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« 北條九代記 卷第十 宗尊親王御出家 付 薨去 | トップページ | 甲子夜話卷之三 6有德廟、大統を重んじ私親を顧み玉はざる事 »

2016/11/23

北條九代記 卷第十 惟康親王御家督 付 蒙古大元來歷

 

      ○惟康親王御家督  蒙古大元來歷

 

惟康(これやす)親王は、前將軍宗尊親王の御息(おんそく)、御母は近衞(このゑの)攝政太政大臣藤原兼經公の御娘(おんむすめ)宰子(さいこ)とぞ申しける。文永元年三月に御誕生あり。去ぬる文永三年六月二十三日、鎌倉騷動の時、宗尊親王、既に京都に歸上(かへりのぼ)らせ給ひ、若君は相摸守政村の亭に入り給ひしかば、時宗、政村が計(はからひ)とて、僅か三歳にならせ給ふ若君を取立(とりた)て參らせ、關東の柱礎(ちうそ)、鎌倉の君主とし、諸將諸侍、更に前代に相替らず、拜禮崇敬(はいらいそうきやう)して、仰ぎ奉る。同年七月二十四日、京都より勅書を下され、征東大將軍に任じ、從四位上に叙せられしかば、鎌倉の躰(てい)、安泰静謐になりて、上(かみ)齊(と〻のほ)り、下(しも)治(をさま)り、田畠(でんはた)登(みの)り、市店(してん)賑(にぎは)ひ、萬民(ばんみん)德風(とくふう)に歸し、四海逆浪(げきらう)の音なし。

この比(ころ)、異朝には北狄(ほくてき)の蒙古(もうこ)起り、中華を隨へて大元國(だいげんこく)と號す。抑(そもそも)、蒙古の祖先を尋ぬるに、一人の寡婦ありて、閑窓(かんそう)の内に起臥(おきふし)しける所に、夜每に光明ありて、その腹を照す。遂に感じて孕みつ〻、月盈ちて一乳(にう)に三子を生ず。中にも季子(きし)孛端義兒(ばいたんぎに)、聰惠利根(そうゑりこん)なり。子孫既に蕃滋(ばんじ)して一部となり、遼(れう)、金(きん)の世に至り、漸々、部族昌(さか)えて韃靼(だつたん)に從へり。也速該(やそがい)が時に及びて、塔々兒部(たつたつにぶ)の長に鐵木眞(てつぼくしん)といふ者あり。也速該、死して、世を取り、西夏を攻取(せめと)り、諸部を隨へ、自(みづから)、成吉思可汗(せいぎしかつかん)と名を改め、雲中、九原の地を犯奪(をかしうば)ふ。金の熙宗(きそう)皇帝の時、九十餘郡を攻伐(こうばつ)す。兩河(か)山東(さんとう)數千里の人民、殺さる〻もの、幾千萬とも數知らず。鐵木眞、既に大軍を以て燕京(えんけい)を亡(ほろぼ)し、高麗を降(かう)ぜしめて、六十六歳にして病死せり。即ち、廟を立てて太祖皇帝と號す。第三の子、窩濶台(くわかつたい)、その嗣(よつぎ)として、太宗皇帝と稱す。陜西(せんせい)、封丘(ほうきう)、汴城(べんじやう)を打隨(うちしたが)へ、遂に金國を攻滅(せめほろぼ)し、宋國、次(つい)で滅(めつ)す。その間(あひだ)、太宗、定宗、既に殂(そ)し、憲宗、位に卽(つ)き、その弟、忽必烈(こつびれつ)、相次(あひつい)で世を治め、是を世宗(せいそう)皇帝と稱す。この時、至元元年に都を燕京に立てて、國號を大元と云ふ。是乃(これすなはち)、大易(たいえき)、「大哉乾元(おほいなるかなけんげん)」の義に依りて名付けたる所なり。大元一統の世となりて、高麗國(かうらいこく)の王子倎(てん)、既に蒙古大元に隨ふ。是(これ)を案内として、この日本へ書簡を贈り、蒙古大元に隨ひ、貢物(みつぎもの)を奉るべき由を企(くはだて)しかども、高麗王、申しけるは、「日本は海路杳(はるか)に隔ちて、急速(きふそく)には通じ難し」とありければ、その事、止みにけり。

