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2016/11/06

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (四)

       ㈣

 

 機関学校の教官室は芥川龍之介とはやはり関係浅からぬ場所でございました。そして、独身でいるだけに彼の結婚話もやはりその場において重要味を帯びることがありました。

 夫は或るとき帰宅してこう申しました。

 「今日、木崎校長から文官一同へ話があったんだ。芥川君の縁談について、前々から話があったらしいのだが、校長はぼくと兵学校の同期で、日本海々戦で戦死した海軍大佐の未亡人から、娘の縁談について、相談と調査を兼ねての依頼があった。その忘れがたみなる令嬢は跡見高女とかに在学中で、来年三月卒業の予定だとさ」

 「あら。やっぱり、あのお話の方ですね」

 「そうらしいね。更に校長の言われるには、未亡人の話によれば芥川家からは頻りに早くと言つて来る由で、早くきめて式をあげてほしいそうだ。以前から校長もよく知った間柄ではあり、はっきり決めようと思うが如何なものか。なお、現在の芥川君の状況を知らせてくれと頼まれたから、どうか文官の諸君、ありのままに話してくれと言われるので、文官一同が芥川君なら大丈夫ですと太鼓判を押したわけだよ」

 「あら。そうですか。結構でございましたわねえ。あんな難かしいことばかりおっしゃっても、やっぱり、そのお嬢さまのこと気に入ってらしたのですわね。まずまず万々歳ではございませんの?」

 「そこで、なお、校長の言われるにだ。芥川家では大変急いでいて、もし、良いとなったら、今、婚約しておいて、来年早々、令嬢の卒業を待たないで、挙式したいと言ってるそうだよ。また、馬鹿に急ぐもんだな。善は急げというから、それは結構なんだが、お前が龍ちゃんに早く早くと言うものだから、そうなったのではないかねえ。まさか。そりゃ他にいろいろ事情があろうさ。いずれにしてもよかったよ。ねえ。あれほど善良にして気弱な芥川君を、いつまでも一人、下宿に放っておく手はないから」

 「本当ですわ。これで大安心というところですわ」

 こういう話がありましてから、その後またどうなりましたか、私どもには聞こえて参らず、暑中休暇がまいりました。大正六年の夏でございますが、東大文科に公開講演のあることを彼から伝え聞きまして、実は、夫と共にどこか温泉で過ごすつもりでおりましたのを、中止して、この公開講演に出席したいと夫に相談いたしました。一も二もなく承知してくれまして、その手続きは彼に依頼いたしたのでございます。彼は快諾してくれまして私もすっかり出席の気分になっておりましたところ、どうも気分がすぐれなくなり、つわりであることを確認されましたため、聴講の見込みはなく、温泉に行く元気は更になく、家に引き籠ることになり、又、取り消し手続きも彼に依頼するということになりました。大正六年夏と言えば、春に結婚して丁度、つわりになる頃であったわけで、彼の遊泳を見ながら海岸に佇んだ日はこの少し前になるのだと回想いたします。私は暑い夏の毎日を、家にごろごろしておりましたが、彼が次のようなことを話してくれたのを思い出したりしておりました。

 「これは結婚問題とは別なことですがね。横須賀の女学校の、あの、ねずみ色の制服を実は、ぼく、あまり感心しないのですが、あの制服を着て汽車通学しているお嬢さんに素晴らしい方がいますよ。いいなあと思って見ている間に、この程、ぼく、無意識にお辞儀をしてしまったんです。あとでハッとしましたが、もう、取り返しはつきません。大失敗をやっちやった」

 「おや。どこから乗りますの?」

 「逗子からです」

 「どんなふうなお嬢さん?」

 「背五尺とちょっとかな。容姿が実にすんなりしている。あんな木綿縞の制服を着ていて、それで又、実にすばらしいんですから大したものですね。足は恰も、かもしかのようなんです」

 「顔は?」

 「優しい愛嬌顔に眉が美しく、眼も亦、美しい黒眼勝ち。鼻がちよっと上を向いてますけど」

 「ああ。教え子の鈴木たか子ですわ。実科二年で成績もよく温和なお嬢さんですよ。あなたにお辞儀されて光栄と思っているでしょうねえ」

 「どういうところのお嬢さんか、わかってるかい?調べてごらん。汽車通勤も亦楽し、か」

 そうかと思うと、こんなこともありました。

 「ぼく、この程、令嬢中条百合に会いましたよ。よく勉強してるらしいんですが、ぼくと初めて会うというのに、派手な友禅の前掛けをかけてるんです。驚きましたね。これが趣味なんだって。自分で説明してましたが、ちょっと変な感じを受けましたよ」

 「ああ。中条さん。私のお茶の水在学中、付属高女にいまして、文才があると評判でした。私よく存じていますわ」

 「頭がよかったんですか」

 「それがね。国語は満点で、数学はゼロというあんばいで評判でした」

 「世の中は狭いですね。奥さんがご存知だとは思わなかった」

 「龍ちゃん。そういう方面の令嬢と結婚されてはどうです?」

 「さあ。ぼくは、あまり好みませんね」

 彼にもいろいろと気迷いがあったようです。右の二つの例など、判然とした確証あるものでないながら、何となしに迷わしげなようすを示す例になるとも考えました。教官室での先日のはっきりした話で、いずれ定まることであろうと思い、自分の気分すぐれぬ夏の日々を重い心で過ごしておりました。

 そうしているうち公開公演は開催され、彼から三枚も切手を貼った重い封書が届けられました。それには東大における講演のようすが、こまごまと記されてありましたのです。

 何々夫人、何々百合子女史など、多勢の注目を集めているなどと書いてあります。そして末尾に、「これは奥さんに『ああ自分も』という欲望を起こさせようために書いたのだ」と解釈までつけてありました。

