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2016/11/02

谷の響 三の卷 一 大骨

 谷のひゝき 三の卷

 

           弘府 平尾魯僊亮致著

 

 

 一 大骨

 

 相馬村大助村の山中に、玄番澤といふ地(ところ)あり。天保十二年のころ此地を苗代に墾(ひら)きしに、土中より人の骨の未だ續けるもの出たり。その骨いといと大きく、髗(かしら)骨は一尺六七寸許り髃(かたほね)の廣さは三尺ほども有るべく見れば、土人奇異の思をなしこは言ひ傳ふる玄番の遺骨なるべしとて、祟(たゝり)あらんを怕れ其まゝ舊(もと)の壙(あな)に納めしとなり。こは相馬の産なる福右衞門といへる木匠(だいく)の話なり。                  

  附言 この玄番澤といふ地は、往古(む

  かし)其氏玄番といふ人ありて大剛のも

  のなりしが、それが部下なる大助村の長

  五郎・小三郎といへる二人のものに殺さ

  れき。さるに其怨祟(たゝり)にて有け

  ん、二個(ふたり)の家癩疾のもの絶え

  ざりければ、二代の長五郎・小三郎ども、

  玄番の亡靈(なきがら)を和めて氏神に

  祭りしより、この難病はなかりしとなり。

  又玄番が持てる太刀とて、長五郎の家に

  今に傳へしとなり。こもこの福右衞門の

  話なり。

 又、去る戊午年三月堅田村にて陸田(はたけ)を墾きしに、その地は往古常源寺の梵字地(てらあと)のよしにて、人の枯骨多く十六人と言へり。出たるうちいと大きなる枯骨一具ありて、人夫に傭はれし御藏町の才兵衞と言へるもの、こは希有(けう)なるものとてその頭骨を被りて見るに、自分の頤(おとがひ)までかゝれり。脛(はぎ)の骨膝の下にて一尺八寸あり。又一個の髗骨に長さ一寸四五分の齒の缺(かけ)もなく列りければ、御藏町の豐吉といへる者いと希(めづら)しとて、その齒を拔きとらんとすれば、堅く締りて拔けずとなり。さて是等の枯骨どもをさらいあつめて片隅に埋め置きしが、雨の蕭凄(すさまじ)かりし夜は陰火燃えあがりて、見しものまゝありしとなり。後改葬して供養する説ありしも、その事いかゞなりしか知らず。この豐吉といひし者語りしなり。またこの地より鏡一面出たる話あれど、そは二々にしるす。

 又、小國村【東濱の山里也】の山中に、二重隍壘跡(ほりしろあと)あり。嘉永のはじめ、こを陸田にひらきしにいと大きなる枯骨を掘出せるが、その髗骨の大きさは馬のことく、眼の痕大きく口廣くして齒の長さ二寸許り二重に生えたり。骸骨は二斗内(いり)の蒲簀(かます)に二個ばかり有けるが、全く人の枯骨にして手足の骨など甚(いと)大(たくま)しく、たゞ一個の骨にてありたるなり。こを掘りたるもの、馬の骨ならめとて鍬もて搔き亂しに、忽ち昏絶(たふれ)て伏したりければ、伴侶(とも)のもの共慌忙(あはて)さわいでこれをたすけ、目下にこの怪しきを見極太(いたく)惶※(おそれ)て舊の壙(あな)に納めしとなり。こは石郷岡某なる人、覲番の時(をり)聞きたりとて語られき。この外、碇ケ關の山中よりもかゝる大骨出たるよしなれど、未たその證を得ざればこゝに洩しき。[やぶちゃん字注:「※」=「忄」+「票」。]

 

[やぶちゃん注:所謂、今でもその手のアブナい話に出る巨人伝説のような、西尾氏には悪いが、孰れも人骨(相撲取り並だったとしても)とは思われない白骨の大きさである。縄文・弥生人やアイヌの人々でも、こんなに大きくはない。地元の人々が誰も彼も熊の骨を人骨と見誤るとは思われぬ。但し、青森や秋田には古くから大人(おおひと)伝説はある。サガラッチ氏のサイト「巨人大全」のによれば、『秋田県には三九郎、青森には八の太郎がいます。八の太郎は青森県で十和田様という神様と喧嘩して、秋田方面へ逃げてきて、八郎潟を掘り、そこの主となったそうです』とある。いて欲しいとは思うけどなぁ。

