしを蒙りしとなり。

 

[やぶちゃん注:小悪党鍛冶屋町嘉之、再登場!

「禍」「わざはひ」と訓じておく。

「その後大赦にあひて家にかへりしが」前話「十二 賣僧髮を截らしむで辛くも拘引から逃れているのであるが、その後に観念して戻り(その場合、恥ずかしいから髪が結えるまで延びるのを数ヶ月は待ったに違いない)、神妙にお繩となって牢入りしたか(としても逃亡したから罪は重くなっている)、或いは、観智が追放されたように、期間を区切った追放刑辺りとなったものが、大赦によってしばらくして解除されたか。ただ前話の、

観智主犯の〈狂言神託詐欺事件〉が「天保元庚寅の年」でグレゴリオ暦一八三〇年

で、本話の、

〈狐憑き騒擾事件〉が「安政二年乙卯」(きのとう)でグレゴリオ暦一八五五年

で二十五年ものスパンがある。結構、永く牢屋にいたか、逃げ回っていたか、していた可能性もあろう。そして最後に「程なく嘉之牢屋につながれ、明くる辰の年の三月御ゆるしを蒙りしとなり」とあるから、彼が牢から解き放たれたのは、

翌安政三年でグレゴリオ暦一八五六年

ということになる。解き放ちが早かったのは、嘉之の行為を詐欺として立件することはこの場合、難しかったからであろう(この言い争いの時点で祈祷料や謝礼の授受を受けていなかったら尚更である)。所謂、正式な僧でもないのに、祈禱を行っては患者を治療しているという部分でのみ問題となって入牢となったのものと思われ、であれば短期に出獄してもおかしくはない。

「施物」「ほどこしもの」。彼には彼の矜持があったであろうが、こうなると、正直、情けない乞食坊主か、僧形の芸能者と変わらぬようだが、彼は弘前に居んで、流浪はしていないようで、前回の〈狂言神託詐欺事件〉があっても、懲りずにこんなことで生計を立てているところを見ると、彼の所属していた日蓮宗講中では、それなりの信頼度があったものかも知れない。

「こを請ひて」この嘉之に頼んで。

「一坐經文を誦して後いふ」「一坐」して、徐ろに「法華経」の「經文を誦して」、その「後」、やおら言うことには。

「つやつや有らず」全く以って一向にそのような様子はない。

「さりとはいぶかしきことなり」この家の主人は病人の狐憑きを完全否定している。これは後で主人が「元來この病者狐に」憑依されたような「わるあばれは」(狐のような獣染みた悪暴れは)今日の今日まで「せぬもの」、したことがなかったのだ、だから絶対に狐など憑いていない、と述べていることを根拠とするのである。後で再注するが、この主人は実は狐憑きについては個人的詳しい知見を持っていたことが窺われるのである。だから、全否定出来たのだ。

「祈禱もをへてほこりかにいふに」嘉之は「祈禱も終(お)へて」(歴史的仮名遣は誤り)如何にも「誇りか」(偉そうに・自慢げに・『どうだ! やっぱり狐憑きだたろう!』とったしてやったりといった感じで)「言ふに」。ここは、精神科医と患者の悪しきラポート(rapport:臨床心理学用語。セラピストとクライエントとの間の心的状態)状態の典型である。即ち、本人を前に「狐憑き」と診断することによって、患者本人がその診断者の言を受け入れてしまい、その「狐憑きを演じてしまう状態」で説明が出来る(少しだけ脱線しておくと、精神科医は一般には長く同一の病院には務めず、二、三年で勤務先を変えるケースが多い。それは、一部の患者の中に、その精神科医に対し、過度の信頼感情を持つラポート状態を形成してしまい、せっかく進んだ治療がそこで停滞してしまう患者が生じてくるからである。治癒してしまうと患者はその先生と逢えなくなってしまうので、患者はそこで、医師を信頼する、離れたくないが故に、自ら治療進行を鬱滞させてしまうことがあるしばしばあるのである)。

「斯有(かゝる)怪しき動止(ふるまひ)するは其まゝにすておかれず」と売り言葉に買い言葉で応じたところ、「嘉之も」『いかでさる邪法をなさん』「とて互に言ひつの」っているとある。ここには略された台詞があるように思われる。即ち、この病人の主人は、

・嘉之が「狐憑き」と診断するまでは病人には「狐憑き」の兆候は微塵も見えなかった。

ところが、

・嘉之が「狐憑き」と病人の前で断じ、憑いた「狐」に「正体を現わせ!」とい言上げするような祈禱を行った結果、狐のような動作を病人がした。

ということは、

・祈禱者である嘉之自身が狐を憑けた。

という結論を導いているのである。これは先に述べた通り、精神医学的にも私は正しい推論と言えると考えている。そして、このような冷静な判断を下せるこの主人は以前に「狐憑き」の病人を実見したことがあり、「狐憑き」についても相応の知見や、その療治の手立て・手づるを持っていると考えるのが自然なのである。

 さらにここで主人は、「斯有(かゝる)怪しき動止(ふるまひ)するは」と言っている。これは、

――ここに至って病人に「狐」を「憑かせる」という怪しい振る舞いに及んだ上は、貴様は祈祷師でも巫医でも何でもない! さればこそ、お前をお払い箱にして、まずはお前の「憑けた狐」を我が知れる修験者に落させねば、ともかくもこのままでは「すておかれ」ぬわ!

というようなことを言いつつ、嘉之を指弾しているのである(と私は考える)。だからこそ、その意外な展開に「嘉之も」『いかでさる邪法をなさん』、

――どうしてそのような妖しい邪法をこの病人施してよいものかッツ!

と怒って応じているのである。ここはそのような補助を台詞に補ってみて、初めて私は腑に落ちるのである。大方の御叱正を俟つものではある。

「果は」「はては」。]

谷の響 四の卷 十二 賣僧髮を截らしむ

 

 十二 賣僧髮を截らしむ

 

 又、天保元庚寅の年のことにて有けん、甲斐國身延の者のよしにて觀智といへる日蓮宗の旅僧來り、博識高德にして妖魅につかれたる者など祈禱して癒えざるなしといふ風説專ら高かりけるが、この時下土手町なる竹内四郎左衞門子息岩木山にのがれて二三年も過ぎたる頃なるが、法花の講中のものども此話を觀智に語りければ、觀智の言へるは、祈禱の功力にて親に對面さするはいと易き事なりと言はれしに、鍛冶町に住める嘉之といへる者、四郎左衞門の家にゆきてしかじかのよし語りけるに、さすがに親子の恩愛深くしきりに顏の見まほしくて、嘉之の言の信しきにほだされて、幣物をおくりて祈禱を賴みければ、觀智ははやく承知して講中の者の僧まさりなるを四五人語らひ、いろいろの供物を飾り一七日の間たんせいをこらして祈りたり。四郎左衞門夫婦も日々參詣し、俱に題目を唱へはやく六日もすぎぬれど、少しもしるしとおぼしきことの有らざれば、奈何はせんとかの嘉之に尋ぬれば、嘉之けつそりとしてやがて明る日はきわめて對面あるべければ、心を專らにして題目を唱ふべし、必ずうたがふことなせそとなぐさめける。

 されど明日の祈りも覺束なく、皆々集り相談すれば對面さすべき道のあらざれば、嘉之が髮をきりてよりの者に持せ、明る朝まだほのくらきに祈禱にかゝり、四郎左衞門夫婦も今日こそとて常より早く參詣したるが、やゝはげしく祈れるとき、託(より)に立たるものこの髻(もとゝり)を觀智にわたして言けらく、山神に仕奉りて片時も出べきすきまなく、さりとて祈禱の功力もかしこかめれば、卽ち髻を切りて志にむくふるなり。是にて愛念をはらされよ、折あらば對面の期もありぬべしといふて、其まゝたをれ伏せにけり。四郎左衞門夫婦暫く泪に沈みしが、この髻を手にとりてつらつら見るに、疑はしき事もあれどせんすべなければ、そをふところにして厚く禮をのべて皈りしとなり。左有(さる)にこの話誰いふとなく世上に廣まり、日蓮宗のしやまんなるをとりどりの沙汰ありければ、役所より御詮義ありて嘉之は牢屋に曳かるべかりしを早くも逃走り、觀智坊主は直に碇ケ關口まで追ひ拂はれ、講中の者は勿論本寺まで御叱りを蒙りしとなり。四郎左衞門この事を語りて、若し驗(しるし)あらんには改宗なすべき誓約ありしと言へり。あはれあはれ拙くもはからひしものなりかし。

 

[やぶちゃん注:ここでも日蓮宗が槍玉に上っている。やはり確信犯らしい。

「賣僧」「まいす」。仏法をネタに金品を不当に得る破戒僧。「売(マイ)」は宋音で、元来は禅宗で僧であると同時に商売をしている者を指した語。

「天保元庚寅の年」グレゴリオ暦一八三〇年。「庚寅」は「かのえとら」。

「甲斐國身延」山梨県南巨摩郡身延町と早川町の境にある身延山。「身延山」は日蓮宗総本山久遠寺の山号でもある。

「下土手町」現在、弘前市の中心部をなす土手町(どでまち)があり、ここ(グーグル・マップ・データ)であるが、「下」とは弘前城との関係から、現在のそれの南東部と採っておく。

「竹内四郎左衞門子息岩木山にのがれて二三年も過ぎたる頃なるが」底本の森山氏の補註によれば、『竹内四郎左衛門の倅金兵衛が、文政年間の初夏ころ、下男をつれて岩木山神社』(いわきやまじんじゃ。ここ(グーグル・マップ・データ)。山頂まで実動距離で六キロメートルはあり、高低差は一二〇〇メートルにも及ぶ。物見遊山の素人が登るルートではない)『に詣でた後、下男の止めるのを振り切って岩木山に登り、とうとう姿を消してしまった。家では人を雇って山中をくまなく探したが、中腹の錫杖清水』(しゃくじょうしみず:ここ。リンク先の道標を見ると、ここからでも山頂まで一時間十分とある)『という所で、金兵衛の笠と手拭を見つけただけで終った。世間では搗屋(竹内家の屋号)のアンサマは赤倉のオオヒト』(本「谷の響 二の卷 十五 山靈」の本文及び私の「大人」の注を参照されたい)『にさらわれたといい、久しく語り草となった』とある。ということは、この金兵衛岩木山失踪事件は文政一〇(一八二七)年から翌年か翌翌年の初夏に発生した〈神隠し〉であったことになる(文政は文政一三年十二月十日(グレゴリオ暦一八三一年一月二十三日)に天保に改元している)。

「功力」「くりき」。仏法の功徳(くどく)の力。効験(くげん)。

「鍛冶町」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「信しき」「まことしき」と訓じておく。真実らしさ。

「ほだされて」情に惹かされ、必ずしも自分の考えにはない行動をとってしまい。

「幣物」「へいもつ」狭義には「幣(ぬさ)」であるから「神前に捧げる供物・幣帛(へいはく)」であるが、ここは広義の「贈り物・進物・聘物(へいもつ)」の意。

「はやく承知して」二つ返事で承諾して。

「僧まさりなるを」ここは、僧侶ではないが、相応に経典や日蓮の著書などを読んで、ちょっとした僧にも匹敵しそうな連中を(従僧に仕立て上げ)、の謂いと採る。

「一七日」これは「いちしちにち」或いは「ひとなぬか(ひとなのか)」などと読み、初七日の如く、仏教の法式(祈願祈禱等を含む)上の基本単位日数で、七日間を指す(だから直後に「六日もすぎぬれど」と続くのである)。十七日と読み違えないように注意されたい。

「たんせいをこらして」「丹誠を凝らして」。

「けつそりとして」ママ。「げつそりとして」であろう。

「皆々集り相談すれば對面さすべき道のあらざれば、嘉之が髮をきりて」その相談、というより謀議の中心にいるのは売僧(まいす)の観智である。

「よりの者」緣者。この場合は口が堅くなくてはまずいので親族で尚且つ、彼の所属している日蓮宗講中の者。

「持せ」「もたせ」。ここでも命じているのは観智である。

「託(より)に立たるもの」「より」とは「依代(よりしろ)」で、所謂、霊を憑依させて語らせる役として特別に選んで立たせていた(設定しておいた)者。しかも、これ、すべて主犯の観智と共同正犯の嘉之を中心として台本が作られたヤラセの演出であり、託宣があったわけでも、金兵衛の魂(生霊)が憑依したわけでも何でもないのは言うまでもない。

「言けらく」「いひけらく」。言うことには。「けらく」は連語で、過去の助動詞「けり」のク語法(くごほう:用言の語尾に「く」を付けて「~(する)こと・ところ・もの」という意味の名詞を作る語法(厳密には一種の活用形))。

「仕奉りて」「つかへたてまつりて」。もともと既に金兵衛は山の神霊(大人(おおひと)・山神・天狗など)に攫われたと認識されていたのであるから、ショボくさい発言である。

「出べき」「いづべき」。

「かしこかめれば」「畏かめければ」であるが、活用はおかしい。「かしこかれければ」で採っておく。畏れ多いので。

「むくふるなり」「報(むく)ゆるなり」。歴史的仮名遣は誤り。「報ゆ」はヤ行上二段活用で、断定の助動詞「なり」は活用語の場合は連体形接続。

「はらされよ」「晴らされよ」。

「其まゝたをれ伏せにけり」「その儘、倒(たふ)れ伏せにけり」歴史的仮名遣は誤り。実にニグサい大根芝居である。

「泪」「なみだ」。

「この髻を手にとりてつらつら見るに、疑はしき事もあれど」如何にもこの数日前に髪結いに行ったような感じのする綺麗なもので、鬢付け油もごく新しいわ、元結も真新しかったりする、わけだよな!

「皈りし」「かへりし」「歸りし」。

「しやまん」「邪慢」で「じやまん(じゃまん)」であろう。仏教用語で「徳がないのに、あると偽って奢り昂ぶること」を指す。しかし、だったらその意味から「奢慢(しやまん)」でもいいかな? とも考えたことを言い添えておく。

「とりどりの沙汰ありければ」特に目立っていろいろな不評や悪しき噂が流れていたので。このケースも、髻があまりにも綺麗過ぎるとか、嘉之がほっかむりをして病み伏せっていると称して表に出ようとしないとか、如何にも怪しげな事実が数日の内に浮上してきたのであろう。詮議の結果、デッチアゲらしいことが推定出来たのである。

「曳かるべかりしを」今にも拘引されんとしたところが。

「逃走り」「にげさり」と訓じておく。なお、この小悪党の日蓮信徒鍛冶町の嘉之は性懲りもなく、またまた次の「十三 祈禱の禍牢屋に繫がる」でも似たようなケチ臭い悪事を働いてとうとう牢屋入りするのである。

「直に」「ただちに」。

「碇ケ關口」森山氏補註に、『南津軽郡碇ケ関(いかりがせき)村。秋田県境に接する温泉町。藩政時代に津軽藩の関所があり、町奉行所が支配していた』とある。現在は合併によって平川市碇ヶ関として地名が残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。「口」は関所外に強制退去させられたことを意味していよう。

「本寺」江戸幕府は仏教教団を統制管理するために「本末(ほんまつ)制度」を設けており、各宗派の寺院を重層的な上下、本山と末寺の関係に置き、支配構造内でも統制システムを強化、それによって各宗派に対する統制を測った。原則、無本寺寺院を認めず、寺院相互の本末関係を固定化し、不祥事によっては有無を言わせず連帯責任を負わねばならないように構築を行った。これは江戸初期に既に始動しており、ウィキの「本末制度」によれば、寛永八(一六三一)年には、『新寺の創建を禁止し、翌年以降、各本山に対して「末寺帳」の提出を義務づけた。これによって、各地方の古刹が幕府の命によって、形式的に特定の宗派に編入されることとなった』。『幕府は、江戸に設置された各宗派の「触頭(ふれがしら)」を通じて、自らの意向を宗派の末寺に対して周知徹底させることが可能になった』とある。この場合は、先の身延山久遠寺である。

「拙くも」「つたなくも」。ここは誓約證文まで書いてしまい、危うく改宗させられそうになった四郎左衛門(夫婦)のことを評した語である。]

 

谷の響 四の卷 十一 題目を踏んで病を得

 

 十一 題目を踏んで病を得

 

 天保の末年の頃にやありけん、石戸谷某と言へる人の子息、いたく日蓮宗を信ずるからに、時々近所にゆきてもたゞに他宗をそしり、法華をほむる話のみなりしが、野村安次郎といへるいたづらなる人ありて、しかも淨土宗にてありけるから、この石戸谷の倅の事を兼て小面憎く思ひて居たりけるが、ある日亦この咄しに及びしかば、野村がいふ、日蓮上人は奈何なる有かたき事あるかは知らず、法然上人と紙に書いて地上に置いてこを踏まんとするに、脚なえ眼くらみて其まゝたふるゝ也。日蓮上人と名を書いたるものは、いくたびふみてもたゝりがましきことちりばかりもあらざればなりといふに、この倅のいふは、そは不殘(みな)とらへ處なき虛妄説(うそこと)なり。我今法然の名を踏んで示すべしとあれば、野村がいふ、いたづらごとして罰は中りなばくゆるとも詮なし、止ねやみねとあざ笑へば、倅いたくいきまきて、實にしかあらんには是非ともふんでためさんといふに、野村は兼ねてはかりしことなれば、さらば己も日蓮の名を踏んでためさんと、互にかけになりて俱にその名を書いて取替し、各々したゝかにふみおへて其まゝひらき見てあるに、二枚とも日蓮上人とあれば野村がいふ、さてさておそろしき奇瑞を見ることよ、今正しく法然上人と書たるものが、土足にかくる際にのぞんで日蓮とかわりぬること見らるゝごとくなれば、いかで日蓮ごときの屑をならぶべきものかは。是にて法然上人の尊きことを覺悟して、とく淨土宗に改宗すべし、あな尊やあな有かたや南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛とおどり上りていひたるに、名たゝる法華の信心者も野村が一計にへきえきして、色を失ひ物もえいはで反られしに、其夜より何となくなやましきとておきもあがらですぎつるが、後には癆症(らうしやう)きみになれりとて、彼が黨なる法花(ほつけ)の仲間どもが數人寄りつどひ、祈禱すること數多にして四五十日にてやうやうにいえけるとなり。

 さて、この時に至りても己が心病とも知らずして、かく全くいひぬるは、日蓮上人の御慈悲ふかく又法花經のたつときなりし業とて、講中のものまでもほこりがましく語れるは、いかに不善(さが)なきものながら、いとおかしき尊みやうと、この野村の語りて笑ひしなり。[やぶちゃん字注:「かく全くいひぬるは」の「いひ」の右には底本では編者によって『(癒)』と補正注が附されてある。]

 

[やぶちゃん注:「題目」不審。以下の叙述を見る限り、石戸谷は題目、則ち、「南無妙法蓮華経」と書いた紙を踏んだのではなく、宗祖たる「日蓮上人」という文字を書いた紙を踏んだのである。これは大きな違いである。言えることは、これを笑い話として記すことの出来る筆者平尾は日蓮宗の信徒ではないということである。調べてみると、平尾魯僊の墓は前に出た、現在の弘前市新寺町にある月窓山栄源院貞昌寺(引用済みであるが、底本の森山氏の補註に『永禄三年藩祖為信の命により開創。弘前築城と共に弘前に移る。寺領六十石、領内に末寺庵百余を支配した』とある)、ここは浄土宗である。ここ(グーグル・マップ・データ)。ちょっと納得。彼も日蓮嫌いだったのかも(かくいう私も日蓮嫌いの親鸞好きではある)。

「天保の末年」「天保」は十五年までで、グレゴリオ暦では一八三〇年から一八四五年(通常は末年を一八四四年とするが、天保十五年は旧暦十二月二日に弘化に改元しており、これはグレゴリオ暦で一八四五年一月九日に相当するので、九日分が一八四五年に含まれる)。

「石戸谷」の読みは「いしとや」「いしどや」「いしとたに」「いとや」「せきどや」「せきとや」など。ネットの姓氏サイトを見ると、この姓は青森と秋田に特異的に多い。

「小面憎く」「こづらにくく」。顔を見るだけでも不快で憎らしく。

「有かたき」「有り難(がた)き」。

「脚なえ眼くらみて」「脚(あし)萎え、眼(まなこ)眩みて」。「萎え」はここでは、痙攣状態を起こすことであろう。

「虛妄説(うそこと)」三字へのルビ。

「いたづらごとして罰は中りなばくゆるとも詮なし」「惡戲事して罰(ばち)は中(あた)りなば悔ゆるとも詮(せん)なし」。

「止ねやみね」「やみねやみね」。

「實に」「げに」。

「己」「われ」。

「かけ」賭け。

「取替し」「とりかへし」。

「いかで日蓮ごときの屑をならぶべきものかは」『儂(わし)が「法然上人」と確かに書いたはずのものが、これ、「日蓮上人」の文字に変じた! これこそ、まさに「法然上人の尊(たっと)」きことの証しじゃて! 法然御聖人さまの仏法の玄妙なる力であると、これ、極まったわ! さればじゃ! どうして、日蓮如き屑糞坊主と並び称してよいものカイ! 阿呆んだらッツ!』

「有かたや」「ありかたや」。「有り難や」。

「名たゝる法華の信心者」「名たゝる」は「名立たる」で世間でも知られた熱狂的な。石戸谷個人、一人を指している。

「へきえき」「辟易」。

「色を失ひ物もえいはで」真っ青になって物も言えなくなり。まずいのは彼が「日蓮上人」という文字を踏みつけても何も起こらなかったことではあるが、実はそれ以上に、以下の展開を見る如く、「日蓮上人」の名を踏んでしまったという事実が、石戸谷に深刻なASD(急性ストレス障害:Acute Stress Disorder)を発症させているのである。

「反られしに」「かへられしに」。「歸られしに」。この「られ」は自発か。

「何となくなやましきとておきもあがらですぎつる」「『何となく惱ましき』とて起きも上がらで過ぎつる」。その日から忽ち、不定愁訴を訴えて、急激に悪化しているからこれはPTSD(心的外傷後ストレス障害:Post Traumatic Stress Disorder)ではなく、ASDなのである。

「癆症(らうしやう)きみ」「きみ」は「氣味」。「癆症」(ろうしょう)は「肺結核」(労咳(ろうがい))のことを指すのであるが、恐らくは、急性ストレス障害に加えて、宗祖の名を踏みつけたことによる罪障感から激しい心因反応(踏みつけて何も起こらなかったが、すぐに何か起こるに違いない、命が立たれるかもしれないと即時的思った部分をASDとし、このやや時間が経ってから考えて生じた不安障害をPTSDと区別してもよい)が起こり、食欲不振から瘦せ衰え、まるで見かけ上は労咳患者のようになってしまったというのである。

「黨なる」「ともなる」と訓じておく。

「いえける」「癒えける」。

「この時に至りても己が心病とも知らずして」この野村安次郎、石戸谷の様態を精神障害、「おのがこころのやまひ」(と訓じておく)とはっきり断じているところ、まあ、悪戯が過ぎてはいるものの(しかしその巧妙さには、やはり悪知恵、巧みな知力を感じさせる)、この判断を見る限り、かなり鋭い男ではないか。

「かく全くいひぬるは」この「かく」は後の「ほこりがましく」かく「語れるは」の位置にある方がよい。取り敢えず「かく」を「こんな惨憺たる心身の変調から辛うじて回復したにも拘わらず」の謂いでとり、「全くいひぬるは」は、「性懲りもなく言っておるその内容はと申せば」としておく。

「日蓮上人の御慈悲ふかく又法花經のたつときなりし業」これが石戸谷以下の日蓮信徒グループが口を揃えて言っている感懐である。「業」は「わざ」で、ここは「御蔭」「まことの仏法の仕儀」の謂い。「日蓮上人」の文字を踏んだ仏罰から、〈ぶらぶら病〉となり、死にかけたけれども、また同時に、「日蓮上人の」深い「御慈悲」と、「法花經の」尊き神妙なる法力によって生還し得たのは無常の幸い。至福であった、というのである。馬鹿は死んでも治らねえ、と吐き捨てたい野村が眼前に見える。

「講中」広く信仰上の志を同じくする者によって作られた集団の構成員。ここは石戸谷の属する日蓮宗徒の集まり。そうした中には、冷静に考えれば、彼の病いは気からであったことを肯(うべな)う者がいてもおかしくないはずなのに、という口振りである。

「いかに不善(さが)なきものながら」どんなに性根が悪くなく、それをまっこと信じて受け入れてという素直さは認めはするものの。

「いとおかしき尊みやう」「いやもう、なんともはや、馬鹿馬鹿しい尊(たっと)みようで! フフフ」。野村安次郎よ、そこまで言うか!? やっぱ、この男、頭はいいが、好きになれねえな。]

谷の響 四の卷 十 戲謔長じて酒殽を奪はる

 

 十 戲謔長じて酒殽を奪はる

 

 これは寛政の年間、紺屋町のもの共四五人茸をとるべしとて酒肴をもたらし鬼澤の山へ行き、各々心々に散らかりて茸をまきて居たりけるが、安田屋七左衞門といへるもの元よりおどけなるものから、人の見ぬうち其酒肴をとある木蔭に穴を掘りてかくしおき、知らず顏して有けるがやがて晝にもなりつれば、いざにおきし酒汲んで興をそえんと一つ所に寄りかたまりて辨當持を促せしに、置きし處になかりしとて彼方此方を尋ねさがし、しばしあれども見得ざればいかゞなれるといぶかるに、七左衞門のいへりけるは己れ八卦をおいてそが有處を示すべし、その御最花におのおのより茸二枚つゝをうくべしとて、さまざまのたわゝざをなし、それの處を掘りて得べしとあるに、又いつものくせよと笑ひておしへし處を掘りたれど、さらに見るべきものなければ、七左衞門うち驚き自ら立居て此處か彼處かと心まとひて數ケ處掘れど、形代(かたしろ)だにもあらざるに皆人あきれてつぶやきたるが、御藏町の彌兵衞といふものいと腹立て、面白くもなきわるしやれして己ばかりか人にまでひたるき思ひをさすたわけ者よとのゝしりけるに、こが元となりて互にわめき爭ふほどにつひに打あひたゝきあひして、鬢(びん)も髻(たぶさ)もとけみだし、人のさへるもうけがはずして眞赤になりてもみ爭ふから、皆人かゝりやうやうにおしわけてしづめたれど、興も盡き腹もすきていと馬鹿らしく力もなくて、わづかとりし茸を携へ、鬼澤村の茶屋に來り酒と飯とをあがなひて、やうやうにうゑをしのぎはつみなくして反りしなり。こはこの七左衞門が穴を掘りてかくせるを見るものありて、又これを奪ひしものなりき。さりとは惡きひが事ながら、又おかしきいさかいなり。

 さて、かゝるたわけしことは往昔もありける。そは兼好がつれづれ草に、御室にいみじき兒(ちご)のありけるを、いかてさそひ出してあそばんとたくむ法師どもありて、能あるあそび法師ともなどかたらひて、風流のわり子やうの物念頃にいとなみいでて、箱ふぜいのものにしたゝめ入れてならびの岡に便りよき處にうづみおきて、紅葉(もみぢ)ちらしかけなんどおもひよらぬさまして、御所へまゐりて兒(ちご)をそゝのかしいでにけり。うれしくおもひてこゝかしこあそびめぐりて、有つる苔のむしろになみゐて、いたうこそこうじにたれ、あはれ紅葉をたかん人もがな、しるしあらん僧だち祈り心みられよなんといひしろひて、埋みたる木のもとにむきて數珠をすり、印ことことしくむすび出てなとして、いらなくふるまひて木の葉をかきのけたれどつやつや物も見得ず。處のたがひたるにやとて、ほらぬ處もなく山をあさりけれどもなかりけり。うづみけるを人の見おきて、御所へまゐりたるまにぬすめるなりける。法師どもことはなくて聞にくゝいさかひ、はら立て反りにけり。あまりに興あらんとすることは、必ずあいなきものなり云々とあげたるは、よくこの事にかなへり。今もこれに似よれるはまゝありぬべし。いとよからぬことなり。

 

[やぶちゃん注:「戲謔」戯れ。悪戯。おどけ。

「長じて」調子に乗り過ぎて。

「酒殽」「酒肴」に同じい。

「寛政」一七八九年から一八〇一年。

「紺屋町」現在の弘前市紺屋町(こんやまち)。弘前城の西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「鬼澤」弘前市鬼沢(おにざわ)。岩木山東北山麓の裾野附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。地区の南西に山(黄金山)があり、確かに茸、採れそう。

「散らかりて」散開して。

「まきて」「卷く・捲く」と思われる。ある地域の周りを取り囲み、包囲するように茸を狩るのである。最初に散開して、そのように特定の中心位置に向かって狩って行けば、迷うこともなく、皆、全員が最後に落ち合える訳で、頭のいい、やり方ではある。そこに酒肴を置いてもいたのである。

「ものから」接続助詞で、ここは順接の確定条件。~なので。~だったから。

「いざに」ママ。この「に」は文法嫌いの私には説明出来ぬ。

「辨當持」「べんたうもち」。ここは特に下男というのではなく、仲間内の弁当担当の者であろう。

「己れ」「われ」。

「八卦をおいて」ここは単に占いをしての謂い。

「有處」「ありどころ」。

「御最花」「おはつほ」と読む。本来は「御初穂」。元は神前に供える初物を指し、「初穂」は「先穂」「早穂」「最花」などとも書く。最初に穫れた稲穂を神に感謝して供えた民俗祭儀に基づくもので、後にその他の供物や代わりの金銭(初穂料)をも指すようになった。ここは、神の託宣を得る占いをするその供物としての謂いだが、悪戯だけでなく、この七左衛門、ちゃっかりしているところが、如何にも不快な奴である。私なら、後で真っ先に殴る。

「二枚つゝ」ママ。「二枚づつ」。

「うくべし」「受くべし」。受け取ろうぞ。

「たわゝざ」「たはわざ」で「戲(たは《ぶ)れの》業(わざ)」という造語であろうが、とすれば、歴史的仮名遣は誤りである。

「それの處を」そこを。

「又いつものくせよと笑ひて」この時、他の連中は七左衛門のいつもの、しょうもない悪戯と判っていながら、付き合っているのである。こいつ、よほどのオオタワケである。

「自ら立居て」占いのポーズをするのに座っていたのを、慌てて立ち上ってそこここにしゃがみ込んでは掘り、また立ち走っては、しゃがみ掘って。

「形代(かたしろ)だにもあらざるに」影も形もないという事態に。

「つぶやきたるが」ぶつぶつ不平を漏らしていたが。

「御藏町」現在の青森県弘前市浜の町。ここgoo地図)。「弘前市」公式サイト内の「古都の町名一覧」の「浜の町(はまのまち)」に、『参勤交代のとき、もとはここを経て鯵ヶ沢に至る西浜街道を通って、秋田領に向かっていました。町名は、西浜に通じる街道筋にちなんだと思われますが』、宝暦六(一七五六)年には『藩の蔵屋敷が建てられ、「御蔵町」とも呼ばれました』とある。

「わるしやれして」「惡洒落して」。悪い冗談ごとを成して。

「己」「おのれ」。

「ひたるき」「饑るし」。であるが、通常は「ひだるし」と濁る。「空腹だ・ひもじい」の意。

「たわけ者」「戲(たは)け者」。歴史的仮名遣は誤り。愚か者。

「鬢(びん)」頭の左右側面の、後ろに撫でつけて揃えた髪。

「髻(たぶさ)」「髷」に同じい。髪を頭上に集め束ねた所。もとどり。

「さへる」「障へる」。制止する。

「はつみなくして」不詳。「彈(はづ)み無くして」で、「勢いも元気もすっかり失せてしまって」の謂いか?

「反り」「かへり」。「歸り」。

「さりとは」「これは、まあ、その」。

「惡きひが事」(隠した七左衛門の、勿論、それをこっそり奪った部外者の誰かの、その行為は)孰れもすこぶる性質(たち)の悪い悪事。

「往昔」「むかし」。

「兼好がつれづれ草に、御室にいみじき兒(ちご)のありけるを……」以下は「徒然草」第五十四段。敢えて西尾が引いた伝本とは異なるものを引いた。

   *

 御室(おむろ:現在の京都市右京区御室にある真言宗大内山(おおうちさん)仁和(にんな)寺。開基の宇多法皇が居られた事蹟からかく呼ぶ。後の「御所」の同じ)に、いみじき兒(ちご:美童の稚児。僧侶の同性愛の対象であった。)のありけるを、いかで誘ひいだして遊ばんとたくむ法師ありて、能(のう:芸能の才や技。)ある遊び法師(:僧形で音曲や舞いなどをして金品を得た芸能者。)どもなどかたらひて、風流(ふりう:稚児が喜ぶように洒落た感じに意匠を施した)の破子(わりご:白木で折り箱のようにして造作し、中に仕切をつけて、被せ蓋をした弁当箱。)やうの物、ねんごろにいとなみ出でて、手箱(てはこ)樣(やう)の物にしたためいれて、双岡(ならびのをか:仁和寺近くの三つのピークが並んでいる岡。因みに、この二番目の麓に兼好の墓がある)の便(びん)よき所に埋(うづ)みおきて、紅葉(もみぢ)散らしかけ、思ひよらぬさまにして(:どうみても人為が加わった場所とは見えぬようにして。後を見ると紅葉を散らしただけでなく、苔なども移植して自然に見せているようである。)、御所へ參りて、兒をそそのかし、いでにけり。 嬉しと思ひ、ここかしこ、遊び巡りて、ありつる(:先の埋めたところの。)苔のむしろに並みゐて、

「いたうこそ困(こう)じにたれ」(:えろう疲れたことじゃ。)

「あはれ、紅葉を燒かん人もがな」(:ああ、こうい所(とこ)で紅葉を焚いて酒を温めてくれる人はおらんかいなぁ。)

「驗(げん)あらん僧達、祈り試みられよ」(:効験(こうげん)あらたかななる貴僧方よ、何かそうした我らが願いを叶えて下さるよう、一つ、御(おん)祈禱など試みられい。)

など言ひしろひて(:言い騒いで。)、埋(うづ)みつる木(こ)の本に向きて、珠數(ずず)をしすり、印形(いんけい)ことごとしく(:如何にも大袈裟に。)結びいでなど振舞(ふるま)ひて、木(こ)の葉をかきのけたれど、つやつや(:丸っきり。)物も見えず。ところの違(たが)ひたるにやとて、掘らぬところなく山をあされども、なかりけり。埋(うづ)みけるを、人の見おきて、御所へ參りたる間(ま)に盜めるなりけり。法師ども、言葉なくて、いと聞きにくくいさかひ、腹立ちて歸りにけり。

 餘りに興あらんとすることは、必ず、あいなき(:無効な。)ものなり。

   *

なお、「あはれ、紅葉を燒かん人もがな」という台詞は、白居易の詩「寄題送王十八歸山仙遊寺」(王十八の山(やま)に歸るを送り、仙遊寺に寄せて題す)、の「林間煖酒燒紅葉」(林間に酒を煖(あたた)めて紅葉を燒(た)き」を踏まえたもの。

「いかて」ママ。「如何(いか)で」。何とかして。

「たくむ」「企む」。

「箱ふぜいのもの」「箱風情の物」。より大きな装飾を施した豪華な箱型の入れ物。

「したゝめ」食物や肴を調整して。

「なとして」ママ。「などして」。

「いらなく」大袈裟に。わざとらしく。

「ことはなくて」ママ。「言葉無くて」。

「聞にくゝいさかひ」「きき難く諍(さか)ひ」僧侶であるにも拘らず、聴くも無惨なる下卑た様子で言い争い。

「反り」「かへり」。前出。

「似よれるは」「似寄れるは」似通った出来事は。]

谷の響 四の卷 九 人を唬して不具に爲る

 

 九 人をして不具に爲る

 

 寛政のころ、紺屋町に百澤屋忠吹郎といへる湯屋ありて、そこの婆々なる人長わつか四尺ばかりにしていと小さかなるが、産付(うまれつき)おどけなるものなるから、年々の盆には必ず踊りに出けるとなり。ある年、踊のかへさ夜いたく更けて鷹匠町を戾れるに、後方より同町の染屋の悴平太郎といへる長五尺六七寸もあるべき大男歌をうたひて來れるに、元よりしれるものにしあればいざやびつくりさしてんと、五十石町の淫地(やち)が草むらに身をかくしてぞ待れける。平太郎は何心なく來りしが、草むらの内よりキヤツくといふてむなさきへはねかゝるに、平太郎ふてきものにてことゝもせず、其まゝひつつかみて淫地(やち)の中へどうとなげつくるに、呍(うん)と苦聲(さけび)しまでにて音もあらざれば、何者ならんと月の明りにすかし見れば、股引をはき胴着をきたる小さきものゝ片息になりてうめき居たるに、助けおこしよく見れば湯屋の老母にてありけるに、いと驚き言譯して連れかへらんとすれど、腰間(こし)が痛みて步行得ずとあれば、背負ひて宿にかへりけり。さるに其腰いたくなやみしだいしだいに重りて已に死ぬべく見へつれば、いろいろ藥を盡し神に祈り佛に願きて、百日近くにしてわづかにいゆることを得たりしかど、しかと腰をのばすことならずといへり。いたづらのこはきは、身をそこねることまゝあることなり。愼み戒むべし。

 

[やぶちゃん注:「して」「だまして」。「騙して」。現代中国語では「虚勢を張って人を脅かす」「大げさに言って人をだます」の意とする。私はここで生まれて初めて見た漢字である。

「寛政」一七八九年から一八〇一年。

「紺屋町」現在の弘前市紺屋町(こんやまち)。弘前城の西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「湯屋」私の趣味で「ゆうや」と読んでおく。

「長」「たけ」。背丈。

「わつか」ママ。「僅か」。

「四尺」一メートル二十一センチ。

「鷹匠町」「たかじやうまち」。現存。ここ(グーグル・マップ・データ)。城の南西直近である。

「五尺六七寸」百七十~百七十二センチ強。言わずもがな乍ら、当時としては非常に背が高い。異様に背の低い老婆との組み合わせは、やや作為を感じさせる話柄ではある。

「五十石町」「ごじつこくまち」。現存。ここ(グーグル・マップ・データ)。城の西部直下の御堀沿い。鷹匠町は北でこの町に接している。

「淫地(やち)」底本の森山氏の補註によれば、『ヤチは湿地のことをいう津軽の方言』とある。堀端なので納得。

「ふてきもの」「不敵者」。

「苦聲(さけび)しまでにて」二字へのルビ。

「股引」「ももひき」。本来は男子用のズボン様の下肢の着用着。後ろで左右の股上が重なり、脚部が細い。近世以降、半纏と組み合わせて商人や職人が用いた。季語は「冬」で、女性が穿いているつると、なおの事、冬っぽい青森とはいえ、やや不審。次注参照。

「胴着」「どうぎ」。胴衣。腰までの丈(たけ)の綿入れの衣服。普通は防寒用として冬に上着と肌着の間に着るものである。前の股引と併せて、夏の盆踊りの季節の着用着としては不審である。或いは、この老婆、高い確率で先天性の腰椎奇形が疑われ(ここでもそれゆえに投げられて打撲した後の予後がひどく悪いものと思われる)、夏場でも血行が悪く、体が冷えたために着用していたのかも知れぬ。また、この、夏らしからぬ、女らしからぬ異例の服装ゆえに平太郎は獣か化け物と誤認したとは言えぬか? 〈悪戯の脅(おど)かし〉以前に、その異様なそれにこそ、激しく投げ飛ばされることとなる不幸な素因があったのではあるまいか?