次の便りには、

 「どうもこの頃、癇癪が起きて家人を困らせていたが、ようやく収まったから、奥さんも安心してくれ」

などと書いてこられました。そして、まあ、

 「原因は親しらず歯発生のため」

としてあるのです。思わず笑い出してしまいました。

 「いよいよ休みが終わろうとするので、心細くなっています。『航海記』を封入しますが、これは私のスクラップブックに貼る分ですから、お読み済みの上は私までお返し下さい。さて、私はこの手紙を書きながら大いに良心の苛責を感じています。これは特に奥さんに申し上げます。もっと早く書くべき手紙もあれば、もっと早く送るべき『航海記』でもありました。誠に申しわけありません。しかし私が用事で忙しくない時は、遊び回るので忙しいことをお察し下さい。横須賀に善友がいる程それほど、東京には悪友がいまして、私は彼らに誘惑されては無闇に芝居を見たり音曲を聞いたりしていました。それで、生来の筆不精が、ますます不精になってしまったのです。今、悪友のことごとくが帰ったところです。そのあと甚だ静かな夜となりました。私は小さな机と椅子を縁側へ持ち出してこれを書いているのです。

 即興にて 銀漢の瀬音聞ゆる夜もあらん  龍之介

 これで止めます」

 私はどこへも出かけられぬ憂欝な日々に、こういう彼の手紙を貰うことが何より嬉しくて日に幾度となく受信箱を覗きに行きました。

 そうして夏休みは過ぎてしまいました。相変わらず、ぶらぶらしながら、それでもいつか軽くなってゆく、つわりを、やはり持てあましながら、故郷信州を思い浮かべるのです。親の元にいれば、こんなとき、どんなにか気楽であろうと、つい思ったりして、何でも自分でやらねばならない家事を少々いとわしく思うしだいでした。信州の富士が不思議と思い出されました。大気の中に浮かぶ朝な夕なの富士のことを彼にも語った日がありました。

 「奥さんはお国自慢ですね。ぼくのような都会児にとって実際、大都会は墓地です。人間はそこに生活していないという感じで適いません」

と、彼は言うのでした。

 「ぼくも、田舎で生まれ、豪荘な自然を見て荒っぽく育てばよかった。もっと線の太い人間になれたかも知れない」

とも言いました。すると夫は、

 「芥川君。そんなことを言うけれど、ぼくは都会のよさを充分みとめる方ですよ。まあ田舎に行って一日もいてごらんなさい。恐ろしく退屈して来ますよ。不便極まる暮らしですよ」

 三人はそこで笑ったものですが、夫の話すのをなお聞いていますと、かつて、一夏を田舎で勉強する気になったことがありまして、夫は一頭の馬を雇い、書物をどっさり背負わせ運ばせたところ、都育ちのためすぐ都恋しくなり、本は一冊も読むことなく、すぐ又、馬の背に書物を託して帰京したというのでした。彼は、「なる程ね」と、じつと考え込んでしまいました。そして「馬」ということばで思い出したのでしょう。

 「ぼくは、あの馬も哀れなのだが、牛もそうです。牛の鼻に通された鉄の輪を見ると非情な気がしてなりません」

 すると夫は、やはり別でした。

 「しかし、我々人間だって生きて行く苦しみは、なまじ頭脳があるだけ、あれより、たいへんなのですよ。だけど、やっぱり牛に生まれるより、人間に生まれたいものです」

 彼は牛を哀れだと言い、夫は人間の方がよりたいへんだろうが、やはり人間に生まれたいと言っているのでした。私は聞きながらこれが文科と理科の違いかしら。それとも性格の違いかしらと考えていました。そして、彼龍之介の神経の暗く尖鋭なのに戦いたことでした。彼には確かに付きまとう影のようなものがあったと思います。

 そんなことより、彼から書いて貰った俳句の数々を書き並べて見ましょう。

 

 紫は君が日傘や暮れやすき 龍之介

 

 これは確かにあの夏の海べの印象になっております。日傘を紫と覚えていてくれた懐かしさ。私にとりましてまことに得がたい一句なのでございます。

 

 揚州の夢ばかりなるうすものや  龍之介

 

これも夏の句で、うすものというところに、何か摑みきれないほのかな夢を残してあるように思われます。

 

 青簾裏畑の花をかすかにす  龍之介

 

これも真夏の一角を視点としてあります。かすかな花にやはり夢が託されているような味わいです。

 

 読み足らぬじゃがたら文や明けやすき  龍之介

 

一夜、読み通して朝になり、まだ読み足らないという感懐でございますが、やっぱり何かが残されている思いでしょう。

 

 衣更へお半と申し白歯なり  龍之介

 

やはり、夏へ向う頃の一肌すがしい女の様相で半と名づけてあり、白歯というのはまだ歯を染めてない女…もちろん、江戸時代あたりにさかのぼっての材ですが、おはぐろに染めてない白歯の時代、まだ嫁がない女の清しさを言っているのでしょうが、やはり手触れないものへの哀歓とでも申すような芥川流の好みが出ているように思います。

 

 天には傘地に砂文字の異草奇花  龍之介

 

これは彼の中にある異国好みが奇想天外な形で出た奇術のような不思議さを持ったものと思います。キリシタンバテレンの語から傘をひらき、花を咲かせた連想ででもございましょうか。

 

 花笠の牡丹に見知れ祭びと  龍之介

 

お祭りの情景から出たものと思います。江戸っ子の彼はこんなところも垣間見て心に残していたと思われます。

 

 廃刀会出でて種なき黄惟子  龍之介

このことはよく解しかねますが。

 

 毒だみの花の暑さや総後架  龍之介

 

夏の句でございますが、結句で、暑さの陰のやや冷やっこさが感じられます。おもしろい視点だと思います。このような句を興に乗って白紙に書いてくれました。おそらくその時に、頭にのぼって来るもの、日ごろ頭にとめていたものが、一度に湧き出して来るときであったのでしょう。

 次に和歌についてですが、私がまだ自作の歌を見せては、何か言って頂いていた頃のことでございます。

 

 柿の実は赤くつぶらに色づきて君を待ちつつ秋更けてゆく  花子

 

 「おやおや。柿の実が、ぼくを待っててくれるのですね。これは恐縮至極です」

もちろん、柿の実には私の心が託されてありまして、私が彼の来訪を待つという意味なのです。それを感じとってくれています。

 

 朝戸出に一本咲けるコスモスの花見てあれば君ぞ恋しき  花子

 

これは丁度、来訪されたとき、主人は出張中で不在でした。その思いを述べたものでございました。ちょっと寂しくつまらぬところへ、来て下さいまして嬉しかったことを思い出します。夕食は怠けてお寿司をとり、ビールは止してお茶とココア、シュークリームと果物だけで、お話に身を入れました。

