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2016/11/01

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (一)

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:本日より、佐野花子の手になる随想「芥川龍之介の思い出」の電子化に着手する。

 佐野花子は明治二八(一八九五)年生まれで、昭和三六(一九六一)年八月二十六日に亡くなっており、没後五十四年が経過しており、パブリック・ドメインである。

 彼女(旧姓は山田)は長野県諏訪郡下諏訪町東山田生まれで、諏訪高等女学校(首席卒業。現在の県立長野県諏訪二葉高等学校)から東京女子高等師範学校文科(現在の御茶の水女子大学)に進んだ。歌人でもあった(以下の底本には「遺詠」と題した歌集パートがある)。女子師範を卒業して一年で佐藤慶造(明治一七(一八八四)年~昭和一二(一九三七)年)と結婚した。夫慶造は、芥川龍之介が東京帝大卒業後、横須賀の海軍機関学校で英語の教官をしていた折の同僚(但し、芥川は明治二五(一八九二)年生まれで慶造よりも八つ年下で、花子より三つ年上であった。龍之介の同校着任は大正五(一九一六)年十二月一日附で、当時は満二十四(龍之介は三月一日生まれ)であった)の物理教官で、同校勤務中の約二年余り(芥川の同校退職は大正八(一九一九)年三月三十一日)、妻花子とともに親しく龍之介と交流した

 底本は昭和四八(一九七三)年短歌新聞社刊の佐野花子・山田芳子著「芥川龍之介の思い出」(「彩光叢書」第八篇・初版)の内、佐野花子筆になる「芥川龍之介の思い出」を用いる。なお、山田芳子氏は佐野慶造と佐野花子との娘さんである(因みに、同書には山田芳子氏の「母の著書成りて」及び「母を偲ぶ歌」が併載されている。そのため、共著となっているのである。母花子の遺稿とカップリングで本書は刊行されたものである。なお、私の所持する本書は「潮音」の歌人であった父方の祖母から生前に貰い受けたものである)。

 恐らく、本作をお読みになられると、その内容に驚愕される方が多いかと思われる。

 但し、現在、芥川龍之介研究者の間では、そこに語られた内容は――佐野花子の妄想の類いといった一部の者の辛辣な一言で――まず、まともに顧みられることがないのが現実である。

 私は、佐野花子と芥川龍之介、彼女の書いたこの「芥川龍之介の思い出」の内容と実際の芥川龍之介の事蹟との関係について、身動き出来る範囲内では、いろいろと考察してきたつもりである。それらは私のブログ「Blog鬼火~日々の迷走」のカテゴリ「芥川龍之介」の記事として、古い順に以下のようなものがある。

 

「月光の女」(二〇〇六年六月十六日の記事)

 

『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察』(二〇〇七年二月一日の記事)

 

『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」のロケ地同定その他についての一考察』(同前二〇〇七年二月一日の記事)

 

『芥川龍之介 僕の好きな女/佐野花子「芥川龍之介の思い出」の芥川龍之介「僕の最も好きな女性」』(二〇〇七年二月三日の記事)

 

『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察 最終章』(二〇〇七年五月五日の記事)

 

そこで推理もしたように、確かに佐野花子の「芥川龍之介の思い出」の叙述の中には、ある思い込みや思い違いに基づくと思われる箇所が実際にあり、そうした誤認を後年の佐野花子が事実として信じ込んでしまっていた、芥川龍之介の遺稿「或阿呆の一生」の中に登場する――謎の「月光の女」――を間違いなく自分自身だ、自分でしかあり得ない、と堅く信じてしまった、と考えられる節も、確かにある。

 しかし、私は、それによって本随想が芥川龍之介研究の資料として価値を失っているとは毛頭、思わないのである。実際、本書には、他のどこからも見出すことが出来ない、芥川龍之介の未発見初期俳句六句を見出せるのである(「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」を参照。私はこれだけでも本作は評価されてよいと信じている)。

 研究家の――妄想の類い――といったような非礼な一言によって葬られてしまった佐野花子と、この「芥川龍之介の思い出」は、今一度、復権すべきであると私は強く感じている。芥川龍之介研究に佐野花子を「アブナい」ものとして埒外おいておくのは、とんでもない誤りであると私は真剣に考えているのである。