「片息」「かたいき」で「肩息」の方が意味をイメージし易い。ひどく苦しそうに息を吐くことを指す。

「腰間(こし)」二字へのルビ。

「步行得ず」「あるきえず」と当て訓しておく。

「願きて」ママ。「ぐわん祈(き)て」などを考えたが、案外、「ねがひ來て」(この場合の「きて」は「行って」の意味とする)か。

「いたづらのこはきは」「こはき」は「強き」「怖き」の両様が想起される。「強き」ならば「度が過ぎたもの」で意が通る。両用で採る。]

諸國百物語卷之五 十七 靏のうぐめのばけ物の事

 

     十七 靏(つる)の林(はやし)うぐめのばけ物の事


Turunohayasi

 寛永元年のころ、みやこのひがしに靏(つる)の林と云ふ廟所(びやうしよ)有り。此ところへ、よなよな、うぐめと云ふばけ物、きたりて、あか子のなくこゑするとて、日くるれば、とをる人なく、此あたりにはせどかどをかためて人出で入りせず。ある人、これをききて、

「それがし、見とゞけん」

とて、ある夜、あめふり、物すさまじきおりふし、靏の林にゆきて、うぐめをまちゐける所に、あんのごとく、五つじぶんに、しら川のかたより、からかさほどなる、あをき火、宙を、とび、きたる。ほどちかくなりければ、人のいふに、たがわず。あか子のなくこゑ、きこへければ、かのもの、やがて、刀をぬき、とびかゝつて、きつておとす。きられて、たうど、おちたる所を、つゞけさまに二刀さし、

「ばけ物、しとめたり。出あへ、出あへ」

と、よばはりければ、あたりの人々、たいまつをとぼし、たちより見ければ、大きなる五位鷲にて有りけるとなり。よしなき物にをそれたり、とて、人々、大わらひして、かへりけるとぞ。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「靏の林うふめの事」。実録風疑似怪談落し咄。呵々大笑してエンディング。私なら、これを鷺鍋にして皆して食ってしまってオチにする。「耳嚢 巻之七 幽靈を煮て食し事」が、まさに、それ。

「靏(つる)の林(はやし)」不詳。「靏」は「鶴」の異体字。「鶴の林」或いは「鶴林(かくりん)」とは、釈迦の涅槃の折り、釈迦を覆っていた沙羅双樹の木の葉の色が、瞬時に白く変じ、白鶴のようになったことを指すが、これはこれで実在地名らしい。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、『不詳。室町期「鶴の本」と言った所か?』とするが、その現在位置は記されていない。識者の御教授を乞う。

「うぐめ」一つの属性として怪鳥(けちょう)の一種ともされた妖怪産女(うぶめ)。今まで搦め手的にしか引いていないので、ここはウィキの「産女」を本格的に引いておく。『産女、姑獲鳥(うぶめ)は日本の妊婦の妖怪である。憂婦女鳥とも表記する』。『死んだ妊婦をそのまま埋葬すると、「産女」になるという概念は古くから存在し、多くの地方で子供が産まれないまま妊婦が産褥で死亡した際は、腹を裂いて胎児を取り出し、母親に抱かせたり負わせたりして葬るべきと伝えられている。胎児を取り出せない場合には、人形を添えて棺に入れる地方もある』。先の高田氏の「江戸怪談集 下」の注に本「産女」の異称として「唐土鳥(とうどのとり)」を挙げるが、事実、唐代の「酉陽雑俎」の「前集卷十六」及び北宋の叢書「太平広記」の「卷四百六十二」に載る「夜行遊女」では、『人の赤子を奪うという夜行性の妖鳥で』「或言産死者所化(或いは産死者の化(くわ)せる所なりと言ふ)」『とされる。日本では、多くは血に染まった腰巻きを纏い、子供を抱いて、連れ立って歩く人を追いかけるとされる。『百物語評判』(「産の上にて身まかりたりし女、その執心このものとなれり。その形、腰より下は血に染みて、その声、をばれう、をばれうと鳴くと申しならはせり」)、『奇異雑談集』(「産婦の分娩せずして胎児になほ生命あらば、母の妄執は為に残つて、変化のものとなり、子を抱きて夜行く。その赤子の泣くを、うぶめ啼くといふ」)、『本草綱目』、『和漢三才図絵』などでも扱われる。産女が血染めの姿なのは、かつて封建社会では家の存続が重要視されていたため、死んだ妊婦は血の池地獄に堕ちると信じられていたことが由来とされる』。『福島県南会津郡檜枝岐村や大沼郡金山町では産女の類をオボと呼ぶ。人に会うと赤子を抱かせ、自分は成仏して消え去り、抱いた者は赤子に喉を噛まれるという。オボに遭ったときは、男は鉈に付けている紐、女は御高僧(女性用頭巾の一種)や手拭や湯巻(腰に巻いた裳)など、身に付けている布切れを投げつけると、オボがそれに気をとられるので、その隙に逃げることができるという。また赤子を抱かされてしまった場合、赤子の顔を反対側へ向けて抱くと噛まれずに済むという』。『なお「オボ」とはウブメの「ウブ」と同様、本来は新生児を指す方言である』。『河沼郡柳津町に「オボ」にまつわる「おぼ抱き観音」伝説が残る』(以下、その伝承)。『時は元禄時代のはじめ、会津は高田の里袖山(会津美里町旭字袖山)に五代目馬場久左衛門という信心深い人がおり、ある時、柳津円蔵寺福満虚空蔵尊に願をかけ丑の刻参り(当時は満願成就のため)をしていた。さて満願をむかえるその夜は羽織袴に身を整えて、いつものように旧柳津街道(田澤通り)を進んだが、なぜか早坂峠付近にさしかかると、にわかに周辺がぼーっと明るくなり赤子を抱いた一人の女に会う。なにせ』平地二里、山道三里の『道中で、ましてやこの刻、透き通るような白い顔に乱し髪、さては産女かと息を呑んだが、女が言うには「これ旅の方、すまないが、わたしが髪を結う間、この子を抱いていてくださらんか」とのこと。久左衛門は、赤子を泣かせたら命がないことを悟ったが、古老から聞いていたことが頭に浮かんで機転をきかし、赤子を外向きに抱きながら羽織の紐で暫しあやしていたという。一刻一刻が非常に長く感じたが、やがて女の髪結いが終わり「大変お世話になりました」と赤子を受け取ると、ひきかえに金の重ね餅を手渡してどこかに消えたという。その後も久左衛門の家では良いことが続いて大分限者(長者)になり、のちにこの地におぼ抱き観音をまつった』)(以上で河沼郡柳津町の「おぼ抱き観音」伝承は終り)。『佐賀県西松浦郡や熊本県阿蘇市一の宮町宮地でも「ウグメ」といって夜に現れ、人に子供を抱かせて姿を消すが、夜が明けると抱いているものは大抵、石、石塔、藁打ち棒であるという』(同じ九州でも長崎県、御所浦島などでは船幽霊の類をウグメという』)。『長崎県壱岐地方では「ウンメ」「ウーメ」といい、若い人が死ぬ、または難産で女が死ぬとなるとも伝えられ、宙をぶらぶらしたり消えたりする、不気味な青い光として出現する』。『茨城県では「ウバメトリ」と呼ばれる妖怪が伝えられ、夜に子供の服を干していると、このウバメトリがそれを自分の子供のものと思い、目印として有毒の乳をつけるという。これについては、中国に類似伝承の類似した姑獲鳥という鬼神があり、現在の専門家たちの間では、茨城のウバメトリはこの姑獲鳥と同じものと推測されており』、『姑獲鳥は産婦の霊が化けたものとの説があるために、この怪鳥が産女と同一視されたといわれる』。『また日本の伝承における姑獲鳥は、姿・鳴き声ともにカモメに似た鳥で、地上に降りて赤子を連れた女性に化け、人に遭うと「子供を負ってくれ」と頼み、逃げる者は祟りによって悪寒と高熱に侵され、死に至ることもあるという』。『磐城国(現・福島県、宮城県)では、海岸から龍燈(龍神が灯すといわれる怪火)が現れて陸地に上がるというが、これは姑獲鳥が龍燈を陸へ運んでいるものといわれる』。『長野県北安曇郡では姑獲鳥をヤゴメドリといい、夜に干してある衣服に止まるといわれ、その服を着ると夫に先立たれるという』。『『古今百物語評判』の著者、江戸時代の知識人・山岡元隣は「もろこしの文にもくわしくかきつけたるうへは、思ふにこのものなきにあらじ(其はじめ妊婦の死せし体より、こものふと生じて、後には其の類をもって生ずるなるべし)」と語る。腐った鳥や魚から虫が湧いたりすることは実際に目にしているところであり、妊婦の死体から鳥が湧くのもありうることであるとしている。妊婦の死体から生じたゆえに鳥になっても人の乳飲み子を取る行動をするのであろうといっている。人の死とともに気は散失するが戦や刑などで死んだものは散じず妖をなすことは、朱子の書などでも記されていることである』。『清浄な火や場所が、女性を忌避する傾向は全国的に見られるが、殊に妊娠に対する穢れの思想は強く、鍛冶火や竈火は妊婦を嫌う。関東では、出産時に俗に鬼子と呼ばれる産怪の一種、「ケッカイ(血塊と書くが、結界の意とも)」が現れると伝えられ、出産には屏風をめぐらせ、ケッカイが縁の下に駆け込むのを防ぐ。駆け込まれると産婦の命が危ないという』。『岡山県でも同様に、形は亀に似て背中に蓑毛がある「オケツ」なるものが存在し、胎内から出るとすぐやはり縁の下に駆け込もうとする。これを殺し損ねると産婦が死ぬと伝えられる。長野県下伊那郡では、「ケッケ」という異常妊娠によって生まれる怪獣が信じられた』。『愛媛県越智郡清水村(現・今治市)でいうウブメは、死んだ赤子を包みに入れて捨てたといわれる川から赤子の声が聞こえて夜道を行く人の足がもつれるものをいい、「これがお前の親だ」と言って、履いている草履を投げると声がやむという』。『佐渡島の「ウブ」は、嬰児の死んだ者や、堕ろした子を山野に捨てたものがなるとされ、大きな蜘蛛の形で赤子のように泣き、人に追いすがって命をとる。履いている草履の片方をぬいで肩越しに投げ、「お前の母はこれだ」と言えば害を逃れられるという』。『波間から乳飲み児を抱えて出、「念仏を百遍唱えている間、この子を抱いていてください」と、通りかかった郷士に懇願する山形大蔵村の産女の話では、女の念仏が進むにつれて赤子は重くなったが、それでも必死に耐え抜いた武士は、以来、怪力に恵まれたと伝えられている。この話の姑獲女は波間から出てくるため、「濡女」としての側面も保持している。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』では、両者は異なる妖怪とされ、現在でも一般的にそう考えられてはいるが、両者はほぼ同じ存在であると言える』。『説話での初見とされる『今昔物語集』にも源頼光の四天王である平季武が肝試しの最中に川中で産女から赤ん坊を受け取るというくだりがあるので、古くから言われていることなのだろう。 産女の赤ん坊を受け取ることにより、大力を授かる伝承について、長崎県島原半島では、この大力は代々女子に受け継がれていくといわれ、秋田県では、こうして授かった力をオボウジカラなどと呼び、ほかの人が見ると、手足が各』四『本ずつあるように見えるという』。『ウブメより授かった怪力についても、赤ん坊を抱いた翌日、顔を洗って手拭をしぼったら、手拭が二つに切れ、驚いてまたしぼったら四つに切れ、そこではじめて異常な力をウブメから授かったということが分かった、という話が伝わっている。この男はやがて、大力を持った力士として大変に出世したといわれる。大関や横綱になる由来となる大力をウブメから授かった言い伝えになっている。民俗学者・宮田登は語る。ウブメの正体である死んだ母親が、子供を強くこの世に戻したい、という強い怨念があり、そこでこの世に戻る際の異常な大力、つまり出産に伴う大きな力の体現を男に代償として与えることにより、再び赤ん坊がこの世に再生する、と考えられている』。『民俗学者・柳田國男が語るように、ウブメは道の傍らの怪物であり少なくとも気に入った人間だけには大きな幸福を授ける。深夜の畔に出現し子を抱かせようとするが、驚き逃げるようでは話にならぬが、産女が抱かせる子もよく見ると石地蔵や石であったとか、抱き手が名僧であり念仏または題目の力で幽霊ウブメの苦艱を救った、無事委託を果たした折には非常に礼をいって十分な報謝をしたなど仏道の縁起に利用されたり、それ以外ではウブメの礼物は黄金の袋であり、またはとれども尽きぬ宝であるという。時としてその代わりに』五十人力や百人力の『力量を授けられたという例が多かったことが佐々木喜善著『東奥異聞』などにはある、と柳田は述べる。ある者はウブメに逢い命を危くし、ある者はその因縁から幸運を捉えたということになっている。ウブメの抱かせる子に見られるように、つまりは子を授けられることは優れた子を得る事を意味し、子を得ることは子のない親だけの願いではなく、世を捨て山に入った山姥のような境遇になった者でも、なお金太郎のごとき子をほしがる社会が古い時代にはあったと語る』。『柳田はここでウブメの抱かせる子供の怪異譚を通して、古来社会における子宝の重要性について語っている』とある。

「寛永元年」一六二四年。第三代将軍徳川家光の治世。

「せどかどをかためて」「背戸(せど)、門(かど)を固めて」。「背戸」は家の裏口。

「五つじぶん」午後八時頃。

「しら川」これは現在の白川(滋賀県大津市山中町の山麓を水源として西へ流れ、京都府京都市左京区に入って吉田山北東部鹿ヶ谷付近で南西に転じ、南禅寺の西側で現在は琵琶湖疏水を合わせているそれ)と考えられるから、この謎の「靏の林」は鴨川以東、白川以西と考えるのが自然で、現在の平安神宮から京都大学附近を想定してよいかと思う。

「からかさ」「唐傘」。これは「あをき火」の玉の大きさを指しているから、実は五位鷺(ペリカン目サギ科サギ亜科ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax)の靑白い色がそう見えたのである。サギが羽ばたいているならば、唐傘大と表現してもおかしくない。但し、天候(雨降り)と時刻(午後八時)から考えると、それが視認出来たといのはやや無理がある気はする。なお、ゴイサギの大型個体の屹立した後姿というものは全く以って人に見え、それは恰も蓑を着て川漁をする漁師のようでもあり、或いは、山野に遁世している隠者が瞑想しているかのようでもある。私はそうした姿を何度も目撃した。殊の外私の好きな、禅僧か哲学者が佇んで何か考え込んでいるみたような不思議な姿なのである。

「あか子のなくこゑ」実はゴイサギの鳴き声。ウィキの「ゴイサギ」によれば、『夜間、飛翔中に「クワッ」とカラスのような大きな声で鳴くことから「ヨガラス(夜烏)」と呼ぶ地方がある。昼も夜も周回飛翔をして、水辺の茂みに潜む。夜間月明かりで民家の池にも襲来して魚介類・両生類を漁る。主につがいや単独で行動する。都市部の小さな池にも夜間飛来し、金魚や鯉を漁ることもある』とある。ゴイサギの鳴き声は例えば、これ! うひゃ! 赤ん坊と言えぬこともないが、ドラキュラの断末魔のようで、夜間のこれは流石の私も聴きたくない。ヤバシヴィッチ!

「たうど」前出の「江戸怪談集 下」の脚注には、『どうど。落ちる音を「うぐめ」の異称唐土鳥(とうどのとり)に語呂合わせして、しゃれた』とある。この洒落にはこの注を読まなければ気づかなかった。高田先生に感謝。

「たいまつをとぼし」「松明を點し」。

「よしなき物」つまらぬもの。]

2016/11/26

谷の響 四の卷 八 存生に荼毘桶を估ふ

 

 八 存生に荼毘桶を估ふ

 

 高杉村の福次郎と言へるもの、酒を飮むときは人と爭ひを起してよからぬ者のよしなるが、安政改元の二月の下旬、紺屋町桶匠專四郎と言へるものに立寄て、そが店に荼毘桶あらざるを見て價(かは)んことを言へるに、專四郎の曰、先に賣りて未だこしらえざれば外より求め玉はるべしといふに、そはわろしとて持てる傘にて專四郎が肩骨をしたゝかに叩きたれば、專四郎由緣(いはれ)なきことゝて腹を立て、互に打合はんとするをあたりの者共來りて取しづめたるに、專四郎時にのりて言へるは、親父なるもの病みてうせぬれば玆なる荼毘桶をわざわざ買ひに來れるに、うちきらせりとの挨拶心に不中(あたらず)とて、ぢだんだふんでわめきけるに皆々もて餘し、專四郎が分家なる桶匠より急に荼毘桶を取寄せ彼が求めにあてたりしに、親父の死せりといふは元よりの僞妄(いつはり)にて、此桶匠に荼毘桶のなきを幸ひに起せる喧嘩なれば、かく桶をおしつけられて詮方なく、とまれかくまれ言ひのがれて逃げ出さんとするなれど、言葉の惡(にく)さにゆるされずしていとやかましくあらがへるに、役筋の人來かゝりて鬪爭(いさかひ)の樣子を問ひきはめ、福次郎にこの荼毘桶を背負せ町役人夫五六人にかたく守らせ、高杉村の庄屋へ有りし仕方を書きたる御用狀を添えてつかはしたるに、庄屋これを見てきもをつぶし、彼が親彦四郎と言へる老父を呼てかくと語りけるに、彦四郎・福次郎が妻もいたくおとろき詮方を知らず、偏に庄屋の世話而已をたのみけれど、庄屋もひとりに測り得ずして手代に相談するに、手代も亦一己(ひとり)にけつしかたくして御代官所へ訴へしに、役筋の屆けなれば其まゝに放下(すて)おかれずと福次郎を役所に呼び上げ、常の不行狀よりかゝる扱いを引出せるわる者とていたく呵り、速かに上書(かきつけ)をもて申上ぐべしとあれど、この上書には筆のたてかたなかりしとて書くべきものにもあらざれば、奈何(いかゝ)すべきとくるしみしに、さすが子を思ふ親の心とてとん智をおこし、彦四郎の家は親なるもの六十の歳記(とし)をこゆれば荼毘桶を用意することは累代の家法にしあれば、兼て悴に言付けたるからに今般(こたび)あかなひ得たるものなりと言はゞいかなるべきと言ひけるに、村役どもそはいとよき言譯(いひわけ)なりとて、やがてその旨を書いて上げたりしがそのまゝになりて、ゆゑなくおさまりしとなり。こは己が親しく見たる事なりき。

 

[やぶちゃん注:「存生に」「ぞんしやうに」。生きているうちに。

「荼毘桶」「だびをけ」或いはこれで「かんをけ」と当て読みしているかも知れぬ。死者を入れる座棺の火葬用の棺桶。本邦では仏教の普及とともに、平安以降に既に皇族・貴族・僧侶・浄土宗の門徒衆などで火葬が広まっている。それでも近代に至るまで土葬の方が一般的であったのは、火葬自体に時間と労力・費用がかかったからとも言われる。

「估ふ」「かふ」。買う。

「高杉村」底本の森山氏の補註によれば、『弘前市高杉(たかすぎ)。弘前の西郊八キロの農村。』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「酒を飮むときは人と爭ひを起してよからぬ者のよしなる」この時も一杯入ってたんだろうねえ。

「安政改元の二月の下旬」嘉永七年十一月二十七日(グレゴリオ暦一八五五年一月十五日)に内裏炎上・地震・黒船来航などの災異の起こったことを理由に安政に改元している。この改元日から見て、しかし、この「二月の下旬」とは嘉永七年の二月の下旬と読むしかない。従ってグレゴリオ暦では一八五四年となる。同旧暦の二月は大の月で二月三十日は一八五四年三月二十八日である。

「紺屋町」現在の弘前市紺屋町(こんやまち)。弘前城の西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「立寄て」「たちよりて」。

「曰」「いはく」。

「時にのりて言へるは」文字通り、売り言葉に買い言葉で、エキサイトしてい放ったは。

「玆なる」「ここなる」ここで売っている。

「うちきらせり」売切れちまった。

「心に不中(あたらず)」「納得出来ねえ!」。他でもない、お前(めえ)さんの作った荼毘桶を買ってやろうというのに、その応えは、如何にも不誠実ってえもんだ! といった難癖をつけているのである。

「ぢだんだふんでわめきける」「地團駄踏んで喚きけるに」。

「言葉の惡(にく)さにゆるされずしていとやかましくあらがへる」のは福次郎である。捻くれたやくざ者にありがちな、訳の分からぬ、所謂、〈ためにする〉喧嘩である。

「役筋」後の展開から見て、町同心である。

「町役」町奉行の支配下にあって町政に携わる町人身分の役職。

「有りし仕方」事件の経緯。

「彼が親彦四郎と言へる老父」福次郎が死んだと嘘をついた実父である。

「呼て」「よびて」。

「おとろき」ママ。「驚き」。

「詮方を知らず」どうしたらよいか判らず。

「偏に」「ひとへに」。

「而已」「のみ」。

「手代」ここは庄屋の使っていた使用人の上級の者。庄屋は何か商売をしていたのかも知れぬ。

「一己(ひとり)」二字へのルビ。

「けつしかたくして」「決し難くて」。

「呵り」「しかり」。

「上書(かきつけ)」福次郎、普段からの悪行三昧であったによって、形式上、藩主の裁可を受けるべく(実際には代官或いは町奉行が処断を決めたのであろうが)、公式の事件詳細を記した上申書。

「申上ぐべし」「まうしあぐべし」。

「筆のたてかたなかりし」父が死んだという訳のわからぬ不忠極まりない嘘から始まって、意味不明の怒りやそこから乱暴狼藉に及んでいるという状況自体、事件の中身全部が不届き千万で、確かに私でも筆の執りよう、上申書の書きようが、これ、ない。

「べき」可能。

「奈何(いかゝ)」読みはママ。

「とん智」「頓智」。

「歳記(とし)」二字へのルビ。

「荼毘桶を用意することは累代の家法にしあれば、兼て悴に言付けたるからに今般(こたび)あかなひ得たるものなり」「あかなひ」はママ。「購(あがな)ひ」。火葬の棺桶を生前に用意するのが家法であるとか、私も還暦を越え、お迎えも近いものと覚悟致し、以前から息子に死ぬ前に荼毘桶は事前に購入してちゃんと準備しておくようにと言いつけ、今回、それに基づいて息子が購入したものであるという、これ全部が、これまた、嘘っぱちなのである。でなくては「頓智」とは言わぬ。

「村役」郡代や代官の下で村の民政を預かり、領主に対して年貢・公事(くじ)納入の責任を負っていた百姓身分の者。この庄屋もそうであろう。]

谷の響 四の卷 七 龍頭を忌みて鬪諍を釀す

 

 七 龍頭を忌みて鬪諍を釀す

 

 又これも文化の末年(すえ)なるよし、茂森町を通りし葬式ありてそれが手傳なる一人の童子、しきりに屎催の氣あればとて、持てる龍頭を傍なる家の雪隱をかり用をすまして出けるが[やぶちゃん字注:この「の雪隱をかり」の右側には編者による『(ママ、脱文アルカ)』の注記がある。]、この葬式はとく往きて見得ざるに又後より來れる葬式あればこれにまじりて往きたるが、介錯(せわ)する者に見咎められて是非なく龍頭をそこなる家の檐によせかけ逃去りたるに、この家の主いたく忌み惡み密に隣家(となり)の檐に係けたるに、そこの主腹立てつぶやきながらもとの處によせかけたれば、又かけ戻しよせもどし互にかまびすしくいさかひけるが、はてはねじあい叩きあへるに兩家の者ども救ひに出て十四五人の人數となり、組みつほぐれつひとかたまりとなりて挑(いと)みあひしに、とりおさへることなり兼ねてたゞに見物するばかりなれば、往來のものも足をとゞめざるはなく、しだいしだいに多く簇(む)れつとひて街道をふさぎ、往來止まるまでに至りけり。かゝる折柄通りの役筋來かゝりていたく制してとりしづめ、樣子つばらに吟味をおへてゆかれしが、日をへて後に一人は七日一人は三日、戸塞(しめ)の法に行はれて御免を得たりしとなり。この二件(ふたくだり)己が老父の兼てかたりし事なりき。

 

[やぶちゃん注:「龍頭」「西田葬儀社」のブログの葬儀のしきたりという記事によれば、これは「たつがしら」と訓ずるらしい。それによると、『最近では見る事も聞くことも少なくなりました』が、『野辺の送りと言われる葬列に中の役割で、2メートルくらいの竹の先に龍の頭と胴をつけたもの』とあり、『これを葬列の中で4本使っているそうです。調べてみると、地域によって呼び方も変わり地域の風習によって様々のようです』とし、ここれは『悪霊や野犬、動物から故人を守るためにされていたようです』とする。また、『中国では、龍は再生の神の象徴とされていて、亡くなられた方の魂にもう一度生まれ変わってほしいという願いを込められて、これまでされて伝わってきたようです』とも記しておられる。画像も紹介されている。こちら

「文化の末年」文化は一八〇四年から一八一八年までで、第十一代徳川家斉の治世。

「茂森町」現在の青森県弘前市茂森町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「手傳」「てつだひ」。親族ではなく、恐らくは小遣いを貰って雇われた児童であろう。

「屎催」「くそもよほし」と訓じておく。うんちをしたくなったのである。

「持てる龍頭を傍なる家の雪隱をかり用をすまして出けるが」編者の言うように脱文があるようである。「持てる龍頭を傍なる家の檐(ひさし)に立てかけ、その家の雪隱(せつちん:廁)を借り、用をすまして出けるが」といった塩梅か。

「介錯(せわ)する者に見咎められて」龍頭が一本多く(前の引用によれば葬列では通常四本とある)、その龍もまた、或いは造形や色などが他の四本と異なって目立ったのかも知れぬ。恐らく、手間賃は葬列の最後に支払われるのに違いない。

「密に」「ひそかに」。

「係けたるに」「かけたるに」。寄せ掛けておいたところが。

「主」「あるじ」。

「ねじあい叩きあへるに」腕を捩じ上げたり、叩き合ったりしているうちに。

「挑(いと)みあひしに」読みはママ。双方ともに本格的な暴力沙汰に発展してしまったが。

「とりおさへることなり兼ねて」双方を宥めて取り押さえること、これ、し難くなってしまい。

「たゞに」ただただ周囲の連中は。

「多く簇(む)れつとひて」ママ。通行人が滞って渋滞し、また沢山の野次馬が群れ集う結果と相い成り。

「役筋」以下で「吟味をおへてゆかれしが」とあるから、藩の町同心である。

「いたく制して」強く双方に注意して、喧嘩を止めさせ。

「つばらに」詳(つまび)らかに。子細に。

「戸塞(しめ)の法」「としめのはう」。これは所謂、江戸時代の刑罰の一つであった「押し込め」のごく軽いものではあるまいか? 「押し込め」は武士・庶民の別なく科せられた一種の軟禁刑で、「公事方御定書」によれば、他への外出を許さず、戸を建て寄せておく、とある。これには「百日押込め」「五十日押込め」「三十日押込め」などがあり、これらは、拝領屋敷を借金の質に入れたり、過失による失火などに対して科せられている。本来は喧嘩両成敗が鉄則であるが、考えてみると、そもそもが最初に餓鬼が立てかけられた方の主人がその龍頭を自身番にでも届け出れば何事もなかったのであり、その差か。にしても倍以上の七日は大き過ぎ、或いは、この折りの喧嘩が大きくなって、三日の方の主人やその家人が相応の怪我でもしたものかも知れぬ。

「御免」それで許された。

「兼てかたりし事なりき」以前より、ことあるごとに、たびたび繰り返し語って聴かせてくれたの謂いか。底本では「兼て」の横にママ注記を打つが、私はあまり不審には思われない。]

北條九代記 卷第十 將軍惟康源姓を賜る 付 大元使を日本に遣 竝 北條時輔逆心露顯

 

      ○將軍惟康源姓を賜る  大元使を日本に遣す

        北條時輔逆心露顯

 

同七年十一月、將軍惟康、從三位に叙し、左中將に任じ、源姓(げんしやう)を賜ふ。位署(ゐしよ)、既に鎌倉に到著す。將軍家、御拜賀の御爲に、鶴岡八幡宮に參詣あり。路次の行列は先蹤(せんしよう)にまかせられ、供奉の輩(ともがら)、銛(きら)を研(みが)き、花を飾り、奇麗の出立(いでたち)、傍(あたり)を耀(か〻やか)し、見物の貴賤、巷(ちまた)に盈(み)ちたり。近年、太平の驗(しるし)なりと、諸人喜ぶ事、限りなし。異故(ことゆゑ)なく下向ありて、その夜は殿中に舞蹈(ぶたう)、酒宴、既に曙に及べり。大名、諸人、上下共に榮樂萬歳(えいらくまんざい)を歌ひ、數獻(すこん)、酣興(かんきよう)を盡されけり。

この年、蒙古の使者、趙良弼等(ら)、本朝筑前國今津に著岸し、牒狀(てふじやう)を呈す。兎にも角にも日本を討取(うちと)るベしとの祕計なるべしと、公家武家共に憤(いきどほり)思召しければ、中々、返狀にも及ばず。博多(はかたの)彌四郎と云ふ者を差添(さしそ)へて歸遣(かへしつかは)されしかば、蒙古の王、既に彌四郎に對面し、通事(つうじ)を以て、樣樣、問答し、種々に饗(もてな)しつ〻、寶物(はふもつ)を與へて日本に送歸(おくりかへ)す。

北條重時には孫武藏守長時の二男、治部大輔義宗、鎌倉より上洛し、六波羅の北の方に居て式部大輔時輔と兩六波羅となり、西國の事を取行(とりおこな)ひけり。京都鎌倉の間(あひだ)は櫛(くし)の子(こ)を引くが如く、飛脚、每日に往來し、九國二島(じとう)の事に於いて纖芥(しんがい)計(ばかり)も隱(かくれ)なし。諸国、自(おのづから)、是(これ)に伏(ふく)して、天下の政理(せいり)好惡(かうあく)の沙汰、更に口外に出す者なし。狼藉亡命の輩(やから)、山野の間にも身を隱すに賴(たより)なく、一夜の宿も借す人なければ、自(おのづから)、皆、亡びて、在々所々、萬戸(ばんこ)樞(とぼそ)を閉ぢず、千門開けて、女、童(わらは)、商人(あきんど)までも手を指す者もあらざれば、淳朴厚篤(じゆんぼくこうとく)の世の中なりと、上下、心易くぞ思ひける。

然る所に同九年正月に、惟康、從二位に叙せられ、中將は元の如し。同二月十五日、鎌倉より早馬を立てて、六波羅の北の方、北條義宗の許へ告來(つげきた)る事あり。義宗、俄(にはか)に軍兵(ぐんぴやう)を催し、六波羅南の方、式部大夫時輔が館(たち)に押寄(おしよ)せて、時輔を初(はじめ)て、家中の上下、一人も殘らず討亡(うちほろぼ)す。思(おもひ)も寄らざる俄事(にはかごと)に、侍、中間原(ちうげんばら)、周章彷徨(あはてうろた)へ、物具(もの〻ぐ)取りて差向ふまでもなく、逃落(にげお)ちんとのみする程に、草葉を薙(な)ぐが如く、皆、打伏(うちふ)せ、切倒(きりたふ)し、死骸は此處彼處(こ〻かしこ)に臥亂(ふしみだ)れ、紅血(こうけつ)は縦橫(じうわう)に川を流せり。邊(あたり)近き民屋(みんをく)の男女、こはそも何事ぞとて騷立(さわぎた)ちて逃惑(にげまど)ひしかども、手間も入らず、打靜(うちしづま)り、義宗、靜(しづか)に馬を入れられければ、今は左(さ)もあれ、この後、又如何なる事かあるべきと、足を翹(つまだ)て手を握り、危(あやぶ)みけるも多かりけり。かの時輔は相摸守時賴の長男にて、鎌倉相州時宗の兄なりしが、関東の執權は我こそと思はれしに、舍弟時宗に家督を取られ、年來、鬱憤を含み、逆心を企て、内々その用意ある由、誰(たれ)とは知らず、時宗に告申(つげまう)しける故に、先(まづ)、義宗を上洛せしめ、事の有樣を伺はせ、叛逆の事、忽に露(あらは)れて、時輔、既に討たれたり。鎌倉にも、北條朝時の孫左近〔の〕大夫公時(きんとき)、同じく朝時の六男中務〔の〕大輔教時等(ら)、時輔に一味同心して、時宗を討たんと計りける。此事、今は隱(かくれ)なく露れしかば、公時、教時、一所に寄合(よりあ)うて、「京都の事に何如(いかゞ)、心許(こころもと)なし」と、その左右を待ちりる間(あひだ)に、時宗の討手(うつて)、透間(すきま)なく込掛(こみか)けて、一人も泄(もら)さず討取(うちと)つたり。近隣、大に騷ぎしかども、事、速(すみやか)に落居(らくきよ)しければ、頓(やが)て音なく靜りけり。天運の命ずるに依らずして、非道の巧(たくみ)を企つる者は、天必ず、罸(ばつ)を施し、鬼(き)、既に罪をうつが故に、亡びずと云ふことなし。運を計り、命を待つとは、君子の智德を云ふなるべし。中御門〔の〕左中將實隆、この謀叛に與(くみ)せられたりと聞えしかば、出仕を留められ、暫く籠居(ろうきよ)しておはしけり。關東より如何に申付けられんも知難(しりがた)しとて、その方樣(かたさま)の人は、易(やす)き心もなかりしかども、武家の人々、何程の事かあるべきとて、宥免(いうめん)の沙汰に及びしかば、軈(やが)て殿上(てんじやう)の出仕をぞ致されける。

 

[やぶちゃん注:内容の相異に鑑み、特異的に段落を設けた。

「北條時輔」(宝治二(一二四八)年~文永九(一二七二)年)は時頼の長男。既注であるが、再掲しておく。母は時頼側室の、出雲国の御家人三処(みところ)氏の娘、讃岐局で、三歳年下の異母弟時宗は時頼の次男ながら、母が時頼正室の北条重時の娘、葛西殿であったことから嫡男とされた(元の名は時利であったが、十三歳の正元二(一二六〇)年正月に時輔と改名しているが、これは父時頼の命によるものと考えられており、それは時宗を「輔(たす)く」の意が露わであった)。文永元(一二六四)年十月、十七歳で六波羅探題南方となる(この二ヶ月前に十四歳の時宗は連署に就任している)。文永五年、時宗が執権を継ぐが、これに内心不満を抱き、蒙古・高麗の使者との交渉に於いても時宗と対立した。文永九(一二七二)年二月十一日に鎌倉で反得宗勢力であった北条時章(名越流北条氏初代北条朝時の子)・教時兄弟が謀反を理由に誅殺されると(本章では時制順序が逆に見えるような書き方になっているので注意)、その四日後の十五日、京都の時輔も同じく謀反を図ったとして執権時宗による追討を受け、六波羅北方の北条義宗(先の第六代執権北条長時嫡男。赤橋流北条氏第二代当主)によって襲撃され、誅殺された(二月騒動)。享年二十五。吉野に逃れたとする説もある。

「同七年十一月」文永七(一二七〇)年であるが、「十一月」は「十二月」の誤り。この十二月二十日に惟康は源姓賜与されて臣籍降下し、正三位(「從三位」も誤り)・左近衛中将となった。征夷大将軍宣下は文永三(一二六六)年 七月に済んでいる。

「位署(ゐしよ)」官位・姓名の下賜が記された公文書。

「路次」私の趣味で「ろし」と清音で読んでおく。途中の沿道。

「先蹤(せんしよう)」先例。

「銛(きら)を研(みが)き」「銛」は刀剣類の鋭いことで、武家将軍の武具の鋭利にして厳かであることを形容していよう。

「異故(ことゆゑ)なく下向ありて」何の想定外の事態も発生することなく、滞りなく拝賀の式が済んで御所へお戻りになって。

「榮樂萬歳」雅楽の唐楽に隋の煬帝作とも唐の則天武后の作ともされる祝祭舞曲としての「万歳楽」があるが、ここは皆で歌っているところからは、当時一般で歌われた言祝ぎ歌の一つか。識者の御教授を乞う。

「酣興(かんきよう)」「酣」は「たけなわ」で「酣」自体が「酒を飲んで楽しむこと」や「ある事象の経過の中の最も盛んな時点」(後に「それを少し過ぎた時点」に転じた)を指す。ここは「感興の限り」の意でよい。

「この年」となると、文永七(一二七〇)年になるが、誤りで、元使として趙良弼らがモンゴル帝国への服属を命じる国書を携えて百人余りを引き連れて到来したのは、翌文永八年の九月十九日である。なお、これは既に五回目の使節団(前章の私の「菅原宰相長成」の注を参照)であり、そこを筆者は完全に省略してしまっているために、前条から見ると二度目のように見えてしまう。二度目から四度目の使節団とそれに対する幕府の処置については、ウィキの「元寇」を参照されたい。

「趙良弼」(一二一七年~一二八六年)は元のジュルチン族(女真人)出身の官僚。ィキの「趙良弼」によれば、『字は輔之。父は趙、母は女真人名門出身の蒲察氏で、その次男。本姓は朮要甲で、その一族は金に仕え、山本光朗によれば現代の極東ロシア沿海地方ウスリースク近辺に居住していたと考察されている。曾祖父の趙祚は金の鎮国大将軍で』、一一四二年『からの猛安・謀克の華北への集団移住の前後に、趙州賛皇県(河北省石家荘市)に移住した。漢人住民に「朮要甲Chu yao chia)」を似た発音の「趙家(Zhao jia)」と聞き間違えられたことから、趙姓を名乗るようになったとされる』。『金の対モンゴル抵抗戦では』、一二二六年から一二三二年の間に『趙良弼の父・兄・甥・従兄の』四人が戦死、『戦火を避けて母と共に放浪した。金の滅亡後』、十三『世紀のモンゴル帝国で唯一行われた』一二三八年の『選考(戊戌選試)に及第し、趙州教授となる』。一二五一年には『クビライの幕下へ推挙された』。『クビライの一時的失脚の時期には、廉希憲と商挺の下で陝西宣撫司の参議とな』るが、一二六〇年、『クビライに即位を勧め、再び陝西四川宣撫司の参議となる。渾都海の反乱では、汪惟正、劉黒馬と協議の上で関係者を処刑した。廉希憲と商挺はクビライの許可もなく処断したことを恐れ、謝罪の使者を出したが、趙良弼は使者に「全ての責任は自分にある」との書状を渡し、クビライはこの件での追及はしなかった。廉希憲と商挺が謀反を企んだと虚偽の告訴を受けた時には、その証人として告発者から指名されたが、激怒して恫喝するクビライに対してあくまでも』二人の忠節を訴えて『疑念を晴らし、告発者は処刑され』ている。一二七〇年に『高麗に置かれた屯田の経略使となり、日本への服属を命じる使節が失敗していることに対して、自らが使節となることをクビライに請い、それにあたり秘書監に任命された。この時、戦死した父兄』四人の『記念碑を建てることを願って許可されている』。ここに出る日本への五度目の使節団として大宰府へ来たり、四ヶ月ほど滞在し、返書は得られなかったものの、大宰府では返書の代わりとして、取り敢えず、日本人の使節団がクビライの下へと派遣することを決し、趙良弼もまた、この日本使らとともに帰還の途に就いている(この十二名から成る(「元史」の「日本傳」では二十六名)日本側の大宰府使節団は文永九(一二七二)年一月に高麗を経由し、元の首都・大都を訪問したが、元側は彼らの意図を元の保有する軍備の偵察と断じ、クビライは謁見を許さず、同じく再び高麗を経由して四月に帰国している。ここはウィキの「元寇」に拠る)。一二七二年には第六回目の『使節として再び日本に来訪し』、一年ほど『滞在の後』、帰国、この時、『クビライへ日本の国情を詳細に報告し、更に「臣は日本に居ること一年有余、日本の民俗を見たところ、荒々しく獰猛にして殺を嗜み、父子の親(孝行)、上下の礼を知りません。その地は山水が多く、田畑を耕すのに利がありません。その人(日本人)を得ても役さず、その地を得ても富を加えません。まして舟師(軍船)が海を渡るには、海風に定期性がなく、禍害を測ることもできません。これでは有用の民力をもって、無窮の巨壑(底の知れない深い谷)を埋めるようなものです。臣が思うに(日本を)討つことなきが良いでしょう」と日本侵攻に反対し』ている。彼は『宋滅亡後の江南人の人材育成と採用も進言している』。一二八二年に病いで隠居、四年後に亡くなった。

「博多(はかたの)彌四郎」あたかも、この男一人が趙良弼に従って渡元してフビライに会見したかのように書いてあるが、大間違いである。前注に示した通り、この時は大宰府から日本人使節団が送られたのであり(但し、そこに博多弥四郎なり者がいなかったかどうかは断言出来ない)、ここにも混乱がある。これは思うに、第三回と第四回の元側の使節団に関わった日本人と混同している可能性が高い。ウィキの「元寇」を見ると、第三回は文永六(一二六九)年で、正使は第一回と同じヒズル(黒的)とし、高麗人の起居舎人潘阜らの案内で、総勢七十五名の使節団が対馬に上陸したものの、使節らは日本側から拒まれたため、対馬から先に進むことが出来ず、日本側と喧嘩になった際に、対馬の島民であった「塔二郎」と「弥二郎」という二名を捕らえ、これらとともにに帰還している。『クビライは、使節団が日本人を連れて帰ってきたことに大いに喜び、塔二郎と弥二郎に「汝の国は、中国に朝貢し来朝しなくなってから久しい。今、朕は汝の国の来朝を欲している。汝に脅し迫るつもりはない。ただ名を後世に残さんと欲しているのだ」と述べた』。『クビライは塔二郎と弥二郎に、多くの宝物を下賜し、クビライの宮殿を観覧させたという』(下線やぶちゃん)。『宮殿を目の当たりにした二人は「臣ら、かつて天堂・仏刹ありと聞いていましたが、まさにこれのことをいうのでしょう」と感嘆した』と言い、『これを聞いたクビライは喜び、二人を首都・燕京(後の大都)の万寿山の玉殿や諸々の城も観覧させたという』。そして、元側の第四回使節団は、文永六(一二六九)年の九月に、まさにその捕えた「塔二郎」と「弥二郎」らを、首都燕京(後の大都)から『護送する名目で使者として高麗人の金有成・高柔らの使節が大宰府守護所に到来』、『今度の使節はクビライ本人の国書でなく、モンゴル帝国の中央機関・中書省からの国書と高麗国書を携えて到来した』とあるからである。この「北條九代記」の「彌四郎」と、この「彌二郎」、如何にも似ている名ではないか? 書かれてある「蒙古の王、既に彌四郎に對面し、通事(つうじ)を以て、樣樣、問答し、種々に饗(もてな)しつ〻、寶物(はふもつ)を與へて日本に送歸(おくりかへ)す」という内容と事実が合致してもいるのである。

「北條重時には孫武藏守長時の二男、治部大輔義宗、鎌倉より上洛し、六波羅の北の方に居て式部大輔時輔と兩六波羅となり、西國の事を取行(とりおこな)ひけり」これは、かの「二月騒動」の直前で文永八(一二七一)年十一月二十七日のことである。冒頭は、かの連署を勤めた故「北條重時には(=からは)孫」に当たるところの、の意。北条「義宗」(建長五(一二五三)年~建治三(一二七七)年)は第六代執権北条長時嫡男で赤橋流北条氏第二代当主。ここに出る通り、二月騒動の京方での征討を任されて、美事に時輔方を滅ぼした。ちなみにこの二月騒動の年に嫡子の久時が生まれており、五年後の建治二(一二七六)年)には鎌倉に戻り、翌年、評定衆に任ぜられるたが、その直後に享年二十五の若さで没している。

「櫛(くし)の子(こ)を引くが如く」「子」は「歯」に同じい。櫛の歯は一つ一つ、何度も何度も鋸で挽いて作るところから、物事が絶え間なく続くことの喩えである。

「九國二島(じとう)」九州及び壱岐・対馬の二島。

「纖芥(しんがい)」細かな芥(ごみ)。転じて、「ごく僅かな」ことの喩え。

「天下の政理(せいり)好惡(かうあく)の沙汰、更に口外に出す者なし」天下の正しき御政道について、その良し悪しを論(あげつら)うような議論をする者は、これ、一人としていなかった。