 

 暮れてゆくみ空眺めて佇めば雁なきてゆく父ます方へ  花子

 

これは信州にいる父を慕って作歌したものでした。

 

 果てしなきみ空仰ぎて得ることは雲なかりきといふ安らけさ  花子

 

これは晴れた日の大空に対する感慨であり、同時に悩みなき自己の述懐でもありました。

 

 大空はいよよ冴えたり仰ぎみる瞳に写る上弦の月  花子

 

 木犀の花の香りをあぴて立つ朝な夕なの秋のわが庭

 

 大輪の黄色き菊のいみじさにつとふれし手のつめたきあした

 

 ほのかにもぱつと漂ふ一輪の菊のかをりぞ朝のよろこび

 

 わが庭の紅の芙蓉の色ましぬ秋のあしたの雨のめでたさ

 

 萩のはな月の光に輝きて薄紫に匂ひこぼるる

 

 悲しみも憂ひも持たぬ身なりぞと思ふ端より物案じする

 

 かりそめのことに憂へてかりそめのことに心の和みけるかな

 

 いささ川水のめでたささらさらと底のさざれの数みせてゆく

 

 いささ川浮びては消ゆるうたかたのそれにも似たる我が思ひかな

 

 思ひ葉を流して吉と占ひぬ心うれしき朝なりしかな

 

 何ごともよしとみて皆喜ばむさやけき秋に心安かれ

 

 針もちて物縫ふ折の安らけさ静けさにただ命死なまし

 

 誠ある我に生きむと願ひけり君や知りますわれの心を

 

 というふうにノートに書きつけてある歌をお見せしました。彼はずっと読んでいて、

 「この中で、ぼくは、「針もちて物縫ふ折の安らけさ静けさにただ命死なまし」が一番好きですね。ぼくも、そんな心境を経験しますよ。だが、奥さんのお歌は優しくてきれいですね。全部よく見えてくる。もう、添削なんて止しますよ。拝見するだけで、自然と心が和んで来ますよ。不思議だ。実際不思議だと思うんです。どうか、沢山作っておいてぼくを慰めて下さい。拝見するのが楽しみなだけです。ところで「何ごとも言はじとすれどしかすがにとどめかねたるわが涙哉」これだけはFさんが作られたお歌だそうですね」

 「あら。まじっておりまして。ご存知なのですか。この一首を。まあ」

 「ええ。ええ。ご婚約中、ぼくはあなたのお歌を佐野君から拝見していましたし、ご結婚なさるとき、この一首を、つまり藤原咲平君が詠まれたことは、その後伺ってるんです」

 「まあ。なんでも主人は申しますこと」

 「それはそうですよ。ご婚約中からぼくと佐野君は、どんな奥さんがいいとか何とか、話し合っていましたよ。呑気な佐野君が女房操作法も知らないで大変と心配でもしたんですよ。来られたら、どういう女性か、ぼくが見定めて上げましょうとも約束してあったんです」

 「まあ。そんなに……」

 「大丈夫ですよ。みごとパスですからね。それどころか羨やましい限りになってしまってるんですから」

 結婚前に男同志というものは何を話しているか解らないと思い赤面の至りでございました。

 「その藤原君ですが、あなたが嫁がれる時この歌を詠まれたとは、ただごとじゃない。理学方面では、彼、もはや、権威ですが、文学方面も豊かであられるようですね」

 「ええ。どの方面にも優れた本当によい方でございます」

 「このお歌は、なかなか深刻ではありませんか。佐野君へあなたが嫁がれるときのお歌だというだけに、しみじみとしたものがあり、いい歌ではありませんか」

 どうして、その一首がそこに書きしるされていたのか、私もうかつだったと思います。自作をお見せしているときに、そういう人の一首が記されているとはうかつなことでございました。それを目ざとく見つけられその事情まで知られており、ちゃんと覚えられていたとは驚いたことでございました。

 「ぼくは大体、俳句ならやりますが、和歌もなかなかよいものだと思うようになりました。これは奥さんのおかげですが。いや、和歌は本当にいいものだ。近々、ぼくも、もっと和歌をやってみようと思いますよ」

 「あの私。芥川様にだけはお耳に入れて解って頂きたいと思っていたことがございますのよ」

 「一たい、それは何ですか」

 「覚えていらっしゃいますか。あの春のころでしたけれど。私に下さいました俳句の中で、

 

 花曇り捨てて悔なき古恋や 龍之介

 

というのがございました。あれを頂いたときちょっと意味が解らなくて。芥川様ご自身のことかとも思ってみたりしまして」

 「ああ。あれについては、ぼくも、奥さんにお話しして置きたいと思っておりました。

 ぼく、あれを差し上げて、その後、奥さんとお付き合いしているうち、ひょっとして禍誤を犯していたのではないか、奥さんはそういう方ではぜんぜんないのに、これはしまった、と時々、意識に浮かべては気にしていたのですよ」

 「さすがは芥川様でいらっしゃいますわ。根も葉もない噂が飛んでちょっと困りましたけれど、でも、佐野だけ理解してくれましたわ。で、世間のことは構いませんけれども芥川様にだけは解って頂きたいものと、いつも思ってましたの」

 「よく解りました。ばくの罪は万死にも値いしましょう。徒らに風評を信じて、ああいう俳句をお目にかけたとは、軽卒をお許し下さい。深く取り消しますから」

と、深刻な顔して黙ってしまいました。別に彼を詰問したわけではありませんのに、例の一句が、ふとしたことから或る方面へ公になって、いろいろ取り沙汰されたことがあったからです。今、考えますとこの俳句の意味は、「お互いに、ともかく、今までの恋人のことなど忘れてしまう」ということではなかったかと思うのですが、どういうものでございましょう。いまだに判然といたしません。

 

 秋立って白粉うすし※夫人   龍之介

 

[やぶちゃん字注:「※」は「郛-(おおざと)+虎」。]

 

 白粉の水捨てしよりの芙蓉なる  龍之介

 

これはその折に下さった俳句で、説明をおつけ下さいました。

「土曜日には奥さんが、白粉をつけておいでのそうですね」

 

 妻振りや襟白粉も夜は寒き  龍之介

 