 

[やぶちゃん注:読み易くするために、特異的に後半の「蒙古大元來歷」を改行した。鍵括弧の位置(底本では「大易大哉乾元」となっている)を恣意的にずらした。湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、この部分は惟康親王の征夷大将軍就任が、「吾妻鏡」巻五十二の文永三(一二六六)年六月二十三日及び「将軍記」に依り、後半の蒙古の由来部分は「中朝歴代帝王譜」(七冊・寛永一九(一六四二)年林道春(羅山)跋・写本)及び「日本王代一覧」「五代帝王物語」に基づくされる。湯浅氏はここに注記されて、『『吾妻鏡』の記録は文永三年七月二十日で終わり、『北条九代記』では以下、『日本王代一覧』『将軍記』を主な拠りどころとする。しかし、典拠の明らかでない記述もあり、本話での蒙古の由来については『五代帝王物語』に蒙古国の成立までの簡単な説明があるが、『北条九代記』の方がより詳細である。蒙古の祖先季子(きし)孛端義児(ばいたんぎに)の出世譚については、『中朝歴代帝王譜』に「阿蘭、寡居、夢に白光、天窓より中に入る。化して金色の神人と為り、趨り来て榻に臥す。阿蘭、驚き覚め、遂に娠有り、一子を産む。即ち孛端又児也」(巻十二「孛端又児」)という同様の記述がある。また、蒙古が高麗国をとおして日本に書簡を送ろうとした件は『日本王代一覧』に拠る』と解析しておられる。

「惟康親王」(文永元(一二六四)年四月二十九日~嘉暦元(一三二六)年)は鎌倉幕府第七代征夷大将軍(征夷大将軍宣下は文永三(一二六六年)七月二十四日)。ウィキの「惟康親王より引いておく。『相模国鎌倉に生まれ』、『宗尊親王が廃されて京都に送還されたことに伴い』、数え三歳で『征夷大将軍に就任した。初めは親王宣下がなされず惟康王と呼ばれていたが、征夷大将軍に就任したのちに臣籍降下して源姓を賜与され、源惟康と名乗る(後嵯峨源氏)。今日では宮将軍の一人として惟康親王と呼ばれることが多いが、実は将軍在職期間の大半を源惟康すなわち源氏将軍で過ごしていた』。『これは、当時の蒙古襲来(元寇)という未曽有の事態に対する、執権・北条時宗による政策の一環であったとされ、時宗はかつての治承・寿永の乱あるいは承久の乱を先例として、将軍・源惟康を初代将軍・源頼朝になぞらえ、時宗自身は北条義時』の再来と自称する『ことで、御家人ら武士階級の力を結集して、元に勝利することを祈願したのだという』(下線やぶちゃん)。実際、弘安二(一二七九)年の正二位への昇叙や弘安一〇(一二八七)年の右近衛大将への惟康親王の任官は、『いずれも源頼朝を意識してのものであり、北条氏がその後見として幕府の政治を主導することによって、同氏による得宗専制の正統性を支える論理としても機能していた。特に源氏賜姓と正二位昇叙はいずれも時宗政権下で行われており、時宗が源氏将軍の復活を強く望んでいたことが窺える』。弘安七(一二八四)年に時宗は僅か満三十二歳で『死去するが、その後も安達泰盛や平頼綱が時宗の遺志を受け継ぎ、頼綱政権下の』同一〇(一二八七)年に『惟康は右近衛大将となって「源頼朝」の再現が図られた。しかし、わずか』三『ヶ月後に辞任し、将軍の親王化を目指す頼綱の意向によって、幕府の要請で皇籍に復帰して朝廷より親王宣下』(同年十月四日)『がなされ、惟康親王と名乗ることとなった』。『これは、北条氏(執権は北条貞時)が成人した惟康の長期在任を嫌い、後深草上皇の皇子である久明親王の就任を望み、惟康の追放の下準備を意図したものであったらしく』、惟康は二十六歳となった正応二(一二八九)年九月、将軍職を解任され、京に戻されてしまう。「とはずがたり」に『よれば、鎌倉追放の際、まだ親王が輿に乗らないうちから将軍御所は身分の低い武士たちに土足で破壊され、女房たちは泣いて右往左往するばかりであった。悪天候の中を筵で包んだ粗末な「網代の御輿にさかさまに」乗せられた親王は泣いていたという。その様子をつぶさに見ていた後深草院二条は、惟康親王が父の宗尊親王のように和歌を残すこともなかったことを悔やんでいる』とその悲哀を述べている。同年十二月に出家、三十七年後、享年六十三で亡くなった。