「狼藉亡命の輩(やから)」乱暴狼藉を働いた不届き者や、ある種の乱や犯罪或いは生活上の困窮などから、本来の一族や支配地から抜け、逃亡した者ども。

「賴(たより)なく」頼りとするような者もおらず。

「借す」「貸す」。江戸時代まで「貸借」の両字は互換性があった。

「在々所々」あちらでもこちらでも。どこでも。

「萬戸(ばんこ)」総ての家屋屋敷。

「樞(とぼそ)を閉ぢず」枢(くるる)を落して戸締りなどする必要がないほどの安全であることを言う。

「女、童(わらは)、商人(あきんど)までも」か弱い女子どもは勿論、大金を持っている商人に対しても。

「手を指す者」悪事をせんと手を出す者。

「淳朴厚篤」かざりけがなく素直であり、人情にあつく誠実なこと。

「同九年正月に、惟康、從二位に叙せられ、中將は元の如し」文永九(一二七二)年一月五日。

「同二月十五日、鎌倉より早馬を立てて、六波羅の北の方、北條義宗の許へ告來(つげきた)る事あり」既に述べた通り、実はこの四日前の二月十一日に、まず鎌倉で名越時章・教時兄弟が得宗被官である四方田時綱ら御内人によって誅殺され、前将軍宗尊親王側近の中御門実隆のお召しが禁ぜられて事実上の軟禁となった。そこから時宗は早馬を仕立て前年末に六波羅探題北方に就任していた北条義宗に対し、同南方の北条時輔の討伐命令が下されたのである。

「中間原(ちうげんばら)」身分の低い家来ども。雜兵(ぞうひょう)ら。「ばら」は「輩」で、人を表わす語に付いて二人以上同類がいることを示す複数形の接尾語。

「周章彷徨(あはてうろた)へ」四字へのルビ。

「物具(もの〻ぐ)取りて差向ふまでもなく」武器を執って攻めてきた者らに立ち向かう余裕もまるでなく。

「手間も入らず」瞬く間に。

「今は左(さ)もあれ、この後、又如何なる事かあるべき」「今現在は、かくもあっと言う間に方がついて静かにはなったれど、この後(あと)、また、一体、どんな兵乱が起こるのであろうか?」。民草の恐れ戦く心内語である。

「足を翹(つまだ)て」爪先立って。これからずっと先をおっかなびっくり覗くような姿勢、心が不安定で穏やかでないことを譬えるのであろう。

「忽に」「たちまちに」。

「左近〔の〕大夫公時」北条(名越)公時(嘉禎元(一二三五)年~永仁二(一二九五)年)は年生まれ。二月騒動で誅殺された名越時章(ときあきら)の子。弓と鞠に優れ、御鞠奉行となり、文永二(一二六五)年には引付衆となっていた。この時、父と叔父教時が時宗方に討たれたが、この公時は叛意なしと認められて縁座を免れ、しかも翌年には評定衆に昇り、その後も引付頭人・執奏を勤めているから、以下の「一人も泄(もら)さず討取(うちと)つたり」は嘘。恐らく筆者は父時章と誤認したのであろう

「中務〔の〕大輔教時」既出既注

「落居(らくきよ)」落着。

「鬼(き)」悪しき企みを罰せずにはおかぬ恐ろしい鬼神。

「運を計り、命を待つ」自己に与えられた運命を冷静に認識し、且つ、天命を心穏やかにして待つ。

「中御門〔の〕左中將實隆」前将軍宗尊親王の側近。それ以外の事蹟は不詳。ここ以下のロケーションは京都。

「その方樣(かたさま)の人」実隆の一家の者たち。

「武家の人々」幕府方。

「何程の事かあるべき」何をしたというほどのこともなく、また、そのような権力や人脈も持ち備えている大物でもなかろうからに。

「宥免(いうめん)」赦免。]

譚海 卷之二 弓つるの音幷二またのおほばこ鏡面怪物の事

 

弓つるの音幷二またのおほばこ鏡面怪物の事

○狐狸のたぐひは弓(ゆ)つるの音を殊に嫌ふ也。小兒などの寢おびれたるをまじなふにも蟇目(ひきめ)の音よし、但(ただし)弓(ゆみ)なき時は竹に弦(つる)かけて引(ひき)ならしてもよき也。又ある弓術の書の傳に、車前(をうばこ)の實の二また成(なる)あらば、蔭ぼしにして大切にとり收(をさめ)をくべし、それを燈心(とうしん)のかわりにして燈(ひ)を點ずる時は、恠物(あやしのもの)かたちをかくす事あたはずと、ひきめの書にありといへり。また八月十五夜明月に向(むかひ)て、水晶にて取(とり)たる水を持(もち)て、鏡のおもてに恠物の顏を書(かき)、鏡をとぎあげをさめをく、うちみる時は常の鏡の如くなれども、向ふ時は人の顏そのかける恠物のかほに成(なり)うつりてみゆるといへり。

[やぶちゃん注:目次の「怪物」(これも私は「あやしのもの」と訓じておく)の「怪」はママ。

「おほばこ」「車前(をうばこ)」(歴史的仮名遣は前者が正しい)車前草。相撲取り草。ほれ! 小さな時、やった、あれだよ! 地味なぶつぶつした花のついた柄を根本から取って、二つ折りにし、二人で互いに引っかけて引っ張り合い、どちらが切れないかを競ったあの「おおばこ相撲」の、シソ目オオバコ科オオバコ属オオバコ Plantago asiatica だよ! ウィキの「オオバコによれば、風媒花で、春から秋かけて一〇~三〇センチの『長さの花茎を出し、花は花茎の頂に長い緑色の穂に密につき、白色もしくは淡い紫色の小花が下から上に向かって順次咲く』。萼(がく)は四枚、花冠はロート状で四裂する。『雌性先熟で、雌しべが先にしおれてから、長くて目立つ白い雄しべが出る』。『果実は蒴果(さくか)』(雌しべの中が放射状に複数の仕切りで分けられ、果実が成熟した時は、それぞれの部屋ごとに縦に割れ目を生じるもの。スミレなどがそれ)『で楕円形をしており、熟す』と、『上半分が帽子状に取れて、中から』四~六個『の種子が現れる』。『種子は果実からこぼれ落ちるほか、雨などに濡れると』、『ゼリー状の粘液を出し、動物など他のものに付いて遠くに運ばれる』 とある。また、『オオバコの成熟種子を車前子(しゃぜんし)、花期の全草を天日で乾燥したものを車前草(しゃぜんそう)と』呼称し、これはれっきとした『日本薬局方に収録された生薬で』あり、『葉だけを乾燥させたものを車前葉(しゃぜんよう)という。成分として、花期の茎と葉に、配糖体のアウクビン、ウルソール酸を含み、種子にコハク酸、アデニン、コリン、脂肪酸を含む』。『種子、全草とも煎じて用いられ、服用すると咳止め、たんきり、下痢止め、消炎、むくみの利尿に効用があるとされ』。『また、葉も種子も熱を冷ます効用がある』とある。

「鏡面怪物」所謂、魔鏡であるが、これでは何故、それが魔境になるのか、よく判らぬ。作鏡の際に鏡面構造自体に作為を施した確信犯のそれについては、ウィキの鏡」を参照されたい。

「弓(ゆ)つるの音」邪気を払う呪(まじな)いとして弓の弦を鳴らす「絃打(つるう)ち」「鳴弦(めいげん)」である。古くは天皇の入浴・病気や皇子の誕生などの際に行われ、後には(教え子諸君は授業の「源氏物語」の「夕顔」でもやったように)貴族や武家に於いて、日常の夜間警護などでも鳴らされた。

「小兒などの寢おびれたる」小児の「夜泣き」や「夜驚症」(所謂、「寝ぼけ」の激しいものであるが、夢遊病様状態を呈する場合もある)のことであろう。

「蟇目」は朴(ほお)又は桐製の大形の鏑(かぶら)矢。犬追物(いぬおうもの)・笠懸けなどに於いて射る対象を傷つけないようにするために用いた矢の先が鈍体となったもの。矢先の本体には数個の穴が開けられてあって、射た際、この穴から空気が入って独特の音を発し、それが妖魔を退散させるとも考えられた。呼称は、射た際に音を響かせることに由来する「響目(ひびきめ)」の略とも、鏑の穴の形が蟇の目に似ているからともいう。ここは従って、弓弦(ゆづる)の音ではなく、飛ばす、その鏑矢の発する音を指しているので注意が必要。

「車前(をうばこ)の實の二また成(なる)あらば」オオバコの実はかなり小さいし、その二股になった奇形種子を探すのは、かなり大変。しかし、そういう稀なものだからこそ、強い呪力を持つと考えたんだろうなぁ。

「ひきめの書」そうした鳴弦や蟇目と同様の呪力を持つものとして参考に添えられているのであろう。なお、検索中、古式の蟇目の正式な作法について詳細に記した驚くべき古記録蟇目書」(PDF)なるものを発見した! 必見!! 必ダウンロード!!!

「水晶にて」水晶で出来た容器。これしかし、水晶自体で鏡面を怪物の顔に削らない限りは、魔鏡にはならぬと思うのだが?]

甲子夜話卷之三 8 御鷹匠頭内山七兵衞の事

 

3-8 御鷹匠頭内山七兵衞の事

御鷹匠頭の内山七兵衞は質朴の人なり。此人に感じ入たることあるは、常々鳥肉は嫌と稱して、人前に於て喫することなし。人も亦實事と思へり。其實は嫌にてはなし。組の者野先へ出る每に、必御鷹の得たる鳧雁を持贈ることなり。夫を防んとて、天性好まぬことに、わざと仕成したるにて有ける。

■やぶちゃんの呟き

「御鷹匠頭」既出既注であるが、再掲しておく。定員二名で千石以上の旗本の世襲とされた。江戸後期は戸田家と内山家のみで、幕末には戸田家一家に限られた(次注の安田寛子氏の論文参照)。

「内山七兵衞」静山と同時代人とすれば、安田寛子氏の論文「近世鷹場制度の終焉過程と維持組織(PDF)に出る内山善三郎(通称・内山七兵衛)であろうかと思われる。なお、この内山家の先祖の一人である可能性が高い、内山七兵衛永貞(通称の一致、及び一時期の鷹匠頭としての内山家の嗣子が本名に「永」の字を用いていることが確認出来る)という人物が第五代将軍徳川綱吉の治世にいるが、この人は何と、かの数学者関孝和(寛永一九(一六四二)年~宝永五(一七〇八)年)の実兄であり、この兄弟、かの上野寛永寺根本中堂の造営という綱吉政権の大事業に深く関与していたことが、鈴木武雄論文「駿遠静岡における関孝和と内山七兵衛永貞の消息(PDF)で明らかにされている。

「嫌」「きらひ」。

「喫する」「きつする」。食する。

「組の者」自分の支配の鷹匠及び鷹狩の下役の者ども。

「野先」私の趣味で「のづら」と訓じておく。

「必」「かならず」。

「鳧雁」「ふがん」と読む。鴨と雁(かり)。孰れも鳥綱カモ目カモ亜目カモ科マガモ属 Anas の仲間。同属の内で体が小さく、首があまり長くなく、冬羽では雄と雌で色彩が異なるものをかなり古くから「鴨」と称し、そうでない大型種を「雁」と区別したりするが、これは科学的な鳥類分類学上の群ではない。

「持贈る」「もちおくる」。鷹匠頭である内山に、である。上司である彼に目を懸けて貰うため、将軍より分配下賜された獲物を、これまた、贈答として部下が彼に差し出すのである。これは違法ではないが、如何にもな、賂(まいない)ではある。

「夫を防んとて」「それをふせがんとて」。

「仕成したる」「しなしたる」。そういう嘘の嗜好をわざと流して、これ見よがしな賂の贈答を一切受けぬようにしたのであった。

諸國百物語卷之五 十六 松ざか屋甚太夫が女ばううはなりうちの事

 

     十六 松ざか屋甚太夫(ぢんだゆふ)が女ばううはなりうちの事

 

 京むろ町、中立(なかだち)うり邊に、うとくなる後家ありけるが、子をもたざりけるゆへ、いもうとの子を養子してそだてけるに、せいじんして、みめかたち、うつくしかりければ、あなたこなたより、こいしのびける。そのあたりに、松ざかや甚太夫と云ふ人あり。此内儀、りんきふかき女ばうにて、甚太夫、ほかへいづれば、人をつけてあるかせける。甚太夫、あまりうるさくおもひて、いとまをいだしける。そのあとへ、かの後家のむすめをよびけるが、ほどなく、くはいにんして産所にゐけるに、七夜(しちや)のよの事なるに、座敷のつま戸、きりきりと二度なりしを、内儀は、おいち、と、いひけるが、ふしぎにおもひ、みければ、十八、九の女ぼう、白きかたびらに、しろき帶をして、かみをさばき、ほそまゆをして、かの、おいちを見て、にこにこと、わらふとおもへば、又、きつと、にらみける。おいち、おどろき、

「わつ」

といひてめをまわしければ、人々、おどろき、よびいけなどして、やうやう氣つきける。そのゝち、三十日ばかりすぎて、おいち、ねていられたる所へきて、

「いつぞやは、はじめて御めにかゝり候ふ。さても、うらめしき御人や、うらみを申しにまいりたり」

とて、せなかを、ほとほと、たゝき、うせけるが、それより、おいち、わづらひつきて、つゐに、あひはてけると也。はじめの女ばうのしうしんきたりけると也。

 

[やぶちゃん注:「うはなりうち」「後妻打(うはなりう)ち」。行動としては、中世から江戸時代にかけて行われた民俗風習の一種で、夫がそれまでの妻を離縁して後妻と結婚した際(一般には先妻との離別から一ヶ月以内に前夫が後妻を迎えた場合)、先妻が後妻に予告をした上、後妻の家を襲うものを指す。ウィキの「後妻打ち」に詳しい。但し、ここはその生霊版であり、このタイプは既に「卷之一 八 後妻(うはなり)うちの事付タリ法花經(ほけきやう)の功力(くりき)」で登場し、同系統の話柄は本「諸國百物語」の他の話柄にも多数、内包されている。

「松ざか屋甚太夫」不詳。現在の「松坂屋」は尾張名古屋が本拠地で、ルーツも伊勢商人であるから、無関係であろう。

「京むろ町、中立(なかだち)うり」現在の京都府京都市上京区中立売通。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「うとく」「有德」。裕福。

「りんき」「悋気」。嫉妬心。

「人をつけてあるかせける」見守り役をつけて歩かせ、女と接触しないように警戒させた。

「いとまをいだしける」「暇を出だしける」。離縁した。

「くはいにん」「懷妊」。

「産所」「さんじよ」。出産をするために拵えた場所。出産の際の血の穢れを忌んで特別に作った。産屋(うぶや)。

「七夜(しちや)」お七夜(おしちや)。子供が生まれて七日目の祝いの夜。

「つま戸」「褄戸」。開き戸。

「きりきり」枢(くるる)の軋るオノマトペイア。

「内儀は、おいち、と、いひけるが」内儀の名は「おいち」と言ったが。わざわざ名を挿入形で示すのは特異点。しかし、どうも流れが乱れてしまい、よろしくない。最初の一文で出しておくべきだった。

「白きかたびらに、しろき帶をして、かみをさばき、ほそまゆをして、かの、おいちを見て、にこにことわらふとおもへば、又、きつと、にらみける」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注では「ほそまゆをして」(細眉をして)に注して、『細い眉を描いて、以上は、すべて呪詛する女の姿である』とある。『以上』とあるが、以下の表情を急激に変ずるのも、まさに、呪術のそれである。

「よびいけ」「呼び生け」。既出既注。気絶したり、仮死状態になったり、危篤の際に行う、民俗習慣としての名を叫んで離れ行こうとする霊魂を呼び返して蘇生させる「魂(たま)呼び」である。

「ねていられたる」「寢て居(ゐ)られたる」。歴史的仮名遣は誤りで、敬語があるのもおかしい。

「ほとほと」前出の「江戸怪談集 下」の脚注では、『打ち叩く音の形容。「丁々(ちょうちょう)ホトホト」(『書言字考用集』)』とある。「とんとん」ではなく、「パン! パパン!」ぐらいをイメージしたほうがよいオノマトペイアである。

「はじめの女ばうのしうしんきたりける」「初めの女房の執心、來りける」。冒頭に述べた通り、これは離別後に死んだとは書いてないから、先妻の妬心の強気によって生じた生霊による「後妻打ち」なのである。]

2016/11/25

本日閉店

本日髪結に参るに依つてこれにて閉店 心朽窩主人敬白

譚海 卷之二 雲州家士寺西文左衞門事

 

雲州家士寺西文左衞門事

○雲州の太守淨免院殿と申せし比(ころ)、寺西文左衞門といふ家士あり、弓術に勝(すぐれ)たるもの也。秋の比(ころ)松茸をとりに同僚と山に遊び、歸路に及(およん)で供の小者(こもの)角平(かくへい)と云(いふ)一人みへざるゆへ、いづれも聲を立(たて)角平が名を呼(よび)けるに、遙かなる山奧にて時々答(こたふ)るやうに聞(きき)なせり。又呼べは答る事なし、只(ただ)此(この)文左衞門聲をたてゝ呼(よぶ)とき斗(ばかり)答る聲のせしかば、漸(やうやう)みなみな不審を立(たて)、とかく文左一人呼(よび)みられよとて、外の人々はよばするに、文左衞門一人聲をつゞけて角平々々とよぶ時、段々答るこゑ近く成(なり)て、終に其所に出きたれり。扨もいかなる事にて、遠方には後れ居たるぞと尋(たづね)ければ、角平申けるは、御跡へさがり便用を達し候所へ、誰ともなく高貴の人數輩(すうはい)まいられ招き候ゆへ、其前へかしこまりたる時、我等あたまを牢(かた)く押へてうごかされず、色々詫(わび)候へども承引致されず候所、皆樣の御聲にて呼(よば)せられ候ゆへ、答へ申さんとすれば猶あたまをおさへて、答へせずに居よと申され候ゆへ、力無く居候内(うち)、文左衞門樣の御聲にて呼せられ候時、件(くだん)の貴人迷惑いたされ候樣子にて、答へいたせと申され候ゆへ、聲を立(たて)いらへ致(いたし)候。文左衞門樣きびしく呼せられ候時、此人申され候は、文左衞門が呼るゝにはこまりたり、答せよと申され、又申され候は扨々文左衞門がつる音は今も耳にあるやうにてこゝろよからぬ事哉(かな)、彼(か)れにかく呼るゝこそこまりたれとて、度々よばせられ候時、今は力およばずゆるし返すぞとて放され候ゆへ、うれしくてやうやう追付(おひつき)奉りぬとかたりぬ、不思議成(なる)事也(なり)。此人弓術勝れたるゆへ加樣(かやう)の妙もあり、狐狸などの此小者をたぶらかさんとはかりたる事にや。

[やぶちゃん注:「雲州の太守淨免院殿」底本の竹内利美氏の補註に、『「続藩翰譜」によると、天明以前の松前藩主にこの法名を持つものはいない』とある。

「寺西文左衞門」不詳。

「外の人々はよばするに」ママ。原典の「外の人々はよばずするに」の脱字か。

「便用」小便であろう。

「牢(かた)く」「堅く」。

「つる音」弓を射た際の弦(つる)音。]

甲子夜話卷之三 7 津輕領三馬屋渡の事

 
3-7 津輕領三馬屋渡の事

鳥越邸の隣家川口久助は、當御代替のとき陸奧國の巡見に赴し人なり。一日、予陸奧より蝦夷に渡る海路のさがしさを問ければ、答に津輕領の三馬屋より船出し、松前に着とき、船出せし日は風殊に強く吹て浪高かりしまゝ、日和惡かるべしと言に、船子の言に、此渡りに潮道三處あり。潮急にして濟ること難し。日和なれば船潮の爲に流漂て渡ることを得ず。因てこの如き風力にて濟と言しが、いかにも沖へ出、かの急潮の所に至りては、さしも大なる船のさかしまに湧かへり、流行く巨浪に堪かぬべくありしが、強風に吹ぬかれて、その浪を凌、三處の難所を濟り着たり。舟中の苦は云計なしと。かの急潮の所は、たつぴ、中の汐、白上といふなり。又松前の白上山に登り、海面を臨見るに、三の潮道、海面に分り見えて、その潮行のところ、海より隆くあがりて見ゆ。いかにも海底に危石嶮嚴のあるゆへ、海潮もこの如きやと云り。西の國の海路には見聞せざる事なり。

■やぶちゃんの呟き

「津輕領三馬屋渡」底本の目次は「三馬屋」に『みうまや』とルビする。これは青森県東津軽郡の北西、津軽半島最北端に位置する三厩(みんまや)である。現在の行政地名は東津軽郡外ヶ浜町三厩。ここは蝦夷地へ渡る際の本土側の湊(みなと)であった。サイト「発祥の地コレクション」の「三厩村名発祥の地」によれば、ここは義経北行伝説の一つに挙げられる地で、現在の三厩港の西側にある義経寺の東に松前街道に面して「厩石(うまやいし)」と呼ばれる岩があり、その付近には「義経渡道之地」や「三厩村名発祥の地」という石碑が建っているとされ、以下、そこの「厩石の由来」の説明板が電子化されてある。以下に引かさせて頂く(コンマを読点にし、アラビア数字を漢数字に代え、一部の表記を変更した)。『文治五年(一一八九年)、兄頼朝の計らいで、衣川の高舘で藤原秦衝に急襲された源義経は、館に火をかけ自刃した。これが歴史の通説であるが、義経は生きていた! 藤原秀衡の遺書(危険が身に迫るようなことがあったら館に火をかけ,自刃を粧って遠くの蝦夷が島(北海道)へ渡るべし)のとおり北を目指しこの地に辿り着いた。近くに蝦夷が島を望むが,荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡ることが出来ない。そこで義経は海岸の奇岩上に座して、三日三晩、日頃信仰する身代の観世音を安置し、波風を静め渡海できるように一心に祈願した。丁度満願の晩に、白髪の翁が現れ、「三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい」と云って消えた。翌朝厳上を降りると岩穴には三頭の龍馬が繋がれ、海上は鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷が島に渡ることができた。それから、この岩を厩石、この地を三馬屋(三厩村)と呼ぶようになりました』。なお、その後にサイト編者によってここ三厩は『江戸時代になり蝦夷地の開発が進むにつれて、三厩は奥州街道の本州側の最終宿場町として重要な拠点となり、本陣・脇本陣が設置され、三厩湊は蝦夷地への中継地・風待ち場となり、また蝦夷地からの物資を取り扱う廻船問屋が軒を連ねる賑わいとなった』と記されてある。

「鳥越」不詳。江戸切絵図を精査すれば、判るとは思うが、その時間的余裕が私にはない。悪しからず。発見された方はお教え願えると、嬉しい。

「川口久助」地理学者で「西遊雑記」「東遊雑記」等の紀行や江戸近郊の地誌「四神地名録」で知られる古川古松軒(ふるかわこしょうけん 享保一一(一七二六)年~文化四(一八〇七)年)のウィキに、古川は天明七(一七八七)年に『東北地方を目指して旅立ったが、米価騰貴のため江戸の実子・松田魏丹宅に滞在し、時期を見計らっていた。翌年春、何らかの理由で水戸藩長久保赤水の知遇を得、急拵えで絵図を作り見せたところ、赤水も古松軒の実力を認め、以降親しく交流』、『赤水から水戸藩または柴野栗山を通じて』、『幕府巡見使の随員に採用され、巡見使藤波要人、川口久助、三枝十兵衛に従い』、『奥羽地方及び松前を巡』って、「東遊雑記」を著した、とある(下線やぶちゃん)。その旅程は同年五月六日に『江戸を出発、奥州街道を北上して陸奥国に入り、出羽国を通って』七月二十日に『松前に到着』(松前は現在の北海道南部の渡島総合振興局管内にある松前町で、渡島半島南西部に位置する)、八『月中旬まで滞在した後、陸奥国太平洋側を巡り、水戸街道経由で』十月十八日、『江戸に帰着した』とある。まず、この幕府巡見使川口久助が本記の人物であり、本内容も、その際の体験と断じてよい。

「當御代替のとき」天明七年は前年の徳川家治に死(天明六年八月二十五日)を受け、四月十五日に徳川家斉が正式に第十一代将軍となった年である。

「赴し」「おもむきし」。

「予」静山。

「さがしさ」「嶮しさ」「險しさ」で「嶮(けわ)しさ・嶮岨(けんそ)さ」或いは「危難」の意。

「問ければ」「とひければ」。

「答」「こたへ」。

「着とき」「着く時」。ここは三厩を船出して松前に着くまでの謂い。先の引用から松前到着は天明七(一七八七)年七月二十日で、これはグレゴリオ暦で九月一日に当たり、台風などの天候不順も疑われる。

「吹て」「ふきて」。

「日和惡かるべし」「ひよりあしかるべし」。川口が船頭に言った台詞。「船出するには、日和が如何にも悪かったようだなあ。」。

「言に」「いふに」。

「船子」「ふなこ」。船頭。

「此渡りに潮道三處あり」「このわたりに(は)しほみちみところあり」。この渡海のルート上には三通りの悪しき潮の流れがある。

「濟る」「わたる」。渡る。

「日和なれば」日和がよいと却って。

「潮の爲に」風よりもその三つの潮の流れが、これ、ひどく強く船に作用するために。

「流漂て」「ながれただよひて」。

「因てこの如き風力にて濟」「よつてこのごときふうりよくにてわたる」。だからこそ、逆に、このような悪しく見える風の折り、その潮に負けぬ強い風力によって渡るのだ、と船頭は言うのである。目から鱗。

「出」「いで」。

「急潮」「はやしほ」と訓じておく。

「湧かへり」「わきかへり」。船がピッチングすることを指すのであろう。

「流行く」「ながれゆく」。

「巨浪」「おほなみ」と訓じておく。

「堪かぬべくありしが」「たへ兼(か)ぬべくありしが」耐えかねる(沈没しそうな)ほどの有様であったが。

「吹ぬかれて」「ふきぬかれて」。

「凌」「しのぎ」。

「濟り着たり」「わたりつきたり」。

「云計なし」「いふばかりなし」。

「たつぴ」現在の本土側の青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩龍浜にある津軽半島の最北端の津軽海峡に突き出た岬、竜飛崎(たっぴざき)に由来する呼称であろうが、「龍が飛ぶ」はまさに速い潮に相応しい。

「中の汐」「中の潮」で、津軽海峡の三つの速い潮流の中央のそれを指すのであろう。

「白上」以下に出る蝦夷の松前の東にある「白上山」、現在の白神岳(北海道松前郡松前町。標高三五一メートル)及びその南端の白神岬に由来するものであろう。蝦夷側の本土から渡海する際の最後の急流である。

「臨見るに」「のぞみみるに」。

「潮道」「しほみち」。

「海面に分り見えて」海水温やプランクトンの違いによって、その三筋の海流の色が、肉眼でくっきりと分かれて見えるのである。

「その潮行のところ」ややおかしいが「そのしほ、ゆくのところ」と訓じておく。

「隆く」「たかく」。

「あがりて見ゆ」盛り上がっているように見えた。実際には潮の色の違いから、そのように見かけ上、見えたのであろう。

「危石嶮嚴」海底の暗礁が高く盛り上がっていること。海流が盛り上がって見えたことからの憶測であり、誤り。海図を確認したが、そのような海底からそそり立つように突き出た暗礁はない。但し、海底地形が潮流と関係していることは疑いないとは思われた。

「云り」「いへり」。

諸國百物語卷之三 十二 古狸さぶらひの女ばうにばけたる事 (アップし忘れを挿入)

百日目の計算が合わないので、調べて見たところが、以下を掲載し損なっていた。今日、公開して補う。これで百話目はきっぱり今月の晦日となる。僕の公開を日々御一緒に読まれてこられた方々、当日の怪異の出来(しゅったい)は自己責任として、覚悟されたい――❦ふふふ…………



     十二 古狸さぶらひの女ばうにばけたる事

 

 尾州にて二千石とるさぶらひ、さいあいの妻にはなれ、まいよ、この妻の事のみ、をもひ出だしてゐられけるが、ある夜、ともしびをゝき、まどろまれけるに、かのはてられたる内儀、いつものすがたにて、いかにもうつくしう、ひきつくろひ、さぶらひのねやにきたり、なつかしさうにして、よるの物をあけ、はいらんとす。さぶらひ、おどろき、

「死したるものゝ、きたる事、あるべきか」

とて、かの内儀をとつて引きよせ、三刀(かたな)さしければ、けすがごとくに、うせにけり。家來のものども、かけつけ、火をとぼし、こゝかしこと、たづぬれども、なに物もいず。夜あけて見れば、戸の樞(くるゝ)のあなに、すこし、血、つきてあり。ふしぎにおもひ、のりをしたいて、たづねみれば、屋敷のいぬいのすみ、藪のうちに、あなあり。これをほりて見ければ、としへたる狸、三刀(かたな)さゝれて、死しゐたりと也。

 

[やぶちゃん注:「尾州にて二千石とるさぶらひ」尾張藩で当初(本「諸國百物語」は江戸初期の設定話が多い)、二千石取りであった家臣をウィキの「尾張藩」で調べると、代々で国老中・名古屋城城代・江戸家老などを勤めた渡辺秀綱に始まる渡辺半十郎(新左衛門)家、毛利広盛に始まる毛利氏、土岐肥田氏分流で城代家老を勤めた肥田孫左衛門に始まる肥田氏、小田原北条氏家臣大道寺政繁次男の城代家老を勤めた大道寺直重に始まる大道寺氏などがいる。

「さいあいの妻にはなれ」「最愛の妻に離れ」死別による別離である。

「死したるものゝ、きたる事、あるべきか」この侍は(その判断は結果的に正しかったわけだが)死霊の存在を鼻っから否定している点で当時としては特異点である。

「なに物もいず」「何物も居(ゐ)ず」。歴史的仮名遣は誤り。

「戸の樞(くるゝ)のあな」この場合は、戸締まりのために引き戸の桟(さん)から敷居に差し込んで留める装置の、下の敷居に空けてある孔のこと。

「のり」血糊(ちのり)。

「したいて」「慕ひて」(歴史的仮名遣は誤り)。後を辿って。

「いぬい」「戌亥(乾)」。歴史的仮名遣は「いぬゐ」が正しい。北西。]

2016/11/24

私は

私は今は最早、「何をしたか」ではなく、「今何が出来るか」、という火急的痙攣行為状況以外に、感ずることは出来ない――

北條九代記 卷第十 蒙古牒書を日本に送る

 

      ○蒙古牒書を日本に送る

 

文永五年十二月、京都富小路(とみのこうぢ)新院の御所にして、一院五十の御賀あり。伶人、舞樂を奏し、終日の經營、善、盡し、美、盡せり。軈(やが)て御飾(おんかざり)を落し給ひ、法皇の宣旨を蒙(かうぶ)らせ給ふ。この比(ころ)、六合(りくがふ)、風、治(おさま)り、四海、浪、靜(しづか)にして、萬民淳化(じゆくわ)の惠(めぐみ)に歸して、京都邊鄙(へんぴ)、悉(ことごと)く太平の聲、洋々たり。一院、新院、今は叡慮も穩(おだやか)にて、姑射仙洞(こやせんとう)の綠蘿(りよくら)を分けて、洛中洛外の御幸(ごかう)、鳳車(ほうしや)の碾(きし)る音までも治(をさま)る御世(みよ)の例(ためし)とて、最(いと)徐(ゆるやか)にぞ聞えける。

斯る所に、蒙古大元の、狀書を日本に送り、筑紫の宰府(さいふ)に著岸(ちやくがん)す。卽ち、關東に送り遣されしに、武家より禁裡(きんり)に奉らる。當今(たうぎん)、勅を下し、菅原(すがはらの)宰相長成(ながなり)に返簡(へんかん)を書(か〻)しめ、世尊寺(せそんじの)經朝(つねもとの)卿(きやう)、是を淸書す。然れども武家内談の評定あり。蒙古の書面、頗る無禮なりとて、返狀に及(およば)れず。昔、隋の大業三年に、日本朝貢(てうこう)の使者、国書を擎(さ〻)げて來れり、其文章に、「日出處(にちしゆつしよの)天子無ㇾ恙(つつがなき)耶(や)。日沒處(にちもつしよの)天子致ㇾ書(しよをいたす)」とあり。天皇、御覽(みそなは)れ給ひて、「天に二(ふたつ)の日なく、國に二の王なし。日沒處の天子とは何者そや」とて大に無禮を咎め給ひけり。今蒙古の狀書にも又、是、無禮の文章あり。返狀に及ばざる、誠に理(ことはり)ぞ、と聞えける。

 

[やぶちゃん注:特異的に二段に分けた。なお、前段は以下に示す通り、実際には行われていないことを見て来たかのように綴っている、本書でも痛恨の大きな瑕疵部分であり、後半も何だか、ヘンだぞ!(後注参照)

「牒書」「てふしよ(ちょうしょ)」本邦ではかつての奈良・平安時代には官府間に交わされる往復文書を指したが、ここは正式な返答を求めた(国外からの)公式文書の謂いである。

「文永五年」ユリウス暦一二六八年。

「京都富小路」

「新院」後深草院。

「一院五十の御賀あり」この後の「一院」後嵯峨院五十の慶賀のパートを筆者は「日本王代一覧」(慶安五(一六五二)年に成立した、若狭国小浜藩主酒井忠勝の求めにより林羅山の息子林鵞峯によって編集された歴史書)及び「五代帝王物語」(鎌倉後期に書かれた編年体歴史物語。作者は未詳)によって記しているらしいが(湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)に拠る)、一九七九年教育社刊の増淵勝一訳「現代語訳 北条九代記(下)」には、この部分の現代語訳の直下に、『(事実は蒙古の国書が伝えられたため行われなかった)』とある。

「軈(やが)て」そのまま。まもなく。

「御飾(おんかざり)を落し給ひ、法皇の宣旨を蒙(かうぶ)らせ給ふ」あたかも、この五十の慶賀の式の場かその直後に出家し、法皇となったかのようにしか読めないが、これも誤りである。後嵯峨上皇はこれより(そもそもこの慶賀は行われていないのだから、こう書くこと自体が無意味なのであるが)二ヶ月前の文永五(一二六八)年十月に出家して法皇となっている

「六合(りくがふ)」天と地と四方。天下。

「淳化(じゆくわ)」手厚く教え、感化すること。邪念を取り去ること。

「姑射仙洞(こやせんとう)」上皇・法皇の御所。仙洞御所。「姑射山」(こやさん)は元は中国で不老不死の仙人が住むという藐姑射(はこや)山のことを指した。「仙洞御所」というのは、それを語源とした長寿を言祝ぐ尊称なのである。

「緑蘿(りよくら)を分けて」色鮮やかな生き生きと繁茂する蔦を父子で仲良く分け合って。

「鳳車(ほうしや)」前出の増淵訳では、割注で『屋根の頂に金銅の鳳凰を付けた牛車』とある。ここは上皇や法皇がお出かけになる際に乗用されるそれを指す。

「碾(きし)る」「軋る」。

「筑紫の宰府(さいふ)に著岸す」増淵訳の割注によれば、筑紫の大宰府に元(高麗王経由で使者は高麗の役人潘阜ら。前章参照)からの書状が届いたのは同文永五(一二六八)年一月であった。

「關東に送り遣されしに、武家より禁裡(きんり)に奉らる」めんどくさいルートであるが、仕方がない。

「當今(たうぎん)」当時の今上天皇である亀山天皇(後深草上皇の実弟であるが、父後嵯峨法皇が弟を寵愛、彼を「治天の君」としたことに実は強い不満を抱いていた。後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との、幕府の目論み通りの対立が生じる大元の端緒は実はここに始まっている)。

「筑紫の宰府(さいふ)に著岸す」増淵訳の割注によれば、筑紫の大宰府に元(高麗王経由で使者は高麗の役人潘阜ら。前章参照)からの書状が届いたのは同文永五(一二六八)年一月であった。

「關東に送り遣されしに、武家より禁裡(きんり)に奉らる」めんどくさいルートであるが、仕方がない。

「當今(たうぎん)」当時の今上天皇である亀山天皇(後深草上皇の実弟であるが、父後嵯峨法皇が弟を寵愛、彼を「治天の君」としたことに実は強い不満を抱いていた。後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との、幕府の目論み通りの対立が生じる大元の端緒は実はここに始まっている)。

「菅原(すがはらの)宰相長成(ながなり)」菅原(高辻)長成(元久二(一二〇五)年~弘安四(一二八一)年)は文章博士・侍読などを務めた。一応、菅原道真の末裔である。なお、この後の第四回の使節団が来た際(文永六(一二六九)年九月)、彼が起草したモンゴル帝国への服属要求を拒否する返書案がウィキの「元寇に現代語訳で載るので引いておく。

   《引用開始》

「事情を案ずるに、蒙古の号は今まで聞いたことがない。(中略)そもそも貴国はかつて我が国と人物の往来は無かった。

本朝(日本)は貴国に対して、何ら好悪の情は無い。ところが由緒を顧みずに、我が国に凶器を用いようとしている。

(中略)聖人や仏教の教えでは救済を常とし、殺生を悪業とする。(貴国は)どうして帝徳仁義の境地と(国書で)称していながら、かえって民衆を殺傷する源を開こうというのか。

およそ天照皇太神(天照大神)の天統を耀かしてより、今日の日本今皇帝(亀山天皇)の日嗣を受けるに至るまで(中略)ゆえに天皇の国土を昔から神国と号すのである。

知をもって競えるものでなく、力をもって争うことも出来ない、唯一無二の存在である。よく考えよ」

   《引用終了》

叙述から見て、「北條九代記」の筆者は、第一回の使節団と、この第四回を一緒くたにしているように私には感じられて仕方がない。

「返簡(へんかん)」返書。

「世尊寺(せそんじの)經朝(つねもとの)卿(きやう)」(建保三(一二一五)年~建治二(一二七六)年)は代々書家で名はせた世尊寺流九代の公卿で歌人。摂津守・左京権大夫などを経、正三位に至る。能書家として知られ、種々の書役を務めている。

「武家」鎌倉幕府。

「返狀に及れず」返書は幕府の意向で拒否することとしたのである。

「隋の大業三年」「大業」は「たいぎよう(たいぎょう)」で、隋の煬帝の治世の年号。西暦六〇七年。

「朝貢(てうこう)」外国人が来朝して朝廷に貢ぎ物を差し上げること。

「日出處(にちしゆつしよの)天子無ㇾ恙(つつがなき)耶(や)。日沒處(にちもつしよの)天子致ㇾ書(しよをいたす)」とあり。天皇。御覽(みそなは)れ給ひて、「天に二(ふたつ)の日なく、國に二の王なし。日沒處の天子とは何者そや」とて大に無禮を咎め給ひけり」先の湯浅氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」によれば、この後段部分も「日本王代一覧」「五代帝王物語」や「将軍記」(本書の筆者と目される浅井了意の作)に拠っているとされ、「八幡愚童訓」(鎌倉中後期に成立したと思われる八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起)『(甲本)には、趙良弼が持参した牒状の内容が記されている』と注されてあるのだが(私は「八幡愚童訓」を所持しないので牒状の内容は確認出来ない)、この「北條九代記」記載、なんか? おかしくね? 逆だべよ! ウィキの「遣隋使」の「二回目」(まさに六〇七年)から引いておく。遣隋使の第二回は「日本書紀」に記載されており、推古一五(六〇七)年に『小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたと記されている』。『倭王から隋皇帝煬帝に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳俀國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されていた。これを見た煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという』(下線やぶちゃん)。『なお、煬帝が立腹したのは俀王が「天子」を名乗ったことに対してであり、「日出處」「日沒處」との記述に対してではない。「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語である。ただし、仏教用語を用いたことで中華的冊封体制からの離脱を表明する表現であったとも考えられている』。『小野妹子(中国名:蘇因高』『)は、その後返書を持たされて返されている。煬帝の家臣である裴世清を連れて帰国した妹子は、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明している』。『百済は日本と同じく南朝への朝貢国であったため、その日本が北朝の隋と国交を結ぶ事を妨害する動機は存在する。しかしこれについて、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったのでこれを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったのではないかとも推測されている』。『裴世清が持ってきたとされる書が『日本書紀』に』以下のように、ある。

『「皇帝、倭王に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭王は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」』

『「皇帝問倭皇 使人長吏大禮 蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境内安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」『日本書紀』』。

『これは倭皇となっており、倭王として臣下扱いする物ではない。『日本書紀』によるこれに対する返書の書き出しも「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)とある。これをもって天皇号の始まりとする説もある。また、「倭皇」を日本側の改竄とする見解もある』。『なお、裴世清が持参した返書は「国書」であり、小野妹子が持たされた返書は「訓令書」ではないかと考えられる。小野妹子が「返書を掠取される」という大失態を犯したにもかかわらず、一時は流刑に処されるも直後に恩赦されて大徳(冠位十二階の最上位)に昇進し再度遣隋使に任命された事、また返書を掠取した百済に対して日本が何ら行動を起こしていないという史実に鑑みれば、 聖徳太子、推古天皇など倭国中枢と合意した上で、「掠取されたことにした」という事も推測される』とある。「八幡愚童訓」を見る機会があれば、また加筆する。]

谷の響 四の卷 六 鬼に假裝して市中を騷がす

 

 六 鬼に假裝して市中を騷がす

 

 こも文化の末の頃、紺屋町に飴賣の三太と言へるものあり。七月の盆躍に鬼の形姿(かたち)にいでたゝんとて、身體に紅がらをぬり面をおそろしくいろどり、角をうゑたる髢(かつら)をかむり虎の皮の犢鼻褌(ふんどし)をしめたるが、元より長(たけ)高く肥太りて、眼と口はまことに大きく鼻はひしげたるものなれば、實の鬼とも見られたり。さるに此三太、下土手町の四ツ角にて酒に醉ひ喧嘩をしいだし、やうやうに逃げたれば後より追手の來りせまりて、鍛冶町の桶屋某が檐下(のきした)に有りし荼毘桶の中にかくれて、追ひかけし者はかゝるべしとはしらざれば、たつぬる隈もあらずして手をむなしくして反りけり。

 三太はやゝ心落付思はず荼毘桶の中にありて眠りけるが、早くも夜の明はなれてあたりの桶屋ども業をいとなむ音に目をさまし、脱(にげ)出んとしてそと蓋(ふた)をあけ、あたりを見れば往來の人多くして出るによしなし、又しばししてあけて見てもいよいよ往來多ければ、すきをうかゞはんため四五度もふたをあけたりしが、この時向ひなる桶屋の妻小兒にいばりをさせながらふと此方を見れば、荼毘桶のふたおのづとあかりていとおそろしき鬼の首をさし出せるに膽をつぶし、家内の若者どもに斯くと知らすれば、若者ともゝいぶかりながら氣を付けて見て居るに、果して鬼の首の出でたれば皆々おどろき、ひそかに近所の若者どもと示し合せ、手々に棒をひつさげ引出して打殺さんとて、十四五人のものこの荼毘桶を取りかこみ手をおろさんとひしめきけるを、三太は内にて樣子を聞ききてんの才を出し、わつと一聲大音に叫び大手をひろげて出でたれば、さすがの者どもこの一聲に氣を呑まれて思はず後へ逃げされり。

 三太は玆ぞと脱出たるに、それが通りの親方町・元寺町にて赤鬼は出にしとて往來何となくさわぎたるに、この鍛冶町の若者ども棒杠木(ちぎりき)にて追ひ來り、鬼や見ざりし赤鬼や來らざりしと口々にわめきたるに、いよいよ大騷ぎとなり大勢つどひて追ひかくれば、鬼はいたく苦しみて寺小路なる叔母がもとに會釋もなくのかのかと入りたるに、叔母も家内も仰天し一步一趹(こけつまろびつ)外面(とのも)へ逃出し、鬼よ鬼よとわなわなしけるに、いよいよ人がむれ來つれば役筋の人押とゝめ、驚く鬼をひつとらへて高手小手にくゝりあげ、元寺町にあづけて吟味をなしたるに、鬼はおそれて有し事ともを聞え上げたるに、役筋の人も腹をかゝへるばかりなり。されどさしたる科もあらざれば、市中をまわして御ゆるしになりしとなり。

 

[やぶちゃん注:「谷の響」では珍しい徹底した滑稽譚で、まことに市井の人々の姿や声が生き生きと写されていて、素晴らしい話柄となっている。最後にお役人さえ腹を抱えて大笑いするのが目に見えるようではないか。

「文化の末の頃」文化は一八〇四年から一八一八年まで。

「紺屋町」現在の弘前市紺屋町(こんやまち)。弘前城の西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「飴賣」「あめうり」。

「盆躍」「ぼんをどり」。

「身體」こで「からだ」と訓じておく。

「紅がら」「紅殻」。ベンガラ(オラン語:Bengala)。インドのベンガル地方で産したことから。当て字で、「弁柄」とも書く。赤色顔料の一つ。酸化鉄を主成分とする鉱物顔料。

「面」「おもて」。顔面。

「髢(かつら)」「髢」(音「ダイ・テイ」)は本来は訓で「かもじ」と読み、婦人の髪に副え加える入れ髪を指す。

「鍛冶町」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「荼毘桶」「だびをけ」或いはこれで「かんをけ」と当て読みしているかも知れぬ。死者を入れる座棺の火葬用の棺桶。

「たつぬる隈」ママ。「隈」は「くま」。探すべき暗がり。物蔭。

「反りけり」「かへりけり」。「歸りけり」。

「落付」「おちつき」。

「思はず荼毘桶の中にありて眠りけるが」ここで、しかも棺桶の中で寝るというのが、馬鹿三太でしょうが!