 句などは読み易さを考えて、前後を行空けとした。注の形で補足するによいと思った事柄を添えてある。【二〇一六年十一月一日始動 藪野直史】]

 

 

 芥川龍之介の思い出  佐野花子

 

 

       ㈠

 

 買物に出て、ふと「羅生門」の映画看板を見たのが、思い出のそもそもの発端となりました。めったに映画を見ない私が、珍しく体調のよい日に、町へ出かけ、買物袋を片手に、まだ時間のあるのを幸い映画館にはいってスクリーンに眼を向けましたのも、「羅生門」 の作者が芥川龍之介だったからでございます。

 初版本の「羅生門」の扉に、

 

 干草に熊手かけたりほととぎす 龍之介

 

としたためて、自ら持参してくれた彼、龍之介のおもかげと、あの頃の新居、横須賀の海岸、ほのかに血のめぐっていた自分、還らぬ映像を思い起こして耐えられない懐かしさに襲われたのでございました。私は、やはり目まいを覚えながら帰宅し、あけくれ寝たり起きたりの中で、俄かにあせりを感じながら、ノートにたどたどと書きはじめたのです。それは日に日に早くなり、息もつげないような気持ちに私を駆り立てて行きます。疲れると臥したまま、そばにいる娘に語り聞かせていました。私は命のもう長くないのを感じています。人にはどう思われようと、私にとりましては唯一つの淡い光のような追憶でございました。

 まあ、あれから幾星霜を経たというのでしょう。彼は若くして自命を断ち、私の夫、佐野慶造さえも、最早、地下に眠ってしまいました。それからしても十数年は経ています。

 思えば私には二人の男の子もありましたが長男は東京震災のとき、次男は第二次大戦の東京空襲のとき、それぞれに命を落としております。今は一人娘になった芳子と、その婿と二人の孫との生活でございますが、病魔に魅入られ、それなりに思い出を友として走り書きの毎日を送ることになりました。

 私の枕元にある現代日本文学全集二十六「芥川龍之介全集」筑摩書房刊(昭和二十八年九月二十五日発行)の年譜等を辿ってみますと[やぶちゃん注:太字は底本を再現。「全集」はママであるが、これは「芥川龍之介集」の誤りである。]、

 大正五年、二十五才のとき芥川龍之介は、第一高等学校教授・畔柳都太郎の紹介で、十二月一日から、横須賀の海軍機関学佼嘱託教官となり、そのため十一月下旬から住いを鎌倉に移すとあり、他に詳しくは、大正六年二十六才のとき下宿を鎌倉から横須賀に移したこともございます。このとき私は夫、佐野慶造と共に、この横須賀に住みまして、勤務先は彼と同じ機関学校にて、夫は、物理教官、彼は英語教官として既に文名も高かったのでございますが三人の親交はこの時に結ばれました。大正八年三月、彼が同校を辞し、大阪毎日新聞社員となるまでの期間でございました。夫と彼は畑違いではありましたが、たいへんに親しくしていただきました。それと申しますのも、人の善い夫は、文筆のほまれ高い龍之介を友とすることを喜び、進んで親交を求めたからでもございましょうか。文学に興味を持つ妻としても、私を彼紹介してくれました。

 大正六年四月の或る土曜日でしたが、私たちは新婚旅行に出るため、横須賀駅へまいりました。そのとき丁度、すれ違いに彼と出会ったのが、最初のお見知り合いでございましてまったく遇然ではありましたが、鎌倉までご同乗下さり、そこでにこやかにお見送り下さいました。

 「やあ。佐野君」

 「おお。これは芥川さんでいらっしゃる。これは妻です。お茶の水女高師文科の出で」

 「おお。これは、月の光のような」

と呟やかれました……。鶴のような長身にぴたりと合う紺の背広。右手にステッキ。束の間の出会いではございましたが、

 

 春寒や竹の中なる銀閣寺  龍之介

 

としるした美しい絵葉書は、すぐ後に届けられてまいりました。私どもはその筆蹟に見入り、発句に感じ、たいせつに手箱の底へ収めたものでございます。京都からの便りでした。