「宰子」既出既注。

「文永元年三月」前注の通り、「四月」の誤り。

「文永三年六月二十三日、鎌倉騷動の時、宗尊親王、既に京都に歸上(かへりのぼ)らせ給ひ」「六月二十三日」は以下に綴られる通り、惟康が北条政村亭に移された日時で、宗尊の鎌倉出立は七月四日、帰洛は同二十日である(この帰着が「吾妻鏡」最後の記事である)。

「この比(ころ)、異朝には北狄(ほくてき)の蒙古(もうこ)起り、中華を隨へて大元國(だいげんこく)と號す」元は一二六〇年にモンゴル帝国初代皇帝チンギス・カン(太祖)の孫でモンゴル帝国の第五代皇帝に即位したクビライ(フビライ)が一二七一年にモンゴル帝国の国号を大元と改めたことにより成立するので、「この頃」とは一二六〇年、本邦の文応元年頃と読める。

「一人の寡婦ありて、閑窓(かんそう)の内に起臥(おきふし)しける所に、夜每に光明ありて、その腹を照す。遂に感じて孕みつ〻、月盈ちて一乳(にう)に三子を生ず」ウィキの「チンギス・カン」によれば、『チンギス・カンの生まれたモンゴル部はウイグル可汗国の解体後、バイカル湖の方面から南下してきてモンゴル高原の北東部に広がり』、十一『世紀には君主(カン、ハン)を頂く有力な集団に成長した遊牧民であった』。『チンギス・カンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書『元朝秘史』によれば、その遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立ったボルテ・チノ(「蒼き狼、すなわち灰色斑模様の狼」の意)とその妻なるコアイ・マラル(「青白き鹿」の意)であるとされる。ボルテ・チノの』十一『代後の子孫ドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、その未亡人アラン・ゴアは天から使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま』三『人の息子を儲けた。チンギス・カンの所属するボルジギン氏の祖となるボドンチャルはその末子である』とある(下線やぶちゃん)。

「季子」末子。

「孛端義兒(ばいたんぎに)」前注のボドンチャル。

「聰惠利根(そうゑりこん)」聡明にして才気煥発であること。

「蕃滋(ばんじ)」子孫が繁栄すること。

「一部」強大な一部族。

「遼」九一六年から一一二五年にかけて内モンゴルを中心に中国北辺を支配したキタイ(契丹)人ヤリュート(耶律)氏の王朝。

「金」一一一五年から一二三四年にかけて中国北半を支配したジュルチン(女真)族の王朝。遼・北宋を滅ぼして西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は、初め、会寧(上京会寧府。現在の黒竜江省)、後に燕京(中都大興府。現在の北京)。

「韃靼(だつたん)」蒙古の別称。狭義にはモンゴル系部族の一つで、八世紀頃から東モンゴリアに現われ、後にモンゴル帝国に併合された。宋ではモンゴルを「黒韃靼」、トルコ系部族オングートを「白韃靼」と称し、ずっと後の明では滅亡後に北方に逃れた元の遺民を「韃靼」と称した。広義のそれは「タタール」と同義。

「也速該(やそがい)」イェスゲイ。ウィキの「イェスゲイ」によれば、『モンゴル帝国が広大な領域を支配する帝国に成長した後、チンギスから数えて第』五『代のカアンであるクビライは』、一二六六『年に中国の習慣により』、『初代皇帝チンギス・カンの父であるイェスゲイに「烈祖神元皇帝」と追諡』(ついし/おくりな)した。事蹟はリンク先を参照されたい。