「明はなれて」「あけはなれて」。すっかり明け切って。

「業」「わざ」。仕事。

「脱(にげ)出ん」「にげいでん」。

「そと」そっと。

「いばり」小便。

「此方」「こなた」。

「あかりて」「あがりて」。「上がりて」であろう。

「膽」「きも」。

「きてん」「機轉」。

「玆ぞ」「ここぞ」。

「脱出たるに」「にげいでたるに」。

「それが通りの」そこが通りの並びにある。

「親方町」現存。ここ(グーグル・マップ・データ)。鍛冶町に接した北側。

「元寺町」現存。親方町に接したさらに北のここ(グーグル・マップ・データ)。

「杠木(ちぎりき)」二字へのルビ。「杠」は「梃(てこ)」や「ゆずりは(ユキノシタ目ユズリハ科ユズリハ属ユズリハ Daphniphyllum macropodum)」の訓があるが、それ以外に「旗竿」や「一本橋」の意があるので、ここは普通の棒よりもやや長めのそれを指すものと採る。

「寺小路」現在の弘前市元寺町小路(もとてらまちこうじ)であろう。(グーグル・マップ・データ)。先の元寺町の北部の東に接しており、話柄展開上の三太の逃走ルートとしても全く滞りがない。

「一步一趹(こけつまろびつ)」四字へのルビ。

「役筋の人」町同心か、その配下の岡っ引きや辻番の者。

「押とゝめ」「おしとどめ」。押さえつけ。

「高手小手」「たかてこて」。両手を後ろに回して首から肘・手首に繩をかけ、厳重に縛り上げること。

「科」「とが」。

「市中をまわして御ゆるしになりしとなり」ここがダメ押しの大笑いである。鬼の完全装備の恰好で雁字搦めにされた飴売りが、ただただゆっくらと御城下を「見せしめ」に引き回しにされるのである。それが彼への唯一の処罰であって、その後は解き放しとなったのである。弘前の街にこだまする庶民の笑い声が本当に楽しい。このコーダこそが、「谷の響」中の喜劇的特異点、「凸」である。]

谷の響 四の卷 五 狂女寺中を騷かす

 

 五 狂女寺中を騷かす

 

 文化十二三年の頃、弘前の禪寺常源寺の檀家夫なるものゝ老母、生付かたましくやぶさかなるものなるが、いとすくやかにして病めることなく、若年より一度も寺に參詣(まいり)たることなかりしなり。さるに六十有餘になりて初めて病つき、次第次第におもりて死期(ご)近くなりければ、後世のほどおそろしくや思ひけん、この檀那寺なる住職によりて血脈をこはれしに、和尚も不便におもひて明日こそしたゝめ遣すべしとてうべないけり。去に其夜八ツのころしきりに玄關の戸にさわる音の聞えければ、和尚あやしみこはきはめて其の老母なるべし。さこそ後生も苦しからん、いざ法をさづけて得道なさしむべしとて、弟子の小僧二人と一個(ひとり)の旅僧のかゝれるを呼起し、しかしかの由縁を言ひ聞かせみな法衣に改めて居るうち、又もあらあらしく戸を押動してやまざれば、今宵するうち少時(しばし)待てよとて、佛前に燈明を點じ香をたきてしづかに經文を誦したるに、いやましあらく戸にあたるからに、旅僧も小僧もいたくおそれ、すゝみて戸をあくることをなし得ず。

 かゝるからに和尚自ら鍵をはづしてあけたるに、白きものを着たる女のおどろに髮をふりみだし、欵(わつ)とさけんではしり入り其まゝ佛前の燈明を吹き消し、花瓶香爐を投ちらし座敷墓所の差別なく猛り狂ひてかけまわりしに、小僧も旅僧もたえ入りて和尚もしばしは腰を拔かしてありけるが、さすがは老僧なれば氣をしづめて高やかに經をよみあげ居たりしが、このさわぎに臺所に寢たる納所僕(やつこ)も眼をさませば、幽靈は未た狂ひて膳棚をちらし飯をまきちらして有けるに、僕は元より不惕(ふてき)の者にしあれば飛かゝりて取押へ、火を燈してよく見るに某町なる狂女にてありければ、みな苦笑してやみたりしはいと笑止なる事共なり。程すぎて此和尚、青海源助といひる人に語りしとて、この源助の咄なりき。

[やぶちゃん注:怪談風実録で真相明かして呵々大笑の大団円というやつで、この独特のオチは、ブットビの公案みたようで、禅寺なればこそという気も私はする。

「文化十二三年」一八一五、一八一六年。

「常源寺」複数回既出既注。再掲しておく。底本の森山氏の補註によれば、『弘前市西茂森町。曹洞宗白花山常源寺。永禄六年開基という。寺禄三十石』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)

「夫」「をとこ」と訓じておく。

「生付」「うまれつき」。

「かたましく」「かたまし」は「かだまし」とも濁音化し、「奸し・姧し・佞し」などと書いて、動詞「奸(かだ)む」の形容詞形である。「心が拗(ねじ)けている・性質が素直でない」の意。

「やぶさかなるもの」思い切りの悪い、じくじくした捻(ひね)くれ者。

「すくやかにして」健やかで。

「六十有餘になりて初めて病つき」現在時制を「文化十二三年」としているから、彼女は宝暦五(一七五五)年以前の生まれである。

「死期(ご)」「しご」。

「後世」「ごぜ」。

「血脈」「けちみやく」と読みたい。在家の信徒の内でも受戒者として認めた者にのみ授ける法門相承の系譜。死後、棺に納める。

「こはれしに」「乞はれしに」。

「したゝめ」「認め」。

「うべないけり」「諾(うべな)ひけり」。歴史的仮名遣は誤り。同意した。

「八ツ」午前二時頃。

「さわる」ぶつかる。打ち当たる。

「和尚あやしみこはきはめて其の老母なるべし。さこそ後生も苦しからん、いざ法をさづけて得道なさしむべしとて」『和尚、怪しみ、「此(こ)は、極めて、其の老母(が血脈を待ち切れず來る)なるべし。さこそ(:それほど切羽詰まって)後生も苦しからん(:死後の仏罰の苦しきものと、これ、怖れ戦いておるに違いあるまい)。いざ、法(:血脈)を授(さづ)けて得道(とくだう:悟りを開くこと)なさしむべし。」とて』。

「一個(ひとり)の旅僧のかゝれるを」たまたま、修行行脚の途次、ここ常源寺を通り「かゝ」って、一宿を乞うて寝ていた一人の旅僧を。

「呼起し」「よびおこし」。

「しかしかの由縁」「しかしか」はママ。彼女についてのしかじかの理由。

「押動して」「おしうごかして」。

「今宵するうち少時(しばし)待てよ」「今宵、これより直ちに血脈を授けて遣わすによって暫し待たれい!」。

「欵(わつ)」何度も注しているが、これは恐らく「欸」の原文の誤記か、翻刻の誤りである。これでは「約款」の「款」の異体字で、意味が通らない(「親しみ」の意味があるが、それでもおかしい)。「欸」ならば、「ああつ!」で「怒る」「恨む」、或いはその声のオノマトペイアとなるからである。

「たえ入りて」「絶え入りて」。気絶して。小僧はまだしも、この旅僧、修行が足りんぞ!

「納所僕(やつこ)」「なつしよやつこ」で一語と採る。「納所」(なっしょ)は、狭義には禅寺に於いて金銭などの収支を扱う部署・部屋、或いはそうした会計実務を担当した僧侶を指すが、ここでは広義の、寺務雑務を取り仕切っていた下僕の者を指している。

「幽靈」平尾は上手い。読む者は、かの不信心の老母自身か、或いはそれが急逝し、亡霊となって今、暴れ回っているなんどと錯覚して読んでいるわけだから、ここはこれがホラーの修辞では正しい語彙選びと言えるのである。

「未た」ママ。

「不惕(ふてき)」不敵。

「靑海」姓としての読みは「あおうみ」「あおみ」「おうみ」「おおみ」「せいかい」「せいみ」「せいがい」等。

「いひる」ママ。「いへる」の原典の誤り。]

谷の響 四の卷 四 大毒蟲

 

 四 大毒蟲

 

 往ぬる戊午の年の七月、花田某と言へる人邸裏(せと)を廻りけるに、何やらん小さき蟲ひとつ飛び來りて口の上に着きたるが、乍(さな)がら針にてさゝるゝごとくなれば、そのまゝ手にて拂ひ除けしに、忽疼痛(いたみ)たへがたく見る見る頰へ腫れまはり、又拂ひ除けし手にてあたまをなづるに、薄荷(はつか)の汁を着けたるごとくざらめく氣味あり。又指の先もかくのごとくなれば、奈何(いか)なる事をとあやしみ、井に水をつりて二三度あみたるうち、熱おこりめまひしてそのまゝ絶朴(たふれ)て前後をしらず。家内こを見ておとろきさわぎ、御番醫佐々木某に療治をたのみければ、佐々木氏至りて見るに氣絶して更に正體なく、面は元より肩背のあたり紫色になりていくべき樣子あらざれば、さまざまに手をつくしてやうやうにいへたりき。こは佐々木氏の物語なり。いかなる毒蟲にやあらん、かの本草にのせたる班猫にもおさおさ勝れるものぞかし。

 

[やぶちゃん注:底本では「班猫」の「班」の右に『(斑)』と編者の訂正注が附されてある。

 しかし、この虫は何だろう?

 

最初に唇の上を「針」で刺されたような感じがした

その直後に頬まで腫れあがった

払いのけた手に附着した虫の毒液か、分泌されたか潰すことにによって飛び散った体液が、「薄荷」(ハッカ)のような強い揮発性を感じさせた

その直後に急激な発熱が起こり、昏倒、気絶した

その後、顔面から肩や背中まで腫脹が広がり、皮膚が紫色に変色したこと

 

という経過を見てまず言えるのは、

 

①③からは、ある種の刺咬性昆虫でしかも強毒性の毒液を持っているものである可能性が高い

 

ことと、或いは、より正確に推理するならば、

 

それほど強毒性の昆虫毒ではなかったかも知れないが、②④⑤から、たまたま、この刺された人物がその成分(毒液か体液)に対して強いアレルギー体質の持ち主であって、重度のアナフラキシー・ショックを起こした

 

と断ずることは出来ると思う。

 さて、ではその昆虫であるが、針で刺す強毒性のもので直ちに激しい痛みと腫脹などの症状が出、小型種で、この時期(盛夏。次注参照)となると、昆虫綱膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科 Vespinae でも小型種である、ホオナガスズメバチ属 Dolichovespula の内で最も攻撃性が強い

キオビホオナガスズメバチ(黄帯頬長雀蜂)Dolichovespula media

(本種は働き蜂で十四~十六ミリメートルしかない)が候補とはなるであろう。

 ただ、当該種の毒成分が揮発感を感じさせるものかどうかは私は知らない。私はスズメバチに刺されたことはないが、昔、自宅の庭に出来たスズメバチ(恐らくはスズメバチ亜科スズメバチ属コガタスズメバチ Vespa analis)の巣を除去した際(夕刻に水を巣に撒き、布に灯油を含ませたものを棒の先につけて焼却した)、眼を狙われ、その毒液が遮光用コーティングの施された眼鏡のレンズに多量にかかったことがある。直ぐに水洗いしたが、毒液によってコーティングは完全に溶解していた。あれが、眼に入っていたら、と思うと、尻の穴までむずむずするほど、今でもキョワい。しかし、その毒液自体に触れてみなかったことは、今、ここに注しながら、残念にも思っているのである。

 なお、他の種(例えば、体液が毒性(知られた主成分はカンタリジン(cantharidin)。エーテル・テルペノイドに分類される有機化合物の一種で、カルボン酸無水物を含む構造を持つ毒物。昇華性がある結晶で、水には殆んど溶けず、皮膚に附着すると痛みを感じ、水疱性皮膚炎を発症させる)を持つ鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科 Meloidae のツチハンミョウ類や、多食(カブトムシ)亜目ハネカクシ下目ハネカクシ上科ハネカクシ科アリガタハネカクシ亜科 Paederus 属アオバアリガタハネカクシPaederus fuscipes 等)も考えてみたが、どうも上記のを総てクリアー出来るものを想起し得なかった。他により相応しい生物種があれば、是非、御教授戴きたい。

「往ぬる戊午の年の七月」万延元(一八六〇)年成立であるから安政五(一八五八)年戊午(つちのえうま)。底本の森山氏註が『安政四年』とするのは誤り。安政五年七月は一日が八月九日で、盛夏である。

「邸裏(せと)」裏庭。

「忽」「たちまち」。

「疼痛(いたみ)」二字へのルビ。

「御番醫」弘前藩雇いの医師。

「本草」ここは広義の本草書でよかろう。

「班猫」編者注にあるように「斑猫」が正しいが、ここで平尾が言っているのは、中国の「本草綱目」などの本草書で挙げる強毒性のそれを含む昆虫類で、実はこれは真正の「ハンミョウ」類(鞘翅目食肉(オサムシ)亜目オサムシ科ハンミョウ亜科Cicindelini Cicindelina 亜族ハンミョウ属ハンミョウ Cicindela japonica)ではない、

鞘翅(コウチュウ)目Cucujiformia 下目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科 Meloidae に属するツチハンミョウ(土斑猫)類

であることを認識することが肝心である。但し、これを話し出すと非常に長くなるので、私の和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 斑猫のテクスト注を参照されたい。]

谷の響 四の卷 三 水かけ蟲

 

 三 水かけ蟲

             

 水カケと言へる蟲は、深山の溪流にまゝあるものにして、その形髮毛の如く、長さ六七寸あるは八九寸にして、色はうす赤くせはしくうごけるものにあらずと言へり。又この蟲大口魚(たら)の肉の中にもまゝありて、こも又髮毛にひとしかれど、溪澗(さは)になれるものよりは色赤く長さは三寸ばかりとなり。俱に大毒ありて人をがいするといふめれば、よく心しろひすべきことなり。こは又溪澗(さは)の水のみにあらず井戸の水にもあることなり。

 さるは往(い)にし文政の年間(ころ)、紺屋町の新割町に住める三上の隱居といへる人、ある日湯屋に浴(ゆあみ)し、かわきたればとて水を乞ひて飮けるに、口の中に髮毛の有るやうに覺えければ、水を吐いて探り見るに、その髮毛のいとなめらかなればあやしく思ひ、手にあげてつらつら見るに、いとゆるやかにぬめりまわりてありしかば、これなん水かけと言ふ蟲ならめと、そばなる人にも見せておそれあへりと、己が父に語りしことありき。かゝればこの蟲は井の中にもあるものなれば、水はこして用ふべきものなり。

 

[やぶちゃん注:前の「二 中の蟲」との内容の相同性が強い。「水かけ蟲」及び「水カケ」と言う呼称は、現在、使用されていない模様で、不詳乍ら、これは「水蔭蟲」「水陰蟲」「水影蟲」で、髪の毛のように細く、水の中で隠れるように潜む、或いは、動いても、それあ水の光り(影)の反射のように誤認され易い虫の謂いではないかと推理する。私はこの体長と体色及び髪の毛に酷似しているという点、動きが極めて緩やかである点(ヒル類ならば、かなり活発に動き、また、これだけの大きさになると、ヒル類では頭部と尾部の大きさが異なって髪の毛のようには見えない)から、やはり前条で最初に出した、昆虫類に高い頻度で寄生する脱皮動物上門類線形動物門線形虫(ハリガネムシ)綱  Gordioidea の一種と同定出来ると考える。ウィキの「ハリガネムシ」によれば、『水生生物であるが、生活史の一部を昆虫類に寄生して過ごす』。『オスとメスが水の中でどのように相手を捜し当てるかは不明だが、雄雌が出会うと巻き付き合い、オスは二叉になった先端の内側にある孔から精泡(精子の詰まった囊)を出し、メスも先端を開いて精泡を吸い込み受精させる』。『メスは糸くずのような卵塊(受精卵の塊)を大量に生む』。一~二ヶ月『かけて卵から孵化した幼生は川底で蠢き、濾過摂食者の水生昆虫が取り込む。幼生は身体の先端に付いたノコギリで腸管の中を進み、腹の中で「シスト」の状態になる』。『水生昆虫のうち、カゲロウやユスリカなどの昆虫が羽化して陸に飛び、カマキリやカマドウマなどの陸上生物に捕食されると寄生し』、二 ~三ヶ月『の間に腹の中で成長する』。『また、寄生された昆虫は生殖機能を失う。成虫になったハリガネムシは宿主の脳にある種のタンパク質を注入し、宿主を操作して水に飛び込ませ、宿主の尻から脱出する』。『池や沼、流れの緩やかな川などの水中で自由生活し、交尾・産卵を行う』。『寄生生物より外に出る前に宿主が魚やカエルなどの捕食者に食べられた場合、捕食者のお腹の中で死んでしまう』『が、捕食者の外に出ることができるケースもある』。『カワゲラをはじめとする水生昆虫類から幼生および成体が見つかることがある。また、昆虫だけではなくイワナなどの魚の内臓に寄生する場合もある』とある(下線やぶちゃん。但し、タラは海産魚であり、ハリガネムシが寄生することはあり得ない。されば本条のそれは別の海産魚類に寄生する種の誤認である。後注参照)。ただ、本条では、この虫を「大毒ありて人をがい(害)するといふ」とし、後の例では近くにいた「人にも見せておそれ」合ったとして、「かゝればこの蟲は井の中にもあるものなれば、水はこして(濾して)用ふべきものなり」とまで危険動物として注意喚起をしている。しかし思うにこれは、その形状が隣国(現在の秋田・岩手)辺りで吸血するとして知られ、怖れられていた環形動物門ヒル綱顎ヒル目ヒルド科 Haemadipsa Haemadipsa zeylanica 亜種ヤマビル Haemadipsa zeylanica japonica を想起させ(私は似ているとは全く思わないが)、また、本書の「二の卷 四 怪蚘」に語られる人体寄生の寄生虫類(線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱回虫(カイチュウ)目回虫(カイチュウ)科回虫亜科カイチュウ属ヒトカイチュウ(ヒト回虫)Ascaris lumbricoides 等)によく似ている(これは色は別として似ていると言っても、まあ、よかろう)ことから、これらを一緒くたにして(特に後者と)、このハリガネムシが人体に寄生するそれらになると誤認したからではないかと考えるものである。

「長さ六七寸あるは八九寸」体長十八~二十一センチメートル、個体によっては二十四~二十七センチメートル程。

「大口魚(たら)の肉の中にもまゝあり」三字へのルビ。一般に青森で「タラ」と言った場合は、条鰭綱新鰭亜綱側棘鰭上目タラ目タラ科タラ亜科マダラ属マダラ Gadus microcephalus、或いはタラ亜科スケトウダラ属スケトウダラ Theragra chalcogramma を指すと考えてよかろう(本邦では他にはタラ亜科コマイ属コマイ Eleginus gracilis も広義の「タラ」に含まれるが、形状がやや異なり(前二種と異なり、下顎より上顎が前に突き出ており、下顎にある髭(ひげ)がごく短い)、当時、本種を一緒に認識していたとは私は思わない)。さて、タラ類に寄生するものとしては、かの、ヒトにアニサキス症を発症させる線形動物門双腺綱回虫目回虫上科アニサキス科アニサキス亜科 Anisakinae のアニサキス属 Anisakis やシュードテラノーバ属 Pseudoterranova などが知られるが、それだけでなく、実はタラの寄生虫は非常に多く、市販の切り身などでも完全除去は難しいとされるほど、多くの寄生虫が寄生している(タラ類のそれらは、「水産食品の寄生虫の検索データベース」のタラ類」を参照。但し、耐性のない方はタラが食えなくなることもあるので各項の「詳細」をクリックするのは自己責任で)。孰れにせよ、平尾が「タラ」を挙げていることによって、細長い虫を十把一絡げにして、全く異なる種を一緒くたに同一生物と考えていることはこれで判然とする。なお、ここで平尾はタラのそれを、「色赤く長さは三寸(九センチメートル)ばかり」と記しており、これはちょっと大き過ぎる(最大長でも四センチメートルほど)ものの、色はシュードテラノバ属シュードテラノーバ・ディシピエンス Pseudoterranova decipiens によく一致する

「心しろひ」「心知らふ」(気遣いする・注意する)の転訛した語が名詞化したものか。

「文政の年間(ころ)」一八一八年~一八三〇年。

「紺屋町の新割町」現在の弘前市紺屋町(こんやまち)ならばここ(グーグル・マップ・データ)で、ウィキの「紺屋町弘前市)によれば、ここの東部に明治初年に「紺屋町新割町」があったとある。なお、同ウィキに、この紺屋町は寺山修司の出生地とされている、とある。奇体な虫とテラヤマ、彼なら喜びそう!

「かわきたれば」咽喉が「渇きたれば」。

「飮けるに」「のみけるに」。]

諸國百物語卷之五 十五 伊勢津にて金の執心ひかり物となりし事

 

     十五 伊勢津にて金の執心ひかり物となりし事

 

 いせの津、家城(いへしろ)村と云ふ所にばけ物のすむ家ありて、三十年ほど、あき家となりて有り。そのむかし、此家のぬしふうふ、ともに、とんびやうにて、あひはて、子なかりしゆへ、あとたへたる家也。あるときは、ひかり物いで、又、あるときは、火もゆる事もあり、又、あるときは、男女(なんによ)のこゑにて、

「そちがわざよ」

「いや、そのはうのわざにて、かやうに、くるしみを、うくる」

などゝ、いふ事も有り。あるとき、京より、はたちばかりなる、こま物あき人、このざいしよへくだりけるが、所のもの、此ばけ物のはなしをしければ、かのあき人、

「それがし、こよい、まいりて、ばけ物、見とゞけん」

と云ふ。所のもの、

「むよう也。れきれきのさぶらひしうさへ、一夜、たまらずにげかへり給ふ」

と云ふ。かのあき人はふた親をもちけるが、かうかうなる人にて、をやをはぐくまんために、十一のとしより、はうばうと、かせぎあるきけれども、その身、まづしくて心のまゝならざりしが、物になれたる人なりければ、

「とかく此ばけもの、見とゞけ申さん。よの中に、心のほかに、ばけ物は、なきもの也」

とて、その夜、かの處にゆかれしが、あんのごとく、子の刻ばかりに、井のうちより、鞠ほどなる火、ふたつ、いでけるが、屋のうち、かゞやき、すさまじき事、云ふばかりなし。そのあとより、かしらにゆきをいたゞきたる老人ふうふ、いでゝ、かのあき人にいひけるは、

「われは此家のあるじなるが、あるとき、ふうふともに、とんびやうにてはてけるが、これなる井のうちに、おゝくの金銀をいれをきたり。此かねに、しうしんをのこしける故、うかみかね、六どうのちまたにまよふ事、すでに三十ねんにあまれり。この家にすむ人あらば、この事をかたりきかせ、あとをとぶらひもらはんとおもへども、おそれて、よりつく人もなし。御身は、心かうなる人、そのうへ、親にかうかうなる人なれば、このかねを御身にあたゆる也。よきやうに親をもはぐくみ、又、われをも、とぶらひ給はれ。來たる八月五日が三十三年にあたりて候ふ」

とて、かきけすやうに、うせにけり。あき人、よろこび、井のうちを見れば、金銀はかずもしれず有り。みな、ひきあげて、そのかねにて、その屋敷に寺をたて、僧をすへ、いとねんごろにとぶらひければ、そのゝちは、ひかり物もいでざりしと也。それより、あき人は此かねにて、ふた親のみやこにかへり、心のまゝにやしなひけると也。

「ひとへに、あき人、をやにかうかうなるゆへ也」

と、人みな、かんじけると也。

 

[やぶちゃん注:「そちがわざよ」の後には句点があるが、例外的に除去した。

「金」「かね」。金銭。

「いせの津、家城(いへしろ)村」正しくは「いへき」。現在の三重県津市白山町南家城(いえき)。(グーグル・マップ・データ)。

「此家のぬしふうふ」「この家の主夫婦」。

「とんびやう」「頓病」。急死・突然死に至る病いの総称。

「そちがわざよ」「お前のせいじゃが!」。

「いやそのはうのわざにてかやうにくるしみをうくる」「いんや! あんたがあんなことしたによって、かくも無惨に苦しみを受くることなったじゃ!」前の台詞を老人の、こちらを老妻のそれと私は、とる。

「こま物あき人」「小間物商人(あきんど)」。

「れきれきのさぶらひしう」「歷々の侍衆」。名立たる剛勇を誇るお武家衆。

「一夜、たまらず」一晩も経たぬうちに、あまりの恐ろしさに耐えきれず。

にげかへり給ふ」

「かうかうなる人」「孝行なる人」

「をやをはぐくまんために」「親(おや)育まんために」。歴史的仮名遣は誤り。

「はうばうと」「方々と」。

「物になれたる人なりければ」いろいろと苦しく辛い思いをしてそうした異常な事態には慣れていた人であったので。

「よの中に、心のほかに、ばけ物は、なきもの也」知られた「紫式部集」の二首を引いておく。

 

     繪に、物の怪のつきたる女の、

     みにくきかたかきたる後に、鬼

     になりたるもとの妻を、小法師

     のしばりたるかたかきて、男は

     經讀みて物の怪せめたるところ

     を見て

 亡き人にかごとをかけてわづらふもおのが心の鬼にやはあらぬ

 

     返し

 ことはりや君が心の闇なれば鬼の影とはしるく見ゆらむ

 

前書は、前妻(こなみ)の鬼女となった死霊(和歌より)、その「後妻(うわなり)打ち」に遇って醜く病み衰えた後妻、その霊を調伏している最中の僧を描いた絵を見て詠んだ歌の意であり、和歌の「かごと」は「託言」、「口実・言い訳・誤魔化し」の謂いである。調伏の呪法を乞うて施術させているのは、描写外の、というよりも、絵師の視点位置にいる夫であるから、実はこの一首の「心の鬼」(多くの評釈では「疑心暗鬼を生ず」の意で専ら解されているが、私はもっと強烈で輻輳し痙攣化したコンプレクス(心的複合)状況を指すと捉えている)を持っている「鬼」=「物の怪」とは「夫である男」であるのは言うまでもない。後の返歌は式部附きの女房のものであるが、この「君」は式部を指し、式部の中に人の知ることの出来ない、深い心の闇(トラウマ)が隠されているからこそ、そうした「人の心の産み出す、実は人の心からのみ生ずるものである、おぞましき鬼」がはっきりと見えるのですね、と応じているのである。

「子の刻」午前零時。

「かしらにゆきをいたゞきたる」白髪の形容。

「うかみかね」「浮かみ兼ね」。成仏することが出来ずにおり。

「六どうのちまたにまよふ」「六道の巷に迷ふ」。

「心かうなる人」「心剛なる人」。

「三十三年」三十三回忌。死の年から数えで、三十三年目(没後満三十二年目)には、仏教では、生前にどのような所業を行った者でもこの三十三回忌を終えることによって罪無き者とされ、成仏=極楽往生するともされる。そこで、三十三回忌をもって供養を終えるのが一般的なのである。

「ふた親のみやこにかへり」二親の健在にいます京の都へ帰って。]

2016/11/23

谷の響 四の卷 二 氷中の蟲

 

 二 氷中の蟲

 

 安政四丁巳の年の六月廿七日、己が少女(むすめ)雪を估ひて食ひたるが、その雪の中に蟲があるとて見せたるに、八九分ばかりの蟲の細き絹糸のこときなるが、さすがにかたき氷雪の中にありて、活動(はたらき)自在をなして氷面にとほれり。いと希しきものなれば茶碗に入れて置くに、少時(しばし)にして雪とけて水となるに、この蟲のびちゞみすることいとすくやかにしてしかも龍蛇の勢ひをなせり。色は少しくうすあかなれど、小さければ首尾も眼口も俱にあきらかならず。實(げ)に物の性の測るべからざること斯の如くなれば、雪に住める蠶、火に生れる鼠あるといふもむなしきことにはあらじかし。世の人自ら見ぬをもてうたがふべからず。

 

[やぶちゃん注:これはまず、昆虫類に高い頻度で寄生する虫として知られる、脱皮動物上門類線形動物門線形虫(ハリガネムシ)綱 Gordioidea の一種が疑われる。ウィキの「ハリガネムシ」によれば、『水生生物であるが、生活史の一部を昆虫類に寄生して過ご』し、『卵から孵化した幼生は川底で蠢き、濾過摂食者の水生昆虫が取り込む。幼生は身体の先端に付いたノコギリで腸管の中を進み、腹の中で「シスト」』(幼生が厚い膜を被って休眠状態に入ったような状態になることを指し、「被嚢」「嚢子」「包嚢」などと訳される)『の状態になる。「シスト」は自分で殻を作って休眠した状態』にあり、これだと摂氏マイナス三〇度の冷凍下でも死なない、とあり、さらに、『ヒトへの寄生例が数十例あるようだが、いずれも偶発的事象と見られている。ハリガネムシを手に乗せると、爪の間から体内に潜り込むと言われることがあるが、全くの俗説で、成虫があらためて寄生生活にはいることはない』とあり、仮に、誤飲したとしても危険度は低いと思われる。但し、吸血性の環形動物門ヒル綱顎ヒル目ヒルド科 Haemadipsa Haemadipsa zeylanica 亜種ヤマビル Haemadipsa zeylanica japonica の幼体の可能性も疑われる。同種は山地の森林に棲息し、特に湿潤な渓流沿いの苔の多いところなどに多数見られ、私も山でしばしば遭遇した(幸か不幸か、咬傷・吸血を受けたことはないが、引率していた山岳部の生徒が吸血されたことはある)。万一、ヤマビルを誤飲し、それを嚙み潰すことなく、口腔内で吸着されたりすれば、これは危険である。ただ、本種は分布域が岩手・秋田県以南の本州から四国、九州であり、本事例の現場はギリギリな感じはする。また、仮にこれがヤマビルであって、それを誤飲して嚥下した結果、体内で生き延び、吸血し続けることは考え難く、そのような事例も知られていないものと思われる。別に人体に寄生(主に鼻腔内)して長く生き延び、巨大化するまで寄生し続けることもままあるヒルド科 Dinobdella 属ハナビル Dinobdella ferox という厄介な人体寄生種がいるが、これは南方種で、本邦では奄美大島・九州南部・本州の一部に分布域が限られており、これは同定候補から外れる。なお、次の条の「三 水かけ蟲」も参照のこと。

「安政四丁巳の年の六月廿七日」安政四年は正しく「丁巳」(ひのとみ)。西暦一八五七年で、グレゴリオ暦では八月十六日(この年は前に閏五月があるため)。

「估ひて」「かひて」。以前の条に岩木山の雪渓の雪を採りに行き、雪崩(なだれて)て圧死する話が出た(「三の卷」の「三 壓死」)。市井で一般にも売られていたことがこれで判る。

「八九分」二・四~二・七センチメートル。

「雪に住める蠶」私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 雪蠶」の本文及び迂遠な注を参照されたい。

「火に生れる鼠」「竹取物語」でも馴染みであるが、ウィキの「火鼠」から引いておく。『中国に伝わる怪物の一種。火光獣(かこうじゅう)とも呼ばれる』。『南方の果ての火山の炎の中にある、不尽木(ふじんぼく)という燃え尽きない木の中に棲んでいるとされる。一説に、崑崙に棲むとも言われる』。『日本の江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では中国の『本草綱目』から引用し、中国西域および何息の火州(ひのしま)の山に、春夏に燃えて秋冬に消える野火があり、その中に生息すると述べられている』。体重は約二百五十キログラム(!)の大鼠で、毛の長さは五十センチメートルあり、絹糸よりも細いという。『火の中では身体が赤く、外に出ると白くなる。火の外に出ているときに水をかけると死んでしまうという』。『火鼠の毛から織って作った火浣布(かかんふ)は、火に燃えず、汚れても火に入れると真っ白になるという特別な布だったという』。この「火浣布」とは実際には、鉱物性繊維の「石綿」であると私も思う。「隋書西域志」によると、『史国に「火鼠毛」が産するという。史国とは昭武九姓の』一『つで、現在のウズベキスタンのシャフリサブスにあった都市国家である』。日本の「竹取物語」で、『かぐや姫が阿倍御主人に出した難題が「火鼠の皮衣(ひねずみのかはぎぬ、~のかはごろも)」である』が、「竹取物語」では、『火鼠の皮衣は天竺(インド)産であるとされている。「火鼠の皮衣、この国になき物なり」』と記す。このような生物は、無論、いない。平尾がこれを信じていたというのは、やや残念な気がする。]

谷の響 四の卷 一 蛙 かじか

 

谷のひゝき 四の卷

 

          弘府 平尾魯仙亮致著

  

 一 蛙 かじか

 

 中村澤目の溪中(さは)にある蛙は、山城の井手の蛙と同じものにて、常の蛙より小さく細く、色皂(くろ)くしてその聲の淸亮(すゞし)きことは蛙の聲とは聞えぬまでなり。往ぬる文政の年間(ころ)、御畫師今村氏御近習の人の命(おほせ)によりてこの中村の溪澗(さは)に至り、數百隻(ひき)を捕得て獻りしに、下久保なる御游館(ちやや)の池に放され、時々御成遊ばして聞かせ玉ひしが、漸々逃うせて三十日もたゝぬに一疋も居らずとなり。蛙は元地へ返るといふこと宜なり。さてこの蛙は、中村溪目の溪澗のうち、流れのいと淸き處に多く住めりと今村氏の語りしなり。

 因(ちなみ)にいふ、橘南溪が北窓瑣談といふ册子に、かじかといふもの近きころ人のまれまれにやしなひたのしむものなり。聲さやかにてこま鳥に似、ひろき座しきなとにおきてよきものなり。かたちはすこし蛙に似て色くろくやせたり。北山矢瀨の邊の谷川の流れ淸きところにすむとぞ。

 

  谷川にかしかなくなるゆふまくれこいし流るゝ水の落あひ

 

といふ古歌ありといふ。誰人の歌にやといへり。このかしかといへるものは、前件(くだり)なる蛙によく似たり。

 

[やぶちゃん注:和歌の前後は空けた。

「中村澤目」底本の森山泰太郎氏の補註に、『中村川(西津軽郡鯵ケ沢町の東を流れ、舞戸で日本海に注ぐ)に沿う山間地帯をいう。中村・横沢・芦苑』(あしや)『(いずれも鯵ケ沢町に属す)などが主な部落である』とある。現在は鯵ケ沢町の鯵ケ沢街道に沿った、それぞれ中村町・浜横沢町・芦苑町となっている。ここを拡大して南北に動かすとと、三つの町名が現認出来る(グーグル・マップ・データ)。

「山城の井手の蛙」底本の森山氏の補註に、『京都府綴喜』(つづき)『郡にある町。歌枕で、古来山吹の名所また蛙の鳴くことで詠まれている』とある。これは、両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri で、ここで西尾が記しているものも大きさ色から、同種に同定してよい。AKIRA OOYAGIカジカガエルの美声Japanese Stream Frog songで、その蛙とは思われぬ、何とも言えぬ美声が聴け、姿も確認出来る。既に「古今和歌集」で、

 

 かはづ鳴く井手の山吹散りにけり花の盛りにあはましものを 読人不知

 

と歌枕として「井手」の川辺の桜とともに詠まれ、小野小町の「小町集」でも、

 

 色も香もなつかしきかな蛙鳴く井手のわたりの山吹の花

 

などとあり、鴨長明の「無名抄」の第十七話の「井手の山吹、幷かはづ」の一節にも、

   *

井手のかはづと申すことこそ、樣(やう)あることにて侍れ。世の人の思ひて侍るは、『ただ蛙(かへる)をば、かはづといふぞ』と思ひて侍るめり。それも違ひ侍らず。されど、かはづと申す蛙は他にいづくに侍らず。ただ、この井手川にのみ侍るなり。色黑きやうにて、いと大きにもあらず。世の常の蛙のやうにして、現(あら)はに踊り步(あり)く事などもいと侍らず。常には水にのみ棲みて、夜更くるほどに、かれか鳴きたるは、いみじく心澄み、物あはれなる聲にてなん侍る。春夏のころ、必ずおはして聞き給へ」と申し侍りしかど、その後、とかくまぎれて、いまだ尋ね侍らず」となん語り侍りし。この事心にしみて、いみじく思え侍りしかど、かひなくて、三年(みとせ)にはなり侍りぬ。また、年長けては步びかなはずして、思ひながら、いまだかの聲を聞かず。かの登蓮(とうれん)が雨もよに急ぎ出でけんには、たとしへなくなん。

   *

と出る。文中の「登蓮」(?~養和元(一一八一)年?)平安後期の僧で歌人。「平家物語」によれば、もとは筑紫安楽寺の僧で、近江の阿弥陀寺に住んだ。俊恵の家で開かれた歌会歌林苑のメンバーとして知られる。

「文政の年間」一八一八年~一八三〇年。

「御畫師今村氏」弘前藩お抱え絵師で西尾が若き日(二十歳の頃)に学んだ今村慶寿か。

「獻り」「たてまつり」

「下久保」藩主がしばしば出向く以上、弘前圏内のはずだが、不詳。。

「游館(ちやや)」二字へのルビ。茶屋。

「橘南溪が北窓瑣談といふ册子」前に出た江戸後期の医師橘南谿(たちばななんけい 宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の遺著である文政一二(一八二九)年刊の随筆。その「卷之二」に以下の一章がある(吉川弘文館随筆大成版を参考に漢字を正字化して示し、和歌の前後は空けた)。

   *

一かじかといふもの、近き頃、人の稀々に養ひ樂しむものなり。聲さやかにて駒鳥に似、廣き座敷なとに飼置てよきものなり。形は小き蛙に似て、色黑く瘦たり。北山、矢瀨、小原(おはら)邊(へん)の谷川の流れ淸き所に住むとぞ。

 

   谷川にかじか鳴なるゆふまぐれ小石流るゝ水の落合

 

といふ古歌ありといふ。誰(たれびと)の歌にや。

   *

平尾も引く、この一首の出所。作者は不詳。識者の御教授を乞う。

「前件(くだり)」「まへくだり」。]

譚海 卷之二 圓光大師香合幷淀屋茶碗の事

 
圓光大師香合幷淀屋茶碗の事

○京都町人に若松屋宗甫と云(いふ)者、茶の湯を嗜み古器を翫(もてあそ)ぶあまり、圓光大師所持の香合(かうがふ)を求めえたり。螺鈿にて一箇浮身是何物と云(いふ)七字を蒔(まき)たる宋朝の名德の所持ゆへ、大師一生祕藏してもたれけるとぞ。其(その)價(あたひ)銀三拾六貫目なりとぞ。又大坂淀屋三郎右衞門所持に、淀屋五郎と云(いふ)茶わん有(あり)、是は豐臣太閤祕藏ありし器にて、數人に傳來し證狀明白にして無二の名器也。淀屋微祿せし後、此茶碗淨るり太夫豐竹島太夫金五百兩にて買得たり。さばかり名器成(なり)しかども、すいほうの手に落たるゆへ、已來(いらい)稱する人なし、價も又減じたりとぞ。

[やぶちゃん注:「圓光大師」法然の大師号。

「香合」香を入れる蓋つきの容器。木地・漆器・陶磁器などがある。茶道具及び仏具の一種でもある。

「淀屋」大坂で繁栄を極めた豪商の一族。全国の米相場の基準となる米市を設立し、大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へと発展するのに大きく寄与した商人である。米市以外にも様々な事業を手掛け、莫大な財産を築いたが、その財力が武家社会にも影響することとなったことから、主家は幕府より闕所(財産没収)処分にされている。後で「大坂淀屋三郎右衞門」と出るが、初代淀屋常安及び二代目淀屋言當(げんとう/ことやす)は孰れも通称を三郎右衛門と称した。参照したウィキの「淀屋」によれば、『闕所処分を受けたのは、その時期から』五代目淀屋廣當(よどやこうとう/ひろまさ 貞享元(一六八四)年?~享保二(一七一八)年)『の時代であったと考えられている』とあり、本「譚海」が寛政七(一七九五)年自序であることを考えると、「淀屋微祿せし後」(零落(おちぶ)れた後)と明記しているのを見ると、この「淀屋」と考えてよいようである

「若松屋宗甫」不詳。名は「そうほ」と読んでおく。

「一箇浮身是何物」「一箇の浮身(ふしん)、是れ、何物ぞ」。禅語であろう。「一箇のこの私という儚い肉体とは、恁麼(そもさん)、何物なるか?!」。

「名德」名僧。

「銀三拾六貫目」とある換算サイトの換算値で計算すると、現在の四千八百万円相当となった。

「淨るり太夫豐竹島太夫」先に示した本「譚海」の成立(寛政七(一七九五)年自序)から考えると、初代(生没年不詳:初代豊竹若太夫(後の豊竹越前少掾)の門弟で、享保二(一七一七)年に豊竹座に初出演、その後、亡くなるまで江戸で活動した)か?