 新婚旅行も土曜日でございましたが、それからあと、毎土曜日といってよい程、彼を招き、彼に招かれという交際がつづきました。新居にもお招きしましたが、そのころ鎌倉に「小町園」という料亭がございまして、ここの離れ座敷で、招いたり、招かれたりの土曜の夜は本当に三人とも楽しさに心あたたまり「お千代さん」という片えくぼのある女中さんや、「お園さん」という肥った女中さんがもてなしてくれました。彼が主人役のときには、ここに泊って私たちを夜ふけまでもてなし、一高時代の思い出話はカッパ踊りとなって座敷中に笑いを散らしました。私も初めは人見知りをしてろくに口もきけませんでしたが、いつか親しんで彼と意見を交わすほどにまでなって行きました。

 そのころの彼の手紙は次のような文面で書かれていました。

 「昨晩はご馳走さまに相成り有難くお礼申し上げます。実に愉快でした。今日もまだ酔いの醒めぬ思いで少しフラフラしています。駘蕩として授業も甚だいいかげんにやりました。今一度、来週の土曜日に小町園までお出かけ下さいませんか。お礼かたがたお誘いまで。奥さんによろしく」

 こうして土曜日を待つのが習慣になりました。初めの内気な気持ちは弾むようになっていそいそと日が経ち、土曜日はすぐやって来ました。田舎育ちの私は、とくに洗練された東京の文士の前に出るのは、身づくろいにおどおどする思いでした。夫はいろいろと注意してくれ、束髪に結わせ、襟におしろいを刷くことなども言ってくれました。母の心づくしの藤色の小袖や、紫のコートなどを身につけるにも消え入りたい気持ちだったのです。それがしだいに軽く済ませるようになり、心も弾み、話も自然にできるようになったのですが、彼を二人とも尊敬し敬愛したからにほかなりませんでした。

 お千代さんもお園さんも、呼吸をのみこんでしまい、

 「芥川さま。お待ちかねでございます」

と飛んで出てくるようになってしまいまして何とも楽しいあの頃であったと、ため息の出る今の私でございます。……前週には満開をほこっていた桜もチラホラと敷り敷いて、庭は一めんの花のしとねでございました。[やぶちゃん字注:「敷り敷いて」はママ。「散り敷いて」の誤りではあるまいか。]

 男二人はしきりに盃を重ね、私は彼の好意でブドウ酒に頰を染めたりしたようでございます。

 また、新居の六畳の部屋に彼を招いたことが何度ございましたろうか。テーブルに白布を掛け一輪ざしには、何か庭の花を入れ、故郷信濃から送られた山鳥で、山鳥鍋を供しましたときは、ことのほかご気嫌でして、

 「奥さん。ぼく、この山鳥鍋というのにはまったく感心しましたよ。よいことをお教えしましょう。これからお里へ手紙を出されるたびに、山鳥おいしかったと必ず書いてお上げなさい。すると又、きっと送って来て、ぼくはご馳走になれると、こういうことですよ」

 どうですかという様に彼は眼をかがやかせるのです。私はその彼らしい機智をほめ、心から嬉しく思ったものでした。

 

 麗らかやげに鴛鴦の一つがひ  龍之介

 

 この一句は上気嫌の彼の唇から洩れたものでした。

 彼は若い卓越した作家であり、会話も軽妙で、皮肉やユーモア、それに可成、辛辣なことばを吐く人でした。人の善い好人物の夫と、鋭い龍之介との会話はまことによい対比をなしていました。しかし、私を交じえていることを彼は決して忘れず、礼を失するようなことはしませんでした。東京育ちの垢ぬけした応待の中には女性を疎外せぬ思いやりがあったと思いますのです。それだけに、お上手やご冗談もたくみで、私はいつもその意味でうまく交わしておりました。

 「佐野君はよい奥さんをお持ちで羨やましい」とか「ぼくは、どうしたらよいのでしょう。一生、独身でいようかしら」などというふうなことばに対して、程のよいご冗談に過ぎぬと流していたのです。が、小町園の離れ座敷である宵のこと、お千代さんに命じて、硯と墨を持って来させ、すらすらと白紙に善かれましたのは、