とも書いて下さいました。

 私は大体、白粉をつけることが嫌いで、余りお化粧をしなかったものですから、それを材になさったのでございました。それも、夫に注意されて、たまに刷く程度なので、かえって目立ったことになりましょうか。虢夫人とは中国の昔、蛾のような眉をわずかに指で払うのみで君前にまみえた麗人のことを申します。白粉をつけない私の気慨を高くお汲みになったような句と思います。

 こうして俳句をいただいたり、拙歌をお目にかけたり、お話を伺ったりのひとときは又過ぎ去りました。

 残念乍ら、その後、歌をお見せする機会は無くなりました。「もう、見ることができなくなりましたから。あしからず」の、あのおことばによりました。

 

[やぶちゃん注:佐野花子自身の短歌群(一首他者のものが含まれる)以外の前後行空けは底本のままである。

「木崎校長」表記は「木佐木」の誤りウィキの「海軍機関学校」によれば、横須賀海軍機関学校の歴代校長の中に木佐木幸輔機関少将という人物がおり、彼が同校校長であったのは大正五(一九一六)年四月一日から大正六(一九一七)年十二月一日までとあるので、まさに時期としてぴったり合うからである。

「今日、木崎校長から文官一同へ話があったんだ。芥川君の縁談について、前々から話があったらしいのだが、校長はぼくと兵学校の同期で、日本海々戦で戦死した海軍大佐の未亡人から、娘の縁談について、相談と調査を兼ねての依頼があった。その忘れがたみなる令嬢は跡見高女とかに在学中で、来年三月卒業の予定だとさ」この内、「校長はぼくと兵学校の同期」の「校長とぼく」を、校長と話者である佐野ととらないように。佐野慶造は明治一七(一八八四)年生まれで、東京大学物理学科卒であり、前の横須賀海軍機関学校の校長の木佐木は機関少将、しかも調べてみると、日露戦争自体に相応の高官として従軍している(個人ブログ「Para Bellum」のこちらで写真(日露戦争後の集合写真の中に木佐木を発見)から「兵学校の同期」であるはずが、ない。ここは「校長は『ぼくと兵学校の同期で、日本海々戦で戦死した海軍大佐の未亡人から、娘の縁談について、相談と調査を兼ねての依頼があった。その忘れがたみなる令嬢は跡見高女とかに在学中で、来年三月卒業の予定だ』と言った」の謂いである。さて塚本文、後の芥川文であるが、既に述べているので、ここではウィキの「芥川文」を引いて纏めとしておく。芥川文(ふみ 明治三三(一九〇〇)年七月八日~昭和四三(一九六八)年九月十一日)は『東京府生まれ。海軍少佐・塚本善五郎の娘』。善五郎は日露戦争で第一艦隊参謀少佐として明治三七(一九〇四)年二月に新造された戦艦「初瀬」に乗艦して出征したが、同年五月十五日、旅順港外で「初瀬」が機械水雷に接触して轟沈、御真影を掲げて艦とともに運命をともにした。『葬儀に参加した東郷平八郎連合艦隊司令長官は文を抱き上げ、秋山真之参謀はピアノを練習するよう薦めた』という。『一家の大黒柱を失った母は、実家である山本家に』文及びその弟の八洲(やしま)とともに寄寓するが、この時に既に文は、母の末弟であった『山本喜誉司の東京府立第三中学校以来の親友・芥川龍之介と知り合』っている(当時は未だ七歳)。大正五(一九一六)年十二月、『龍之介と縁談契約書を交わ』し、大正七(一九一八)年二月、『跡見女学校在学中に龍之介と結婚する。龍之介の海軍機関学校赴任に伴い、鎌倉市で新婚生活を送る』とある(下線太字やぶちゃん)。

「芥川家では大変急いでいて、もし、良いとなったら、今、婚約しておいて、来年早々、令嬢の卒業を待たないで、挙式したいと言ってるそうだよ」当初、芥川龍之介が塚本文と交わした大正五(一九一六)年十二月の縁談契約書では卒業を待って結婚するとあったのであるが、考えてみると、当時の学制の終了・卒業は七月であるから、彼女は事実、確かに在学中に挙式したのである

「大正六年の夏でございますが、東大文科に公開講演のあることを彼から伝え聞きまして、実は、夫と共にどこか温泉で過ごすつもりでおりましたのを、中止して、この公開講演に出席したいと夫に相談いたしました。一も二もなく承知してくれまして、その手続きは彼に依頼いたしたのでございます。彼は快諾してくれまして私もすっかり出席の気分になっておりましたところ、どうも気分がすぐれなくなり、つわりであることを確認されましたため、聴講の見込みはなく、温泉に行く元気は更になく、家に引き籠ることになり、又、取り消し手続きも彼に依頼するということになりました」うっかり読むと、この講演には芥川龍之介が講演者として出ているかのように読んでしまうが、そんなことはどこにも書いてない。単に東京帝国文科大学の夏季公開講座があるのを、芥川龍之介が佐野夫婦(というより佐野花子)に紹介慫慂し、夫婦と龍之介三人で聴講する手続きを龍之介がし、ところが妊娠が判って、二人のキャンセルの手続きも何もかも、龍之介がやって呉れたというのである。龍之介の年譜では、この夏季休暇時期にそのような講演に行った記録は載らないが、後で多量の同講座の資料をわざわざ花子に送付していることから、彼は講演に行ったのであろう(夏季休暇中いた田端の実家からならば、ごく近い)。さればその辺りのさりげない細かな描写も、本内容全体が、かえって事実であることを伝えているものと、私は信ずるものである。

「大正六年夏と言えば、春に結婚して丁度、つわりになる頃であったわけで、彼の遊泳を見ながら海岸に佇んだ日はこの少し前になるのだと回想いたします」前の㈢」の冒頭の印象的な映像を参照のこと。

「横須賀の女学校の、あの、ねずみ色の制服を実は、ぼく、あまり感心しないのですが、あの制服を着て汽車通学しているお嬢さんに素晴らしい方がいますよ。いいなあと思って見ている間に、この程、ぼく、無意識にお辞儀をしてしまったんです。あとでハッとしましたが、もう、取り返しはつきません。大失敗をやっちやった」これはもうご存知、芥川龍之介の私小説風の保吉(やすきち)物の一篇「お時儀」(大正一二(一九二三)年十月『女性』)の素材となった原体験である。発表はこの記述内時制の六年後であるが、全然、ちっとも、おかしくないのである。何故なら、同作の冒頭は(下線太字はやぶちゃん)、