「相馬村大助村」底本の森山泰太郎氏の補註によれば、『中津軽郡相馬村大助。弘前から西南にあたる山村で、江戸時代初期の開村。村名伝説がある。むかしは岩木川を遡って鮭がここまで上った。その時期になると、夜中に白髪の翁が「大助小助今のぼる」と叫んで来た。村人はこの声を聞けば死ぬといって耳を塞いだという。スケは鮭のことである』。現在は合併により弘前市大助(おおすけ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「玄番澤」底本の森山氏の補註によれば、『戦国時代の士豪三ツ目内玄蕃がここで終った』(命を終えた)『という伝えがある』とある。この人物は青森ではかなり知られた人物らしく、森山氏は戦国時代とするが、実際には安土桃山末期で江戸開府直前といった感じである。株式会社サンブラッソの公式ブログ「青森の歴史街道を探訪する」の「第22話 堀越城 ~前線基地から本城へ~」を見ると、慶長五(一六〇〇)年に津軽領主であった為信が徳川方について、関ヶ原の合戦に出陣中、その留守に、『尾崎喜蔵、三ツ目内玄蕃、板垣兵部の三将が謀反を起こし、堀越城を占領し』たもののその『後、反逆軍の全滅で幕を閉じ』たとあるからである(下線やぶちゃん)。さらに、「東奥日報社」公式サイト内の「棺森」に、先の現在の弘前市大助の東の端から東南に四・六キロメートル(直線)位置に「棺森(がんもり)」というおとろしけない山(地名)が存在し(この右下(グーグル・マップ・データ))、『棺森には玄蕃沢という名の沢がある』と明記されている。或いは、現行の大助地区ではなく、ここかも知れぬ。

「天保十二年」一八四一年。

「苗代」「なはしろ」。

「人の骨の未だ續けるもの」関節で分離していない、人骨一体が概ね完全に繫がった状態になっているもの。

「髗(かしら)骨」頭蓋骨。

「一尺六七寸許り」四十八・四八~五十一・五一センチメートル。頭頂から下がった顎先までとしても異様な大きさである。

「髃(かたほね)の廣さ」前の頭蓋骨のサイズから考えて、人骨の左右の肩(骨)幅を言っているものと思われる。

「三尺」ほぼ九十一センチメートル。

「其氏玄番」先の話では三ツ目内とする。しかし「其の氏」ではおかしい。この「其」は「某」の誤記ではあるまいか?

「癩疾」ハンセン病。抗酸菌(マイコバクテリウム属Mycobacteriumに属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種であるらい菌(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法らい予防法が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く纏った「癩病」という呼称の使用は解消されるべきと私は考えるが、何故か、菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。ハンセン菌でよい(但し私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように言葉狩りをしても意識の変革なしに差別はなくならない)。

「和めて」「なごめて」。

「氏神に祭りしより」自分の先祖が殺戮した者を自分の一族の氏神としたというのである。御霊信仰の中で、敬して鎮める方法はすこぶる多いが、自分のクランの氏神としてしまうというのは、かなり思い切った方法である。ハンセン病は感染力が非常に弱いので、特定の一族に有意に患者が多発することは普通あり得ない。或いは、ハンセン病とは違う、別な皮膚強い変質が起きる遺伝病或いは感染症(遺伝を考えた方が自然)に一族がぞくぞくと罹患し、それを食いとめる手段としたものか。

「去る戊午年三月」先の「天保十二年」前後で「戊午」(つちのえうま)は安政五年。一八五八年。「去る」(さる/いんぬる)なのは本書の成立がそれより後の万延元(一八六〇)年だから。

「堅田村」底本の森山氏の補註によれば、『現在の弘前市和徳堅田(かただ)』とある。現在は和徳町と堅田にわかれているようだが、この附近(グーグル・マップ・データ)。

「往古」「むかし」。

「常源寺」底本の森山氏の補註によれば、『弘前市西茂森町。曹洞宗白花山常源寺。永禄六年開基という。寺禄三十石』とある。永禄六年は一五六三年。

「梵字地(てらあと)」三字へのルビ。

「十六人」全身が保存された人骨で数えると十六人分ということであろう。揃っているという点からみると、明らかに古い埋葬地であったと考えてよかろう。

「御藏町」既出既注であるが再掲しておく。現在の青森県弘前市浜の町のことと思われる。ここgoo地図)。「弘前市」公式サイト内の「古都の町名一覧」の「浜の町(はまのまち)」に、『参勤交代のとき、もとはここを経て鯵ヶ沢に至る西浜街道を通って、秋田領に向かっていました。町名は、西浜に通じる街道筋にちなんだと思われますが』、宝暦六(一七五六)年には『藩の蔵屋敷が建てられ、「御蔵町」とも呼ばれました』とある。