「塔々兒部(たつたつにぶ)」教育社増淵勝一氏の現代語訳では『タタルーブ(蒙古の東)』と割注する。

「鐵木眞(てつぼくしん)」テムジン。チンギス・カンの本名。

「西夏」宋代の一〇三八年にチベット系タングート族拓跋(たくばつ)氏の李元昊(りげんこう)が中国北西部の甘粛・オルドス地方に建てた国。国号は「大夏」。都は興慶府で、宋・遼・金と和平と抗争を繰り返したが、一二二七年に蒙古のチンギス・カンに滅ぼされた。西夏文字を制定し、仏教を保護奨励したことで知られる。

「諸部」諸部族。

「成吉思可汗(せいぎしかつかん)」チンギス・カン。漢字表記は現行では「成吉思汗」。

「雲中」山西省大同市地方の古名。古来、北方の遊牧民族に対する拠点で、唐代にはここを「雲中県」と称し、「雲州」あるいは「雲中郡」の行政中心としたのを始まりとする。

「九原」現在の内モンゴル自治区バヤンノール市及び包頭市一帯の古名。

「金の熙宗(きそう)」(一一三五年~一一五〇年)は先の金の第三代皇帝。ウィキの「熙宗(金)」によれば、『奢侈に走って酒に溺れるなどの暴政を繰り広げたため』、『側近を仲間に引き入れた従弟の迪古乃(海陵王)によって殺害された』とある。

「兩河(か)」河南と河北。

「高麗」九一八年に王建が建国して朝鮮半島を統一、一三九二年まで続いた国家。首都は開京(後の開城。なお、「高麗」は朝鮮を表す「コリア」の語源である)。ウィキの「高麗によれば、一二五九年に当時の崔氏政権が『打倒され、高麗はモンゴル帝国に降伏、太子(王子)を人質としてモンゴル宮廷に差し出し、高麗王族がモンゴルの大カアンの侍衛組織であるケシクの要員に加わるようになっ』て、高麗国は『モンゴルの行中書省の征東等処行中書省に組み込まれ』た。『モンゴルはこれまでの契丹や女真と異なり、直接的な内政干渉をした。国内には多くのモンゴル軍人が駐留し、反発感情が生まれ』、一二七〇『年には「慈悲嶺」以北の広大な東寧路を奪われ、東寧府を置かれた。同年、崔氏を倒した林氏政権が滅んで武臣政権は終焉するが、モンゴル支配に抵抗する人々が三別抄の反乱を起こした。反乱者は属国だった耽羅島(済州島)の政権を滅ぼして徹底抗戦し、また、鎌倉幕府に救援を求め、共同してモンゴルを撃退するよう要請したが、文永の役直前の』一二七三『年には、日本派遣軍の司令官となる』忻都(きんと)や洪茶丘(こうさきゅう)『などが率いる派遣軍に鎮圧された。乱の鎮圧と共に、クビライは日本を服属させようと試みたが交渉は失敗し』、一二七四年と一二八一年に『二度の日本侵攻(元寇)を行った。このため旧高麗領の多くが、前線基地として兵站の補給と軍艦の建造を命令され、供出と日本侵略失敗により多大な負担を強いられた』。一方、「高麗史」には、『忠烈王がモンゴルに日本侵攻を働きかけたとの記述がある。忠烈王が自身の政治基盤強化のため、モンゴル軍を半島に留めさせ、その武力を後ろ盾とする目的であったと見られる』。忠烈王は『クビライの娘忽都魯掲里迷失(クトゥルク=ケルミシュ)』『と結婚してハーンの娘婿(駙馬、グレゲン)となった。初期には高麗王室も一定の影響力を保っていたが、次第に征東行省(第一次と第二次征東行省では高麗王は次官だったが、第三次では排除された)は高麗朝廷の人事にも関与する様になり、高麗領は元の支配下へ組み込まれた』。一二七八年以降は『一切の律令制定と発布はモンゴルの権限とされ』、その後の『王はモンゴルの宮廷で育ち、忠宣王は「益知礼普花」(イジリブカ)、忠粛王は「阿刺訥失里」(アラトトシリ)、忠恵王は「普塔失里」(ブダシリ)と、モンゴル風の名も持っていた。このような中で高麗貴族の間ではモンゴル文化が流行した』とある。