   *

 保吉は三十になつたばかりである。その上あらゆる賣文業者のやうに、目まぐるしい生活を營んでゐる。だから「明日(みやうにち)」は考へても「昨日(さくじつ)」は滅多に考へない。しかし往來を歩いてゐたり、原稿用紙に向つてゐたり、電車に乘つてゐたりする間(あひだ)にふと過去の一情景を鮮かに思ひ浮べることがある。それは從來の經驗によると、大抵嗅覺の刺戟から聯想を生ずる結果らしい。その又嗅覺の刺戟なるものも都會に住んでゐる悲しさには惡臭と呼ばれる匀(にほひ)ばかりである。たとへば汽車の煤煙の匀は何人(なんぴと)も嗅ぎたいと思ふはずはない。けれども或お孃さんの記憶、――五六年前に顏を合せた或お孃さんの記憶などはあの匀を嗅ぎさへすれば、煙突から迸(ほとばし)る火花のやうに忽ちよみがへつて來るのである。

 このお孃さんに遇つたのは或避暑地の停車場(ていしやば)である。或はもつと嚴密に云へば、あの停車場のプラットフォオムである。當時その避暑地に住んでゐた彼は、雨が降つても、風が吹いても、午前は八時發の下り列車に乘り、午後は四時二十分着の上り列車を降りるのを常としてゐたなぜ又每日汽車に乘つたかと云へば、――そんなことは何でも差支(さしつか)へない。しかし每日汽車になど乘れば、一ダズン位(ぐらゐ)の顏馴染みは忽ちの内に出來てしまふ。お孃さんもその中(うち)の一人である。けれども午後には七草(ななくさ)から三月の二十何日か迄、一度も遇つたと云ふ記憶はない。午前もお孃さんの乘る汽車は保吉には緣のない上り列車である。

 お孃さんは十六か十七であらう。いつも銀鼠(ぎんねずみ)の洋服に銀鼠の帽子をかぶつてゐる背は寧ろ低い方かも知れない。けれども見たところはすらりとしてゐる殊に脚は、――やはり銀鼠の靴下に踵(かかと)の高い靴をはいた脚は鹿の脚のやうにすらりとしている。顏は美人と云ふほどではない。しかし、――保吉はまだ東西を論ぜず、近代の小説の女(ぢよ)主人公に無條件の美人を見たことはない。作者は女性の描寫になると、たいてい「彼女は美人ではない。しかし……」とか何とか斷つてゐる。按ずるに無條件の美人を認めるのは近代人の面目(めんぼく)に關(かかは)るらしい。だから保吉もこのお孃さんに「しかし」と云ふ條件を加へるのである。――念のためにもう一度繰り返すと、顏は美人と云ふほどではない。しかしちよいと鼻の先の上つた、愛敬(あいきやう)の多い圓顏(まるがほ)である

   *

である(引用は岩波旧全集に拠った。「青空文庫」のこちらで全文を読めはするが、正直、このテクストは表記も読みも原型をとどめておらず、流石の芥川龍之介も怒る類いの、作らぬ方がよい部類の電子テクストと言える)。執筆当時の龍之介は数え三十二である。そこから六年前ならば龍之介は二十六、満で二十五歳、まさに大正六(一九一七)年! ドンピシャりである。意地の悪い読者の中には、後年、「お時儀」を読んだ花子が創作したのだ、と言い出すかも知れぬ。しかし、である。にしては、あまりにも自然に語られているではないか。拵えたエセ物には、その臭さが多かれ少なかれ、必ず纏いつき、鼻につくものである。しかし、この話を受けた花子との会話の方が、この龍之介の小説よりも、遙かに事実らしさを持っていると言える。寧ろ、「お辭儀」で「なぜ又每日汽車に乘つたかと云へば、――そんなことは何でも差支(さしつか)へない」と誤魔化している(機関学校時代の仕事は龍之介にとって嫌悪以外の何ものでもなく、思い出したくないという意識は強くあるであろう)龍之介の方が、よほど意味深で、作り物の臭さを漂わせているではないか!

「五尺とちょっと」一メートル五十二センチ越えぐらい。

「鈴木たか子」不詳。かの「お時儀」の少女のモデルなら、俄然、私は写真を見て見たくなるのである。

「どういうところのお嬢さんか、わかってるかい?調べてごらん。汽車通勤も亦楽し、か」言わずもがな、佐野慶造のチャチャである。

「中条百合」「ちゅうじょうゆり」と読む。後の左翼作家宮本百合子(明治三二(一八九九)年~昭和二六(一九五一)年)のこと。彼女の旧姓実名は「中條ユリ」である(東京生まれ)。東京女子師範学校附属高等女学校(現在の「お茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校」)在学中から小説を書き始め(後の花子の台詞と一致)、この前年の大正五(一九一六)年、日本女子大学英文科予科に入学するなり、「中条百合子」名で白樺派風の人道主義的な中編「貧しき人々の群」を『中央公論』九月号に発表、天才少女として注目を集めた。なお、同大予科はほどなく中退している(ここはウィキの「宮本百合子」に拠った)。

「龍ちゃん。そういう方面の令嬢と結婚されてはどうです?」慶造の台詞である。

「何々百合子女史」先に出た「中条百合」宮本百合子のことであろう。

「原因は親しらず歯発生のため」芥川龍之介は事実、この大正六(一九一七)年七月三十日に夏季休暇で七月二十四日に鎌倉から田端へ戻っている。戻っているために、癇癪で家人と諍いが起こるのである。なお、この同日中、離れる前の鎌倉で、ずっと後に芥川龍之介最後の思い人となることになる歌人片山廣子(この時は未だ対面していない模様)に手紙を認めていることは記憶してよい)『歯痛のために本郷の医院に行き、奥歯を抜かれる』とある(岩波新全集宮坂覺年譜より引用。下線太字はやぶちゃん)。

「いよいよ休みが終わろうとするので、心細くなっています。『航海記』を封入しますが……」以下の書簡は全集に載るので、念のため、引いておく(旧全集書簡番号二一三・田端発信・八月二十九日附・佐野慶造・花子宛)。

