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2016/11/25

甲子夜話卷之三 7 津輕領三馬屋渡の事

 
3-7 津輕領三馬屋渡の事

鳥越邸の隣家川口久助は、當御代替のとき陸奧國の巡見に赴し人なり。一日、予陸奧より蝦夷に渡る海路のさがしさを問ければ、答に津輕領の三馬屋より船出し、松前に着とき、船出せし日は風殊に強く吹て浪高かりしまゝ、日和惡かるべしと言に、船子の言に、此渡りに潮道三處あり。潮急にして濟ること難し。日和なれば船潮の爲に流漂て渡ることを得ず。因てこの如き風力にて濟と言しが、いかにも沖へ出、かの急潮の所に至りては、さしも大なる船のさかしまに湧かへり、流行く巨浪に堪かぬべくありしが、強風に吹ぬかれて、その浪を凌、三處の難所を濟り着たり。舟中の苦は云計なしと。かの急潮の所は、たつぴ、中の汐、白上といふなり。又松前の白上山に登り、海面を臨見るに、三の潮道、海面に分り見えて、その潮行のところ、海より隆くあがりて見ゆ。いかにも海底に危石嶮嚴のあるゆへ、海潮もこの如きやと云り。西の國の海路には見聞せざる事なり。

■やぶちゃんの呟き

「津輕領三馬屋渡」底本の目次は「三馬屋」に『みうまや』とルビする。これは青森県東津軽郡の北西、津軽半島最北端に位置する三厩(みんまや)である。現在の行政地名は東津軽郡外ヶ浜町三厩。ここは蝦夷地へ渡る際の本土側の湊(みなと)であった。サイト「発祥の地コレクション」の「三厩村名発祥の地」によれば、ここは義経北行伝説の一つに挙げられる地で、現在の三厩港の西側にある義経寺の東に松前街道に面して「厩石(うまやいし)」と呼ばれる岩があり、その付近には「義経渡道之地」や「三厩村名発祥の地」という石碑が建っているとされ、以下、そこの「厩石の由来」の説明板が電子化されてある。以下に引かさせて頂く(コンマを読点にし、アラビア数字を漢数字に代え、一部の表記を変更した)。『文治五年(一一八九年)、兄頼朝の計らいで、衣川の高舘で藤原秦衝に急襲された源義経は、館に火をかけ自刃した。これが歴史の通説であるが、義経は生きていた! 藤原秀衡の遺書(危険が身に迫るようなことがあったら館に火をかけ,自刃を粧って遠くの蝦夷が島(北海道)へ渡るべし)のとおり北を目指しこの地に辿り着いた。近くに蝦夷が島を望むが,荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡ることが出来ない。そこで義経は海岸の奇岩上に座して、三日三晩、日頃信仰する身代の観世音を安置し、波風を静め渡海できるように一心に祈願した。丁度満願の晩に、白髪の翁が現れ、「三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい」と云って消えた。翌朝厳上を降りると岩穴には三頭の龍馬が繋がれ、海上は鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷が島に渡ることができた。それから、この岩を厩石、この地を三馬屋(三厩村)と呼ぶようになりました』。なお、その後にサイト編者によってここ三厩は『江戸時代になり蝦夷地の開発が進むにつれて、三厩は奥州街道の本州側の最終宿場町として重要な拠点となり、本陣・脇本陣が設置され、三厩湊は蝦夷地への中継地・風待ち場となり、また蝦夷地からの物資を取り扱う廻船問屋が軒を連ねる賑わいとなった』と記されてある。