 

 かなしみは君が締めたるこの宵の印度更紗の帯よりや来し  龍之介

 

 「さて、ご説明申し上げましょう。よい奥さんを持たれて羨やましい。心ひかれる女性だ……とこういう意味ですよ」

とのことでありましたが、これとて私は、滑らかな社交辞令と受けとりました。

 「奥さんの眼は美しい」

と、じつと見入られたこともありましたし、

 「ぼくは月のひかりの中にいるような人が好きだ。月光の中にいるような」

ということばも聞いております。それは彼、芥川龍之介の理想の女性像であったのです。何げないふうで言われることばは、私にとも誰にともなく、そして私に聞けというふうでありました。

 勤務の都合から、夫の帰宅の遅い夜、案じていますと、玄関に足音がして、戸がひらかれるや、夫のうしろに彼の顔が重なる帰宅というのもありました。

 こうして交友の間がらは、のどかにつづいて行きました。

 

[やぶちゃん注:『買物に出て、ふと「羅生門」の映画看板を見たのが、思い出のそもそもの発端となりました』本随想の執筆の契機である。黒澤明監督の映画「羅生門」は昭和二五(一九五〇)年八月二十六日に公開されている。

『初版本の「羅生門」』芥川龍之介の第一作品集「羅生門」は阿蘭陀書房より大正六(一九一七)年五月二十三日に刊行されている。

「干草に熊手かけたりほととぎす   龍之介」芥川龍之介の句としては未発見句で、現行の芥川龍之介の作とされる句には類型句さえ見当たらない。作句推定は、五月二十三日の「羅生門」上梓の直後の、この献本が行われたであろう大正六(一九一七)年半ば辺りより以前で、純粋な花子への贈答句の可能性の高さと考えると、大正六年四月より前には遡らない。それは、芥川の海軍機関学校への就任が大正五年十二月三日であり、佐野花子が夫によって芥川に紹介されたのが、「大正六年の四月のある土曜日」と記されていることからの推定である。「羅生門」の献本が、その後の佐野夫妻との交友が深まった後のことと考えられ、また献本の叙述に直後に「あの頃の新居」という表現が現れていることから、これが佐野夫妻の結婚からさほど隔たった時期ではないと推測する故でもある。

「ほのかに血のめぐっていた自分」「私は、やはり目まいを覚えながら」「あけくれ寝たり起きたりの中で、俄かにあせりを感じながら」「疲れると臥したまま」「私は命のもう長くないのを感じています」「病魔に魅入られ」これらの病態は、判る人には判るのであるが、結核の典型的な症状とは言える。事実、同書には山田芳子氏の「母の著書成りて」の中に、戦前・戦中に『労苦の末に結核にかかって臥床した母』とある。但し、死因がそうであったかどうかは不明である(因みに私(昭和三二(一九五七)年生まれ)も昭和三十三年に結核性カリエスに罹患したが(昭和三十六年半ばに固定治癒)、その頃にはストレプトマイシンなどが比較的安く手に入るようにはなっていた)。

「唯一つの淡い光」まさに花子にとってその「追憶」は「月光」なのであった。

「長男は東京震災のとき」長男佐野清一。同前の「母の著書成りて」の中に、『赤痢で病死し』たとある。

「次男は第二次大戦の東京空襲のとき、」「命を落としており」次男佐野由信。

「畔柳都太郎」(くろやなぎくにたろう 明治四(一八七一)年~大正一二(一九二三)年)は英語学者・文芸評論家。山形生まれ。仙台二高を経て東京帝国大学に入学、同大学院在学中に『帝国文学』に執筆、以後、『太陽』『火柱』『明星』にも文芸評論を寄稿した。明治三一(一八九八)年より一高英語担当教授となった(龍之介はその時の彼の教え子であった)。その間、早稲田・青山学院・正則学校でも教えた。明治四十一年からは「大英和辞典」編纂に心血を注いだが、完成前に病没した(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「十一月下旬から住いを鎌倉に移す」神奈川県鎌倉町和田塚(現在の鎌倉市由比ガ浜)の「海浜ホテル」の隣りあった「野間西洋洗濯店」の離れに下宿した。なお、この海軍機関学校に就職した十二月には龍之介の友人山本喜誉司の姪塚本文(ふみ)と婚約し、文の卒業を待って結婚する旨の縁談契約書を取り交わしている