   *

愈〻休みがなくなるので大に心細くなつてゐます

航海記これへ封入します甚恐縮ですが私のスクラツプブツクに貼る分ですから御よみずみの後は私迄御返し下さいさて私はこの手紙を書きながら大に良心の苛責を感じてゐますこれは特に奥さんへ申上げますもつと早く書くべき手紙もあればもつと早く送るべき航海記だつたんです誠に申譯ありません

しかし私が用事で忙しくないときは遊びまはるので忙しい事は御察し下さい橫須賀に善友がゐる程それ程左樣に東京には惡友がゐます私は彼等に誘惑されて無闇に芝居を見たり音曲を聞いたりしてゐましたそこで性來の筆不精になつてしまつたのです

今惡友の遊びに來てゐた連中が歸つた所ですさうしてそのあとが甚靜な夜になりました私は小さな机と椅子を椽側へ持ち出してこれを書いているのです

 

     即興

   銀漢の瀨音聞ゆる夜もあらむ

 

 これで止めます 頓首

     八月二十九日   芥川龍之介

    佐野慶造樣

    仝 花子樣

   *

句(前書含む)の前後は一行空けた。この「航海記」というのは「軍艦金剛航海記」のことで、これは、この年大正六(一九一七)年の六月二十日(水曜)午後から、勤務していた海軍機関学校の航海見学のため、巡洋戦艦「金剛」へ搭乗、同月二十二日に山口県玖珂(くが)郡由宇(ゆう)(現在の山口県岩国市由宇町)に到着するまでの見聞を記したものである。その時の体験が「軍艦金剛航海記」で、これは同年七月二十五日から二十九日附の『時事新報』に連載されている(旧全集では初出誌を未詳としていた。また、別に資料としての「『軍艦金剛航海記』ノート」も現存している)から、恐らくはその『時事新報』掲載分を芥川龍之介自身が切り抜いて纏めたものかと思われる(芥川龍之介はしばしば自作の初出誌をそのように丁寧に貼った「貼り混ぜ帳」ようなものを作り、これまたしばしばそれに添書きや訂正を行って、それを最終形として単行本の決定稿の草稿にしていたことが知られている)。ここで龍之介が返却を求めているのはそのためである。本作は後に単行本「點心」「梅・馬・鶯」に再録されている。これは「青空文庫」の「軍艦金剛航海記」で安心して読める。何故ならこれは、旧全集を底本とした正字正仮名の正統な電子テクストだからである。なお、私の電子テクスト注「芥川龍之介手帳 1―15」「芥川龍之介手帳 1―16」「芥川龍之介手帳 1―17」そして「芥川龍之介手帳 1―18」を参照されたい。これらはまさに「軍艦金剛航海記」を書くためのメモ類であり、そうして最後の「芥川龍之介手帳 1―18」には以前に紹介した通り、まさに佐野花子の影が落ちているのである。

「信州の富士が不思議と思い出されました。大気の中に浮かぶ朝な夕なの富士」花子の生地は冒頭に示した通り、長野県諏訪郡下諏訪町東山田で、諏訪湖の北岸を少し入った位置に当たる(ここ(グーグル・マップ・データ))。ここから富士山は南東に百キロメートル強ある。諏訪盆地から富士山が見えるかどうかをさえ疑う人(そういう人は花子の作品を妄想と断ずるのと同じ程度に愚かである)のために、Hajime HAYASHIDA氏のサイト「富士山のページ」の「諏訪湖から見る富士」をリンクさせておこう。

「ぼくは、あの馬も哀れなのだが、牛もそうです。牛の鼻に通された鉄の輪を見ると非情な気がしてなりません」これは芥川龍之介の言葉として、私は非常に腑に落ちるものがあるリアルな台詞と思う。

 

「紫は君が日傘や暮れやすき 龍之介」「これは確かにあの夏の海べの印象になっております。日傘を紫と覚えていてくれた懐かしさ。私にとりましてまことに得がたい一句なのでございます」この句は、翌年の大正七(一九一八)年『ホトトギス』八月号「雑詠」欄に投句された句群中に(署名は「我鬼」)、

 

むらさきは君が日傘や暮れ易き

 

とあるもので(「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」を参照されたい)、後の句群の出る旧全集の第九巻の「雜」の部(大正八(一九一九)年頃の作と推定はされているものの、そう限定出来る根拠はないと私は思う)にも(私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」を参照されたい)、

 

むらさきは君が日傘やくれやすき

 

の句形で出る。なお、前者の句群は「芥川我鬼」が芥川龍之介であることを読者は知らずに読んだ、殆んど最初に大衆の眼に触れた、龍之介が満を持して発表したまず最初の本格的な句群なのであるだからこそ、これが一年前の夏の花子と龍之介の情景を読んだとしても、何ら、おかしなところは全くない、寧ろ、そうした素材を詠んだとして自然に腑に落ちる句と言えるのである。

 

「揚州の夢ばかりなるうすものや  龍之介」これは旧全集の第九巻の「雜」の部に含まれる句の一つ。これを芥川龍之介の中国特派まで引き下げる必要などは全くない。これは、かの晩唐の知られた詩人杜牧の以下の七絶に基づく、龍之介の青い年の、ほろ苦さを漂わせた感懐句である。

 

   遣懷

 落魄江南載酒行

 楚腰纖細掌中輕

 十年一覺揚州夢

 贏得靑樓薄倖名

 

    懷(おも)ひを遣(や)る

  江南に落魄し 酒を載せて行く

  楚腰(そえう) 纖細(せんさい) 掌中に輕(かろ)し

  十年 一たび覺(さ)む 揚州の夢

  贏(か)ち得たり 靑樓(せいらう)薄倖(はくかう)の名を

 

この「靑樓薄倖」とは「妓楼でも有名な薄情野郎」という蔑称である。

 

「青簾裏畑の花をかすかにす  龍之介」出典は同前。そこでの表記は、

 

靑簾裏畑の花を幽(かすか)にす

 

である。

「読み足らぬじゃがたら文や明けやすき  龍之介」出典は同前。そこでの表記は、

 

よみたらぬじやがたら文や明易き

 