「鳥越」不詳。江戸切絵図を精査すれば、判るとは思うが、その時間的余裕が私にはない。悪しからず。発見された方はお教え願えると、嬉しい。

「川口久助」地理学者で「西遊雑記」「東遊雑記」等の紀行や江戸近郊の地誌「四神地名録」で知られる古川古松軒(ふるかわこしょうけん 享保一一(一七二六)年~文化四(一八〇七)年)のウィキに、古川は天明七(一七八七)年に『東北地方を目指して旅立ったが、米価騰貴のため江戸の実子・松田魏丹宅に滞在し、時期を見計らっていた。翌年春、何らかの理由で水戸藩長久保赤水の知遇を得、急拵えで絵図を作り見せたところ、赤水も古松軒の実力を認め、以降親しく交流』、『赤水から水戸藩または柴野栗山を通じて』、『幕府巡見使の随員に採用され、巡見使藤波要人、川口久助、三枝十兵衛に従い』、『奥羽地方及び松前を巡』って、「東遊雑記」を著した、とある(下線やぶちゃん)。その旅程は同年五月六日に『江戸を出発、奥州街道を北上して陸奥国に入り、出羽国を通って』七月二十日に『松前に到着』(松前は現在の北海道南部の渡島総合振興局管内にある松前町で、渡島半島南西部に位置する)、八『月中旬まで滞在した後、陸奥国太平洋側を巡り、水戸街道経由で』十月十八日、『江戸に帰着した』とある。まず、この幕府巡見使川口久助が本記の人物であり、本内容も、その際の体験と断じてよい。

「當御代替のとき」天明七年は前年の徳川家治に死(天明六年八月二十五日)を受け、四月十五日に徳川家斉が正式に第十一代将軍となった年である。

「赴し」「おもむきし」。

「予」静山。

「さがしさ」「嶮しさ」「險しさ」で「嶮(けわ)しさ・嶮岨(けんそ)さ」或いは「危難」の意。

「問ければ」「とひければ」。

「答」「こたへ」。

「着とき」「着く時」。ここは三厩を船出して松前に着くまでの謂い。先の引用から松前到着は天明七(一七八七)年七月二十日で、これはグレゴリオ暦で九月一日に当たり、台風などの天候不順も疑われる。

「吹て」「ふきて」。

「日和惡かるべし」「ひよりあしかるべし」。川口が船頭に言った台詞。「船出するには、日和が如何にも悪かったようだなあ。」。

「言に」「いふに」。

「船子」「ふなこ」。船頭。

「此渡りに潮道三處あり」「このわたりに(は)しほみちみところあり」。この渡海のルート上には三通りの悪しき潮の流れがある。

「濟る」「わたる」。渡る。

「日和なれば」日和がよいと却って。

「潮の爲に」風よりもその三つの潮の流れが、これ、ひどく強く船に作用するために。

「流漂て」「ながれただよひて」。

「因てこの如き風力にて濟」「よつてこのごときふうりよくにてわたる」。だからこそ、逆に、このような悪しく見える風の折り、その潮に負けぬ強い風力によって渡るのだ、と船頭は言うのである。目から鱗。

「出」「いで」。

「急潮」「はやしほ」と訓じておく。

「湧かへり」「わきかへり」。船がピッチングすることを指すのであろう。

「流行く」「ながれゆく」。

「巨浪」「おほなみ」と訓じておく。

「堪かぬべくありしが」「たへ兼(か)ぬべくありしが」耐えかねる(沈没しそうな)ほどの有様であったが。

「吹ぬかれて」「ふきぬかれて」。

「凌」「しのぎ」。

「濟り着たり」「わたりつきたり」。

「云計なし」「いふばかりなし」。

「たつぴ」現在の本土側の青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩龍浜にある津軽半島の最北端の津軽海峡に突き出た岬、竜飛崎(たっぴざき)に由来する呼称であろうが、「龍が飛ぶ」はまさに速い潮に相応しい。

「中の汐」「中の潮」で、津軽海峡の三つの速い潮流の中央のそれを指すのであろう。

「白上」以下に出る蝦夷の松前の東にある「白上山」、現在の白神岳(北海道松前郡松前町。標高三五一メートル)及びその南端の白神岬に由来するものであろう。蝦夷側の本土から渡海する際の最後の急流である。

「臨見るに」「のぞみみるに」。

「潮道」「しほみち」。

「海面に分り見えて」海水温やプランクトンの違いによって、その三筋の海流の色が、肉眼でくっきりと分かれて見えるのである。

「その潮行のところ」ややおかしいが「そのしほ、ゆくのところ」と訓じておく。

「隆く」「たかく」。

「あがりて見ゆ」盛り上がっているように見えた。実際には潮の色の違いから、そのように見かけ上、見えたのであろう。

「危石嶮嚴」海底の暗礁が高く盛り上がっていること。海流が盛り上がって見えたことからの憶測であり、誤り。海図を確認したが、そのような海底からそそり立つように突き出た暗礁はない。但し、海底地形が潮流と関係していることは疑いないとは思われた。

「云り」「いへり」。

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