「金五百兩」同前の換算値で四千万円。

「すいほう」「粋方」か(としも「すいはう」で歴史的仮名遣は誤り)。侠客。その手のやくざ者の謂いであろう。前の島太夫の手から、後に、そうした連中に渡ってしまった、ととっておく。

「稱する人」これは「賞する人」で褒める人の謂い。]

甲子夜話卷之三 6有德廟、大統を重んじ私親を顧み玉はざる事

3-6有德廟、大統を重んじ私親を顧み玉はざる事

德廟には御歷代の御忌日などは、至て重く御取扱ありて、御鷹など、其役の者遣ふこともならざりしとぞ。然るに享保十一年六月、淨圓院樣御逝去のとき、三十五日過させらるゝと、直に御鷹匠頭へ、御鷹仕込に組の者野先へ出すべしと仰出され、尤鷹の捕りたる雲雀差出すに及ばずとの命なりしとなり。大統を尊重し玉ひ、私親を顧み玉はざる盛慮かくの如の御事也。

■やぶちゃんの呟き

「有德廟」第八代将軍徳川吉宗。

「大統」「たいとう」ここは実質支配者であった徳川将軍の系統の意。

「私親」「ししん」と音読みしておく。プライベートな楽しみであろう。

「御歷代の御忌日」歴代の忌日は徳川家康が四月十七日第二代家忠は一月二十四日第三代家光は四月二十日第四代家綱は五月八日第五代綱吉は一月十日、第六代家宣は十月十四日、第七代家継は七月三日である。

「御鷹など、其役の者遣ふこともならざりしとぞ」言わずもがな、殺生を忌んで、である。

「享保十一年六月」西暦一七二六年で同旧暦六月は一日がグレゴリオ暦六月三十日である。

「淨圓院」(明暦元(一六五五)年~享保十一年六月九日(一七二六年七月八日)は、紀州藩第二代藩主徳川光貞の側室で徳川吉宗の生母(俗名は由利・紋)。

「三十五日」五七日忌で、忌明けの「七七日忌」四十九日で十四日ある。何故、待てなかったのかを私なりに考えると、彼の先代の将軍の忌日は正月に二回、四月に二回、五月に一回で、この六月に前に集中している。しかも浄円院の忌明けは旧暦の八月十日(グレゴリオ暦九月五日)以降となり、直にすぐ家宣の忌日十月十四日がきてしまう。そうでなくても諸政務の隙を縫って狩場に出て鷹狩をするのは、必ずしも容易なことではなかったのではあるまいか。さすれば、好きな鷹狩がこの年は二月か三月に一度出来たか、或いはそれが出来なかったとすれば、前年後期から実に半年以上、鷹を飛ばせなかった可能性もある。そうした我慢しきれない感じが「三十五日過」ぎという中途半端なところで、堪えきれずに出ちゃったという感じが私にはするのであるが、如何? 因みに鷹狩は家康が好んだが、綱吉の代の「生類憐れみの令」によって行われなくなり、元禄九(一六九六)年十月には幕府の職制上の「鷹匠」さえも廃職となっている。それを享保元(一七一六)年八月に、この吉宗がやっと復活させたのでもあったのである。

「直に」「ただちに」。

「御鷹匠頭」「たかじやうがしら」。定員二名で千石以上の旗本の世襲とされた。

「野先」「のづら」と訓じておく。

「尤」「もつとも」。

「鷹の捕りたる雲雀差出すに及ばず」やはり、忌中なれば、殺生戒を配慮したのである。

北條九代記 卷第十 惟康親王御家督 付 蒙古大元來歷

 

      ○惟康親王御家督  蒙古大元來歷

 

惟康(これやす)親王は、前將軍宗尊親王の御息(おんそく)、御母は近衞(このゑの)攝政太政大臣藤原兼經公の御娘(おんむすめ)宰子(さいこ)とぞ申しける。文永元年三月に御誕生あり。去ぬる文永三年六月二十三日、鎌倉騷動の時、宗尊親王、既に京都に歸上(かへりのぼ)らせ給ひ、若君は相摸守政村の亭に入り給ひしかば、時宗、政村が計(はからひ)とて、僅か三歳にならせ給ふ若君を取立(とりた)て參らせ、關東の柱礎(ちうそ)、鎌倉の君主とし、諸將諸侍、更に前代に相替らず、拜禮崇敬(はいらいそうきやう)して、仰ぎ奉る。同年七月二十四日、京都より勅書を下され、征東大將軍に任じ、從四位上に叙せられしかば、鎌倉の躰(てい)、安泰静謐になりて、上(かみ)齊(と〻のほ)り、下(しも)治(をさま)り、田畠(でんはた)登(みの)り、市店(してん)賑(にぎは)ひ、萬民(ばんみん)德風(とくふう)に歸し、四海逆浪(げきらう)の音なし。

この比(ころ)、異朝には北狄(ほくてき)の蒙古(もうこ)起り、中華を隨へて大元國(だいげんこく)と號す。抑(そもそも)、蒙古の祖先を尋ぬるに、一人の寡婦ありて、閑窓(かんそう)の内に起臥(おきふし)しける所に、夜每に光明ありて、その腹を照す。遂に感じて孕みつ〻、月盈ちて一乳(にう)に三子を生ず。中にも季子(きし)孛端義兒(ばいたんぎに)、聰惠利根(そうゑりこん)なり。子孫既に蕃滋(ばんじ)して一部となり、遼(れう)、金(きん)の世に至り、漸々、部族昌(さか)えて韃靼(だつたん)に從へり。也速該(やそがい)が時に及びて、塔々兒部(たつたつにぶ)の長に鐵木眞(てつぼくしん)といふ者あり。也速該、死して、世を取り、西夏を攻取(せめと)り、諸部を隨へ、自(みづから)、成吉思可汗(せいぎしかつかん)と名を改め、雲中、九原の地を犯奪(をかしうば)ふ。金の熙宗(きそう)皇帝の時、九十餘郡を攻伐(こうばつ)す。兩河(か)山東(さんとう)數千里の人民、殺さる〻もの、幾千萬とも數知らず。鐵木眞、既に大軍を以て燕京(えんけい)を亡(ほろぼ)し、高麗を降(かう)ぜしめて、六十六歳にして病死せり。即ち、廟を立てて太祖皇帝と號す。第三の子、窩濶台(くわかつたい)、その嗣(よつぎ)として、太宗皇帝と稱す。陜西(せんせい)、封丘(ほうきう)、汴城(べんじやう)を打隨(うちしたが)へ、遂に金國を攻滅(せめほろぼ)し、宋國、次(つい)で滅(めつ)す。その間(あひだ)、太宗、定宗、既に殂(そ)し、憲宗、位に卽(つ)き、その弟、忽必烈(こつびれつ)、相次(あひつい)で世を治め、是を世宗(せいそう)皇帝と稱す。この時、至元元年に都を燕京に立てて、國號を大元と云ふ。是乃(これすなはち)、大易(たいえき)、「大哉乾元(おほいなるかなけんげん)」の義に依りて名付けたる所なり。大元一統の世となりて、高麗國(かうらいこく)の王子倎(てん)、既に蒙古大元に隨ふ。是(これ)を案内として、この日本へ書簡を贈り、蒙古大元に隨ひ、貢物(みつぎもの)を奉るべき由を企(くはだて)しかども、高麗王、申しけるは、「日本は海路杳(はるか)に隔ちて、急速(きふそく)には通じ難し」とありければ、その事、止みにけり。

 

[やぶちゃん注:読み易くするために、特異的に後半の「蒙古大元來歷」を改行した。鍵括弧の位置(底本では「大易大哉乾元」となっている)を恣意的にずらした。湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、この部分は惟康親王の征夷大将軍就任が、「吾妻鏡」巻五十二の文永三(一二六六)年六月二十三日及び「将軍記」に依り、後半の蒙古の由来部分は「中朝歴代帝王譜」(七冊・寛永一九(一六四二)年林道春(羅山)跋・写本)及び「日本王代一覧」「五代帝王物語」に基づくされる。湯浅氏はここに注記されて、『『吾妻鏡』の記録は文永三年七月二十日で終わり、『北条九代記』では以下、『日本王代一覧』『将軍記』を主な拠りどころとする。しかし、典拠の明らかでない記述もあり、本話での蒙古の由来については『五代帝王物語』に蒙古国の成立までの簡単な説明があるが、『北条九代記』の方がより詳細である。蒙古の祖先季子(きし)孛端義児(ばいたんぎに)の出世譚については、『中朝歴代帝王譜』に「阿蘭、寡居、夢に白光、天窓より中に入る。化して金色の神人と為り、趨り来て榻に臥す。阿蘭、驚き覚め、遂に娠有り、一子を産む。即ち孛端又児也」(巻十二「孛端又児」)という同様の記述がある。また、蒙古が高麗国をとおして日本に書簡を送ろうとした件は『日本王代一覧』に拠る』と解析しておられる。

「惟康親王」(文永元(一二六四)年四月二十九日~嘉暦元(一三二六)年)は鎌倉幕府第七代征夷大将軍(征夷大将軍宣下は文永三(一二六六年)七月二十四日)。ウィキの「惟康親王より引いておく。『相模国鎌倉に生まれ』、『宗尊親王が廃されて京都に送還されたことに伴い』、数え三歳で『征夷大将軍に就任した。初めは親王宣下がなされず惟康王と呼ばれていたが、征夷大将軍に就任したのちに臣籍降下して源姓を賜与され、源惟康と名乗る(後嵯峨源氏)。今日では宮将軍の一人として惟康親王と呼ばれることが多いが、実は将軍在職期間の大半を源惟康すなわち源氏将軍で過ごしていた』。『これは、当時の蒙古襲来(元寇)という未曽有の事態に対する、執権・北条時宗による政策の一環であったとされ、時宗はかつての治承・寿永の乱あるいは承久の乱を先例として、将軍・源惟康を初代将軍・源頼朝になぞらえ、時宗自身は北条義時』の再来と自称する『ことで、御家人ら武士階級の力を結集して、元に勝利することを祈願したのだという』(下線やぶちゃん)。実際、弘安二(一二七九)年の正二位への昇叙や弘安一〇(一二八七)年の右近衛大将への惟康親王の任官は、『いずれも源頼朝を意識してのものであり、北条氏がその後見として幕府の政治を主導することによって、同氏による得宗専制の正統性を支える論理としても機能していた。特に源氏賜姓と正二位昇叙はいずれも時宗政権下で行われており、時宗が源氏将軍の復活を強く望んでいたことが窺える』。弘安七(一二八四)年に時宗は僅か満三十二歳で『死去するが、その後も安達泰盛や平頼綱が時宗の遺志を受け継ぎ、頼綱政権下の』同一〇(一二八七)年に『惟康は右近衛大将となって「源頼朝」の再現が図られた。しかし、わずか』三『ヶ月後に辞任し、将軍の親王化を目指す頼綱の意向によって、幕府の要請で皇籍に復帰して朝廷より親王宣下』(同年十月四日)『がなされ、惟康親王と名乗ることとなった』。『これは、北条氏(執権は北条貞時)が成人した惟康の長期在任を嫌い、後深草上皇の皇子である久明親王の就任を望み、惟康の追放の下準備を意図したものであったらしく』、惟康は二十六歳となった正応二(一二八九)年九月、将軍職を解任され、京に戻されてしまう。「とはずがたり」に『よれば、鎌倉追放の際、まだ親王が輿に乗らないうちから将軍御所は身分の低い武士たちに土足で破壊され、女房たちは泣いて右往左往するばかりであった。悪天候の中を筵で包んだ粗末な「網代の御輿にさかさまに」乗せられた親王は泣いていたという。その様子をつぶさに見ていた後深草院二条は、惟康親王が父の宗尊親王のように和歌を残すこともなかったことを悔やんでいる』とその悲哀を述べている。同年十二月に出家、三十七年後、享年六十三で亡くなった。

「宰子」既出既注。

「文永元年三月」前注の通り、「四月」の誤り。

「文永三年六月二十三日、鎌倉騷動の時、宗尊親王、既に京都に歸上(かへりのぼ)らせ給ひ」「六月二十三日」は以下に綴られる通り、惟康が北条政村亭に移された日時で、宗尊の鎌倉出立は七月四日、帰洛は同二十日である(この帰着が「吾妻鏡」最後の記事である)。

「この比(ころ)、異朝には北狄(ほくてき)の蒙古(もうこ)起り、中華を隨へて大元國(だいげんこく)と號す」元は一二六〇年にモンゴル帝国初代皇帝チンギス・カン(太祖)の孫でモンゴル帝国の第五代皇帝に即位したクビライ(フビライ)が一二七一年にモンゴル帝国の国号を大元と改めたことにより成立するので、「この頃」とは一二六〇年、本邦の文応元年頃と読める。

「一人の寡婦ありて、閑窓(かんそう)の内に起臥(おきふし)しける所に、夜每に光明ありて、その腹を照す。遂に感じて孕みつ〻、月盈ちて一乳(にう)に三子を生ず」ウィキの「チンギス・カン」によれば、『チンギス・カンの生まれたモンゴル部はウイグル可汗国の解体後、バイカル湖の方面から南下してきてモンゴル高原の北東部に広がり』、十一『世紀には君主(カン、ハン)を頂く有力な集団に成長した遊牧民であった』。『チンギス・カンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書『元朝秘史』によれば、その遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立ったボルテ・チノ(「蒼き狼、すなわち灰色斑模様の狼」の意)とその妻なるコアイ・マラル(「青白き鹿」の意)であるとされる。ボルテ・チノの』十一『代後の子孫ドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、その未亡人アラン・ゴアは天から使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま』三『人の息子を儲けた。チンギス・カンの所属するボルジギン氏の祖となるボドンチャルはその末子である』とある(下線やぶちゃん)。

「季子」末子。

「孛端義兒(ばいたんぎに)」前注のボドンチャル。

「聰惠利根(そうゑりこん)」聡明にして才気煥発であること。

「蕃滋(ばんじ)」子孫が繁栄すること。

「一部」強大な一部族。

「遼」九一六年から一一二五年にかけて内モンゴルを中心に中国北辺を支配したキタイ(契丹)人ヤリュート(耶律)氏の王朝。

「金」一一一五年から一二三四年にかけて中国北半を支配したジュルチン(女真)族の王朝。遼・北宋を滅ぼして西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は、初め、会寧(上京会寧府。現在の黒竜江省)、後に燕京(中都大興府。現在の北京)。

「韃靼(だつたん)」蒙古の別称。狭義にはモンゴル系部族の一つで、八世紀頃から東モンゴリアに現われ、後にモンゴル帝国に併合された。宋ではモンゴルを「黒韃靼」、トルコ系部族オングートを「白韃靼」と称し、ずっと後の明では滅亡後に北方に逃れた元の遺民を「韃靼」と称した。広義のそれは「タタール」と同義。

「也速該(やそがい)」イェスゲイ。ウィキの「イェスゲイ」によれば、『モンゴル帝国が広大な領域を支配する帝国に成長した後、チンギスから数えて第』五『代のカアンであるクビライは』、一二六六『年に中国の習慣により』、『初代皇帝チンギス・カンの父であるイェスゲイに「烈祖神元皇帝」と追諡』(ついし/おくりな)した。事蹟はリンク先を参照されたい。

「塔々兒部(たつたつにぶ)」教育社増淵勝一氏の現代語訳では『タタルーブ(蒙古の東)』と割注する。

「鐵木眞(てつぼくしん)」テムジン。チンギス・カンの本名。

「西夏」宋代の一〇三八年にチベット系タングート族拓跋(たくばつ)氏の李元昊(りげんこう)が中国北西部の甘粛・オルドス地方に建てた国。国号は「大夏」。都は興慶府で、宋・遼・金と和平と抗争を繰り返したが、一二二七年に蒙古のチンギス・カンに滅ぼされた。西夏文字を制定し、仏教を保護奨励したことで知られる。

「諸部」諸部族。

「成吉思可汗(せいぎしかつかん)」チンギス・カン。漢字表記は現行では「成吉思汗」。

「雲中」山西省大同市地方の古名。古来、北方の遊牧民族に対する拠点で、唐代にはここを「雲中県」と称し、「雲州」あるいは「雲中郡」の行政中心としたのを始まりとする。

「九原」現在の内モンゴル自治区バヤンノール市及び包頭市一帯の古名。

「金の熙宗(きそう)」(一一三五年~一一五〇年)は先の金の第三代皇帝。ウィキの「熙宗(金)」によれば、『奢侈に走って酒に溺れるなどの暴政を繰り広げたため』、『側近を仲間に引き入れた従弟の迪古乃(海陵王)によって殺害された』とある。

「兩河(か)」河南と河北。

「高麗」九一八年に王建が建国して朝鮮半島を統一、一三九二年まで続いた国家。首都は開京(後の開城。なお、「高麗」は朝鮮を表す「コリア」の語源である)。ウィキの「高麗によれば、一二五九年に当時の崔氏政権が『打倒され、高麗はモンゴル帝国に降伏、太子(王子)を人質としてモンゴル宮廷に差し出し、高麗王族がモンゴルの大カアンの侍衛組織であるケシクの要員に加わるようになっ』て、高麗国は『モンゴルの行中書省の征東等処行中書省に組み込まれ』た。『モンゴルはこれまでの契丹や女真と異なり、直接的な内政干渉をした。国内には多くのモンゴル軍人が駐留し、反発感情が生まれ』、一二七〇『年には「慈悲嶺」以北の広大な東寧路を奪われ、東寧府を置かれた。同年、崔氏を倒した林氏政権が滅んで武臣政権は終焉するが、モンゴル支配に抵抗する人々が三別抄の反乱を起こした。反乱者は属国だった耽羅島(済州島)の政権を滅ぼして徹底抗戦し、また、鎌倉幕府に救援を求め、共同してモンゴルを撃退するよう要請したが、文永の役直前の』一二七三『年には、日本派遣軍の司令官となる』忻都(きんと)や洪茶丘(こうさきゅう)『などが率いる派遣軍に鎮圧された。乱の鎮圧と共に、クビライは日本を服属させようと試みたが交渉は失敗し』、一二七四年と一二八一年に『二度の日本侵攻(元寇)を行った。このため旧高麗領の多くが、前線基地として兵站の補給と軍艦の建造を命令され、供出と日本侵略失敗により多大な負担を強いられた』。一方、「高麗史」には、『忠烈王がモンゴルに日本侵攻を働きかけたとの記述がある。忠烈王が自身の政治基盤強化のため、モンゴル軍を半島に留めさせ、その武力を後ろ盾とする目的であったと見られる』。忠烈王は『クビライの娘忽都魯掲里迷失(クトゥルク=ケルミシュ)』『と結婚してハーンの娘婿(駙馬、グレゲン)となった。初期には高麗王室も一定の影響力を保っていたが、次第に征東行省(第一次と第二次征東行省では高麗王は次官だったが、第三次では排除された)は高麗朝廷の人事にも関与する様になり、高麗領は元の支配下へ組み込まれた』。一二七八年以降は『一切の律令制定と発布はモンゴルの権限とされ』、その後の『王はモンゴルの宮廷で育ち、忠宣王は「益知礼普花」(イジリブカ)、忠粛王は「阿刺訥失里」(アラトトシリ)、忠恵王は「普塔失里」(ブダシリ)と、モンゴル風の名も持っていた。このような中で高麗貴族の間ではモンゴル文化が流行した』とある。

「六十六歳」チンギス・カンは一一六二年生まれで、一二二七年に亡くなっている。増淵氏はこれを六十一歳の誤りとされているが、不審。

「窩濶台(くわかつたい)」チンギス・カン三男で第二代モンゴル帝国皇帝オゴタイ(「オゴデイ」とも表記 一二二九年~一二四一年)。ウィキの「オゴデイ」によれば、彼にはジョチとチャガタイという二人の『有能な兄がいたが、ジョチは出生疑惑をめぐるチャガダイとの不和から、チャガタイは気性が激しすぎるところからチンギスから後継者として不適格と見なされていた。オゴデイは温厚で、一族の和をよくまとめる人物であったため、父から後継者として指名された』とある。

「陜西(せんせい)」現在の陝西省。中国のほぼ中央に位置し、秦の都咸陽、前漢及び唐の都長安があった。

「封丘(ほうきう)」現在の河南省新郷市封丘(ふうきゅう)県附近か。

「汴城(べんじやう)」現在の河南省東部ある開封(かいほう)市。中国でも最も歴史が古い都市の一つで、北宋の首都として栄え、十一世紀から十二世紀にかけては世界最大級の都市であった(ウィキの「開封市」に拠った)。

「宋國、次(つい)で滅(めつ)す」宋は趙匡胤(きょういん)が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した国で、現行の歴史では、金に華北を奪われて南遷した一一二七年以前を「北宋」、以後を「南宋」と呼び分けている。南宋は、一二七六年、モンゴル帝国第五代皇帝フビライ(オゴタイの弟ツライの子)の重臣で南宋討伐軍総司令官であったバヤン将軍に臨安を占領され、滅亡した。

「定宗」モンゴル帝国第三代皇帝グユク。オゴデイの長子。

「殂(そ)」皇帝が死ぬことを指す字。

「憲宗」モンゴル帝国第四代皇帝モンケ。チンギス・カンの四男トルイの長男。

「卽(つ)き」即位し。

「その弟、忽必烈(こつびれつ)」モンゴル帝国の第五代皇帝クビライ(一二一五年~一二九四年)。チンギス・カンの四男トルイの子で、モンケの同母弟。但し、兄モンケとは意見が合わず、南宋攻略に焦ったモンケが自ら出陣、陣中で疫病(赤痢)に罹って病死すると、モンケの子が幼かったためにクビライを含む三人の弟達の後継者抗争が起こったが、結果として彼が次期皇帝に地位を奪取し一二六〇年に即位した(その辺りはウィキの「クビライ」の「カアン位をめぐる争い」を参照されたい)。彼が日本への侵攻を企んだ。

「至元元年」一二六四年

「大易」「易経」。

「大哉乾元(おほいなるかなけんげん)」「易経」の冒頭の「乾」の孔子の作るところの「彖傳(たんでん)」の文に出る一節からの引用。

   *

彖曰、大哉乾元、萬物資始。乃統天。雲行雨施、品物流形。大明終始、六位時成。時乘六龍以御天。乾道變化、各正性命、保合大和、乃利貞。首出庶物、萬國咸寧。

(彖(たん)に曰く、大いなるかな、乾元、萬物、資(と)りて始む。乃ち、天を統(す)ぶ。雲、行き、雨、施し、品物(ひんぶつ)、形を流(し)く。大いに終始を明らかにすれば、六位時に成る。時に六(りく)龍に乘りて以つて天を御(ぎよ)す。乾道(けんだう)、變化し、各々性命(せいめい)を正)ただ)し、大和(たいわ)を保合す。乃ち、利貞なり。首(しゆ)として庶物(しよぶつ)に出でて、萬國、咸(ことごと)く寧(やす)し。)

   *

意味は、「天空の道! これ、なんと、大きいことか!」。なお、短い(正安四年十一月二十一日(ユリウス暦一三〇二年十二月十日から乾元二年八月五日(一三〇三年九月十六日)の正味九ヶ月)ので知らない人が多いが、本邦のこの後の鎌倉時代の元号「乾元(けんげん)」も同源である。

「王子倎(てん)」第二十四代高麗王であった元宗(一二一九年~一二七四年:在位:一二五九年~一二七四年)の初名。ウィキの「元宗高麗王によれば、『太子のときに高麗がモンゴルに服属したため、人質としてモンゴルに赴くことになるが』、一二五九年に『の高宗とモンゴル皇帝であったモンケが死去したため、帰国して即位した』。『その後、帝位争いの末に即位したクビライに臣従して、国王の権力強化と親モンゴル政策を採る』。『ところが、この親モンゴル政策に重臣はこぞって反発し、元宗は一時廃位されかけたが』、『モンゴルの力を借りて重臣たちの排除を図る。この時』、ここまで百年ほど続いてきた『高麗の武臣政権に終止符が打たれた』。一二七〇『年には反モンゴルの姿勢をとるゲリラ集団・三別抄の解散を図ったが、逆に三別抄は王の弱腰政策に怒り、高麗に対してまで反乱を起こさせることとなった。さらにはモンゴルから日本遠征の大規模負担を負わされて国民に重税を強いることとなるなど、失政を続け』、『文永の役直前に病死した』とある。

『是(これ)を案内として、この日本へ書簡を贈り、蒙古大元に隨ひ、貢物(みつぎもの)を奉るべき由を企(くはだて)しかども、高麗王、申しけるは、「日本は海路杳(はるか)に隔ちて、急速(きふそく)には通じ難し」とありければ、その事、止みにけり』この「高麗王」は前の元宋宗である。以下、ここまでの経緯とその後の状況をウィキの「元寇から引く。一二六四年(文永元年)、『アムール川下流域から樺太にかけて居住し、前年にモンゴル帝国に服属していたギリヤーク(ニヴフ)族のギレミ(吉里迷)がアイヌ族のクイ(骨嵬)の侵入をモンゴル帝国に訴えたため、モンゴル帝国がクイ(骨嵬)を攻撃し』ているが、『この渡海作戦はモンゴル帝国にとって元寇に先んじて、初めて渡海を伴う出兵であった』。以降、二十年『を経て、二度の日本出兵を経た後の』一二八四年(弘安七年)、元は『クイ(骨嵬)への攻撃を再開』、一二八五年(弘安八年)と一二八六年(弘安九年)には実に約一万人の『軍勢をクイ(骨嵬)に派遣している』(これは現在の日本人にはあまり知られているとは思われないので前後に下線を引いた)。『これらモンゴル帝国による樺太への渡海侵攻は、征服を目的としたものではなく、アイヌ側からのモンゴル帝国勢力圏への侵入を排除することが目的であったとする見解がある』。『この数度に亘る元軍による樺太への渡海侵攻の結果、アイヌは元軍により樺太から駆逐されたものとみられる』。『元は樺太の最南端に拠点としてクオフオ(果夥)を設置し、蝦夷地からのアイヌによる樺太侵入に備えた』。『以後、アイヌは樺太に散発的にしか侵入することができなくなった』。『なお、樺太最南端には、アイヌの施設であるチャシとは異なる方形土城として、土塁の遺構がある白主土城(しらぬしどじょう)があり、これがクオフオ(果夥)であったと思われる』。さて、『クビライが日本に使節を派遣する契機となったのは』、一二六五年(文永二年)、『高麗人であるモンゴル帝国の官吏・趙彝(ちょうい)等が日本との通交を進言したことが発端で』、『趙彝は「日本は高麗の隣国であり、典章(制度や法律)・政治に賛美するに足るものがあります。また、漢・唐の時代以来、或いは使いを派遣して中国と通じてきました」』『と述べたという。趙彝は日本に近い朝鮮半島南部の慶尚道咸安(かんあん)出身であったため、日本の情報を持っていたともいわれる』。そこで『クビライは趙彝の進言を受け入れ、早速日本へ使節を派遣することにした。なお、マルコ・ポーロの「東方見聞録」では、『日本は大洋(オケアノス)上の東の島国として紹介されており、クビライが日本へ関心を抱いたのは、以下のように日本の富のことを聞かされ』、『興味を持ったからだとしている』。『「サパング(ジパング、日本国)は東方の島で、大洋の中にある。大陸から』千五百マイル(約二千二百五十キロメートル)『離れた大きな島で、住民は肌の色が白く礼儀正しい。また、偶像崇拝者である。島では金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している。しかし大陸からあまりに離れているので、この島に向かう商人はほとんどおらず、そのため法外の量の金で溢れている。この島の君主の宮殿について、私は一つ驚くべきことを語っておこう。その宮殿は、ちょうど私たちキリスト教国の教会が鉛で屋根を葺くように、屋根がすべて純金で覆われているので、その価値はほとんど計り知れないほどである。床も』二ドワ(約四センチメートル)『の厚みのある金の板が敷きつめられ、窓もまた同様であるから、宮殿全体では、誰も想像することができないほどの並外れた富となる。また、この島には赤い鶏がたくさんいて、すこぶる美味である。多量の宝石も産する。さて、クビライ・カアンはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵を付けて派遣した。将軍の一人はアバタン(アラカン(阿剌罕))、もう一人はジョンサインチン(ファン・ウェン・フー、范文虎)といい、二人とも賢く勇敢であった。彼らはサルコン(泉州)とキンセー(杭州)の港から大洋に乗り出し、長い航海の末にこの島に至った。上陸するとすぐに平野と村落を占領したが、城や町は奪うことができなかった」』。『また、南宋遺臣の鄭思肖も「元賊は、その豊かさを聞き、(使節を派遣したものの)倭主が来臣しないのを怒り、土の民力をつくし、舟艦を用意して、これに往きて攻める」』『と述べており、クビライが日本の豊かさを聞いたことを日本招諭の発端としている』。『他方、クビライによる日本招諭は、対南宋攻略の一環であったという説もある。モンゴル帝国は海軍を十分に持っていなかったため、海上ルートを確保するためもあったという見解である』。但し、『クビライは日本へ使節を派遣するのと同時期に「朕、宋(南宋)と日本とを討たんと欲するのみ」』『と明言し、高麗の造船により軍船が整えば「或いは南宋、或いは日本、命に逆らえば征討す」』『と述べるなど、南宋征服と同様に日本征服を自らの悲願とする意志を表明している』。『クビライは使節の派遣を決定すると』、翌一二六六年(文永三年)『付で日本宛国書である「大蒙古國皇帝奉書」を作成させ、正使・兵部侍郎のヒズル(黒的)と副使・礼部侍郎の殷弘ら使節団を日本へ派遣』することとし、『使節団は高麗を経由して、そこから高麗人に日本へ案内させる予定であった』。同年十一月、『ヒズル(黒的)ら使節団は高麗に到着し、高麗国王・元宗に日本との仲介を命じ、高麗人の枢密院副使・宋君斐と侍御史・金賛らが案内役に任ぜられた』。『しかし、高麗側は、モンゴル帝国による日本侵攻の軍事費の負担を懼れていた』。『そのため、翌年、宋君斐ら高麗人は、ヒズル(黒的)ら使節団を朝鮮半島東南岸の巨済島まで案内すると、対馬をのぞみ、海の荒れ方を見せて航海が危険であること、貿易で知っている対馬の日本人は頑なで荒々しく礼儀を知らないことなどを理由に、日本への進出は利とならず、通使は不要であると訴えた』。『これを受けて使節は、高麗の官吏と共にクビライの下に帰朝した』。『しかし、報告を受けたクビライは予め「風浪の険阻を理由に引き返すことはないように」と日本側への国書の手交を高麗国王・元宗に厳命していたことや』、『元宗が「(クビライの)聖恩は天大にして、誓って功を立てて恩にむくいたい」と絶対的忠誠を誓っていながら、クビライの命令に反して使節団を日本へ渡海させなかったことに憤慨』、『怒ったクビライは、今度は高麗が自ら責任をもって日本へ使節を派遣するよう命じ、日本側から要領を得た返答を得てくることを元宗に約束させた』。『命令に逆らうことのできない元宗はこの命令に従い、元宗の側近』『らを日本へ派遣』せざるを得なくなるのであった。]

北條九代記 卷第十 宗尊親王御出家 付 薨去

 

      ○宗尊親王御出家  薨去

 

 將軍宗尊(そうそん)親王は、京都に還御ありけれども、關東幕府の職を止められ、非道邪曲の御行跡(ごかうせき)、重疊(ぢうでふ)し給ふ故なれば、後嵯峨上皇も、暫くは御對面の儀もおはしまさず。上皇よりの勅使として、中御門左少辨(させうべん)經任(つねたふ)を關東へ遣され、親王御上洛の御事を謝し給ふに、武家、別義、是なきに依(よつ)て、世の中、無事に治(をさま)りて、諸人安堵の思(おもひ)を致しけり。同年十月に、宗尊親王は、六波羅を出でて、承明門院の舊跡、土御門萬里小路(まてのこうぢ)の家に住み給ふ。幽(かすか)なる御有樣、往昔(そのかみ)にもあらず思召しけるが、同じき九年六月に御飾(おんかざり)を下(おろ)し給ふ。法名をば、覺惠(かくゑ)とぞ申し奉る。同十一年七月、御年三十三歳にして薨去し給ひけるとぞ聞えし。去ぬる建長四年より文永三年に到るまで、將軍の職十五年、一朝にして花散りて、威勢空(むなし)く地に落ちけるこそ、痛(いたは)しけれ。

 

[やぶちゃん注:「将軍記」「増鏡」七「北野の雪」(『東に、何事にか、煩しき事出できにたりとて、將軍 宗尊親王 七月八日、俄なるやうにて、御上りありけり。かねては、始めて御上りあらん時の儀式など、二なくめでたかるべき由をのみ聞きしに、思ひかけぬ程に、いとあやしき御有樣にて、御上りあり。御下りの折、六波羅の北の方に建てられたりし檜皮屋に、落ちつかせおはしましぬ。この頃、東に世の中おきてはからふ主は、相模の守時宗と、左京の権の大夫政村朝臣なり。時宗といふは、時賴朝臣の嫡子政村とは、ありし義時の四郎なり。京の南六波羅は、陸奥の守時茂、式部の大輔時輔とぞ聞ゆる』)「日本王代一覧」に基づく。なお、最後に再度述べておくが、本書では鎌倉幕府第六代征夷大将軍である宗尊親王(仁治三(一二四二)年~文永一一(一二七四)年:先の後嵯峨天皇第一皇子。母方の身分が低かったために皇位継承の望みはなかった。なお、彼は実は皇族で初めての征夷大将軍着任者であった)を一貫して「そうそん」と音読みし、現行の我々のように「むねたか」とは訓じていないが、前に述べた通り、音読みは本邦ではその人物への強い敬意を示すので、おかしくも何ともない。

「中御門左少辨(させうべん)經任」中御門経任(「つねただ」とも 天福元(一二三三)年~永仁五(一二九七)年)は後嵯峨上皇の有力な側近の一人で、若くして院の伝奏を務めた。参照したウィキの「中御門経任」によれば、弘長二(一二六二)年に左衛門権佐、『次いで右少弁も兼ねるが、当時の慣例では蔵人出身者が弁官に転じる順序であったところ、蔵人を経ずに直接右少弁に任ぜられたことから、当時の朝廷では、上皇の側近偏重人事であるとして物議を醸した』。なお、翌年には五位蔵人にも任ぜられて三事兼帯となっている。『その後も実務官僚として後嵯峨・亀山両院政で活躍し』、文永六(一二六九)年に『参議に昇進すると、その年から権中納言、従二位大宰権帥兼務と毎年のように昇進を重ねた』。建治三(一二七七)年、権大納言に昇進、弘安六(一二八三)年)に息子『為俊を右少弁に推挙して辞任し』ている。『彼の実務官僚としての才覚は抜群のものがあり』、弘安四(一二八一)年の『弘安の役直前という国家存亡の機に際しても、「敵国降伏」を祈念する勅使として伊勢神宮に派遣されている』。『ところが、その昇進の背景には後嵯峨上皇の寵愛とその後継者である亀山天皇の信任があったことでも分かるように、非常に強引なものであり』、『世間に多くの騒動を伴った。まず、左衛門権佐就任時には彼の異母兄・吉田経藤が官職を抜かされた屈辱から出家し、従二位叙位の際にも縁戚に当たる姉小路忠方が出世争いに敗れた衝撃からこれも出家、更に権大納言就任は四条隆顕(後深草院二条の叔父)を蹴落とす形であった』。さらに弘安九(一二八六)年に、『恩人である後嵯峨法皇が崩御した』が、『同じく寵臣であった北畠師親(親房の祖父)が出家したにもかかわらず、彼はそのまま官職に留まり続けたため、異母弟の吉田経長(経藤の同母弟)から糾弾を受けた』。しかも、『その翌年に伏見天皇が即位して後深草上皇が院政を始めると、これまで亀山上皇側近として後深草上皇らと対立関係であったにもかかわらず、上皇に召されて側近となっ』てさえいる。『当時、後嵯峨法皇崩御、皇統の移動(大覚寺統から持明院統)という事態に対して、出家もせず相手側陣営に奔った公卿達は少なくなく、むしろ大半がそうであった。だが、経任ほどの破格の寵愛を受けてきた人間までが平然とそうした振舞いに出た事(勿論、彼がそれだけ能力に長けていて、敵味方問わずに必要な人材であるという朝廷内の認識があったからであるが)に対する人々のやり切れない思いが経任への怒り・非難として向けられた』。しかし、この後、経任系中御門家は三代で没落、『代わって従兄弟の経継系統が主流となって明治維新まで続く』こととなった。後深草院二条が著した「とはずがたり」では、『経任に対しては誹謗中傷にも近い非難の言辞が書き連なられている。また歴史物語である』「増鏡」では弘安四(一二八一)年の『勅使の記事について、経任に随従した二条為氏が帰途の際に元軍敗退の報を聞いて詠んだとされている「勅として祈るしるしの神風によせくる浪はかつくだけつつ」という和歌の記事しか記載されていないが、一説にはこの歌は経任が詠んだにもかかわらず、忠義と愛国の情に満ちたこの歌を変節漢の経任が詠んだという事実そのものに不満を持つ』「増鏡」の著者自身の手に『よって著者を為氏にと書き改められたのではという説が』ある、とある。

「武家、別義、是なきに依(よつ)て」幕府征夷大将軍が空席になっているわけであるが、宗尊の子惟康(これやす)親王を擁している(但し、宗尊帰洛時で未だ満二歳)から、何ら、問題ないと応じているのである。

「承明門院」源在子(ありこ/ざいし 承安元(一一七一)年~正嘉元(一二五七)年)。後鳥羽天皇の妃で土御門天皇の生母。彼女は鎌倉時代史の中でも波乱に富んだ生涯を送った人物である。ウィキの「源在子」より引いておく。藤原顕憲(藤原盛実の子)の子能円と藤原範子との間に生まれ、『父の能円は平清盛の正室(継室)平時子の異父弟であった関係から平氏政権では法勝寺の執行に任ぜられている。母の範子は高倉天皇の第四皇子の尊成親王(後の後鳥羽天皇)の乳母を務めた』。寿永二(一一八三)年の『平家が西国に落ちた際に能円が平家に同行したため』、母『範子は源通親と再婚』、後に通親が在子を養女にしたことから、彼女は源氏姓を名乗っている。『村上源氏中院流出身の公家である通親は、平氏政権では平家と良好な関係を築き』、『着実にその地位を固めていた』。しかし、治承五(一一八一)年に『院政を敷いていた高倉上皇が崩御、続いて清盛が死去し、後白河法皇の院政が復活するとそれまで良好であった通親と平家の関係は微妙なものになっていく。平家が都落ちした際には通親は後白河法皇とともに比叡山に逃れ、平家と対決することになる。平家は安徳天皇を伴って都落ちしたため、後白河法皇の院宣により尊成親王が践祚した』。『その後、通親は在子の母の範子と結婚したが、範子は新帝後鳥羽天皇の乳母であるため、通親は新帝の乳母父の地位を得ることになった』。文治元(一一八五)年に平家が壇ノ浦で滅亡、建久元(一一九〇)年には後鳥羽天皇が元服、摂政九条兼実の娘九条任子が中宮となるが、通親は引き続いて、『白河法皇の側近として院政を支え』た。しかし、建久三(一一九二)年に『後白河法皇が崩御すると、前年に関白に転じていた兼実は源頼朝への征夷大将軍任命に賛成し、朝廷内では頼朝の支援を受けた兼実が実権を握りつつあった。通親にとって兼実は強力な政敵であった』。『この頃、通親の養女の在子は後鳥羽天皇の後宮に入っ』た。建久六(一一九五)年八月に兼実の娘の『中宮の任子が昇子内親王を出産』するが、一方で同年十二月に、在子も『為仁親王(後の土御門天皇)を出産』している。『将来、天皇の外祖父として実権を握る足掛かりを得た通親は』、『これを機に丹後局ら反兼実派の旧後白河側近と連携』、『兼実の失脚を謀』り、『兼実は関白の地位を追われ中宮任子は内裏から退出させられた(建久七年の政変)』。建久九(一一九八)年、後鳥羽天皇は為仁親王に譲位し、院政を敷いた。『新帝土御門天皇の外祖父である通親』(三年前に権大納言に昇任)は、『これを機に院庁別当を兼任することになった。在子は正治元』(一一九九)年に『従三位准三后に列せられ』、建仁二(一二〇二)年には院号宣下を受けて「承明門院」となった。『建久七年の政変で兼実を失脚させ、新帝の外祖父となった通親の権勢は揺るぎないものと思われたが、正治元』(一一九九)年には『兼実の子九条良経が左大臣に昇進し、正治』二(一二〇〇)年には『土御門天皇の弟の守成親王(後の順徳天皇、母は在子の母範子の父方の叔父藤原範季の女藤原重子(修明門院))が皇太弟とされた』。「愚管抄」によると、『在子は母範子が死去した後、養父である通親と密通したため、後鳥羽上皇は修明門院重子を寵愛するようになったとし、美福門院の例に似ており、上皇と重子の間には皇子も多く誕生したという』。『なお、「美福門院の例」とは『古事談』で述べられている崇徳天皇が鳥羽天皇の実子ではなく崇徳の母待賢門院が鳥羽の祖父白河法皇と密通してできた子であり、それを知った鳥羽が美福門院を寵愛するようになった話である』。『しかし、在子の母範子が死去したのは正治』二(一二〇〇)年で、重子が順徳天皇を生んだのは』、その三年前の建久八(一一九七)年であり、矛盾する。美川圭は「愚管抄」の『この記事について、後鳥羽が重子を寵愛するようになったのを在子の密通のせいにするのは著者慈円の曲筆と主張し』、また、この文面からは、あろうことか、『土御門の父が通親であるとも解釈できることを指摘している』(以上、下線やぶちゃん)。建仁二(一二〇二)年十月に通親は死去、承元四(一二一〇)年十一月に『後鳥羽上皇の意向により』、『土御門天皇が皇太弟守成親王に譲位』それを見届けたかのように、建暦元(一二一一)年十二月に在子は出家している。しかし、承久三(一二二一)年の承久の乱によって、『配流された後鳥羽・土御門の両上皇と生別。土御門上皇が承久の乱の前年に通親の孫娘通子との間に儲けた邦仁王(後の後嵯峨天皇)は在子の土御門殿で養育され』た。『承久の乱によって在子は実家が没落』、『苦しい生活を強いられ』ることとなったのである。しかし、後の仁治三(一二四二)年、『四条天皇の崩御により』、彼女の孫となる『邦仁王が践祚した。後半生は不遇であった在子であったが、晩年には孫の皇位継承を目の当たりにすることができた』のであった。享年八十七歳、この条の時制は文永三(一二六六)年であるから、在子は九年前に亡くなっている。