「六十六歳」チンギス・カンは一一六二年生まれで、一二二七年に亡くなっている。増淵氏はこれを六十一歳の誤りとされているが、不審。

「窩濶台(くわかつたい)」チンギス・カン三男で第二代モンゴル帝国皇帝オゴタイ(「オゴデイ」とも表記 一二二九年~一二四一年)。ウィキの「オゴデイ」によれば、彼にはジョチとチャガタイという二人の『有能な兄がいたが、ジョチは出生疑惑をめぐるチャガダイとの不和から、チャガタイは気性が激しすぎるところからチンギスから後継者として不適格と見なされていた。オゴデイは温厚で、一族の和をよくまとめる人物であったため、父から後継者として指名された』とある。

「陜西(せんせい)」現在の陝西省。中国のほぼ中央に位置し、秦の都咸陽、前漢及び唐の都長安があった。

「封丘(ほうきう)」現在の河南省新郷市封丘(ふうきゅう)県附近か。

「汴城(べんじやう)」現在の河南省東部ある開封(かいほう)市。中国でも最も歴史が古い都市の一つで、北宋の首都として栄え、十一世紀から十二世紀にかけては世界最大級の都市であった(ウィキの「開封市」に拠った)。

「宋國、次(つい)で滅(めつ)す」宋は趙匡胤(きょういん)が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した国で、現行の歴史では、金に華北を奪われて南遷した一一二七年以前を「北宋」、以後を「南宋」と呼び分けている。南宋は、一二七六年、モンゴル帝国第五代皇帝フビライ(オゴタイの弟ツライの子)の重臣で南宋討伐軍総司令官であったバヤン将軍に臨安を占領され、滅亡した。

「定宗」モンゴル帝国第三代皇帝グユク。オゴデイの長子。

「殂(そ)」皇帝が死ぬことを指す字。

「憲宗」モンゴル帝国第四代皇帝モンケ。チンギス・カンの四男トルイの長男。

「卽(つ)き」即位し。

「その弟、忽必烈(こつびれつ)」モンゴル帝国の第五代皇帝クビライ(一二一五年~一二九四年)。チンギス・カンの四男トルイの子で、モンケの同母弟。但し、兄モンケとは意見が合わず、南宋攻略に焦ったモンケが自ら出陣、陣中で疫病(赤痢)に罹って病死すると、モンケの子が幼かったためにクビライを含む三人の弟達の後継者抗争が起こったが、結果として彼が次期皇帝に地位を奪取し一二六〇年に即位した(その辺りはウィキの「クビライ」の「カアン位をめぐる争い」を参照されたい)。彼が日本への侵攻を企んだ。

「至元元年」一二六四年

「大易」「易経」。

「大哉乾元(おほいなるかなけんげん)」「易経」の冒頭の「乾」の孔子の作るところの「彖傳(たんでん)」の文に出る一節からの引用。

   *

彖曰、大哉乾元、萬物資始。乃統天。雲行雨施、品物流形。大明終始、六位時成。時乘六龍以御天。乾道變化、各正性命、保合大和、乃利貞。首出庶物、萬國咸寧。

(彖(たん)に曰く、大いなるかな、乾元、萬物、資(と)りて始む。乃ち、天を統(す)ぶ。雲、行き、雨、施し、品物(ひんぶつ)、形を流(し)く。大いに終始を明らかにすれば、六位時に成る。時に六(りく)龍に乘りて以つて天を御(ぎよ)す。乾道(けんだう)、變化し、各々性命(せいめい)を正)ただ)し、大和(たいわ)を保合す。乃ち、利貞なり。首(しゆ)として庶物(しよぶつ)に出でて、萬國、咸(ことごと)く寧(やす)し。)

   *

意味は、「天空の道! これ、なんと、大きいことか!」。なお、短い(正安四年十一月二十一日(ユリウス暦一三〇二年十二月十日から乾元二年八月五日(一三〇三年九月十六日)の正味九ヶ月)ので知らない人が多いが、本邦のこの後の鎌倉時代の元号「乾元(けんげん)」も同源である。