「大正六年二十六才のとき下宿を鎌倉から横須賀に移した」大正六(一九一七)年九月十四日に鎌倉から転居し、横須賀市汐入の資産家尾鷲梅吉方の二階の八畳に間借りした。

「大正六年四月の或る土曜日」同年四月の土曜日は七・十四・二十一・二十八日であるが、直後に「京都からの便り」があったとあり、芥川龍之介はこの四月十一日から養父道章とともに京都・奈良に旅行しているから(帰京(田端の実家へ)は十五日の日曜)、この花子と龍之介の運命的出逢いは四月七日に同定されるのである

「おお。これは、月の光のような」私はこれを花子の妄想だなどして一蹴出来る人間では断じて、ない

「春寒や竹の中なる銀閣寺  龍之介」岩波旧全集書簡番号二七八に出る句。四月十三日附で佐野慶造宛。以下、全文。旧全集には絵葉書とはないが、これは確かに花子の叙述通り、絵葉書と思しい。

   *

 

   春寒や竹の中なる銀閣寺

 

    十三日           芥川生

  奥さまにおよろしく先日は失禮しましたから

 

   *

「小町園」現在の横須賀線ガードの逗子側の陸側に、かなり広い敷地を持って建っていた和風料理店(現存しない)。東京築地本店の支店であったが、ここの女将野々口豊(既婚者)は。後に、やはり芥川龍之介が思いを寄せることとなる女性の一人で、龍之介は自死の前年末から当該年正月にかけて、ここに、一種の「プチ家出」のようなことをして、なかなか田端へ帰らなかったりしている芥川龍之介の秘められた女性関係の中では最重要ランクに属する愛人の一人である。但し、高宮檀氏の『芥川龍之介の愛した女性――「藪の中」と「或阿呆の一生」に見る』」の堅実な調査と考証によれば、野々口豊が鎌倉小町園の経営を任されていた野々口光之助と正式な結婚をするのは大正七(一九一八)年九月五日のことで、高宮氏は豊と龍之介が初めて逢ったのも(単なる初会の意である)同年三月二十九日(この日に芥川龍之介は二月二日に結婚した新妻とともに鎌倉町大町字辻の小山氏別邸に新居を構えており、ここは小町園の直近であった。因みに、私、藪野家の実家は、この龍之介の新居の直近である)以降とするので、佐野夫婦が豊を知ったとしても、それは、この記載よりもずっと後のこととなる。

「カッパ踊り」単なる幇間的な仕草のことか。芥川龍之介は好んでは酒は飲まなかった(飲めなかったわけではないようである)。従って酔っぱらって羽目を外し過ぎ、馬鹿囃子の幇間芸をした、と言った感じではないと思われる。彼女自身が後で「私を交じえていることを彼は決して忘れず、礼を失するようなことはしませんでした」と述べている通り、「月光の女」花子の前で、そんなことは、あの芥川龍之介が、やるはずが、ないのである。

「昨晩はご馳走さまに相成り有難くお礼申し上げます。実に愉快でした。今日もまだ酔いの醒めぬ思いで少しフラフラしています。駘蕩として授業も甚だいいかげんにやりました。今一度、来週の土曜日に小町園までお出かけ下さいませんか。お礼かたがたお誘いまで。奥さんによろしく」この書簡は旧全集には載らない。この謂いも、二日酔いというのではなく、酒の気に当てられたといった表現と読める。「駘蕩」はこの場合、ふわふわとした、なんともはや、ゆったりした気持ち、と言ったニュアンスである。