「その頭骨を被りて見るに、自分の頤(おとがひ)までかゝれり」この場合の頭骨とは、考えられないことであるが、大の大人が被ることが出来た頭蓋骨ということは、通常成人の三回りぐらいは大きなものでなくては無理である。

「脛(はぎ)の骨膝の下にて一尺八寸あり」膝蓋骨から下の脛骨が五十六センチメートルあったということであろう。現代人の標準的な脛骨の長さは三十~三十三センチメートルとされるから、やはり異様に長い。

「長さ一寸四五分の齒」四センチ強から四センチ五ミリで、これは人間の歯では、あり得ない。

「列り」「つらなり」。

「堅く締りて拔けず」この状態が古い遺体なのか、新しい遺体なのかは不明だが、歯根や顎骨との間の腐食が進んでいれば抜け易くなるはずであるから、それなりに新しいということだろうか?

「さらいあつめて」「浚ひ集めて」。歴史的仮名遣は誤り。

「陰火」火の玉。

「見しものまゝありし」「見し者、儘ありし」。

「後」「のち」。

「この地より鏡一面出たる話あれど、そは二々にしるす」「二々」は「つぎつぎ」か。これは珍しく「四の卷」の「十七 地を掘りて物を得」で書かれてある。

「小國村【東濱の山里也】」底本の森山氏の補註によれば、『東津軽郡蟹田町小国(おぐに)。津軽半島中央部の山村。いま上小国・中小国・下小国の三部落に分れる』とある。現在の東津軽郡外ヶ浜町蟹田小国か。附近(グーグル・マップ・データ)。

「二重隍壘跡(ほりしろあと)」二重に掘られた山砦(さんさい)の塹壕(「隍」は堀)と土か石の塁(るい)の跡の謂いであろう。

「嘉永のはじめ」嘉永は一八四八年から一八五四年まで。

「ことく」ママ。「如く」。

「眼の痕」眼窩。

「齒の長さ二寸許り二重に生えたり」六センチもの歯がしかも二重に生えている!? 鮫の化石じゃねぇの?

「骸骨は二斗内(いり)の蒲簀(かます)に二個ばかり有ける」米で考えると、二斗は三十キログラム入りの袋の大きさであり、それ二つ分というのは、ばらばらになった成人一人の全骨(後に「一個」とあり、これは「ひとり」と読み、「人一人分の人体の骨」の謂いである)としても異様な量である。

「伴侶(とも)のもの共」「共」は「ども」。

「慌忙(あはて)」二字へのルビ。

「怪しきを見」「見」は「み」。

「極太(いたく)」二字へのルビ。

「惶※(おそれ)て」(「※」=「忄」+「票」)二字へのルビ。正直、この「※」は「慄」の誤記ではあるまいか?

「石郷岡」姓としては「いしごうおか」「いしごおか」「いしごおおか」「いしこうおか」「いしごうおう」「いしごうか」「いしざとおか」「いしさとおか」「いしとおか」「いしのりおか」「いしがおか」「せきごうおか」「いごうおか」「いごおか」などと読むらしい。ネット情報では東北、特に秋田県と青森県に多い姓だそうである。

「覲番」「覲」は「参覲交代」のように「将軍にまみえる」の意で「勤」とは本来は全く異なる文字であるが、この小国では位置的に「参覲交代」は当たらないから、単に藩の御用で恐らくは青森勤番として勤務した際、という意味であろう。

「碇ケ關」既出既注であるが再掲する。森山氏補註に、『南津軽郡碇ケ関(いかりがせき)村。秋田県境に接する温泉町。藩政時代に津軽藩の関所があり、町奉行所が支配していた』とある。現在は合併によって平川市碇ヶ関として地名が残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

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