「土御門萬里小路(まてのこうぢ)」現在の京都府京都市下京区附近万里小路町附近(グーグル・マップ・データ)。

「幽(かすか)なる御有樣」ひっそりと隠棲なさっておられる御様子。

「九年六月」教育社の増淵氏の現代語訳割注によれば、「二月」の誤り。文永九年は西暦一二七二年。

「御飾(おんかざり)を下(おろ)し給ふ」落飾(出家)なされた。

法名をば、覺惠(かくゑ)とぞ申し奉る。

「建長四年」西暦一二五二年。

「將軍の職十五年」数えで数えている。]

諸國百物語卷之五 十四 栗田左衞門介が女ばう死して相撲を取りに來たる事

 

     十四 栗田左衞門介(くりたさへもんのすけ)が女(によ)ばう死して相撲(すもう)を取りに來たる事


Onnayuureisumou

 加州の御家中に栗田左衞門介とて、ちぎやう八百石とる侍あり。内儀は同じ家中のむすめにて、かくれもなきびじんなりしが、ろうがいをわづらひて、むなしくなりけるが、左衞門、ふかくかなしみて、かさねてつまをももたず、三年をすごしけるが、しんるい、よりあひ、しゐてつまをむかへさせければ、尾張より新田(につた)六郎兵衞とて五百石とりのむすめ、十七さいになるをよびむかへけるが、三十日もすぎて。左衞門、當番にて城へあがりける。内儀はこたつにあたりてねころびゐ給ふに、としのころ十八、九ばかりなる女らう、はだにはしろき小そで、うへにはそうかのこの小そでをきて、ねりのかづきにてまくらもとにきたり、

「そのはうさまは、なにとて、これには、ゐ給ふぞ」

と云ふ。内儀、おどろき、

「さやうにをゝせ候ふは、いかなる御かたぞ」

と、たづね給へば、

「われは此家のあるじにて候ふ」

と云ふ。内儀、きゝて、

「さやうの事もぞんじ候はで、ちかきころ、これへ、ゑんにつき參り候ふ。御はらだちは御尤にて候ふ。さりながら左衞門どのは、さぶらひともおぼへざる事にて候ふ。そのはうさまのやうなる、うつくしき女らうをもちながら、又ぞや、つまをかさね給ふ事、かへすがへすもくちをしく候ふ。明るさう天にかへり申さんとおもひ候へども、女の事にて候へば、しばしのうちは、心ゆるし候へ」

と、申されければ、

「いかにもゆるゆると御しまい候ひて御かへり候へ。さてさて、まんぞく申したり」

とて、かへられけるをみれば、かきけすやうに、うせにけり。さて、左衞もんは城よりかへりければ、内儀、

「われにはいとまを給はれ」

との給へば、

「にわかに、さやうにの給ふは、いかなる事にて候ふぞや。しさいをかたり給へ」

といへば、

「そのはうさまは、さぶらひにあひ申さぬ事の候ふ。本妻ありながら、又、われをよびむかへ給ふ事。さりとてはひきやう也。へんじもはやく、いとまを給はれ」

との給へば、左衞門、きゝて、

「これは、おもひもよらぬ事をおゝせ候ふものかな。はじめより申し入れ候ふごとく、三年いぜんに女にはなれてより此かた、そのはうよりほかに、つまとては、もち申さず」

とて、せいごんたてゝ申されける。そのとき、内儀、ゆふべかやうかやうの女らう、きたり給ふよし、のこらず、物がたりし給へば、左ゑもん、きゝて、

「さては、三年いぜんの、つまのゆうれいなるべし。べつのしさいは有るべからず。此うへは、われにいのちを給わるとおぼしめし、とゞまり給へ。いとまはいだし申すまじ」

と、いわれければ、内儀、ぜひなく、とゞまり給ひける。そのゝち、左ゑもんのるすの夜、またはじめの内儀、きたりて、

「さてさて、いぜん、かたく、やくそくなされ候ひて、今に御かへりなきこそ、うらめしく候ふ」

と申されければ、内儀、きゝ給ひ、

「そのはうさまは、今は此世にましまさぬ御身のよし。なにとて、さやうにしうしんふかく、まよい給ふぞ。とくとく、かへり給へ」

との給へば、はじめの内儀、申されけるは、

「ぜひぜひ御歸りなく候はゞ、相撲をとり候ひて、そのはう、まけ給はゞかへり給へ。それがしまけ候はゞ、かさねてまいるまじ」

と、いふよりはやく、とびかゝる。内儀も、こゝろへたり、とて、くみあひ、うへをしたへとかへす所へ、左ゑもん、かゑりければ、ゆうれいはきへて、うせにけり。そのゝち、左ゑもん、るすなれば、きたりて、すもふをとる事、五たび也。内儀はこれを物うき事に思ひ、しだひに、やせおとろへて、わずらいつき給へば、ほどなく、むなしくなり給ふ。今をかぎりのとき、左ゑもんに申されけるは、

「内々申しまいらせ候ふゆうれい、そのゝちたびたび出で給ひ、われをなやましけるを、おそろしくはおもひけれども、一たびいのちをたてまつらんと、けいやく申すうへは、ぜひなく思ひくらし、今、かく、あひはて申す也。ねんごろにあとをとぶらひ給ふべし。此しだい、われらがをやにかたり給ふな」

とて、つゐに、はかなくなり給ふ。左ゑもんはかなしみて、野べのおくりをいとなひつゝ、かきをき、したゝめ、内儀のおやにおくり、その身は出家し、しよこくしゆぎやうに出でけると也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「女のゆうれいすまふをとる事」(歴史的仮名遣は誤り)。

「栗田左衞門介」不詳。

「相撲」私も調べて驚いたが、ウィキの「相撲」によれば、「日本書紀」雄略天皇十三年(四六九年)には.『秋九月、雄略天皇が二人の采女(女官)に命じて褌を付けさせ、自らの事を豪語する工匠猪名部真根の目前で「相撲」をとらせたと書かれている。これは記録に見える最古の女相撲であり、これが記録上の「相撲」という文字の初出でもある』とある(下線やぶちゃん)。また、言わずもがな乍ら、『相撲は神事としての性格が不可分である。祭の際には、天下泰平・子孫繁栄・五穀豊穣・大漁等を願い、相撲を行なう神社も多い。そこでは、占いとしての意味も持つ場合もあり、二者のどちらが勝つかにより、五穀豊穣や豊漁を占う。そのため、勝負の多くは』一勝一敗『で決着するようになっている。和歌山県、愛媛県大三島の一人角力の神事を行っている神社では稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となるため常に負けるものなどもある。場合によっては、不作、不漁のおそれがある土地の力士に対しては、あえて勝ちを譲ることもある。また、土中の邪気を払う意味の儀礼である四股は重視され、神事相撲の多くではこの所作が重要視されている。陰陽道や神道の影響も受けて、所作は様式化されていった』ことは今、忘れられつつある。先般、旅した隠岐の島後(どうご)では今も土地の神事相撲が盛んであるが、そこでも最初は本気でやり、今一番は勝った力士が業と負けるという由緒正しき仕儀が守られているのである。ここで「後妻(うわなり)打ち」の如くに行われるそれも、そうした神事システムの文脈で考えるなら、相撲勝負を後妻が受諾した瞬間から、その掟に組み込まれてしまっており、後述するように後妻が生気を吸い取られて、死に至ることは既にして決していると読むべきであって、後妻が勝って大団円という図式は民俗社会ではありえないことに気づかねばならぬと私は思うのである。なお、ウィキの「女相撲」によれば、興行物としての「女相撲」の歴史は江戸中期の十八世紀中頃からの流行とあり、当初は事実、女同士の取り組みで『興行したが、美人が少なく』、『飽きられたため、男の盲人との取り組みを始めて評判になった。大関・関脇などのシステムは男の相撲に準じており、しこ名には「姥が里」「色気取」「玉の越(玉の輿の洒落)」「乳が張」「腹櫓(はらやぐら)」などの珍名がみられる』とし、『江戸時代中期、江戸両国で女性力士と座頭相撲の座頭力士(つまり男の盲人)とを取り組ませたとされ』、延享二(一七四五)年の「流行記」の「延享二年落首柳営役人評判謎」には『「一、曲淵越前守を見て女の角力ぢやといふ、その心は両国ではほめれど、一円力がない」との記述がある』とあり、大坂でも明和六(一七六九)年、『女相撲興行が始められ』、「世間化物気質」には『「力業を習ひし女郎も、同じ大坂難波新地に女子の角力興行の関に抱へられ、坂額といふ関取、三十日百五十両にて、先銀取れば」とあり、その人気が伺える』。また「孝行娘袖日記」の明和七(一七七〇)年版には、『「とても、かやうな儀は上方でなければ宜しうござりやせぬ。御聞及びの通り、近年女の相撲などさへ出来ましたる花の都」とある』という。『女性と盲人との相撲が江戸で評判となり、安永年間』(一七七二年~一七八一年)から寛政年間(一七八九年~一八〇一年)にかけて、『女相撲に取材した黄表紙、滑稽本が流行した。寛政年間には、羊と相撲をとらせる女相撲もおこなわれた』。『しかし安永の頃から女相撲の好色なひいきが申し合わせて興行人・世話人に金銭を与え、衆人環視の中で男女力士に醜態を演じさせることが再三あったため、寺社奉行から相撲小屋の取り払いを命じられることになった』。文政九(一八二六)年になると、『両国で女性と盲人との相撲が復活し』たものの、『女同士の相撲の興行については、興行者にも企図する者があったものの、その後の禁止で復活を果たせず、結局』、嘉永元(一八四八)年に『至り、名古屋上り女相撲の一団が大坂難波新地にて興行を復活させることになった。このときそれまで女力士が島田、丸髷姿であったものを男髷に改めた』。この興行は「大津絵節」で『「難波新地の溝の川、力女の花競べ、数々の盛んの人気、取結びたる名古屋帯、尾張の国から上り来て、お目見え芸の甚句節、打揃ひつつ拍子やう、姿なまめく手踊に引替へて、力争ふ勢ひの烈しさと優しさは、裏と表の四十八手」とうたわれるほどの人気となり、華美なまわしのしめこみと美声の甚句節手踊りが観客のこころをとらえ、幕末の興行界で異彩をはなった』とあるが、本「諸國百物語」は遙か以前の延宝五(一六七七)年の刊行であり、見世物として完成された、こうした「女相撲」の趣向の影響は認められない

「加州」加賀藩。

「ちぎやう」「知行」。

「かくれもなきびじん」「隱れもなき美人」。美人として広く世間で知れ渡っていることを指す。

「ろうがい」「労咳」。肺結核。

「しゐて」「強ひて」。歴史的仮名遣は誤り。

「新田六郎兵衞」不詳。

「こたつにあたりてねころびゐ給ふに」「炬燵にあたりて寢轉び居たまふに」。

「女らう」「女﨟」。高貴な婦人。

「はだにはしろき小そで、うへにはそうかのこの小そでをきて」「肌には白き小袖、上には總鹿子(そうかのこ)の小袖を着て」。「總鹿子」は布を小さく摘まんで括(くく)った絞り染め。全体に白い小さな丸が紋として表わされる。

「ねりのかづきにて」「練絹(ねり)の被(かづ)き」。「被き」は高貴な婦人がお忍びの際に顔を隠すためなどに上から被ることを専用とした着物のこと。

「そのはうさま」「其の方樣」。亡者といえど、生前、高貴な婦人なれば、言葉遣いが丁寧である点に注意。

「あるじ」女主人の意。直ちに栗田左衛門介の正妻を意味する。

「ゑんにつき參り候ふ」「緣に付き參り候ふ」。縁あって正式に栗田左衛門介に嫁入りして参った者にて御座いまする。

「はらだち」「腹立ち」。

「つまをかさね給ふ事」後妻の彼女に、夫が既に正妻があることを言わずに、しかも正妻として迎えた不届き(現在の重婚罪)を批判しているのである。

「明るさう天」「あくる早天(さうてん)」。この夜の終わって、明日の明け方早く。

「女の事にて候へば、しばしのうちは、心ゆるし候へ」夫に告げずに実家に戻る訳には行かぬから、暫しの猶予を求めたのである。

「御しまい候ひて」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、『持物道具などかたづけて』とある。

「まんぞく」「滿足」。

「さぶらひにあひ申さぬ事の候ふ」「侍に相ひ申さぬことのさふらふ」。侍らしからぬ、不届きなるところが御座いまする。

「ひきやう也」「卑怯なり」。

「へんじもはやく」「片時も早く」。一刻も早く。

「女にはなれて」先妻と死別して。

「せいごんたてゝ」「誓言立てて」神仏に誓って。

「べつのしさいは有るべからず」「別の子細はあるべからず」。「そなたが私の正妻としていることには何らの支障も、これ、あろう筈もない!」。

「さやうにしうしんふかく」「左樣に執心深く」。

「物うき事」(夫に秘めているが故に一層、)心にいとわしく切なく思い。夫に心配させるまいという遠慮から、先妻の幽霊と組んず解れつの修羅の相撲を取るという地獄を語らぬ、孤独なる苦悶なのである。笑いごとなどではなく、話柄は遂にカタストロフへと一気に進むのである。

「しだひに、やせおとろへて、わずらいつき」「次第(しだい)に、瘦せ衰へて、患ひつき」(複数箇所の歴史的仮名遣の誤りがある)。現代の精神医学なら、重度のノイローゼか、或いは統合失調症の初期幻覚とも見做せるが、陰気のみで出来た亡者と組み合うということは生きた人間としての陽気を確実に喪失していくことと同義であるから、民俗社会的にも腑には落ちる。

「一たびいのちをたてまつらんと、けいやく申すうへは」武士の妻として、である。

「いとなひつゝ」「營ひつつ」。「営みつつ」に同じい。葬儀を執り行いながら。

「かきをき、したゝめ」「書き置き、認め」。恐らくは妻の願いを破って、死に至った理由を具さにしたためたのであろう。彼女が語ることを禁じたのは、あくまで「武士」としての夫の名誉を守るためであったからである。しかしそれは今となっては無用なのであった。彼はこの直後に「出家し」、諸国修行に旅立ったからである。後妻の健気さは勿論ながら、先妻の妬心の執心に浅ましさはあるにしても、しかしどうしても先妻を憎む気には私はなれぬ。私は本話柄の全体に、ある種の哀感を禁じ得ないのである。]

2016/11/22

北條九代記 卷第十 鎌倉騷動 付 北條教時別心 竝 將軍家御歸洛

 

      ○鎌倉騷動  北條教時別心  將軍家御歸洛

 

中務(なかづかさ)大輔北條教時は、名越遠江守朝時の六男なり。北條家、繁榮して、一家一門とだにいへば、所領俸祿に預り、榮耀(ええう)に誇り、貴顯に至り、他門の輩(ともがら)は自(おのづから)、譜代相傳の忠義を運び、拜趨(はいすう)の禮を正しくす。將軍家、是を目覺しく思召し、如何にもして北條家を傾(かたぶ)け、御心の儘に世を治めばやと、企て給ひ、内々、諸人の心を挽(ひ)き見給ふ所に、教時、如何なる故にやありけん、將軍家に心を寄せ奉り、御前近く親(したし)み參らせ、密々の談話を致されけり。此事、既に、端(はし)、顯(あらは)れしかば、鎌倉中、騷動し、何とは知らず、大事出來りと云ふ沙汰して、近國の御家人、蜂の如くに起り、六月二十四日の早天(さうてん)より、鎌倉に競集(きそひあつま)り、寺社民屋に込入(こみい)り、猶、その外は居(ゐ)餘りて小路に馬を立て、辻々に塞充(ふせぎみ)ちたり。七月朔日に至りては、諸方の御家人等(ら)、兵具を帶(たい)し、旌(はた)を靡(なびか)し、關を破りて馳來り、又は間道を𢌞(まは)りて押集(おしあつま)る。夜畫の境もなく、引もちぎらず、皆、鎌倉に集りて雲霞の如し。何事と聞定(きゝさだ)めたるにはあらで、鎌倉の民俗、騷立(さはぎた)ちて、資財を取隱(とりかく)し、雜具(ざふぐ)を持運(もちはこ)び、男女、さまよひて、老いたる親、稚(いとけな)き子の手を引き、抱き抱へて山深く籠るもあり。舟に乘りて他國へ渡るもあり。武士は甲冑を帶して、東西に走違(はせちが)ひ、相摸守の門外に集り、又は政所の南の大路に馬を寄せて閧(とき)の音(こゑ)を擧げたり。何所(いづく)に敵ありとも知らず、誰人の逆心とも聞分(き〻わけ)たる方はなし。相摸守は少卿(せうけいの)入道蓮心、信濃〔の〕判官入道行一(ぎやういつ)を使者として、將軍家へ兩三度の往返(わうへん)あり。「か〻る騒動の候らん折節は、その以前の將軍家、何(いづれ)も先(まづ)、執權の亭へ入御し給ひて、世の中の變を窺はせ給ひて候。若(もし)、或は然るべき人々營中に參候(さんこう)して守護し奉りし例(ためし)も候。此度に於いては其儀なく、打顰(うちひそま)りておはしまし候御事は、憚(かゞかり)ながら、世の人、以て恠(あやし)み奉り候。急ぎ、此方(こなた)へ入御ましまして、世の有樣をも御覽ぜらるべき歟」と申遣(まうしつかは)されしかば、年月日比(ひごろ)御所に有りて朝(あした)に馴昵(なれむつ)び、夕(ゆふべ)に親しみ、諂(へつらひ)ける者共、色を失ひ、慄周章(ふるひあはて)て、我も我もと、御所を逃げ出でたり。周防(すはうの)判官忠景、信濃〔の〕三郎左衞門尉行章(ゆきあきら)、伊東刑部左衞門尉祐賴(すけより)、鎌田次郎左衞門尉行俊(ゆきとし)、澁谷左衞門次郎淸重等(ら)計(ばかり)こそ、御所中には居殘りけれ。歳(とし)寒しくて而(しかうし)て後に松栢(しようはく)の貞(てい)は知る、といへり。日比は媚諂(こびへつら)ひ、身に代り、命に替(かは)らんと申しける者共、皆、闕落(かけおち)して跡を隱し、行方なく散失(ちりう)せぬるも嗚呼(をこ)がまし。同四日、午刻(うまのこく)計(ばかり)に、「すはや、こと起り、軍(いくさ)、初(はじま)り亂れ立ちぬるぞや」と訇(の〻し)りて、鎌倉中の騷動、斜(な〻め)ならず、中務權大輔北條教時朝臣は、將軍家に心を寄せ奉り、甲胄の武士數十騎を率(そつ)して、藥師堂の谷の亭より懸(かけ)いでて、塔の辻の宿所に至り、鬨の聲を揚(あげ)しかば. その近隣、彌(いよいよ)、騷立ちて、ありとあらゆる軍兵共、鎧、腹卷(はらまき)、太刀、長刀よと犇(ひしめ)き、馬に打乘り、旌(はた)差上げ、東西南北に走𢌞(はしりめぐ)れども、誰人を大將として、何方へ押掛(おしか〻)るとも、更に見えたる事も、なし。逃惑(にげまど)ふ女、童(わらべ)の啼叫(なきさけ)ぶ聲、老いたる親の手を引きて、馬に蹴られじと落行(おちゆ)く者、又。その間に盗人(ぬすびと)有りて、物を奪取(うばひと)りて走行(はしりゆ)く。打伏(うちふ)せ、切倒(きりたふ)し、物の色目も見分かず。相摸守時宗、この由を聞きて、東郷八郎入道を遣して、教時へ仰越(おほせこ)されけるやう、「當家の事は、往昔(そのかみ)、遠州時政より草創して、神(しん)に通じ、天に契(かな)ひて、天下の執権、數代に傳(つたは)れり。泰時、時賴、相續して、正道の政治をいたす。驕(おご)れるを誡(いましめ)て直(なほき)に歸(き)し、德澤(とくたく)を四海に施して、仁義を萬姓(ばんせい)にす〻め、國家長久の謀(はかりごと)を逞(たくましく)して、上下安泰の道を專(もつぱら)とす。これに依つて、一門既にこの餘風に與(あづか)り、俸祿、その身に相應して、分際(ぶんざい)に從ひて榮耀(ええう)に誇れり。他門他家の輩、誰(たれ)か傾(かたぶ)け侍らん。然るに、將軍家、更に国家の政道に御心を掛けられず、和歌の道は本朝の風儀なれば、最(もつとも)稽古し給ふに足りぬべし。只、その隙(ひま)には蹴鞠(しうきく)、博棊(ばくぎ)を事とし、酒宴に長(ちやう)じ、女色(ぢよしき)に陷(おちい)り給ひ、諸人の憂(うれへ)を思召し知(しら)ず、威勢、輕忽(きやうこつ)にして、武德、磷(ひすろ)ぎ、令命(れいめい)、改變して、法式、猥(みだり)がはし。是(これ)を歎き參らせて、屢(しばしば)、諫言を奉れば、却(かへつ)て嘲哢貶挫(てうろうへんざ)し給ひ、益(ますます)、恣(ほしいま〻)なる事、天下の亂根(らんこん)に非ずや。猶、剩(あまつさ)へ佞奸(ねいかん)の不覺人(ふかくじん)を集め、北條の家門を滅(めつ)し、時宗が一族を亡(ほろぼ)さんとの御計(おんはからひ)、之(これ)、何の事ぞや。其(それ)に貴殿、心を寄せられ、非道の結構、頗る人外の所行と申すべし。獅子身中の蟲とは、か〻る事の喩(たとへ)ならんか。年來、時宗に遺恨の事も候はゞ、追(おつ)て如何にも承り、然るべき義に於いては、兎も角も、分別あるべし。此度(このたび)を幸(さいはひ)とし給はゞ、比興(ひきよう)の企(くはだて)、誰(たれ)か、心ある人、一味すべき。早く志を改めて、此方(こなた)へ来り給へ」と申し遣されしかば、中務大輔教時、大に恥しく、軈(やが)て東郷〔の〕入道に打連れて、相州の亭に参り、「全く野心を存ずるにあらず。若し、此一門に敵對すべき人もあるかと、引見(ひきみ)ん爲に、かくは振舞ひ候なり。枉(まげ)て御免を蒙り候はん」とて一紙の誓狀(せいじやう)を參らせらる。時宗は、是迄には及び候まじき者をとて、何の心を殘されたる色もなし。去程(さるほど)に、將軍宗尊親王は、同日の戊(いぬの)刻に女房の輿(こし)に召され、御所を出でて、越後入道勝圓(しようゑん)が佐介(さかいの)亭に入御し給ふ。北の門より赤橋を西に赴き、武藏大路を經て、京都に還上(かへりのぼ)らせ給ふ。相摸〔の〕七郎宗賴、同六郎政賴、遠江〔の〕前司時直、越前〔の〕前司時廣、彈正少弼(せうひつ)業時(なりとき)、駿河〔の〕式部大夫通時(みちとき)以下の武士都合十九人、雜兵(ざふひやう)、下部(しもべ)四百餘人供奉し奉り、同七月二十日には京都に著御(ちやくぎよ)あり。左近〔の〕夫夫將監時茂(ときもち)朝臣の六波羅の亭に入り給ふ。事柄、穩便の有樣、御痛(おいたは)しきまでにぞ見奉りける。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の巻五十二の文永三年六月二十三日・二十六日、七月一日・三日の記事、及び、湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、「日本王代一覧」「将軍記」に基づき、北条教時が宗尊親王の謀叛に加担していたという部分は「日本王代一覧」に拠り、本条は「吾妻鏡」に出る、時宗が教時の行状を諫めたという記事についても、『その諫言が宗尊親王の行状悪しきことや教時の行為を人外の所行とするものであったと具体的に』追加を加えている、とある。

「北條教時」「中務(なかづかさ)大輔北條教時」(嘉禎元(一二三五)年~文永九(一二七二)年)名越流の北条朝時(第二代執権北条義時次男)の子で、「名越(なごえ)教時」とも称した(古記録では姓の由来の鎌倉の地名の方の「名越」は「なごや」と読むことが多い)。母は北条時房の娘。康元(一二五六)年から文永二(一二六五)年まで引付衆、文永二(一二六五)年から死の年まで評定衆を務めている。北条得宗家への敵愾心が強くあり、文永九(一二七二)年に得宗家転覆を企てて謀反を起こすが、第八代執権となっていた時宗の討伐軍によって討ち取られた(二月騒動)。享年三十八で時宗より十六歳年上であった。彼は弘長三(一二六三)年一月に彼は中務権大輔となっている。

「別心」二心(ふたごころ)。背かんとする気持ち。

「北條家、繁榮して、一家一門とだにいへば、所領俸祿に預り、榮耀(ええう)に誇り、貴顯に至り、他門の輩(ともがら)は自(おのづから)、譜代相傳の忠義を運び、拜趨(はいすう)の禮を正しくす」この部分は広義の北条一族(得宗家ではない)の、幕府内に於ける一般的普遍的優先待遇を述べている。

「挽(ひ)き」慫慂して。

「寺社民屋に込入(こみい)り」寺社の境内地や民家の敷地内にまで入り込み。

「關を破りて」各地の関所には火急の事態に対処するための情報が行き渡らず、通過を制止しようとする防備の地侍の役人らと、「いざ鎌倉」の血気にはやった、より地方から馳せ参じた武士集団とが小競り合いを起こし、無法な関所破りも行われたということであろう。関所を守る方も、鎌倉に向かおうとする者らも、そもそもが鎌倉で何が起こりつつあるのか判らぬのだから、こうした周縁の現場が混乱するのは当然である。

「民俗」民草(たみぐさ)。

「相摸守」北条時宗。

「政所の南の大路」当時の幕府の南の大路となれば現在の若宮大路の二の鳥居附近と考えてよかろう。

「少卿(せうけいの)入道蓮心」武藤景頼(建仁四・元久元(一二〇四)年~文永四(一二六七)年)。評定衆。北条時宗の父時頼の得宗家に忠実な幕臣。時頼の死去に伴って出家し、「心蓮」(表示は錯字であろう)と号した。

「信濃〔の〕判官入道行一(ぎやういつ)」二階堂行忠(承久三(一二二一)年~正応三(一二九〇)年)は二階堂行盛の子で後の政所執事。娘は安達長景室。ウィキの「二階堂行忠」によれば、『政所執事は代々主に二階堂行盛の子孫が世襲している。最初は二階堂行泰が継ぎ、その後その子行頼、行実が政所執事を継ぐがそれぞれ早死にする。その後政所執事を継いだ行泰の弟の二階堂行綱の家でもその子頼綱が政所執事を継いで』二年後に『死去したため、政所執事の職には当時評定衆であったその叔父・行忠が』六十三歳『という高齢で就任することにな』ったとある。

「打顰(うちひそま)りておはしまし候御事は」ただただ、何事の御下知も渡御の意向も示されず、ひたすら、こと異様にひっそりと静まり返ってお籠り遊ばしておらるることは。

「慄周章(ふるひあはて)て」三字へのルビ。

「周防(すはうの)判官忠景」島津忠景(仁治二(一二四一)年~正安二(一三〇〇)年)。鎌倉幕府御家人で薩摩国知覧院(現在の鹿児島県南九州市)の地頭。ウィキの「島津忠景によれば、『学芸に優れ』、『宗尊親王の近臣として廂衆・門見参衆・御格子上下結番・昼番衆等の御所内番役に選ばれ』、『親王や二条為氏ら主催の和歌会・連歌会に度々列席し、『弘長歌合』では源親行と番えられ、これに勝っている』。『成熟期鎌倉歌壇における代表的な武家歌人と目される。そのためか』、『宗尊親王からの信任が非常に厚く』、「吾妻鏡」をみると、『親王の私的な行動にまで供奉しているのがしばしば見受けられ、兄・忠行はもとより本宗家の忠時・久経らと比較しても顕著な活躍を示しているのがわかる。蹴鞠にも造詣が深』、弘長三(一二六三)年には蹴鞠の『奉行にも選任され』ている。この親王更迭の翌年の十二月に叙爵し、『晩年は六波羅探題に転出し、京都で活動していたと推測される』とある。

「信濃〔の〕三郎左衞門尉行章(ゆきあきら)」二階堂行章(嘉禎元(一二三五)年~文永一一(一二七四)年)。「ゆきあき」とも。父二階堂行方は宗尊親王の御所中雑事奉行(或いは御所奉行)を勤めている。「吾妻鏡」には寛元二(一二四四)年から文永三(一二六六)年)まで、先の第五代将軍藤原頼嗣と、この第六代将軍宗尊親王の供奉・随兵の一人として名を連ねている。後の文永七(一二七〇)年に引付衆に列している。

「伊東刑部左衞門尉祐賴(すけより)」「曽我物語」で討たれた伊東祐経の後裔。この祐頼は木脇伊東氏を名のり、この後の元寇に際しては、伊東家からは当時、今の宮崎県日向の地にあった祐頼が出陣して活躍している。

「鎌田次郎左衞門尉行俊(ゆきとし)」詳細事蹟不祥。

「澁谷左衞門次郎淸重」詳細事蹟不祥。

「歳(とし)寒しくて而(しかうし)て後に松栢(しようはく)の貞(てい)は知る」「論語」子罕篇にある「子曰、歳寒、然後知松柏之後凋也」(子曰く、「歳寒くして、然る後に松柏の彫(しぼ)むに後(おく)るるを知るなり。」と)に基づく故事成句。「ひどく寒くなってきて初めて、松や柏(かしわ)が他の植物の葉が枯れ落ちる中、一向に枯れずにその生き生きとした緑葉を保っていることが判る」の意で、「火急の時に至って初めて人の真価が判る」ことを譬えた語。

「行方なく」「ゆくゑなく」と訓じておく。

「嗚呼(をこ)がまし」全く以って嘆かわしく馬鹿げたことである。

「午刻(うまのこく)」午後零時頃。

「藥師堂の谷」現在の覚園寺のある谷。

「塔の辻の宿所」現在の由比ガ浜通りの中間地点の鎌倉市笹目町であるが、覚園寺のある谷戸からは真反対の位置であるが、或いは騒擾を激化させることを目的として、幕府を突っ切って対角線上に移動した確信犯か。「宿所」とは幕府の警固のための番屋のようなものか。

「腹卷(はらまき)」鎧の一種で、胴を囲み、背中で引き合わせるようにした簡便なもの。

「長刀」「なぎなた」。

「東郷八郎入道」「吾妻鏡」には、ここにしか出ない人物で不詳であるが、ここでこの叛逆事件が、かくも収まったことを考えると、東郷八郎入道なる人物は時宗側近であると同時に、教時とも昵懇の間柄であったことが推定される。

「當家」ここは広義の得宗家に限らぬ北条家を指す。

「遠州時政」第一代鎌倉執権北条時政の官位は遠江守(正治二(一二〇〇)年四月一日叙任)。

「直(なほき)に歸(き)し」正道に戻させ。

「德澤(とくたく)」恵み。恩沢。御蔭。

「四海」本邦の国中。

「萬姓(ばんせい)」総ての臣民。

「餘風」時政の施した恩恵。

「分際(ぶんざい)」身分や地位。

「最(もつとも)」(貴人としては)言うまでもなく、何にも増して。

「足りぬべし」(その道を究めることは)貴人としての相応の意義は充分にあるであろう。

「博棊(ばくぎ)」博奕(ばくち)を目的とした将棋。

「諸人の憂(うれへ)を思召し知(しら)ず」民草の、公儀の政(まつりごと)が正常に行われていないことに対する深い心痛。

「威勢、輕忽(きやうこつ)にして」権威も軽るはずみで信ずるに足る重みもなく。

「磷(ひすろ)ぎ」底本頭注に『すれて薄くなり』とある。「磷」(音「リン」)は「流れる・薄い・薄らぐ」の意。

「令命(れいめい)」「命令」に同じい。

「法式」公的な儀式・礼儀などの規則。

「猥(みだり)がはし」すっかり乱れた状態に見受けられる。

「是(これ)を歎き參らせて、屢(しばしば)、諫言を奉れば」主語は直接の話者である時宗。

「嘲哢貶挫(てうろうへんざ)」嘲弄しつつ斥(しりぞ)け貶(けな)すこと。

「佞奸(ねいかん)」口先巧みに従順を装いながら、心の中は悪賢く、ねじけていること。

「不覺人(ふかくじん)」とんでもない不心得者。

「非道の結構」道理に外れた企み。

「獅子身中の蟲」元は仏教用語で、百獣の王とされる神獣獅子の体内に寄生し、遂には獅子を死に至らせる虫の意。仏徒でありながら、仏法に害をなす者の意。転じて、組織・集団の内部に居ながら、害をなす者や恩を仇(あだ)で返すような、破滅的元凶となる存在を指す。

「年來」「としごろ」。永年。

「然るべき義に於いては、兎も角も、分別あるべし」その内容が私にも得心出来るものであった場合には、どのようにでも貴殿の納得出来るよう、考えもし、処理も致そう。

「此度(このたび)を幸(さいはひ)とし給はゞ」今回の双方にとって心ならざる事態を、却ってよき方へと転じようとお思いになられるのであるならば。

「比興(ひきよう)の企(くはだて)」この場合の「比興」は「卑怯」に同じい。このようなつまらぬ、どう考えても不都合にして、正道から外れた卑怯な謀略。

「東郷〔の〕入道に打連れて」東郷の入道に導かれてともにうち連れて。

「相州」相模守北条時宗。

「此一門」広義の北条一族。

「引見(ひきみ)ん爲に」そうした叛逆を意図する悪しき輩(やから)の気をわざと惹いてみんがために。

「枉(まげ)て御免を蒙り候はん」「どうか、御勘気をお鎮め遊ばされて、お許し頂きとう、御座いまする。」。

「誓狀」神仏に誓った誓約の起請文。

「是迄には及び候まじき者をとて」「者」は漢字を当てただけで、詠嘆の主助詞「ものを」。そんな大それた誓文までお出しにならずともよいのに、の意。

「何の心を殘されたる色もなし」一向に勘気や、気にかけて疑う様子も、これ、なかった。

「去程(さるほど)に」そうこうしているうちに。意想外にも。

「戊(いぬの)刻」午後八時頃。

「女房の輿(こし)に召され」襲撃を畏れたことよりも、正式の輿を動かすに足る人員が逃げ出してしまったことによって、まるでいなかったことによるものであろう。

「越後入道勝圓(しようゑん)」初代連署北条時房の長男北条時盛(建久八(一一九七)年~建治三(一二七七)年)。因みに、彼も北条氏の内部抗争の結果、幕府内での有意な地位を追われていた人物であった。詳しくはウィキの「北条時盛」などを参照のこと。

「佐介(さかいの)亭」ルビはママ。佐助ヶ谷のことか。但し、そうすると、以下の御所退去は、その佐助ヶ谷への時盛邸へのルートとして相応しく、後にそこを帰洛ルートとするのは、やや解せない(結果としてはそうなるとしても、である)。あたかもそれでは、また、時盛邸から御所に戻って、改めて帰洛したかのように読めてしまうからである。「吾妻鏡」を読む限り、この時盛の佐助邸への移送が、御所を出た最後である。

「北の門」御所の北門。現在の鶴岡八幡宮の源氏池の外側やや南西にあったと思われる。

「赤橋」八幡宮の太鼓橋のこと。

「武藏大路」八幡宮前の向かって左側の通りの旧名。そこを突っ切ると、寿福寺の前に出、左折すれば佐助ヶ谷へ向かう。

「相摸〔の〕七郎宗賴」北条宗頼。北条時宗の異母弟。以下、幕閣側の護送役である北条一門の面々であるので詳細には注しない。

「同六郎政賴」北条政頼。前記の宗頼の兄。

「遠江〔の〕前司時直」北条時直。金沢流北条氏の祖金沢実泰の子である実時の子。彼は幕府滅亡直後に瀬戸内で降伏、罪を許されて本領を安堵されるたが、程なく病死している。生年は未詳であるが、推定では享年は百歳となる(以上はウィキの「北条時直に拠る)。

「越前〔の〕前司時廣」北条時広。北条時房次男北条時村の子。

「彈正少弼(せうひつ)業時(なりとき)」北条業時。連署であった北条重時の四男。

「駿河〔の〕式部大夫通時(みちとき)」北条通時。北条政村の子。

「左近〔の〕夫夫將監時茂(ときもち)朝臣」北条時茂北条重時の三男。

 

 以下、「吾妻鏡」の文永三(一二六六)年七月四日の条を抄出する。引用は、直前にある北条教時の騒擾(引用後に後述)の記事及び途中と後にある、佐介の亭を出て帰洛する将軍の供奉人等のリストを省略してある。

 

〇原文

四日甲午。申尅。雨降。今日午尅騷動。中務權大輔教時朝臣召具甲冑軍兵數十騎。自藥師堂谷亭。至塔辻宿所。依之其近隣彌以群動。相州以東郷八郎入道。令制中書之行粧給。无所于陳謝云々。

戌刻。將軍家入御越後入道勝圓佐介亭。被用女房輿。可有御皈洛之御出門云々。

供奉人(以下、中略)

路次。出御自北門。赤橋西行。經武藏大路。於彼橋前。奉向御輿於若宮方。暫有御祈念。及御詠歌云々。

供奉人(以下、中略)

〇やぶちゃんの書き下し文

四日甲午。申の尅、雨、降る。今日、午の尅、騷動す。中務權大輔教時朝臣、甲冑の軍兵數十騎を召し具し、藥師堂谷の亭より、塔の辻の宿所に至る。之れに依つて、其の近隣、彌々成(も)つて群動す。相州、東郷八郎入道を以つて、中書の行粧ぎやうさうを制せしめ給ふ。陳謝するに所無しと云々。

戌の刻、將軍家、越後入道勝圓が佐介(さすけ)の亭へ入御す。女房輿を用ゐらる。御歸洛有るべきの御出門と云々。

供奉人(以下、中略)

路次(ろし)は北門より出御、赤橋を西へ行き、武藏大路を經(ふ)。彼(か)の橋の前に於いて、御輿を若宮の方に向け奉り、暫く御祈念有りて、御詠歌に及ぶと云々。

供奉人(以下、中略)

 

なお、この時の宗尊親王の詠歌は、

 

 十年あまり五年までも住み馴れてなほ忘られぬ鎌倉の里

 

ともされる(但し、現在では本歌は、帰洛の際、藤沢の本蓮寺(モノレール目白山下駅近く)に泊った折りに詠まれたものとされている)。満十歳で鎌倉に迎えられ、青春時代を過ごした鎌倉、今、妻に裏切られ、社会的にも(既にして傀儡将軍ではあったが)お払い箱とされる二十四歳の彼の想いは、いかばかりであったろう……。]

譚海 卷之二 (天明五年八月御觸書に云……)

○天明五年八月御觸書に云、中國・西國筋是迄無支配盲僧共、靑蓮院宮御支配に相成候に付、武家陪臣の世悴盲人は盲僧に相成、右宮御支配に付候共、又は鍼治導引琴三味線等いたし、檢校支配に相成候共、勝手次第たるべく候。百姓町人の世悴盲人盲僧には不相成鍼治導引琴三味線等致し、檢校支配にて相成候。若内分にて寄親等いたし、盲僧に相成候儀は、決て不相成事に候。右の外百姓町人の世悴盲人にて、琴三味線鍼治導引を以渡世不ㇾ致、親の手前に罷在候のみのもの、幷武家への抱主人の屋敷人にて、主人の在所引越他所稼不ㇾ致分は、安永五申年相觸候通、制外可ㇾ爲事。右の通可相守旨、不ㇾ洩樣可相觸義、以上。

[やぶちゃん注:本条は最後に、底本が底本としたものには載らないとする編者注があり、従って標題がない。但し、前条「座頭仲間法式の事」と連関性があり、ほぼ完全な触書の引用という今迄にない特異点であることから、前条に関わって書かれたもの(或いは後のためのメモランダ)であることはまず間違いあるまい。今回は上記本文には一切、私の読みを加えず、以下でまず、全体を書き下し、通読し易くするために、そこで一部の漢字を平仮名化し、読みや記号、一部では助詞をも添え、改行も行った。我流のものであって誤読の可能性も多分にあるので注意されたい。

 

天明五年八月「御觸書(おふれがき)」に云はく、

中國・西國筋、是れまで支配無き盲僧ども、靑蓮院宮(しやうれんゐんのみや)御支配に相ひ成り候ふに付き、武家陪臣の世悴(せがれ)なる盲人は盲僧に相ひ成り、右宮御支配に付き候えども、又は鍼治・導引・琴・三味線等いたし、檢校支配に相ひ成り候えども、勝手次第たるべく候ふ。