である。「じやがたら文」(ジャガタラぶみ)とは江戸初期に幕府が鎖国政策を強化する過程で、寛永一〇(一六三三) 年、日本人の海外渡航を禁止するとともに、その翌年に南蛮人及び彼らと日本婦人との間に生まれた二百八十七人もの混血児をマカオに追放、次いで同十六年には、そうした紅毛系混血児及び彼らの日本人の母親三十二人を「ジャガタラ」(現在のジャカルタ、当時のオランダ領「バタビア」) に追放した。この「ジャガタラ文」とは、その追放された人々が故国へ寄せた哀切々たる書簡群を指す(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」を参照した)。

 

「衣更へお半と申し白歯なり  龍之介」出典は同前。そこでの表記は、

 

衣更へお半と申し白齒なり

 

完全に一致する。「お半」は「おなか」か。料亭の仲居或いは芸妓の名と私は読む。或いは後者でしかもたまたま彼女が半玉(未だ水揚げをせず、ただお酌をしたり、舞いを舞うだけの年端(としは)ゆかぬ若い芸妓)であったのを興がったものともとれる。この手の挨拶句を龍之介はかなり創っている。花子はこれを時代句(創造句)ととっているが、それはそれで浄瑠璃の一場面の如くにして面白い腑に落ちる解釈である。

「天には傘地に砂文字の異草奇花  龍之介」出典は同前。そこでの表記は、

 

天に日傘地に砂文字の異艸奇花

 

で、ほぼ完全一致と言ってよい。この句はかなり龍之介が気にいていた素材で、大正七年八月『ホトトギス』「雜詠」欄にも、

 

日傘人見る砂文字の異花奇鳥

 

という改稿で投稿されてある。中田雅敏編著の蝸牛俳句文庫「芥川龍之介」の鑑賞文によれば、砂文字は大道芸の一つで、色の付いた砂で絵を描いて見せたとあり、浅草辺りの嘱目吟であろうと推定しておられるが、同感であるが、花子の「これは彼の中にある異国好みが奇想天外な形で出た奇術のような不思議さを持ったものと思います。キリシタンバテレンの語から傘をひらき、花を咲かせた連想ででもございましょうか」という鑑賞もこれまた、実に美事な句の幻想性を剔抉しており、龍之介もこの感懐には諸手を挙げて賛同したに違いないと思うのである。

 

「花笠の牡丹に見知れ祭びと  龍之介」出典は同前。そこでの表記は、

 

花笠の牡丹にみしれ祭人

 

ほぼ完全に一致する。

「廃刀会出でて種なき黄惟子  龍之介」出典は同前であるが、これは三箇所の誤りで、そこでの表記は、

 

廢刀令出でて程なき黃帷子

 

で花子の、龍之介の直筆の誤判読と思われる。「廃刀令」は明治九(一八七六)年三月二十八日に太政官布告第三十八号として発せられた「大禮服竝ニ軍人警察官吏等制服著用ノ外帶刀禁止」という太政官布告の略称。所謂、「帯刀禁止令」で、大礼服着用者・軍及び警察以外の者が刀を身につけることを禁じるものであった。「黃帷子」は、ここは「きかたびら」と読んでいようが、「きびら」で「生平」とも書き、曝さない麻糸で平織りにした布。男子の夏物で特に羽織に用いた。夏の季語。近代(当時から)の夢想句である。かくも三重に誤っては「このことはよく解しかね」る句とはなってしまう。しかし、これが誤判読であるということは、実は確かに彼女が芥川龍之介直筆のこれらの句を記したものを持っていたことを立証することとなることに気づかれたい。そんなものがなく、花子が全集から単に引き写したものだとしたら、こんな間違いは絶対にしないからである!

 

「毒だみの花の暑さや総後架  龍之介」出典は同前。

 

どくだみの花の暑さや總後架

 

「總後架」は江戸の長屋等の外に作られた共同便所。これも一種の時代詠である可能性が高い。

 

「これは丁度、来訪されたとき、主人は出張中で不在でした。その思いを述べたものでございました。ちょっと寂しくつまらぬところへ、来て下さいまして嬉しかったことを思い出します。夕食は怠けてお寿司をとり、ビールは止してお茶とココア、シュークリームと果物だけで、お話に身を入れました」これは芥川龍之介の確信犯の訪問である。同僚の出張は職員室の不在どころか、掲示板を見れば、一目同前だからである。

「木犀の花の香りをあぴて立つ朝な夕なの秋のわが庭」この歌以降は、底本では行空なしで「花子」の署名も打たずに連なって書かれてある。

「いささ川」小さな流れ細流。小川。

「思ひ葉を流して吉と占ひぬ心うれしき朝なりしかな」こういう占いの風俗はありそうには思う。ただ「思ひ葉」とは「触れ合って重なり合って茂っている葉」を指し、そこから多く、男女の相愛に譬える語でもある。この一首を夫でない芥川龍之介に見せるというのは、私にはかなり危ない冒険かと思われぬでもない

「Fさん」「藤原咲平」(ふじわらさくへい 明治一七(一八八四)年~昭和二五(一九五〇)年)は気象学者で理学博士。長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市)生まれ。東京帝国大学理科大学理論物理学科明治四二(一九〇九)年卒。明治四十四年に中央気象台技師となり、大正九(一九二〇)年に「大気中における音波の異常伝播」を発表して、学士院賞を受賞。同年、ノルウェーに留学し三年後に帰国、中央気象台測候技術官養成所(現在の気象大学校)主事を経、大正十三年、東京帝国大学教授、大正十五年には地震研究所員を兼務した。同年「雲を摑む話」、昭和四(一九二九)年「雲」を刊行、昭和一六(一九四一)年に第五代中央気象台長となり、戦時下の気象事業を統括した。この間、風船爆弾の研究にも参画。戦後の昭和二十二年に気象台長を退任した後、参院選に立候補したものの、公職追放となり、以後は執筆活動に専念した。「お天気博士」として一般にも親しまれ、独創的な渦巻きに関する研究が有名。他の著書に「渦巻の実験」「日本気象学史」「群渦―気象四十年」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。佐野慶造と同年生まれであるから、大学での慶造の友人であったものか。しかし彼の生地が気になる。花子の生地と近いからである。彼が慶造の親友であったなら、花子が師範卒業のすぐ後に慶造と結婚した以上、慶造は咲平に結婚前に花子を紹介し、逢っていたのではないか? 彼と花子が同郷であればこそ、その可能性は強い。とすれば、或いは、実際、咲平はそれを言祝ぎ乍らも、実は花子に惹かれもした、そうして、彼らの婚姻の前に、この、