「王子倎(てん)」第二十四代高麗王であった元宗(一二一九年~一二七四年:在位:一二五九年~一二七四年)の初名。ウィキの「元宗高麗王によれば、『太子のときに高麗がモンゴルに服属したため、人質としてモンゴルに赴くことになるが』、一二五九年に『の高宗とモンゴル皇帝であったモンケが死去したため、帰国して即位した』。『その後、帝位争いの末に即位したクビライに臣従して、国王の権力強化と親モンゴル政策を採る』。『ところが、この親モンゴル政策に重臣はこぞって反発し、元宗は一時廃位されかけたが』、『モンゴルの力を借りて重臣たちの排除を図る。この時』、ここまで百年ほど続いてきた『高麗の武臣政権に終止符が打たれた』。一二七〇『年には反モンゴルの姿勢をとるゲリラ集団・三別抄の解散を図ったが、逆に三別抄は王の弱腰政策に怒り、高麗に対してまで反乱を起こさせることとなった。さらにはモンゴルから日本遠征の大規模負担を負わされて国民に重税を強いることとなるなど、失政を続け』、『文永の役直前に病死した』とある。

『是(これ)を案内として、この日本へ書簡を贈り、蒙古大元に隨ひ、貢物(みつぎもの)を奉るべき由を企(くはだて)しかども、高麗王、申しけるは、「日本は海路杳(はるか)に隔ちて、急速(きふそく)には通じ難し」とありければ、その事、止みにけり』この「高麗王」は前の元宋宗である。以下、ここまでの経緯とその後の状況をウィキの「元寇から引く。一二六四年(文永元年)、『アムール川下流域から樺太にかけて居住し、前年にモンゴル帝国に服属していたギリヤーク(ニヴフ)族のギレミ(吉里迷)がアイヌ族のクイ(骨嵬)の侵入をモンゴル帝国に訴えたため、モンゴル帝国がクイ(骨嵬)を攻撃し』ているが、『この渡海作戦はモンゴル帝国にとって元寇に先んじて、初めて渡海を伴う出兵であった』。以降、二十年『を経て、二度の日本出兵を経た後の』一二八四年(弘安七年)、元は『クイ(骨嵬)への攻撃を再開』、一二八五年(弘安八年)と一二八六年(弘安九年)には実に約一万人の『軍勢をクイ(骨嵬)に派遣している』(これは現在の日本人にはあまり知られているとは思われないので前後に下線を引いた)。『これらモンゴル帝国による樺太への渡海侵攻は、征服を目的としたものではなく、アイヌ側からのモンゴル帝国勢力圏への侵入を排除することが目的であったとする見解がある』。『この数度に亘る元軍による樺太への渡海侵攻の結果、アイヌは元軍により樺太から駆逐されたものとみられる』。『元は樺太の最南端に拠点としてクオフオ(果夥)を設置し、蝦夷地からのアイヌによる樺太侵入に備えた』。『以後、アイヌは樺太に散発的にしか侵入することができなくなった』。『なお、樺太最南端には、アイヌの施設であるチャシとは異なる方形土城として、土塁の遺構がある白主土城(しらぬしどじょう)があり、これがクオフオ(果夥)であったと思われる』。さて、『クビライが日本に使節を派遣する契機となったのは』、一二六五年(文永二年)、『高麗人であるモンゴル帝国の官吏・趙彝(ちょうい)等が日本との通交を進言したことが発端で』、『趙彝は「日本は高麗の隣国であり、典章(制度や法律)・政治に賛美するに足るものがあります。また、漢・唐の時代以来、或いは使いを派遣して中国と通じてきました」』『と述べたという。趙彝は日本に近い朝鮮半島南部の慶尚道咸安(かんあん)出身であったため、日本の情報を持っていたともいわれる』。そこで『クビライは趙彝の進言を受け入れ、早速日本へ使節を派遣することにした。なお、マルコ・ポーロの「東方見聞録」では、『日本は大洋(オケアノス)上の東の島国として紹介されており、クビライが日本へ関心を抱いたのは、以下のように日本の富のことを聞かされ』、『興味を持ったからだとしている』。『「サパング(ジパング、日本国)は東方の島で、大洋の中にある。大陸から』千五百マイル(約二千二百五十キロメートル)『離れた大きな島で、住民は肌の色が白く礼儀正しい。