百姓・町人の世悴(せがれ)なる盲人は、盲僧には相ひ成らず、鍼治・導引・琴・三味線等致し、檢校支配にて相ひ成り候ふ。

若(も)し内分(ないぶん)にて寄親(よりおや)等いたし、盲僧に相ひ成り候ふ儀は、決して相ひ成らざる事に候ふ。

右の外、百姓・町人の世悴(せがれ)なる盲人にて、琴・三味線・鍼治・導引を以つて渡世致さず、親の手前に罷り在り候ふのみのもの、幷びに、武家への抱へ・主人の屋敷人(やしきにん)にて、主人の在所引越の他所稼(よそかせぎ)致さざる分(ぶん)は、安永五申年、相ひ觸候ふ通り、制外と爲すべき事。

右の通り、相ひ守るべき旨、洩れざる樣(やう)相ひ觸るるべきの義、

   以上。

 

「天明五年」一七八五年。

「御觸書」一般向け成文法を指す。「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」のような支配階級向けの法令とは異なり、老中が将軍の裁可を受けて配下に下達し、必要に応じて一般に触れて書きとめさせて公布した。

「靑蓮院宮」青蓮院は現在の京都市東山区粟田口三条坊町にある天台宗の寺で延暦寺三門跡の一つ。視覚障碍者は前条注で示したように、幕府の統制政策によって「当道座」に繰り込まれて支配されていたが、視覚障碍を持った僧(盲僧)は各地の寺社と結びついて盲僧頭(がしら)の下に独自に仲間を組織し,小頭(こがしら)・平僧(ひらそう)などの身分を分かち、自律的に各種権利の相続や紛争処理を行っていた。ところがこの盲僧の縄張も当道座に侵食され始めたため、盲僧集団はそれに対抗するため、天明三(一七八三)年以降、この京都の青蓮院の支配下に入って組織を守ろうとした。

「導引」按摩。

「檢校支配に相ひ成り候えども、勝手次第たるべく候ふ」これは武家の視覚障碍者は僧になるならば、青蓮院支配の、記されたような「当道座」系の諸技芸を生業とするならば、検校(当道座)支配の、その孰れに入っても構わない、と読める。

「内分」内々に。

「寄親」「寄子(よりこ)」とともに身元保証のため、仮の親子関係を結ぶ制度。身元を引き受ける主人や有力者を「寄親」、被保護者を「寄子」と称した。ここは百姓・町人がこの制度を用いて武家身分を詐称し、盲僧となることを厳に禁じているのであろう。

「親の手前に罷り在り候ふのみのもの」親の保護のみを受けて生活し、自らは職を持たぬ者。

「武家への抱へ・主人の屋敷人にて、主人の在所引越の他所稼致さざる分」武家お抱えの使用人、或いは、武家の主人の屋敷内専属の技芸者として雇われ、主人の実家や移転先などに於いて、屋敷から外に出て諸技芸を以って稼ぎをしない(外部でのアルバイトをしない)場合に於いては。「他所稼(よそかせぎ)」の訓読は自信がないが、意味は一応、通ると思う。

「安永五申年」一七七六年。

「制外と爲すべき事」この百姓・町人の視覚障碍者の子の禁制からは除外し、許可する、という謂いであろう。]

甲子夜話卷之三 5 福岡侯藏、明帝の畫

 

3-5 福岡侯藏、明帝の畫

林氏云ふ。福岡侯の招にて行たりしとき、小坐敷の床に掛たる横披の小幅、明帝の畫にて、殊に見事なり。狗子大小二つを繪き、幅上の中央に、

 

Minteirakkan

 

かく落款せり。珍らしく覺へしと語りき。

■やぶちゃんの呟き

 底本の「甲子夜話」最初の挿画(底本よりトリミングして掲げた)。以下に画像の記載文字を電子化しておく。

 

 御筆     印文ハ廣運之宝トアリ

  宣德丙午

        此六字御筆ト見へタリ。

 

●「宣德丙午」「宣德」は明朝の第五代皇帝宣徳帝(一三九九年~一四三五年:在位:一四二五年六月~一四三五年:諱・瞻基(せんき)/廟号・宣宗)の治世最後の元号で、「宣德丙午」は宣徳元年、ユリウス暦一四二六年に相当する。

●「廣運之宝」は中国皇帝が使うものとして代々伝わる伝統的な印の一つ。サイト「考古学用語辞典」ので印の外形と印形(いんぎょう)を視認出来る。そこには画像の解説文があり、サイズが示された上で、本来の使用法は『称号や地位を与える時に認証を行うもの』とある。ここではそれを祝賀の子犬の絵の落款として使用しているらしい。或いは、そうした官位称号を与えた際の添え物として明帝が絵をも認めたものかも知れぬ。

 

「福岡侯」静山の同時代とすると、筑前国福岡藩第十代藩主で蘭癖大名の一人として知られる黒田斉清(なりきよ 寛政七(一七九五)年~嘉永四(一八五一)年)か。

「林氏」複数既出既注であるが、巻三の初出なので再掲する。儒学者林大学頭(だいがくのかみ:昌平坂学問所長官。元禄四(一六九一)年に第四代林信篤(鳳岡(ほうこう))が任命されて以来、代々林家が世襲した)述斎(はやし じゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。羅山を始祖とする林家(りんけ)第八代当主。父は美濃国岩村藩主松平乗薀(のりもり)。述斎は号の一つ。晩年は「大内記」と称した。ウィキの「林述斎によれば、寛政五(一七九三)年に林家第七代『林錦峯の養子となって林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する。文化年間における朝鮮通信使の応接を対馬国で行う聘礼の改革にもかかわった。柴野栗山・古賀精里・尾藤二洲(寛政の三博士)らとともに儒学の教学の刷新にも力を尽くし、昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化を推進した(寛政の改革)』。『述斎の学問は、朱子学を基礎としつつも清朝の考証学に関心を示し、『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうもんほうこう)』『新編武蔵風土記稿』など幕府の編纂事業を主導した。和漢の詩才にすぐれ、歌集『家園漫吟』などがある。中国で散逸した漢籍(佚存書)を集めた『佚存叢書』は中国国内でも評価が高い。別荘に錫秋園(小石川)・賜春園(谷中)を持つ。岩村藩時代に「百姓身持之覚書」を発見し、幕府の「慶安御触書」として出版した』とある。松浦静山に本「甲子夜話」の執筆を勧めたのは、親しかったこの林述斎であった。静山より八つ年下。

「横披」「よこびらき」。

「狗子」「いぬのこ」。

「繪き」「ゑがき」。

甲子夜話卷之三 4 松平乘邑の爲人幷有德廟老臣の威權を助け玉ふ事


3-4 松平乘邑の爲人有德廟老臣の威權を助け玉ふ事

乘邑は剛毅の資質なり。御用部屋にて認物をして居らるゝとき、御取次衆來り、御用のこと候。參らるべしと申せども、返答なく、やはり認物をする故、又押返し、御用にて召され候と云へば、そのとき、我等も御用にて認物を爲て居り候、と申せしとなり。當時御取次衆大に悍ることなりしと也。日日出仕の後、御取次衆御用部屋の入口にて、坊主に、例の笑は出候やと問、例の如く高笑出候と云へば、即入りて御用を申傳ふ。又今朝は未だ笑出申さずと云へば、其儘戾りて、御用部屋へは入らざりしとなり。此人笑癖ありて、常々高聲に笑ふことなりしとなり。御取次衆などの悍るかくの如し。又德廟にも、御取次衆へ、この事かの事、左近承知するかすまじきか、先試に申て見るべしと御諚あることあり。御取次衆御用部屋に來りてその事を云へば、御無用然るべしと云こと折々あり。夫より御取次衆、御前へ出て申上れば、そりや見たことか、それならよしにせよと御諚ありしとなり。これわざと老臣の威權を助けらるゝ御深慮なるべし。誠に君德の大なること、百載の後に聞て仰感に堪へず。

■やぶちゃんの呟き

「松平乘邑」老中松平乗邑(のりさと 貞享三(一六八六)年~延享三(一七四六)年)。複数既出既注乍ら、本巻初出なれば、再掲しておく。肥前唐津藩第三代藩主・志摩鳥羽藩主・伊勢亀山藩主・山城淀藩主・下総佐倉藩初代藩主。ウィキの「松平乗邑」によれば、元禄三(一六九〇)年、『藩主であった父乗春の死により家督を相続』正徳元(一七一一)年には『近江守山において朝鮮通信使の接待を行って』おり、早くも満三十七歳の享保八(一七二三)年には『老中となり、下総佐倉に転封とな』った。これ以後、足掛け二十年余りに亙って『徳川吉宗の享保の改革を推進し、足高の制の提言や勘定奉行の神尾春央とともに年貢の増徴や大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集である公事方御定書の制定、幕府成立依頼の諸法令の集成である御触書集成、太閤検地以来の幕府の手による検地の実施などを行った』。『水野忠之が老中を辞任したあとは老中首座となり、後期の享保の改革をリード』、元文二(一七三七)年には勝手掛老中となっている。『当時は吉宗が御側御用取次を取次として老中合議制を骨抜きにして将軍専制の政治を行っていた。『大岡日記』によると』元文三(一七三八)年、『大岡忠相配下の上坂安左衛門代官所による栗の植林を』三年に『渡って実施する件に』就き、七月末日に『御用御側取次の加納久通より許可が出たため、大岡が』八月十日に『勝手掛老中の乗邑に出費の決裁を求めたが、乗邑は「聞いていないので書類は受け取れない」と処理を一時断っている。この対応は例外的であり、当時は御側御用取次が実務官僚の奉行などと直接調整を行って政策を決定していたため、この事例は乗邑による、老中軽視の政治に対するささやかな抵抗と見られている』。『主要な譜代大名家の酒井忠恭が老中に就くと、忠恭が老中首座とされ、次席に外』され、また乗邑は『将軍後継には吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしたが、長男の家重が後継となったため、家重から疎んじられるようになり』、延享二(一七四五)年の家重の第九代将軍就任直後に老中は解任、加増一万石を没収された上、『隠居を命じられる。次男の乗祐に家督相続は許されたが、間もなく出羽山形に転封を命じられ』ている。享年六十一。ともかくも徳川綱吉・家宣・家継・吉宗・家重と五代に亙る将軍に仕えた長老であった。

「爲人」「人と爲り」「ひととなり」。性格。

「有德廟」徳川吉宗。

「御用部屋」江戸城内で大老・老中・若年寄が詰めて政務を執った部屋。ここで幕政の決議が行われた。当初は将軍の居室に近い「中の間」であったが、綱吉の治世の貞享元(一六八四)年八月に若年寄稲葉正休(まさやす)による大老堀田正俊刺殺事件が起きてからは、将軍の居室からは遠いところに移された。

「認物」「したためもの」。公文書の製作。

「御取次衆」将軍の取次としては将軍近習の「側衆」があり、幕府初期には将軍の意向を背景に大きな権力を持つ場合もあったが、後には老中合議制が形成されて将軍専制が弱まると、実権も弱まった。以後の側衆の役割は将軍の身の回りの世話などをする存在となったが、五代将軍徳川綱吉の時代には老中と将軍の間を取次ぐ「側用人」が設置され、ここではそれを指す(乗邑の老中就任は綱吉の治世)。吉宗の治世には一時、廃止されたが、「御側御用取次」が同じ役割を果たしている(ここはウィキの「取次歴史学に拠った)。

「悍る」「はばかる」。「憚る」と同義。ことさらに気を使い、畏れ敬して遠慮をした。

「御取次衆御用部屋の入口にて」「御取次衆」が「御用部屋の入口にて」。

「坊主」茶坊主。特にここではその中でも老中の身の回りの世話を担当した奥坊主を指す。

「笑」「わらひ」。

「出候や」「いでさふらふや」。

「問」「とひ」。

「即」「すなはち」。

「申傳ふ」「まうしつたふ」。

「左近」乗邑。彼の官位は左近衛将監(さこんえしょうげん)。

「先試に申て」「まづこころみにまうして」。

「御諚」「ごぢやう(ごじょう)」。仰せ。

「御無用然るべし」「その儀はなさらぬが御肝要と存ずる。」。

「そりや見たことか、それならよしにせよ」暴れん坊将軍吉宗のナマの肉声が聴こえてくる、いいシーンではないか。

「わざと老臣の威權を助けらるゝ御深慮なるべし」あえて老臣の威厳を保たれんとする名君吉宗公の御深慮であったに違いない。

「百載の後」百年の後。「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年で、百年前は和暦で享保六年、吉宗の将軍就任は享保元(一七一六)年である(将軍職を長男家重に譲ったのは延享二(一七四五)年)。

「仰」「おほせ」。

諸國百物語卷之五 十三 丹波の國さいき村に生きながら鬼になりし人の事

 

     十三 丹波の國さいき村に生きながら鬼になりし人の事

Ikioni


 丹波の國さいき村と云ふ所に、あさゆふ、まづしきものあり。をやにかうかう第一なる人なりしが、あるとき、たきゞをとりに山へゆかれしに、をりふし、のどかわきければ、谷にをりて水をのまんとて、水中を見ければ、大きなる牛のよこたをれたるやうなる物あり。ふしぎに思ひ、よくよく見れば、ねんねん、山よりながれをちてかたまりたる、うるし也。是れ、ひとへに天のあたへ、とおもひて、此漆をとりにかよひ、ひだと京へもち行きうりければ、ほどなく、大ぶげんしやとなりにける。此となりに、大あくしやうなるものありけるが、此事をつたへきゝ、いかにもしてかのものゝ此所に來たらぬやうにして、わればかり、とらん、とたくみて、大きなる馬(ば)めんをかぶり、しやぐまをきて、鬼のすがたとなり、水のそこに入り。かのものをまちければ、いつものごとく、かのもの、うるしをとりに來たりて、みれば、水のそこに、鬼あり。おそろしくおもひて、にげさりぬ。かのあくしやうもの、しすましたり、とよろこび、水のうちよりいでんとすれども、うごかれず。そのなりにてしにけると也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「丹はの國生なから鬼に成事」か。これは実録風疑似怪談である。前話といい、或いは、この筆者、能が好きだったのかも知れぬ。

「丹波の國さいき村」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、『桑田郡佐伯村か。とすれば現京都府亀岡市薭田野町の内』とする。現行の表記は平仮名化され「ひえ田野町佐伯」である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「をやにかうかう第一なる人」「親(おや)に孝行(かうかう)第一なる人」。歴史的仮名遣は誤り。

「たきゞ」「薪」。

「をりふし、のどかわきければ」「折節、咽喉渇(かは)きければ」。

「よこたをれたるやうなる」「橫倒(よこたふ)れたる樣なる」。歴史的仮名遣は誤り。

「ねんねん」「年々」。

「うるし」「漆」。前掲の「江戸怪談集 下」の脚注には、ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ウルシ Toxicodendron vernicifluum 及びその近縁種の『樹皮からとった樹脂。漆器の塗料として、当時は貴重なもので、ここでは、その漆の溶液が天然に流れ集まり、水中で固まったもので、これは山中に自然』の金鉱脈を偶然に『発見するのと同じほどの幸運なことであった』とある。落雷その他の自然現象によって、木の幹が傷つき、そこからたまたま渓流の溜まり水に向かって流れ落ち、それが長い時間をかけて分泌蓄積されたということか? こういうことが実際に自然界で起こり得るのかどうか? 識者の御教授を乞うものであある。

「ひとへに天のあたへ」「偏へに天の與へ」。「もうただただ、天の配剤!」。

「ひだと」「ひたと」の誤りであろう。直ちに。直接に。

「大ぶげんしや」「大分限者」。大金持ち。

「此となりに、大あくしやうなるものありける」「この隣りに、大惡性なる者、在りけるが」。所謂、昔話の常套形式。

「此所に」「ここに」。漆が水中に固まっている渓流。人の好い前の男は、隣りの男にその場所を教えてしまったか、或いは、この生来悪しき性分の隣人がこっそりと尾行をしてその場に至ったのであろう。だから「ここ」なのである。

「たくみて」「企(たく)みて」。企(たくら)んで。

「馬(ば)めん」「馬面」。前掲の「江戸怪談集 下」の脚注には、『竜に似た仮面で、馬の面に当てる具。「馬面 バメン 馬飾也」(『文明節用集』)』とある。

「しやぐま」「赤熊」。或いは「赭熊」とも書く。赤く染めたヤクの尾の毛。また、それに似た赤い髪の毛。仏具の払子(ほっす)・鬘(かつら)、兜(かぶと)・舞台衣装・獅子舞の面の飾りなどに用いる。

「水のそこに入り。」この句点はママ。

「しすましたり」「やり遂(おお)せわ!」或いは「してやったり!」。

「うごかれず」塗料としての漆には接着剤としての機能もあり、江戸時代にはよく使われた。ウィキの「漆」によれば、『例えば、小麦粉と漆を練り合わせて、割れた磁器を接着する例があ』り、硬化には二週間『程度を要する』とある。また、漆の『主成分は漆樹によって異なり、主として日本・中国産漆樹はウルシオール(urushiol)』である。『漆は油中水球型のエマルションで、有機溶媒に可溶な成分と水に可溶な成分、さらにどちらにも不溶な成分とに分けることができる』。『空気中の水蒸気が持つ酸素を用い、生漆に含まれる酵素(ラッカーゼ)の触媒作用によって常温で重合する酵素酸化、および空気中の酸素による自動酸化により硬化する。酵素酸化は、水酸基部位による反応で、自動酸化はアルキル部位の架橋である。酵素酸化にはある程度の温度と湿度が必要であり、これがうまく進行しないとまったく硬化しない。硬化すると極めて丈夫なものになるが、二重結合を含んでいるため、紫外線によって劣化する。液体の状態で加熱すると酵素が失活するため固まらなくなり、また、樟脳を混ぜると表面張力が大きくなるため、これを利用して漆を塗料として使用する際に油絵のように筆跡を盛り上げる事が出来る。また、マンガン化合物を含む『地の粉』と呼ばれる珪藻土層から採取される土を混ぜることで厚塗りしても硬化しやすくなり、螺鈿に分厚い素材を使う際にこれが用いられる』とある。この悪性の男、漆の精にでも化けたつもりで、多量に川底に蓄積した半固形の山の上に立ち、漆の中に足が嵌って、いろいろな条件下のなかで、身体に強く吸着、はずそうとして、水中に潜った際、シャグマの毛や馬面が張り付いて、溺れて死にゆくさまを想像するに、ひどく凄惨にして滑稽ではある。まあ、自業自得というものであろう。]

 

2016/11/21

北條九代記 卷第十 將軍家叛逆 付 松殿僧正逐電

 

     〇將軍家叛逆  松殿僧正逐電

 

同二十二日、將軍家、御(ご)病惱おはします。松殿〔の〕僧正良基、御驗者(ごけんじや)として、護身の爲に近侍あるべしとて、日夜御傍(おんあたり)を立去らず、振鈴(しんれい)の音、折々、外樣(とざま)に響聞(ひゞききこ)えて、殿中いとゞ靜りかヘりてもの淋し。六月に至りて、御氣色、愈(いよいよ)宜からず、引籠(ひきこも)らせたまふ。これによつて、諸大名にも御對面の事、打絶えければ、人々心の外に思ひ奉り、典藥の輩に尋ね奉れども、又御療治の爲とて參りたる者もなし。同五日の晩景に、木工頭(もくのかみ)親家、京都より鎌倉に下向あり、御所に參りて潛(ひそか)に申す旨、既に夜陰より曉に及びて、退出す。何事とは知らず、一兩日逗留して、親家は上洛致されけり。是は仙洞より、内々御諷諫(ごふうかん)の爲に下向せしめられたりと沙汰ありしかば、諸人、益々、怪存(あやしみぞん)ぜすと云ふ事なし。又、折節に付けては、和歌の御會に事を寄せられ、近習の者共を召集(めしあつ)め、密々に祕計を企てて、北條時宗を討て、將軍家思召す儘に天下を領じ給はんとの謀(はかりごと)を𢌞(めぐら)し給ふと世に專(もつぱら)沙汰あり。彼此(かれこれ)互に語りける程に、風聞、隱(かくれ)なく、時宗に告知(つげしら)する者、多かりければ、北條家、是より物每(ものごと)に遠慮あり。疑殆(ぎたい)起りて、用心に隙(ひま)なく、物の色を立てられしかば、自(おのづから)御所の有樣、人の出入も、故あるやうに目を側(そば)めてぞ見えにける。同じき十九日、左京大夫北條時宗、越後守實時、秋田城介(あいだのじやうのすけ)泰盛、竊(ひそか)に相模守政村の家に會合して、夜更(ふく)るまで額(ひたひ)を合せて密談あり。この人々の外には聞く人もなく知事(しること)もなし。何事とは知らすながら、將軍宗尊(そうそん)親王の御事なるべしと、沙汰ありければ、その日、松殿僧正良基は、御所を出でて行方(ゆきかた)なく逐電せらる、是(これ)、只事(たゞこと)にあらず、如何樣(いかさま)、子細ある故なるべし。世の風聞も定(さだめ)て跡なき事にはあるべからずと、鎌倉中には沙汰を致せり。後に聞えしは、良基は惡逆の企(くはだて)を申進(まうししゝ)めし張本として、この事、漸(や〻)顯れければ、身を遁(のが)れん爲に、御所を闕落(かけおち)して直(すぐ)に高野山に隱れけれども、打賴(うちたの)まる〻人もなし。遂に斷食して死せりとかや、夫(それ)、釋門(しやくもん)の徒(と)は末世といへども、悉く是(これ)、佛弟子なり。大聖(たいしやう)の遺誡(ゆゐかい)を守り、人を教導し、現世福壽(げんぜふくじゆ)の祈禱、護摩、灌頂くわんてう)の法(はふ)を以て實義性空(じつぎしやうくう)の妙理(めうり)に引入(いんにふ)し、諸々(もろもろ)の衆生を憐み、苦(く)にかはりて濟度(さいど)すべきをこそ、眞(まこと)の沙門の行跡(ふるまひ)とも云ふべきに、無用の名利(みやうり)に我執(がしう)を先(さき)とし非道を以て世を亂さんとす。佛の降魔(ごうま)の方便にもあらず、菩薩慈悲の殺生にもあらず、外相(げさう)には、三衣を著(ちやく)して佛弟子に似たり。内心には重欲(ぢうよく)我慢を事として、提婆(だいば)、瞿伽梨(くかり)が行跡の如し。學佛法(がくぶつぱふ)の外道(げだう)とは是等をぞ名付くべき。將軍家、又、愚(おろか)にましまして、か〻る大事を思召し立つには、智慮深思の人を近付けて、異見を問ひ給ふべし、「衆愚の諤々(がくがく)は、一賢の唯々(ゐゝ)に如(しか)ず」と云へり、其(その)器(き)にもあらざる人に、談合密語し給ひ、輒(たやす)く外に泄(もれ)ける事、暗主(あんしゆ)の態(わざ)こそ悲しけれ。良基僧正は智慮なく思詰(おもひつめ)はあらで、舌(した)に任せて大事を閑談し、風に揚(あが)る輕毛(きやうまう)の如く、僅に事の端(はし)、露(あらは)れんとするに臨みて、人より先に逐電し、跡は亡(ほろび)に及ぶが如く、偏(ひとへ)に逆心(ぎやくしん)の訴人(そにん)となりける。淺ましき所行にあらずやと、心ある輩は惡(にく)み思はぬはなかりけり。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻五十二の文永三(一二六六)年四月二十二日、六月五日・二十日、及び、宗尊親王の叛逆計画部分については「将軍記」「日本王代一覧」「保暦間記」などを参照にしているようである(「吾妻鏡」には後者の内容は載らない)。

「同二十二日」文永三(一二六六)年四月二十二日。

「松殿僧正」(?~文永三年)は関白藤原忠通の次男基房の孫で真言僧であった良基(りょうき)の通称。既出既注であるが、ここが最後なので纏めておく。定豪(じょうごう)に学び、鎌倉で祈禱に従事した。文永三年には第六代将軍宗尊親王の護身験者(げんざ)に昇ったが、親王の謀反の疑いに関係して高野山に遁れ、食を断って同年中に死去した。実はここには全く書かれていないのであるが、彼は第六代将軍宗尊親王正室で第七代将軍惟康親王の母近衛宰子(さいし 仁治二(一二四一)年~?:近衛兼経娘)と不倫関係にあり、良基逐電や将軍宗尊更迭と京都送還の背景として、寧ろ、このスキャンダルの方が表面上、大きく関与したものとしてあった。宰子は文永元(一二六四)年四月に宗尊親王との間に惟康王を出産したが、この出産の際、験者を務めたのが良基で、その間に密通事件が発生したとされ、それがこの文永三年になって露見、六月二十日に良基は逐電し、その直後に当時、連署であった北条時宗邸で幕府首脳による寄合が行われて宗尊親王京都送還が決定されたと見られている(その時、宰子とその子惟康らはそれぞれ時宗邸などに移されている)。その後は次の条の内容となるが、七月四日に宗尊親王は将軍職を追われて鎌倉を出発、帰洛した。その折り、京には「将軍御謀反」と伝えられており、幕府は未だ三歳であった惟康王を新たな将軍として擁立することとなった(宰子は娘の倫子女王を連れて都に戻っている)。また、この良基については、ここにも出るように高野山で断食し果てたとも、また一方では、御息所と夫婦になって暮らしている、などともまことしやかに噂されたものらしい。

「日夜御傍(おんあたり)を立去らず、振鈴(しんれい)の音、折々、外樣(とざま)に響聞(ひゞききこ)えて、殿中いとゞ靜りかヘりてもの淋し。六月に至りて、御氣色、愈(いよいよ)宜からず、引籠(ひきこも)らせたまふ。これによつて、諸大名にも御對面の事、打絶えければ」関係がるかないかは別としてこの文永三(一二六六) 年同じ四月の「吾妻鏡」五日の条には「將軍家有御小瘡」(將軍家、御(おん)小瘡(こがさ)有り)とあり、七日の条では「將軍家御蚊觸之間。可有蛭※之由」(「※」=「口」+「宿」)(將軍家、御蚊觸(かぶれ)の間、蛭※(ひるかひ)有る可し之由:「小瘡」「蚊觸」皮膚疾患の腫れ物で、「蛭※(ひるかひ)」とは、恐らくは吸血性のヒルに患部を嚙ませて、悪液質の化膿部分等を吸い出させる、現行でも行われている療法の古記録の一つである)とある。しかし、この間に北条討伐の慫慂が秘かに良基からなされ、それまた以上に、良基と宰子の爛れた関係は、いや盛んに深まったと推測し得るし、或いは、それを夫親王が秘かに知ってしまい、これまた彼の精神状態を悪化させて引き籠もりに至ったとも読めぬことはない。最悪の事態が何層にも上塗りされてゆく感じがしてくるではないか!

「典藥の輩に尋ね奉れども、又御療治の爲とて參りたる者もなし」ということは彼らが診療すること、どころか、そばに寄ることも拒絶していることを意味している。これはとりもなおさず、謀叛の謀議などよりも、まず第一に、重い対人恐怖や嫌悪・厭人の精神症状が親王を襲っていると考える方が私は自然であると思う。その場合、その主因はやはり、良基と宰子の関係を親王が知ってしまったことにあるのではないか、それこそがこの引き籠もりのではないかと私は深く疑うのである。

「木工頭(もくのかみ)親家」公家藤原親家(生没年未詳)。加賀守藤原親任(ちかとう)の子で、建長四(一二五二)年に第六代将軍宗尊親王の鎌倉行きに随行している。ここに出る通ように朝廷からの密使としても下向、彼はその後の親王京都送還にも従っている。

「仙洞」後嵯峨上皇。

「御諷諫(ごふうかん)」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の「吾妻鏡」巻五十二の文永三(一二六六)年六月五日の注に、『「新抄(外記日記)」に関東將軍御休憩所 日來□□□殿僧正良基露顕』とある。これは意味深長で、判読不能の部分は宰子と松殿僧正良基のスキャンダルの露見とも読める。というより、ここに北条への叛逆の企てを示す文字列を考える方が難しい気さえするのである。

「討て」「うちて」。

「疑殆(ぎたい)」疑い危ぶむこと。

「物の色を立てられしかば」執権北条家も格別の注意を払い、相手や対象をことごとく子細に調べ上げ、厳密な区別のもとに差をつけて処理監察するようになられたので。

「自(おのづから)御所の有樣、人の出入も、故あるやうに目を側(そば)めてぞ見えにける」自然、そのような厳重な危機意識の中で眺めるようになると、自然、将軍家御所のいろいろな、ちょっとした有様や普段と違う点、また、そこに出入りする人やその動きにも、何か隠された企図があるかのように観察されるようにさえなってしまったのである。

「同じき十九日、左京大夫北條時宗、越後守實時、秋田城介(あいだのじやうのすけ)泰盛、竊(ひそか)に相模守政村の家に會合して、夜更(ふく)るまで額(ひたひ)を合せて密談あり」「吾妻鏡」ではこの密談会合は六月二十日となっている。

「その日、松殿僧正良基は、御所を出でて行方(ゆきかた)なく逐電せらる、」最後の読点はママ。前注通り、この良基逐電も「吾妻鏡」では六月二十日の記事であるので注意。しかしさぁ、密談なのにさ、なんで当の悪の張本である良基に漏れて、目出度く逐電できたんかしらん? 不思議ちゃんやなぁ?

「跡なき事」根拠のない流言飛語。

「釋門」仏門。

「大聖(たいしやう)の遺誡(ゆゐかい)」仏道の悟りを開いた釈迦や菩薩らが後人のために残している戒めの言葉。

「現世福壽」現世に於いて心静かに幸福な生涯を送ること。

「護摩、灌頂」孰れも密教に於いて仏菩薩の位に昇るための密儀としての修法。「護摩修法」は精神の浄化や諸願成就を目的に火を焚き、その中に護摩木を焚いて、芥子や各種の香などの供物を火中に投じ、燃え上がった炎を仏の象徴と成して、息災・増益・調伏・敬愛・鉤召(こうちょう:諸尊・善神・自分の愛する者を召し集めるための修法)という五種の厳格な法式による修法があり、「灌頂」(「かんじょう」と濁ってもよい)は、本邦の密教では、如来の五智を象徴する五瓶(ごびょう)の水を受者に注ぐことにより、密教の法燈(ほうとう)を継承したと認める重要な儀式である。灌頂にも内容・目的・形式などで多くの種類がある。大別すると、在家信者を対象に曼荼羅中の一尊と縁を結ぶ「結縁(けちえん)灌頂」、出家者のための初歩的灌頂としての「受明(じゅみょう)灌頂」、密教の完全な真理を体得して阿闍梨(あじゃり)となることが認められた者にのみ行われる、金剛界・胎蔵界の真理を伝える「伝法(でんぽう)灌頂」の三種がある。この護摩と灌頂はまさに密教独自の法儀であって、仏教の他宗と決定的な区別となる特色と言える。

「實義性空(じつぎしやうくう)の妙理(めうり)に引入(いんにふ)し」増淵勝一氏の現代語訳では、『一切の諸法の本性はむなしい空(くう)であるという真実の妙法に人々を引き入れ』と訳されてある。

「苦(く)にかはりて濟度(さいど)す」衆生を苦界から掬いとってあらゆる苦から洩れなく救いあげる。

「佛の降魔(ごうま)の方便」仏菩薩が天魔を調伏させるための一見、怪力染みた方便。

「菩薩慈悲の殺生」菩薩が大いなる慈悲を体現するために行う、仮の見かけ上の殺生。

「外相(げさう)」外見。

「三衣」「さんえ」或いは「さんね」と読み、僧尼の着る三種の袈裟のこと。僧伽梨(そうぎやり:大衣・九条衣・これを受けること自体が一種の法嗣の証明ともされる正装着)・鬱多羅僧(うつたらそう:上衣・七条衣。普段着)・安陀会(あんだえ:中衣・五条衣。作業着)。

「重欲我慢」欲が限りなく深い上に、甚だ慢心していること。

「提婆(だいば)」提婆達多(だいばだった 前四世紀頃)はインド人で、仏伝によれば、釈尊の従兄とされる。釈尊が青年時代にヤショーダラー姫を妻として迎える際、釈迦と争って敗れ、後に釈尊が悟りを得て仏となった際には釈尊の力を妬んで、阿闍世(あじゃせ)王と結託して釈尊を亡きものにしようと企んだりし、遂には生きながら無間地獄に落ちたとされる仏敵。

「瞿伽梨(くかり)」「くぎゃり」「くがり」とも。先の仏敵提婆達多の弟子とされる。ウィキの「瞿伽梨によれば、『一説に、釈迦族の出身で、釈迦の実父である浄飯王の命により出家し』、『仏弟子となったが、驕慢心(きょうまんしん、おごりたかぶる心)で我見が強かったために修行が完成せず、後に提婆達多の弟子となったという』。「大智度論」では彼の誤った行動に対して釈尊が叱責を加えたが、遂に悔い改めることがなく、果ては『身体に疱瘡ができて死に、大蓮華地獄に堕したと』し、「涅槃経」でも、『生身のまま地獄に行き、阿鼻地獄に至ったと』されるいわくつきの反釈尊外道。

「學佛法(がくぶつぱふ)の外道(げだう)」頭でっ

「衆愚の諤々(がくがく)は、一賢の唯々(ゐゝ)に如(しか)ず」有象無象の愚か者たちが集まって、「ああでもない、こうでもない」と喧々諤々と議論することはたった一人の賢人がただ一言、「はい。それこそがその通り。正しいことです。」と言うのにも全く以って及ばない。

「器(き)」器量。力量。

「暗主(あんしゆ)」先見の明のない君子ならざる暗愚の君主。

「態(わざ)」眼も当てられぬ有様。失態。

「思詰(おもひつめ)」決心。覚悟。

「閑談」無駄話すること。

「偏(ひとへ)に逆心(ぎやくしん)の訴人(そにん)となりける」結果として、ただただ、北条家に対し、将軍家の逆心をあからさまに訴え出てしまう「訴人」という道化役となってしまったのであった。]

甲子夜話卷之三 3 岡部氏の先代、鷄を好し事

 

3-3 岡部氏の先代、鷄を好し事

岸和田の岡部氏、今の三四代も前の主、殊の外鷄を好て、數百番畜養せり。その内より翎毛の常と替りしも往々出しとぞ。世に玩ぶ淺黃矮鷄と云て、黲素色なるものは、其家より新に生ぜし種子にて、別に一種を成し、今はいづ方にもあるやうになりたるなり。

やぶちゃんの呟き

「岡部氏」「岸和田の岡部氏、今の三四代も前の主」現在の大阪府岸和田市、和泉国南郡岸和田周辺を領有した岸和田藩の藩主「岡部氏」(小出家から松平(松井)家を経て岡部家が入封)。静山存命の頃は第九代藩主岡部長慎(ながちか)であるから、「今の三四代も前」となると第五代藩主岡部長著(ながあきら)或いは第六代藩主長住(ながすみ)か。

「番」「つがひ」。

「翎毛」底本では二字で「はね」と訓じている。

「玩ぶ」「もてあそぶ」。

「淺黃矮鷄」「あさぎちやぼ」。「アサギチャボ」でキジ目キジ科ヤケイ属セキショクヤケイ亜種ニワトリ Gallus gallus domesticus の改良品種であるチャボの、やはり改良品種の一種。こちらの画像の一番下に写真がある。現行でも「矮鷄」で「チャボ」と読むが、これは同品種群が一般のニワトリよりも小型(七三〇グラム・六一〇グラム程を標準体重とする)であることに由来する。チャボは足が非常に短く、尾羽が直立しているのを特徴とする。

「黲素色」「さんそしよく」(或いは最後は「いろ」と訓で)と読んでいるか。「黲」は薄青黒い色の意、「素色」は本来は薄い色のついた白色であるが、やや薄い灰色から濃いグレーまでも含む色名である。前注にリンクした写真を見ると、「黲素色」なる感じが如何にも腑に落ちる。

谷の響 三の卷 廿一 妖魅

 

 廿一 妖魅

 

 板柳村正休寺の二男なる人、靑年(としわかき)ころ弘前眞教寺に在りて勤學の折柄、夜中閨の外にて何か物音の聞えける故、障子の空隙(すき)より覗き見るに、いと疲勞(やせつかれ)たる女の髮を被りたるが立てり。こは冥漢人(もうじや)ならんと衾(ふすま)を被りて伏たるに、障子の破より息を吹かくる事數囘(しばしば)なりしが、その息頭に中りて寒き事恰も雪を戴けるが如し。さて稍々(やゝ)かくのごとくにして止みたれば、凄凉(ものすご)きこといはん方なく眠りもやらで有けるが、しばし時うつりて厨所(だいどころ)にて火の焚ける光の見えければ、用心老僕(おやじ)が早くも起たる事よとおもひ、卒(いさ)や火にあたりて憩(やすま)んと卽便(すなはち)起出て、帶提(さげ)ながら厨下に至りしに、今見たる女髮蓬頭(おとろおとろ)としてこなたを囘視(みかへ)る顏色の凌競(おそろ)しき事成るに耐得で、欵(はつ)と叫ぶとそのまゝ火も消え自分も絶倒(たをれ)て、前後もしらずなりたりき。然(さ)るに稍々(やゝ)黎明(あけちか)くなりて用心老人(おやぢ)起出て、この僧の絶入りたるを見て驚き噪(さは)ぎ、合家(かない)慌懊(あはて)て呼活(よびいけ)せしが、この事を語りて冷汗を流し、こゝち懊惱(わづらは)しとて病つけるが、旬日(とをか)あまりもありて漸々(よふよふ)癒えけるとなり。こは何たる妖魅(ばけもの)にかあらん。その後誰も見たるものなしと言へり。こは淨德寺の住侶の語りしなり。

 

[やぶちゃん注:これが「谷の響 三の卷」の擱筆である。本件も最後にこの女怪、この青年僧以外に、「その後誰も見たるものなし」とあり、幻視を伴う精神疾患か、或いは、彼がデッチアゲた詐病さえも疑われる(この寺での修行が心底、厭だったのかも知れぬ)。或いはこの青年僧、秘かに女犯(にょぼん)しており、その女と関係を断ったために、女の生霊か死霊が出来したか(民俗的解釈)、或いは、その罪障感に起因する心因反応で幻覚を見たか(精神医学的解釈)のかも知れぬ。

「板柳村」既出既注。底本の森山氏の註によれば、『北津軽郡板柳(いたやなぎ)町』とする。弘前市の北に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「正休寺」既出既注。底本の森山氏の註によれば、『北津軽郡板柳町にある。板谷山正休寺』。前の「九 蝦蟇の智」に出て注した、弘前の浄土真宗の真教寺の『末寺として、万治二年開基という』とする(万治二年は西暦一六五九年)。青森県北津軽郡板柳町板柳土井で、ここ(グーグル・マップ・データ)。

「眞教寺」既出既注。底本の森山氏の補註に、『弘前市新寺町にある法輪山真教寺。浄土真宗東本願寺派に属する。天文十九年』(ユリウス暦一五四九年)『の開基といい、慶長年間』(一五九六年~一六一五年)『弘前に移る、寺禄三十石』とある。Yuki氏のブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」の「真宗大谷派 法涼山 円明寺(圓明寺)& 平等山 浄徳寺  法輪山 真教寺(弘前市新寺町)」で画像が見られる(因みに、この方の記事はなかなか面白い)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「閨」「ねや」。

「髮を被りたるが」貞子みたようなもんか?