何ごとも言はじとすれどしかすがにとどめかねたるわが涙哉

というかなりアブナい一首を詠じ、彼ら、否、花子に献じたとするのはどうか? これは、十分にあっておかしくはなく、それをかの恋多き龍之介がまた、それを鋭敏に感じとっていた、というのも、私にはすこぶる、腑に落ちるのである。

「自作をお見せしているときに、そういう人の一首が記されているとはうかつなことでございました」これは不謹慎にして迂闊にして不思議だろうか? いや、不謹慎でも迂闊でも不思議でも、さらさら、ない。花子が芥川龍之介に見せたのは自分の、自分のためだけの歌稿を記した、メモランダである。もともとからして他人に見せることを意識したものではない。さすれば、先の花子の自作の一首、

 

何ごともよしとみて皆喜ばむさやけき秋に心安かれ

 

を記した際、思わず、咲平の献じて呉れた一首である、この初句が一致する、意味深の、

 

何ごとも言はじとすれどしかすがにとどめかねたるわが涙哉

 

思わず並べ記して、ほっと、人知れず、花子が溜息をついたのだとしても、私は何ら、不謹慎とも迂闊とも不思議とも思わぬ。そう思いたいひねくれた連中が、花子を妄想を持った危ない女に仕立て上げたのである。

 

「花曇り捨てて悔なき古恋や 龍之介」これは旧全集書簡番号二八八の大正六(一九一七)年五月十七日附松岡讓宛に、

 

  偶感

花曇り捨てて悔なき古戀や

 

と出る。この句、当たり前に考えるなら、芥川龍之介自身のトラウマとなった吉田弥生との失恋を詠んだ句と読める。しかし、前にも述べた通り、龍之介は使い廻しの天才である。だから、あたかも花子の内実をくすぐるように、このまさに「古戀」の句を彼女に示した可能性はすこぶる「ある」と言える。そうして、それを私は精神的詐欺だとは思わぬそれが俳句のような短律文芸の欠陥であると同時に使い勝手のよい長所でもあると考える私は作為された文学作品と恋情とはそうした共犯関係に常にあるものと心得ている人種であるからである。

 

『例の一句が、ふとしたことから或る方面へ公になって、いろいろ取り沙汰されたことがあったからです。今、考えますとこの俳句の意味は、「お互いに、ともかく、今までの恋人のことなど忘れてしまう」ということではなかったかと思うのですが、どういうものでございましょう』芥川龍之介の先の句が、佐野花子と関わって風説を生んだ、という事実については、残念ながら、確認出来ない。これを花子の妄想と言うなら、そうかも知れぬ。そうでないかも知れぬ。ともかくも、私はその孰れも「確認は出来ぬ」と言うにとどめおくのみである。これについては私はどちらの肩も持つ気はないし、それはだからと言って、佐野花子の本「芥川龍之介の思い出」が妄想の産物だというような、凡そ馬鹿げた批判の証左になる、などとも、さらさら思わぬ人間である。

「秋立って白粉うすし※夫人   龍之介」(「※」=「郛-(おおざと)+虎」)これは他に類型句を見ない新発見句である。しかもこの句は底本の冒頭写真版に出る、大正六(一九一七)年十一月十日刊行(新潮社)の第二作品集「煙草と悪魔」の佐野慶造への献本に記された、芥川龍之介自筆の句(署名有り)であって、前書もあるのである。以下に示す。

 

   土曜日には奥さんがおしろひをつけて

   お出でのさうですね そこで句を作りました

   但甚不出來です

秋立つて白粉うすし虢夫人

 

私は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」で以下ように注した。

   *

[やぶちゃん注:昭和四十八(一九七三)年短歌新聞社刊佐野花子・山田芳子「芥川龍之介の思い出」の佐野花子による「芥川龍之介の思い出」より。冒頭写真版から、活字に起こした。類型句なし。「※」は「郛-(おおざと)+虎」。但し、このような漢字は、「大漢和辭典」にも存在せず、「虢夫人」と誤記で、芥川自身の誤字である。「虢夫人」は楊貴妃の姉で、正しくは虢國夫人と呼ばれた美女である。

 さて、佐野は、この句と次に掲げる「白粉の水捨てしより芙蓉なる」及び「妻ぶりや襟白粉も夜は寒き」の句と共に、芥川から直接もらった句であるとし(このエピソードは夫佐野慶造が不在の折に、芥川が尋ねて来、そこで詩歌談義となり、芥川の「花曇り捨てて悔いなき古戀や」にまつわる、やや危うい会話の後、「その折に下さった」と記している)、芥川が説明をつけたと書いている。これは、佐野の原本を仔細に検討すると、この日に芥川は大正六(一九一七)十一月十日に上梓された題二短編集「煙草と悪魔」を佐野花子に献本しており(前書からみると形式上は佐野慶造への献本である)、その本の見返しに献句したものであることが、原本の冒頭写真版によって分かる。

 佐野は更に「私は大体、白粉をつけることが嫌いで、余りお化粧をしなかったものですから、それを材になさったのでございました。それも、夫に注意されて、たまに刷く程度なので、かえって目立ったことになりましょうか。虢夫人とは中国の昔、蛾のような眉をわずかに指で払うのみで君前にまみえた麗人のことを申します。白粉をつけない私の気概を高くお汲みになったような句と思います。」と記している。]

   *

なお、明らかな直筆であるにも拘わらず、現行の出版された芥川龍之介句集には、この句も次の句も全く載らないこんな呆れた馬鹿な話は、ないよ!!!

 

「白粉の水捨てしよりの芙蓉なる  龍之介」前注に出した冒頭写真版に載る類型句のない新発見句

「妻振りや襟白粉も夜は寒き  龍之介」前注に出した冒頭写真版に載る類型句のない新発見句。写真版では、

 

    追加

妻ぶりや襟白粉も夜は寒き

 

である。「追加」の前書は、前掲二句に対しての「追加」の意である。]

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