また、偶像崇拝者である。島では金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している。しかし大陸からあまりに離れているので、この島に向かう商人はほとんどおらず、そのため法外の量の金で溢れている。この島の君主の宮殿について、私は一つ驚くべきことを語っておこう。その宮殿は、ちょうど私たちキリスト教国の教会が鉛で屋根を葺くように、屋根がすべて純金で覆われているので、その価値はほとんど計り知れないほどである。床も』二ドワ(約四センチメートル)『の厚みのある金の板が敷きつめられ、窓もまた同様であるから、宮殿全体では、誰も想像することができないほどの並外れた富となる。また、この島には赤い鶏がたくさんいて、すこぶる美味である。多量の宝石も産する。さて、クビライ・カアンはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵を付けて派遣した。将軍の一人はアバタン(アラカン(阿剌罕))、もう一人はジョンサインチン(ファン・ウェン・フー、范文虎)といい、二人とも賢く勇敢であった。彼らはサルコン(泉州)とキンセー(杭州)の港から大洋に乗り出し、長い航海の末にこの島に至った。上陸するとすぐに平野と村落を占領したが、城や町は奪うことができなかった」』。『また、南宋遺臣の鄭思肖も「元賊は、その豊かさを聞き、(使節を派遣したものの)倭主が来臣しないのを怒り、土の民力をつくし、舟艦を用意して、これに往きて攻める」』『と述べており、クビライが日本の豊かさを聞いたことを日本招諭の発端としている』。『他方、クビライによる日本招諭は、対南宋攻略の一環であったという説もある。モンゴル帝国は海軍を十分に持っていなかったため、海上ルートを確保するためもあったという見解である』。但し、『クビライは日本へ使節を派遣するのと同時期に「朕、宋(南宋)と日本とを討たんと欲するのみ」』『と明言し、高麗の造船により軍船が整えば「或いは南宋、或いは日本、命に逆らえば征討す」』『と述べるなど、南宋征服と同様に日本征服を自らの悲願とする意志を表明している』。『クビライは使節の派遣を決定すると』、翌一二六六年(文永三年)『付で日本宛国書である「大蒙古國皇帝奉書」を作成させ、正使・兵部侍郎のヒズル(黒的)と副使・礼部侍郎の殷弘ら使節団を日本へ派遣』することとし、『使節団は高麗を経由して、そこから高麗人に日本へ案内させる予定であった』。同年十一月、『ヒズル(黒的)ら使節団は高麗に到着し、高麗国王・元宗に日本との仲介を命じ、高麗人の枢密院副使・宋君斐と侍御史・金賛らが案内役に任ぜられた』。『しかし、高麗側は、モンゴル帝国による日本侵攻の軍事費の負担を懼れていた』。『そのため、翌年、宋君斐ら高麗人は、ヒズル(黒的)ら使節団を朝鮮半島東南岸の巨済島まで案内すると、対馬をのぞみ、海の荒れ方を見せて航海が危険であること、貿易で知っている対馬の日本人は頑なで荒々しく礼儀を知らないことなどを理由に、日本への進出は利とならず、通使は不要であると訴えた』。『これを受けて使節は、高麗の官吏と共にクビライの下に帰朝した』。『しかし、報告を受けたクビライは予め「風浪の険阻を理由に引き返すことはないように」と日本側への国書の手交を高麗国王・元宗に厳命していたことや』、『元宗が「(クビライの)聖恩は天大にして、誓って功を立てて恩にむくいたい」と絶対的忠誠を誓っていながら、クビライの命令に反して使節団を日本へ渡海させなかったことに憤慨』、『怒ったクビライは、今度は高麗が自ら責任をもって日本へ使節を派遣するよう命じ、日本側から要領を得た返答を得てくることを元宗に約束させた』。『命令に逆らうことのできない元宗はこの命令に従い、元宗の側近』『らを日本へ派遣』せざるを得なくなるのであった。]

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