「冥漢人(もうじや)」三字へのルビ。

「破」「やぶれ」。

「息を吹かくる」陰気を吹きかけることで、生気を吸われるという、怪異の中でも常套的で致命的な仕儀である。

「用心老僕(おやじ)」「おやじ」は「老僕」二字へのルビでママ。「おやぢ」が正しい(後で出る時は正しくルビされている)この四字で一語で、古参の寺男の通称だったのであろう。

「卽便(すなはち)」二字へのルビ。

「帶提(さげ)ながら」帯がほどけている。寝起きというよりも、かくだらしのない恰好で起き出して行くこと自体が、既にして魔に魅入られている証左なのである。

「蓬頭(おとろおとろ)として」「おどろおどろとして」は当て字。「蓬」髪(蓬 (よもぎ)の葉の如くぼうぼうに伸びた髪)で、「おどろどろしく」(如何にもひどく恐ろしいさま)出現して来たのである。

「凌競(おそろ)しき」二字へのルビ。

「耐得で」「たへえで」。

「欵(はつ)」感動詞。叫声のオノマトペイア。以前に「欵(ぎやつ)と」と出たがそこで私が注した通り、これは恐らく「欸」の原文の誤記か、翻刻の誤りである。これでは「約款」の「款」の異体字で、意味が通らない(「親しみ」の意味があるが、それでもおかしい)。「欸」ならば、「ああつ!」で「怒る」「恨む」、或いはその声の擬音語となるからである。

「絶倒(たをれ)て」二字へのルビ。

「絶入りたる」「たえいりたる」。気絶している。

「呼活(よびいけ)」「大声で名を呼んで生き返らせる」意の動詞「呼び生く」の名詞形。死に瀕した者や臨終の直後に行う民俗的呪術行為である。

「漸々(よふよふ)」読みはママ。「やうやう」が正しい。

「淨德寺」森山氏の註によれば、『弘前市新寺町。浄土真宗平等山浄徳寺。寛文十年開基という』とする。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「住侶」「ぢゆうりよ(じゅうりょ)」。その寺に住む僧侶。住僧。]

谷の響 四の卷 二十 妖魅人を惱す

 

 二十 妖魅人を惱す

 

 某と言へる縣令附きの人あり。往(い)ぬる嘉永の年間(ころ)、田税督責(とりたて)の爲に姥袋といふ邑に往きて宿歇(とまり)けるが、夜に至り客廰(ざしき)の椽側に男女の聲として俱に語りありけるが、時謝(うつ)りて已に會明(あけがた)ちかくなりて止みたりき。某いと五月蠅(うるさく)おもひ、いかに若き者の業(こと)とは言ひながらしかすがに長き物語かなと呟訟(つぶやき)つゝ起出でぬ。さてその夜また斯(かく)の如く語り合ひて曉(あけ)に及びしが、その日の午下(ひるすぎ)に赤石村に移りて官舍に寢(いね)たるが、又この男女の話の音聞えければ、そも何ものにやあらんと耳をすまして聞たるに、その男は郷士某の聲なれば、憎きやつと思ひそれが名をさして高らかに呼たるに、應(いらへ)もなくて少時(しばし)歇止(やみ)たれど、間なくして又はじめの如く語りあへり。某いと惱(わづら)はしく又耳につきて眠る事ならねば、官舍の小使を呼起し火を燈して俱に第莊(やしき)の隈々を探り見れど、森閑(しんかん)として眼の遮るもの更にあらざれば、後閨(ふしと)に入りて衾(ふすま)を被(かつ)きぬるに語ることいやまして、甚しきは障子にすり當る事囘々(たびたび)聞え、遂に黎明(あした)に至りて止みぬ。

 かくのごとくすること五日にして、少しも眠る事能はず。顏色稍(やゝ)衰へ懊惱(ここちなや)まして居るに耐ざれば、病氣と稱(とな)へて弘前に上り、それが縣令なる工藤某へ往きてこの有狀(ありさま)を委曲(つまびらか)に語れるに、工藤氏狐狸のわざくれなる由を説諭(ときさと)し、萬般(いろいろ)力を添えて慰めける。さるに此人家に歸り二階に寢たるに、格子の外にて又この男女の語れる事終夜(よもすがら)にして、旬日あまりのうちは殊にかしましく、某之が爲に病つき食もほとほと絶(た)つるばかりなるに、神に祈り佛に憑(たの)み醫藥手を盡して、兩月(ふたつき)あまりにしてやうやう癒(い)えたり。決(きはめ)て狐狸の爲業(しわざ)にて有べけれど、斯く人を惱すことこそ憎けれとこの工藤氏語りしなり。

 

[やぶちゃん注:この主人公の様態は、激しい幻聴・幻覚(障子に人が擦れ触れるとする現象)を伴う精神疾患の症状と考えられる。恐らく、この「某」、この年貢取り立ての実務巡回が心底、厭だったであろう。また、幻聴の中で、その話者の男の方を、巡回する当地の具体的な実務担当者と特定し、「憎きやつと思ひそれが名をさして高らかに呼」ぶ辺りでは、その「郷士」本人との実務上或いは私的(女絡みかも知れぬ)なトラブルがあり、それが強いストレスとなっていたことが深く疑われる。彼の上司である県令工藤某も、それは狐狸の悪戯であるとあっという間に断定してしまい、「説諭(ときさと)し、萬般(いろいろ)力を添えて慰め」たとあるのも、却って、この某の状態が正常な精神状態ではないことを感じ取った故の応急対応と、逆に読める。症状は短い間に増悪し、食事も出来なくなるありさまであったというのは、統合失調症さえ疑われるのであるが、これがまた、二ヶ月ほどで快方に向かったというのは(工藤氏が最後に「斯く人を惱すことこそ憎けれと」語ったというからには、その後、某は見かけ上は、全く正常に復したことを意味すると考えてよかろう)、やはり一過性の幻聴・幻覚であり、先に示した職務上のストレスが昂じ、幻聴を主調とした幻覚や関係妄想を伴うところの、強い心因反応を起こしたものと一応は判断出来よう。工藤は彼を配下の事務方か何かに配置換えしたものかも知れぬ。

「縣令」本作は幕末の万延元(一八六〇)年の成立であるが、江戸時代に「県令」という正式な官職はない。作者平尾魯僊は文化五(一八〇八)年生まれで、明治一三(一八八〇)年に没しているが、近代日本の「県令」は明治四(一八七一)年十一月、太政官制の下で施行された県治条例の職制によって、府知事はそのまま知事、県知事は県令又は権令と改称されているから、この箇所の記載は後に平尾が追記したものかと思ったが、本文では後で当時(嘉永年間)の「縣令」と出るから、思うにこれは、弘前藩内の各郡の支配担当官を県令と読み換えたもののように思われる。

「嘉永の年間」一八四八年から一八五四年。

「田税」年貢。

「姥袋といふ邑」底本の森山泰太郎氏の補註に『西津軽郡鯵ケ沢町姥袋(うばぶくろ)。赤石川下流の部落』とある。現在は鯵ケ沢町姥袋町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「客廰(ざしき)」「廰」(庁)には「役所」以外に「家」「部屋」の意がある。

「椽側」「緣側」。

「謝(うつ)りて」「謝」には「去る」の意がある。

「しかすがに」これで一語の副詞。そうはいうものの。元は副詞「しか」+サ変動詞「す」+上代の終助詞「がに」(活用語の終止形に接続し、下の動作(ここでは「長話する」こと)ここでは「の程度を様態的に述べるのに用いられる。「~せんばかりに・~するかのように・~するほどに」)が付いたもの。

「呟訟(つぶやき)」二字へのルビ。不平を呟きながら。

「赤石村」同じく森山氏の補註に『鯵ケ沢町赤石(あかいし)。赤石川が二本かに注ぐあたりの漁村』とある。現在は鯵ケ沢町赤石町で、先の姥袋の北側に接する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「郷士」「ごうし」。城下町に住む武士に対し、農村部に居住する武士の呼称。本来、諸藩の家臣は兵農分離によって城下町に住むべきものとされていたが、地方では農民支配の末端機構としてこの郷士を利用する藩も少くなかった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。ここはそうした郷士の中で、各地域の実務担当者を指すのであろう。だから、巡検役であるこの主人公が、普段から仕事で接し、よく知っていたことから、その声だけで特定出来たのである。

「後」「のち」。

「閨(ふしと)」「臥所・臥床」。読みはママ。

「障子にすり當る事」話している人物らが、障子に触れて擦れ、その物音が聴こえてくることを指している。実在物に当たって音を立てるというところが怪異の真骨頂の部分となる。それまでなら、自分でも幻聴や何かの勘違いと納得し得るのであるが、ここに至ってそれは主人公の中の「奇体な事実の音」として認識されるのである。伝統的怪談のキモの部分である。

「懊惱(ここちなや)まして」上手い和訓。「懊惱」は音「アウナウ(オウノウ)」で、「悩み悶えること・煩悶」の意。

「居るに耐ざれば」最早、不眠が続き、正常に勤務することが出来なくなって。

「わざくれ」悪戯(いたずら)。

「旬日」普通は「じゆんじつ(じゅんじつ)」であるが、意味から「とおか」(十日)と訓じていると思われる。]

譚海 卷之二 座頭仲間法式の事

 
座頭仲間法式の事

○座頭(ざとう)の交(まぢはり)は嚴重なるもの也。會集の席うちとけ居たる所へをくれて來る檢校あれば、はじめ集り居たる檢校皆々衣をきて、衣を着ましたと挨拶をするが禮也。座頭同志はあるきながらも象棋(しやうぎ)をさす也、はなしにて互ひに濟(すむ)事ゆへかくの如し。檢校には金子七百兩あればならるゝよし某(ぼう)座頭物語也。又瞽女(ごぜ)は支配はなきもの也、座頭には類せぬものなりとぞ。

[やぶちゃん注:「座頭」狭義には以下に示すような江戸期に於ける盲人の階級の一つここでは、幕府が障碍者保護政策として一種のギルド的な職能組合である「座」を基本として身体障害者に対し行った排他的独占的職種容認政策の中での、広義の視覚障碍者を指している。

「檢校」検校は中世・近世に於ける盲官(視覚障碍を持った公務員)の最高位(「検校」の下に降順で「別当」・「勾当(こうとう)」・「座頭(ざとう)」・「紫分(しぶん)」・「市名(いちな)」・「都(はん)」があった)の名称。ウィキの「検校」によれば、幕府は室町時代に開設された視覚障碍者組織団体である当道座(とうどうざ)を引き継ぎ、更に当道座『組織が整備され、寺社奉行の管轄下ではあるがかなり自治的な運営が行なわれた。検校の権限は大きなものとなり、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。当道座に入座して検校に至るまでには』七十三の『位階があり、検校には十老から一老まで十の位階があった。当道の会計も書記以外はすべて視覚障害者によって行なわれたが、彼らの記憶と計算は確実で、一文の誤りもなかったという。また、視覚障害は世襲とはほとんど関係ないため、平曲、三絃や鍼灸の業績が認められれば一定の期間をおいて検校まで』七十三段に『及ぶ盲官位が順次与えられた。しかしそのためには非常に長い年月を必要とするので、早期に取得するため金銀による盲官位の売買も公認されたために、当道座によって各盲官位が認定されるようになった。検校になるためには平曲・地歌三弦・箏曲等の演奏、作曲、あるいは鍼灸・按摩ができなければならなかったとされるが、江戸時代には当道座の表芸たる平曲は下火になり、代わって地歌三弦や箏曲、鍼灸が検校の実質的な職業となった。ただしすべての当道座員が音楽や鍼灸の才能を持つ訳ではないので、他の職業に就く者や、後述するような金融業を営む者もいた。最低位から順次位階を踏んで検校になるまでには総じて』七百十九両が『必要であったという。江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった』(下線やぶちゃん)。『江戸時代には地歌三弦、箏曲、胡弓楽、平曲の専門家として、三都を中心に優れた音楽家となる検校が多く、近世邦楽大発展の大きな原動力となった。磐城平藩の八橋検校、尾張藩の吉沢検校などのように、専属の音楽家として大名に数人扶持で召し抱えられる検校もいた。また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる』。『その一方で、官位の早期取得に必要な金銀収入を容易にするため、元禄頃から幕府により高利の金貸しが認められていた。これを座頭金または官金と呼んだが、特に幕臣の中でも禄の薄い御家人や小身の旗本等に金を貸し付けて、暴利を得ていた検校もおり、安永年間には名古屋検校が十万数千両、鳥山検校が一万五千両等、多額の蓄財をなした検校も相当おり、吉原での豪遊等で世間を脅かせた。同七年にはこれら八検校と二勾当があまりの悪辣さのため、全財産没収の上江戸払いの処分を受けた』とある。

「衣を着ましたと挨拶をするが禮也」視覚障碍者であるので、遅れて来た仲間に対して一座が上着を脱いで寛いでいたのを、皆して着し、礼式をとったことを言葉で示すということであろう。音訓の違いはあるが、提示の到「着」に遅れて「着」いたという皮肉の意として「着る」の字が掛けられていると読むのは私の深読みか。

「象棋」将棋。ここは所謂、「目隠し将棋」(旧称「盲将棋」)で、将棋盤と将棋の駒は用意せず、対局者同志が駒の移動先を棋譜の読み上げ方法に従って、「七六歩」「八四歩」などと声で伝えることで対局を進める方式。ウィキの「目隠し将棋によれば、『かつては盲将棋(めくらしょうぎ)とも呼ばれていたが、差別用語を含んでいるので、現在この呼び名は使用されず、脳内将棋(のうないしょうぎ)と表現されることが多い』とある。

「瞽女」ウィキの「瞽女より引く。『瞽女(ごぜ)は、「盲御前(めくらごぜん)」という敬称に由来する日本の女性の盲人芸能者』の呼称で、『近世までにはほぼ全国的に活躍し』、二十『世紀には新潟県を中心に北陸地方などを転々としながら三味線、ときには胡弓を弾き唄い、門付巡業を主として生業とした旅芸人である』。『女盲目(おんなめくら)と呼ばれる場合もあ』った。時にはやむなく、『売春をおこなうこともあった』。『瞽女の起源は不詳であるが、室町時代後期に書かれた『文明本節用集』には「御前コゼ 女盲目」と記され、『七十一番職人歌合』にもその姿が描かれている』。『近世では三味線や箏を弾くのが普通となった』。『瞽女の演目(瞽女唄)のひとつに「クドキ(口説節)」があり、これは浄瑠璃から影響を受けた語りもの音楽であるが、義太夫節よりも歌謡風になっている』。『江戸時代の瞽女は越後国高田(上越市)や長岡(長岡市)、駿河国駿府(静岡市)では屋敷を与えられ、一箇所に集まって生活しているケースがあり、これを「瞽女屋敷」と称した』。先の盲官らのような公的な「当道座」といった支配的統制的全国組織はなく、『師匠となる瞽女のもとに弟子入りして音曲や技法を伝授されるという形態をとった』。『親方となる楽人(師匠)は弟子と起居をともにして組をつくり、数組により座を組織した』。『説経節の『小栗判官』や「くどき」などを数人で門付演奏することが多く、娯楽の少ない当時の農村部にあっては、瞽女の巡業は少なからず歓迎された』。但し、『江戸時代中期・後期の瀬戸内地方にいた瞽女の多くは広島藩、長州藩あるいは四国地方の多くの藩から視覚』障碍『者のための「扶持」を受けたといわれる』とある(下線やぶちゃん)。]

甲子夜話卷之三 2 酒井家拜謁の鳥披、又松平能州御拳の鳥拜領披の事


3-2 酒井家拜謁の鳥披、又松平能州御拳の鳥拜領披の事

姫路酒井家、拜賜の鳥開にて客を招くときは、當日御鳥持參の御使番を上客とし、間柄の國持衆、溜詰衆にても、皆御次席に坐せしむること、古來よりの家法と云。敬上の意厚きこと貴ぶべし。岩村松平能登守【乘堅】加判勤しとき、御拳の鳥拜領、開きとて親類衆招きのときは、先第一の吸物膳は主人へ直し、夫より順々に、客の高下にて吸物を出し、主人吸物を戴きて拜味し、扨客に挨拶あれば、いづれも吸物の蓋をとりしと云。是も亦その理に叶ひたる賓主の作法なりけり。

■やぶちゃんの呟き

「酒井家」現在の兵庫県西南部の播磨国飾東(しかま)郡を治めた姫路藩を江戸後期に納めた酒井氏。ウィキの「姫路藩によれば、同藩は転・入封著しく、池田家→本多家→松平(奥平)家→榊原(松平)家→松平(越前)家→本多家→榊原家→松平(越前)家と転じたがこの越前松平家松平朝矩(とものり)に代わって『老中首座酒井忠恭が前橋から』寛延二(一七四八)年に入封、『姫路藩の酒井氏は徳川家康の重臣酒井正親・重忠を祖とし、大老酒井忠世・酒井忠清を出した酒井雅楽頭家の宗家である。老中を務めていた忠恭の前橋領は居城が侵食されるほどの大規模な水害が多発する難所であり、加えて酒井家という格式を維持する費用、幕閣での勤めにかかる費用、放漫な財政運用などにより酒井家は財政が破綻していたため、忠恭は「同石高ながら実入りがいい」と聞いていた姫路への転封をかねてより目論んでいた。実際は、姫路領では前年に大旱魃が起き、そこに重税と転封の噂が重なり、寛延の百姓一揆と呼ばれる大規模な百姓一揆が起こっていたが、酒井家は気がついていなかった。それでも転封は実現したが、その年の夏に姫路領内を』二『度の台風が遅い、水害が発生し大変な損害を出し、転封費用も相まって財政はさらに悪化することとなった。ともあれ』、『酒井家以降、姫路藩は頻繁な転封がなくなり、ようやく藩主家が安定した。歴代の姫路藩主は前橋時代同様にしばしば老中、大老を務め、幕政に重きを成した』とある。静山の同時代は第四代藩主酒井忠実(ただみつ)及び第五代忠学(ただのり:第三代藩主酒井忠道八男)の治世。

「鳥披」「とりびらき」。この語、辞書類には不載であるが、田中和明氏の甲子夜話に学ぶ経営心得(第108号)(本話の全現代語訳と注が載るメルマガ。私は購読しておらず、今回初めて参考にさせて戴いた)を参考にさせていただくと、これはまず、将軍家が重要な武人の儀式として行っていた「鷹狩り」をし、そこで得た獲物を重臣や主だった大名らから選んで分け与えたという(後に出る「鳥拜領披」)。その際、それを貰った側(ここでは姫路藩酒井家で、場所は江戸姫路藩上屋敷となる)では、『これを鳥開き(披き)と呼び、将軍よりの賜り物として客を招いて料理して食べた』とある。

「松平能州」「岩村松平能登守【乘堅】」美濃国岩村藩第二代藩主で老中であった松平能登守乗賢(のりかた 元禄六(一六九三)年~延享三(一七四六)年)。

「御拳」「おこぶし」。将軍が自ら鷹を使って(拳を握った腕から放つからであろう)鳥類などを捕らえること及びその獲物。

「鳥拜領披」「とりはいりやうびらき」。前注参照。

「御使番」既注であるが再掲する。元来は戦場での伝令・監察・敵軍への使者などを務めた役職。ウィキの「使番」によれば、江戸幕府では若年寄の支配に属し、布衣格で菊之間南際襖際詰。元和三(一六一七)年に定制化されたものの、その後は島原の乱以外に『大規模な戦乱は発生せず、目付とともに遠国奉行や代官などの遠方において職務を行う幕府官吏に対する監察業務を担当する』ようになった。『以後は国目付・諸国巡見使としての派遣、二条城・大坂城・駿府城・甲府城などの幕府役人の監督、江戸市中火災時における大名火消・定火消の監督などを行い』とあり、常に幕府の上使としての格式を持つ名誉な職であった。

「間柄」親族。

「國持衆」ここは親族の大名家及び本城姫路城の他の支城の城主或いは城代格に命じたような、家臣の中でも家格が高く、権勢の強大な者をも指していよう。

「溜詰衆」「溜詰」(たまりづめ)は「伺候席(しこうせき)」で、江戸城に登城した大名や旗本が将軍に拝謁する順番を待つための控室、黒書院「溜の間」を指す。ここはそこに酒井家と同席する者の中で、特に親しい間柄或いは縁者の旗本などを指すか。

「敬上の意」将軍家への。

「加判」此処は老中の別称。

「先」「まづ」。

「直し」「なほし」。ここは「人や物をしかるべき地位・場所に改めて据える」の意で、「供し」の意。

「高下」「かうげ」。地位の降順に。

「扨」「さて」。その上で。

「その理」「そのことはり」。前述の将軍家への敬意を表わすことを指す。

諸國百物語卷之五 十二 萬吉太夫ばけ物の師匠になる事

 

     十二 萬吉太夫(まんきちだゆふ)ばけ物の師匠(ししやう)になる事


Mankitidayuu

 京(きよう)上立(かみたち)うりに、萬吉太夫と云ふ、さるがく、有りけるが、能(のふ)、へたにて有りしゆへ、しんだいをとろへて大坂へくだるとて、ひらかたの出ぢや屋にて、ちやをのみ、やすらいゐるうちに、日もそろそろくれがたになりければ、

「こゝに一夜の宿をからん」

といへば、ちや屋、申しけるは、

「やすき事にて候へども、此所には、よなよな、ばけ物きたりて、人をとり申すゆへ、夜はわれらもこゝにはゐ申さず」

とかたる。萬吉、きゝて、

「それとても、くるしからず」

とて、その夜はそこに、とまりける。あんのごとく、夜半のころ、川むかいより、人のわたるおと、しける。見れば、たけ七尺、ゆたかなる坊主也。萬吉、これを見て、やがてことばをかけ、

「いやいや、さやうのばけやうにては、なし。まだ、ぢやくはいなるぞ」

といへば、ぼうず、きゝて、

「そのはうは、いかなる人なれば、さやうには、の給ふぞ」

と云ふ。萬吉、きゝて、

「われは、みやこのばけ物なるが、此所にばけ物すむと聞きおよびて、あふて、上手か、へたか、心みて、上手ならば、師匠とせん。へたならば、弟子にせん、とおもひて、これにとまり候ふ」

と云ふ。坊主、

「さらば、そのはうの、ばけてぎわを、見ん」

と云ふ。萬吉、

「心えたり」

とて、つゞらより能のしやうぞくとりいだし、鬼になりてみせければ、坊主、おどろき、

「さてさて上手かな。女(ぢよ)らうにばけられよ」

とのぞむ。

「心ゑたり」

とて又、女になる。ぼうず、申しけるは、

「おどろき入りたる上手かな。今よりのちは師匠とたのみ申すべし。われは川むかいのゑの木のしたにすむ、くさびら也。數年、この所にすんで、人をなやます也」

とかたる。萬吉、きゝて、

「その方は、なにがきんもつぞ」

と、いふ。

「われ、三年になりぬる、みそのせんじしるが、きんもつ也」

と云ふ。

「又、そのはうは」

と、とふ。萬吉、きゝて、

「我れは、大きなる鯛のはまやきが、きんもつにて、これをくへば、そのまま、いのち、をわり申す」

と、たがいにかたるうちに、夜は、ほのぼのと、あけにける。坊主も、いとまごひして、かへる。萬吉太夫は、ひらかた、たかつき、あたりへ、かたりきかせければ、みなみな、たちあひ、だんがうして、太夫のいわれしごとく、三年になるぬかみそをせんじて、かのくさびらに、かけゝれば、たちまち、じみじみとなり、きへにけり。そのゝちは、ばけ物、いでざりしと也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「萬吉太夫はけ物のしせうに成事」(歴史的仮名遣は誤り)。植物妖怪のテツテ的笑怪談。

「萬吉太夫」不詳。

「京上立うり」現在の京都市に「上立売通(かみだちうりどおり)」として現存する地名。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「さるがく」「猿楽・申楽」。ここは以下の「能」が「へた」(下手)であったがため、「しんだいをとろへ」(身代衰え:能楽師としての地位が落ちて、家が零落してしまい)た、というところを読めば分かる通り、能楽の旧称なので注意されたい。

「ひらかた」「枚方」。現在の大阪府枚方市。

「出ぢや屋」街道筋や道端などに小屋掛けをして出している簡易の茶店。掛け茶屋。

『「こゝに一夜の宿をからん」といへば、ちや屋、申しけるは、「やすき事にて候へども、此所には、よなよな、ばけ物きたりて、人をとり申すゆへ、夜はわれらもこゝにはゐ申さず」』これが江戸時代の設定だと、これは違法行為であり、泊まった万吉太夫も貸した出茶屋の主人も処罰される。当時は正規の宿駅の正規の旅籠業を営むところ以外では一般人は宿泊することもさせることも禁じられていたからである(行脚僧などは例外)。但し、それは表向きで、緊急や急病・疲弊などの折りに、こうした交渉と宿貸はしばしば行われた。しかしそれでも露見すれば、罰せられたことは知っておいてよい。但し、この時代設定は江戸よりも前とも思われるので、あまり問題にする必要はないか。

「川むかい」「川向ひ」。川向う。川は枚方の西北境界線を流れる淀川と見てよかろう。川幅はかなりあるが、渡って来るのは妖怪ですから、問題ありますまい。

「七尺」二メートル十二センチ。

「ゆたかなる」肉づきのいい。ぼってりとした。挿絵を見よ。

「さやうのばけやうにては、なし」「左樣の化け樣にては、無し」。「そのような生っちょろい化け様(よう)にては、化けたとは言われぬわ!」。

「ぢやくはい」「若輩」。経験が乏しく未熟であること。

「ばけてぎわ」「化け手際」。

「しやうぞく」「裝束」。

「女(ぢよ)らう」「女﨟」。高貴な婦人。

「ゑの木」「榎(えのき)」。歴史的仮名遣は誤り。バラ目アサ科エノキ属エノキ Celtis sinensis

「くさびら」「菌(くさびら)」。茸(きのこ)のこと。榎の根元だから、菌界担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ目タマバリタケ科エノキタケ属エノキタケ(榎茸)Flammulina velutipes を想起しての設定であることは明白。エノキダケは実際にエノキに生え、他にカキ・コナラ・クワ・ヤナギなどの広葉樹の枯れ木や切り株に寄生する木材腐朽菌である(「ナメコ」「ナメタケ」は本種の別称である)。参照したウィキの「エノキタケ」によれば、傘は直径二~八センチメートルで『中央が栗色あるいは黄褐色で周辺ほど色が薄くなり、かさのふちは薄い黄色またはクリーム色である。かさの表面はなめらかで強いぬめりと光沢がある。かさは幼菌では丸みが強く、のちしだいに広がり、まんじゅう型からのち水平に近く開く』とあり、ここででっぷりした坊主(様の頭)で出現するところもエノキダケを意識していると言える。

「きんもつ」「禁物」。禁忌物。天敵。

「三年になりぬる、みそのせんじしる」三年熟成させた味噌を煎じた汁。

「鯛のはまやき」「鯛の濱燒」。尾頭附きの鯛を塩焼きにしたもので、主に祝いの膳に用いる。本来は古来の入浜式塩田の製塩中の熱い塩の中に、獲れたての活け鯛を入れ、塩釜蒸し風にしておいて焼いたことから、この名があるようである。

「そのまま」たちまちのうちに。

「たかつき」現在の大阪府高槻市。まさに枚方の淀川を挟んだ対岸域。「くさびら妖怪」の本拠地である。

「かたりきかせければ」体験した奇体な事実を子細に語って廻ったところ。

「たちあひ、だんがうして」「立ち合ひ、談合して」。枚方と高槻の淀川沿いの主だった者たちが揃って集まり合い、申し合わせた上。

「太夫のいわれしごとく」「太夫の言はれし如く」。歴史的仮名遣は誤り。

「じみじみ」当初は溶け崩れてゆくさまのオノマトペイアかと思ったが、これは「ぢみぢみ」が正しいのではないかとも思われる。「地味地味」で、「形や模様などがはなやかで大きかったものが、忽ちのうちに溶け崩れて色褪せ、萎んでしまうさま」である。大ナメコの味噌汁は私の大好物であるが、かけて暫くすると、ナメコはくったりとなって、遂にはどろどろになって液状化してしまう。なんとなく、それを思うと、この「くさびら」のお化けも可哀想な気が、私はしてくるのである。]

2016/11/20

谷の響 三の卷 十九 鬼火往來す

 

 十九 鬼火往來す

 

 深砂宮の原(もと)宮といへる杉林の内に、五輪の石塔ありき。千年餘りのものにや、文字など更に見ゆることなく、すこしもさはるときはかけ崩るゝと言へり。さるに田舍館村なる土産神(うぶすなかみ)の社の林より、夜二更(よつ)の頃に至ればひとつの陰火飛揚(とび)來りて、この五輪の塔の傍におちて火耀(ひかり)をかくせるが、五更(なゝつ)に向んとするとき又陰火顯(あらは)れ出て、土産神の林の中に飛皈れりとなり。こは八月の下旬(すゑ)より十月の下旬までには幾囘(いくたび)もありて、そのあたりのもの間々見るといへり。されどその陰火林の何處(いづく)より出てけるにや、又五輪の傍に何地(いつぢ)隕(おち)けるにやたしかに見たるものなしといへり。こは田舍館村の三之丞といへるものゝ語りし也。

 

[やぶちゃん注:「深砂宮」底本の森山泰太郎氏の補註に『南津軽郡尾上町にある猿賀神社は、深砂大権現を祀るので深砂宮という。大同二年坂上田村麿創建の伝説がある』とある。現在は平川市尾上である。猿賀(さるか)神社も既出既注で底本の森山氏の補註に『南津軽郡尾上町猿賀(さるか)。津軽の古社猿賀神社』『で知られる』とある。現在は青森県平川市猿賀。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、「猿賀神社」公式サイト内の境内案合図を見ても、「原宮」というのはない。しかし、先のデータを航空写真に切り替えて見ると、本殿の周囲には鬱蒼とした森がある。本殿左手にある「矢場」の写真の背後には杉林と思われるものがあり、この本殿背後かその周辺を指していると考えてよかろう。

「千年餘りのものにや」本書は幕末の万延元(一八六〇)年成立であるから、千年前は八百六十年で、「猿賀神社」公式サイトの「由緒」ウィキの「猿賀神社」を見ると、「日本書紀」によれば、蝦夷討伐の将で仁徳天皇五五(三六七)年に伊峙水門(いしのみと)で敗死し、後に大蛇の姿になって蝦夷を平定したとされる上毛野君田道命(かみつけののきみ たじのみこと)は仁徳天皇五五年(三六七年)に『「勅命を受けて北夷の反乱平定のため東北地方に兵を進めたが、戦利あらず、伊寺の水門で戦死なさる。後に大蛇の姿となって平定した」とある。又社伝によれば「五十六年蝦夷の毒手に敗死なされ、従者その屍を仮葬し、賊を捨て帰京す。蝦夷その墳墓をあばくに、たちまち遺体大蛇と化して毒気を吐発す。土人大いにおそれて鹿角郡猿賀野に祀って産土神となす。その後、二百年の星霜を経て、欽明天皇二十八年(五六七年)に大洪水あり。この時、田道命の神霊、白馬にまたがり漂木を舟として流れにしたがい、当地に移遷し給う、当地住民神霊を迎え奉て古木(鍋木)の洞穴に祀る」と、云われている』。『桓武天皇の御代に再び暴夷を平定することになり、坂上田村麻呂将軍が兵を進め苦戦となった際、田道命の霊感を受けて大勝した。よって将軍は延暦十二年(七九三年)八月二十三日現在の地に祠を祀り、その趣を天皇に奏上した処、勅命により、大同二年(八〇七年)八月十五日社殿を造営、奥州猿賀山深砂大権現として勧請し、神威天長、国家安穏、黎民豊楽、悪鬼退散を祈願した。以来猿賀の深砂宮(神蛇宮)と崇められ御神徳四方に遍く、地方唯一の霊場と仰がれるに至った。かつては国司、探題、(藤原秀衡公、北畠顕家卿、阿倍氏代々等)の崇敬篤く、藩政時代に入り藩主津軽為信公により、祈願所と定められ社殿の改修造営、また社領の寄進などしばしばであった』とあるから、この大同二(八〇七)年以後のものではあろう。

「田舍館村」は既注で「いなかだてむら」と読み、弘前の北東に完全に同名の村として現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「土産神(うぶすなかみ)」本邦古来の土地神。ウィキの「産土神」によれば、『神道において、その者が生まれた土地の守護神を指す』。『その者を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられ』、『産土神への信仰を産土信仰という』。『氏神と氏子の関係が血縁を基に成立するのに対し、産土神は地縁による信仰意識に基づく。従ってその意識が強く表れるのは都市である。例えば京都では同族集団の結束が弱まり、地縁による共同体意識が形成されると共に、中世には稲荷神社、御霊神社、賀茂神社、北野神社などの有力な神社を中心に産土神を基にした産子区域の観念が発達した。そして産土詣での語が一般に使われるようになり、生まれた子の初宮参りをはじめ、成年式、七五三等に産土詣でをする風習が盛んになった』とあり、『産土神は安産の神である産神とも関連がある。現在は全国的に同族神としての氏神信仰が衰え、あらたに起こった産土神の信仰に吸収されていく傾向が多くみられる』とする。

「二更(よつ)」午後十時頃。

「飛揚(とび)來りて」二字へのルビ。

「傍」「かたはら」。

「火耀(ひかり)」二字へのルビ。

「かくせるが」「隱せるが」。

「五更(なゝつ)」午前四時頃。

「向んとするとき」「むかはんとするとき」。なろうかという時刻に。

「飛皈れり」「とびかへれり」。

「間々」「まま」。しばしば。

「その陰火林の何處(いづく)より出てけるにや」「その陰火、林の何處(いづく)より出てけるにや」。

「又」「また」。

「五輪の傍に何地(いつぢ)隕(おち)けるにや」五輪塔の傍らのどの箇所・位置に落ちるのやら。]

谷の響 三の卷 十八 落馬の地

 

 十八 落馬の地

 

 北浮田村より鯵ケ澤に通れる路に、砂坂といふ地(ところ)あり。此處にて落馬する時は必ず死に至れりと、往古(むかし)よりの言傳へなり。嘉永の初めにて有けん、御藏町の與惣といふものゝ嗣子(せがれ)、この土(ところ)にて馬より墮ちてさして骨の痛むにもあらざれば苦しむ由もなけれど、何となく病みつきて十日許りにして死せるとなり。かゝる類(たぐひ)のもの、十年には一二度ありと言へり。かゝる祟(たゝり)のある土(ところ)は、兩濱の街道の中に二三ケ所あるよしなれど、未だその實を得ず。

 

[やぶちゃん注:「北浮田村」底本の森山泰太郎氏の補註に『西津軽郡鯵ケ沢町北浮田(きたうきた)』とある。現在は西津軽郡鯵ケ沢町(まち)北浮田町(まち)である。ここ(グーグル・マップ・データ)で鰺ヶ沢の北東部に当たる。

「砂坂」不詳。

「嘉永の初め」嘉永は一八四八年から一八五四年まで.

「御藏町」複数回既出既注。現在の青森県弘前市浜の町のことと思われる。ここgoo地図)。「弘前市」公式サイト内の「古都の町名一覧」の「浜の町(はまのまち)」に、『参勤交代のとき、もとはここを経て鯵ヶ沢に至る西浜街道を通って、秋田領に向かっていました。町名は、西浜に通じる街道筋にちなんだと思われますが』、宝暦六(一七五六)年には『藩の蔵屋敷が建てられ、「御蔵町」とも呼ばれました』とある。

「與惣」地名人名では「よそ」と読むケースが多いようであるが、正しく読む「よそう」でもおかしくはない。

「兩濱の街道」「兩濱」(りようはま(りょうはま)とは、当時の弘前藩の「青森と鰺ヶ沢を中心とする流通統制機構」の呼称であるが、ここはその物資運搬の主幹道路となった両地を末端とする街道を指す。

「未だその實を得ず」未だにそうした不吉なスポットであるという事実や、事実ならばその真相・原因は何かということは全く分かっていない、という謂いであろう。実証主義に徹することを旨とした平尾としては、そうした謂われなき魔地というのは、信ずるにやや抵抗があったのかも知れぬ。]

谷の響 三の卷 十七 樹血を流す

 

 十七 樹血を流す

 

 目谷村市邑の毘沙門堂の境裡(けいだい)に佛桂(ほとけかづら)といふ樹あり。この樹は幹はもとより、小さき枝まても傷(きづつく)る時は血出るというて、土(ところ)の人析(き)る事を許さず。御藏町の善藏といへるもの、試し見んとて密(ひそか)に枝を析りたるに、如何にも淡紅(うすあか)き水出て他(ほか)の樹の類(たぐひ)にあらずと言へり。

 且説(さて)この樹を佛桂と言ふよしは、何(いつ)の頃にか有けん、村の杣士等この樹を伐りしに血の出る事人に一般(おなじ)かりければ、僉々(みなみな)寒慓(おそれ)て神に言和解(いひわけ)して、その木の中心(なか)にて高さ五尺ばかりの佛像を彫作(ほり)て、この桂の精を和(なご)め祭れるよりの名なりと言へり。その佛像今に毘沙門堂の中に安置せり。又、今ある佛桂はこの佛を作りし木の根株より出たる新(ひこばえ)とかや。さて、樹の血を出せることは和漢ともに間々あることなり。また此堂の林に池の杉といふて十抱周匝(とほかゝへまは)る古杉ありて、こを池の杉と號(なづ)くるは、兩又(ふたまた)の處に水溜りて魚の生れたるより呼し名なりと。今はその隻(かた)枝枯れて無れど、希らしき巨(おほ)杉なり。[やぶちゃん字注:「」=「木」+「卉」。]

 

[やぶちゃん注:「目谷村市邑」底本の森山泰太郎氏の補註に『西目屋村村市(むらいち)。砂子瀬より岩木川沿い下流に当る』とある。ここ(マピオン地図データ)。

「毘沙門堂」底本の森山泰太郎氏の「雌野澤」の補註に『いま鹿島明神。大同二年、坂上田村麿が勧請したという伝説がある。今も境内に杉の老木が多い』とある。YUKI氏のブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」の「鹿嶋神社 (鹿島神社)  毘沙門堂 (西目屋村村市)」が画像豊富で、なんたって本作の筆者平尾魯仙の「香取神社村市村区中の図」(青森県立郷土館蔵)もある! 必見!

「佛桂(ほとけかづら)」実和名にはありそうで、ない。私は野坂昭如の小説の中でも「火垂るの墓」についで熱愛する「骨餓身峠死人葛」(ほねがみとうげほとけかずら)でしか知らぬ。先のYUKI氏のブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」の「鹿嶋神社 (鹿島神社)  毘沙門堂 (西目屋村村市)」によれば、少なくとも当地には現存していない。

「御藏町」既出既注であるが、再掲する。現在の青森県弘前市浜の町のことと思われる。ここgoo地図)。「弘前市」公式サイト内の「古都の町名一覧」の「浜の町(はまのまち)」に、『参勤交代のとき、もとはここを経て鯵ヶ沢に至る西浜街道を通って、秋田領に向かっていました。町名は、西浜に通じる街道筋にちなんだと思われますが』、宝暦六(一七五六)年には『藩の蔵屋敷が建てられ、「御蔵町」とも呼ばれました』とある。「如何にも淡紅(うすあか)き水出て他(ほか)の樹の類(たぐひ)にあらずと言へり」樹液が赤いものは国外では幾つか知られ、単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科(或いはリュウゼツラン科)スズラン亜科ドラセナ属 Dracaena の仲間或いは同属のリュウケツジュ(龍血樹)Dracaena draco  マメ目マメ科マメ亜科ツルサイカチ連インドカリン属のブラッドウッド・ツリー Pterocarpus angolensis などが知られ、これは確かに血のように赤い。本邦でもミズキ目ミズキ科ミズキ属ミズキ(水木)Cornus controversa のように多量の樹液を分泌する種に、ある種の酵母が作用すると、薄い赤或いは橙色の多量の樹液を分泌することが知られている。私は見たことはないが、ネット上ではかなりの本邦での本種が赤い樹液を多量に滴らせている画像や動画を視認出来る。また、この「佛桂」の文字からは、ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ(桂)Cercidiphyllum japonicum が想起される。但し、カツラの木の樹液が赤いとは聴かない。しかし、。先のYUKI氏の「鹿嶋神 (鹿島神社)  毘沙門堂 (西目屋村村市)」を見ると、現在の鹿嶋神社拝殿内にある仏像は坂上田村麻呂の手彫りと伝えるが、これは彼がこの一帯を征服した際に「桂の木」を伐り出して彫刻したものであるとあり、また、

   《引用開始》

青森の伝説によりますと、『境内に、仏桂という老木があった。いつのころか、村の山子(木こり)たちがこの桂の木を切ったところ、血が流れ出した。そこで神様に詫び、その木で仏像を刻み、堂の中に安置して桂の霊を慰めたという。』

   《引用終了》

ともある(下線やぶちゃん。ただ、この記載は「仏桂」という名から無批判に「桂の木」と読み換えただけのように見える)。私が何故、かくも拘るかというと、「ほとけかつら」と和語で呼称する場合、「佛鬘(ととけかつら・ほとけかづら)」である可能性を完全には排除出来ず、仮にそうだとすると、その木はツル性植物或いは枝葉が蔓様になる樹木である可能性も出てくるからである(水木や桂ではそうはならない。但し、平尾は後で「桂」と書いてはいる。しかし、平尾がこの木を現認したという確証はなく、この全体の記載は聞き書きに過ぎない可能性を深く疑わせるから、彼が「桂」と書いたからといって狭義の「桂の木」に断定することは出来ないと私は考えるのである)。ともかくも、他に同定候補があるならば、是非とも御教授を乞うものである。

「杣士」木樵(きこり)。

「寒慓(おそれ)て」二字へのルビ。

「言和解(いひわけ)して」三字へのルビ。木の出血を神の怒りと見たのである。木の出血はダイレクトに山(大地)の「穢れ」を意味するから、木樵らはそれによって山に入ることを畏れ、仕事が出来なくなってしまうのである。そこでそれを謝罪し、出血した木を神木となし、崇め奉ってその怒りを鎮めたのである。これは一種の御霊信仰と同義的であると言ってよいと思われる。

「その木の中心(なか)にて」伐ってはまずいのだから、ここはその「佛桂」に自然に出来た洞(うろ)である。

「五尺」一メートル五十センチ。

「その佛像今に毘沙門堂の中に安置せり。又、今ある佛桂はこの佛を作りし木の根株より出たる新(ひこばえ)とかや」「新(ひこばえ)」(「」=「木」+「卉」)は「蘖(ひこんばえ)」で新芽を出して伸びた新たな同木の意。先のYUKI氏の「鹿嶋神社 (鹿島神社)  毘沙門堂 (西目屋村村市)」に現在の同社殿内には坂上田村麻呂手彫りと伝承する(単なる伝承)二体の仏像が安置されており(一体は破損)、その高さはそれぞれ約一・四メートルと一・八メートルとある。前者の大きさはこれに近い。

「樹の血を出せることは和漢ともに間々あることなり」前掲注参照。

「池の杉」先のYUKI氏の「鹿嶋神社 (鹿島神社)  毘沙門堂 (西目屋村村市)」に、『池の杉・竜の杉と呼ばれる老杉の幹があり、昔は中ほどから折れ、くぼみには雨水が溜まって池となり、フナが住み着いていたと伝えます。この池には竜神も宿っており、日照りが続くと姿を現して雨を降らせたという伝説もあります。現在はこの木は存在しないようです』とあり、さらに、『菅江真澄が以下のように記しています『太秋(たやけ、大秋)という村にはいり、左方に鶴田というところも見えて、危げな橋をわたり、郷坂というおそろしいほどの坂を左にして、ふか沢という、たとえようもないやけ山にわけいった。滝の沢というところをへて、遠方に合頭という岳を眺め、川にそってはるかにたどり、村市村を過ぎて、つづら折りの道をくだり、大路にでて、ここに宿を求めた。(中略)藤川という村の、こちらの畳平という村からはいり、おおひらの山の麓、守沢というあたりに、大同年間の由来をもつといい伝えられている多門天の堂があった。(中略)六、七尺ほどの朽ちた古像がふたつたっていた。この堂の後方に人の丈の高さのところではかると、周囲七尋』(十二メートル程)『ばかりある大杉があった。(中略)この幹の真中あたりのところが朽ちて、その空洞に水がたまり、これを池の杉とよんでいる。三枚平という峰にのぼって、この杉の真中の空洞をみていると、ときには鮒のおどることがあるなどと、案内人が指さし見上げながら語った。』』と引かれておられる。菅江真澄の図もあるので是非、リンク先を参照されたい。底本の森山氏の補註に『菅江真澄の「雪のもろたき」(寛政八年)にこの杉を観察した記事がある。「此堂のしりに、人のたけしたる処にはかれば、七尋斗めぐる大杉あり。此木のなから斗[やぶちゃん注:「ばかり」。]折くちて、そのうつほに水渟りぬ。これなん池の杉とて、むかしより今猶立てり。三枚