「刷く」老婆心乍ら、「はく」と訓ずる。「はけでさっと塗る」の意。

「麗らかやげに鴛鴦の一つがひ  龍之介」「麗(うら)らかや 實(げ)に鴛鴦(ゑんわう)の一つがひ」現行の芥川龍之介の俳句群に類型句はなく、花子の記憶が正しいとすれば、数少ない口誦記録の龍之介俳句で、文字化されていない可能性も孕む、極めて稀な新発見句といえる。芥川と文の結婚話の以前のエピソードであり、純粋な花子への贈答句の可能性の高さと佐野花子の直前の叙述等から考えると、大正六(一九一七)年の五、六月辺りではないかと推測される。

「可成」「かなり」。

「佐野君はよい奥さんをお持ちで羨やましい」「ぼくは、どうしたらよいのでしょう。一生、独身でいようかしら」私は芥川龍之介なら、こういう台詞を歯を浮かせることなく、相手に言えるダンディズム(半ばは演出として、半ばは本音として)を備えていたと思っている。特に、芥川龍之介は翌年(実際のそれは大正七年二月二日)に文との結婚を控えていただけに、私は「なおさら」だと思うのである。深層に吉田弥生との不幸な失恋の心傷(トラウマ)を抱えて込んでいた龍之介の心底を覗かすこれらの台詞、特に後者が、確かに芥川龍之介から発せられた密やかな告解でもあったのだと思っているくらいである。

「かなしみは君が締めたるこの宵の印度更紗の帯よりや来し  龍之介」この一首は岩波版新全集詩歌未定稿に載るもので、実際の創作は龍之介が花子に出逢うより遙か前のものである。Lucio Antonio の変名署名で書かれた歌群「さすらへる都人の歌」(八群九首)の第六歌で(全容はやぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注を参照されたい)、

 

 

 

かなしみは 君がしめたる 其宵の

 印度更紗の帶よりや來し

 

とある。旧全集書簡番号一〇七の大正二(一九一三)年九月十七日(推定)附の山本喜誉司宛書簡(ここにはこの頁にない多量の短歌群を見出せる)の末尾に「ANTONIO」の署名が見られる(因みにその後に宛名として山本喜誉司のことを「DON JUANの息子へ」と呼称している)。因みに「Lucio Antonio」から即イメージされる著名人物は作曲家Antonio Lucio Vivaldiアントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディである。これらの歌群は大正三(一九一四)年夏に執筆されたものと推測され、この「かなしみは」を含む「黑船の」「海はいま」「君が家の」「初夏の」の五首は、ほぼ相同(字配は大きく異なる)のものが、後に掲げる大正三(一九一四)年九月発行の『心の花』に「柳川隆之介」の署名で掲載された「客中戀」に含まれている。この「印度更紗」は「インドさらさ」と読む。ポルトガル語“saraça”に由来。主に木綿の地に人物や花鳥獣類の模様を多色で染め出したもの。室町末期にインドやジャワなどから舶載されるようになり、国内でも生産が始まった。直接染料で模様を描く描(か)き更紗や、型を用いて捺染(なっせん)したものなどがある。十六世紀末のインドで極上多彩の木綿布を“saraso”また“sarasses”と呼んだところからの名という。印花布。花布(以上「印度更紗」の注は「大辞泉」の記載を参照した)。即ち、この歌は以下に龍之介が解き明かすような、佐野花子へ捧げた一首ではないということである。但し! 芥川龍之介は、極めて頻繁に、こうした過去に別の女性に捧げたり、献じたりした詩歌などを、改作したり、或いはまたそのまんまで、新しく心を動かした女性に恥ずかしげもなく、贈っているのである。しかしそれは彼のドン・ファン性というよりも、詩的な感動の普遍性ととって私はよいとさえ感じているとも言っておく。

「さて、ご説明申し上げましょう。よい奥さんを持たれて羨やましい。心ひかれる女性だ……とこういう意味ですよ」『「奥さんの眼は美しい」と、じつと見入られたこともありました』「ぼくは月のひかりの中にいるような人が好きだ。月光の中にいるような」「ということばも聞いております。それは彼、芥川龍之介の理想の女性像であったのです。何げないふうで言われることばは、私にとも誰にともなく、そして私に聞けというふうでありました」これらの花子の追憶のどこに――妄想――があろうか?! これは確かに芥川龍之介が口にしたとして、全く自然なものではないか!

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