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2016/11/30

北條九代記 卷第十 一院崩御 付 天子二流 竝 攝家門を分つ

 

      〇一院崩御  天子二流  攝家門を分つ

 

同二月十七日、一院後嵯峨〔の〕法皇、崩御あり。寶算(はうさん)五十三歳、初(はじめ)、御位を後深草院に讓り給ひて後も、なほ、院中にして政事(せいじ)を聞召し給ふ事、二十餘年、世聞、物靜(ものしづか)にて、天下四海、穩(おだやか)なりければ、宸襟(しんきん)、御物憂(う)き事もおはしまさず。御遊(ぎよいう)、歌の會、諸方の御幸(ぎよかう)に月日を送らせ給ふ。御(ご)果報、いみじき天子にて渡(わたら)せ給ふ。この分にては何時(いつ)まで存(ながら)へさせ給ふとも、愈(いよいよ)、めでたき御事なるべしと雖も、人間(にんげん)愛別の歎(なげき)、四大離散の悲(かなしみ)は誰(たれ)とても遁(のが)まるじき習(ならひ)なれば、忽(たちまち)に無常の風、荒く吹きて、有待(うだい)の花、萎落(しぼみおち)させ給ひ、鼎湖(ていこ)の雲、治(をさま)りて、蒼梧(さうご)の霞(かすみ)に隔り給ふこそ悲しけれ。御遺勅ありけるは、「これより後の皇位は、新院後深草院と、當今龜山院と、御兄弟の二流、代々(かはるがはる)卽位あるべし」と仰せ置(おか)れしと、世には申し傳ふれども、實(まこと)には北條時宗、朝廷を分けて、二流とし、其勢(いきほひ)を薄くし奉らんが爲に、かの二流、代々(かはるがはる)、御治世あるべしと、計(はからひ)申しけるとぞ聞えし。是より以前、後鳥羽院、承久の亂の時、西園寺公經卿(さいおんじのきんつねのきやう)、志を鎌倉に通(かよは)し、左京大夫北條義時に心を合せて、京都の手術(てだて)を計(はか)られしかば、天下、静(しづま)りて後に、義時、其志を感じて西園寺を推擧し、禁中の事を執賄(とりまかな)はせ參らせしかば、公經卿より、子孫、榮え、官位高く昇進し、大相國(だいしやうこく)に經上(へあが)り、太政大臣實氏公の御娘(おんむすめ)、後嵯峨院の中宮となり、この御腹(おんはら)に後深草、龜山兄弟を生み參(まゐら)せらる。是等も皆、關東の計(はからひ)に依(よつ)て、この西園寺を執(しつ)せらる〻所なり。又、往初(そのかみ)は、攝政關白になり給ふは近衞殿、九條殿、只、二流なりけるを、四條〔の〕院仁治三年に良實公、關白になり給ふ。是(これ)、二條殿の御先祖なり。後嵯峨〔の〕院寛元四年に實經公、關白となり給ふ。是、一條殿の御先祖なり。後深草院建長四年に兼平公、攝政となり給ふ。是、鷹司殿の先祖なり。今に傳へて五攝家とは申習(まうしなら)はしける。是も鎌倉最明寺時賴入道の執權せむより、攝政關白の御家を數多に分けて權威を磷(ひすろ)げ參らせける所なり。今、又、相摸守時宗、執權の世に當(あたつ)て、天子の御位をも、二流に分ち奉り、變る變る、王位を繼がせ奉る事、偏(ひとへ)に皇孫、兩岐にして、王威(わうゐ)を恣(ほしいま〻)にさせ奉るまじき方便(てだて)なり。只、西園寺の家のみ、殊に當時は天子の御外戚となり、淸華(せいくわ)の家には肩を竝(なら)ぶる人なく、權威、高く輝きて、朱門金殿、甍(いらか)を磨き、榮昌(えいしやう)、大にす〻みて、紺宇玉砌(こんうぎよくぜい)、軒(のき)を合せたり。如何なる王公大名といへども、禮を厚く、敬を盡し、その心を取りて、崇仰(そうがう)せらる。出で入る輩(ともがら)までも餘の人は眉目(みめ)として、羨しくぞ思ひける。

 

[やぶちゃん注:標題中の「攝家門を分つ」の「門」は「かど」と訓じている。

「同二月十七日」文永九年(ユリウス暦一二七二)。前章後半の「二月騒動」(同年一月)を受けているので「同」となる。グレゴリ暦換算では三月二十七日。

「寶算(はうさん)」天皇の年齢を言う場合の尊称。

「宸襟(しんきん)」天子の御心(みこころ)。

「御(ご)果報」仏教的な前世からの御果報、の謂い。

「有待(うだい)」「うたい」とも読む仏語。「人間の体」の意。衣食などの助けによって初めて「待」(頼みとして期「待」されること)が「有」(保たれて「有」る)ものであるところから、かく言う。

「鼎湖(ていこ)」中国の伝説上の皇帝で五帝の第一とされ、漢方の始祖的存在である黄帝の亡くなった場所で盛大にして豪華な葬儀もそこで行われたという地の後の称。皇帝はここから龍に乗って登仙したともされるから、この「雲、治りて」はその情景を後嵯峨院の葬送の儀が滞りなく行われたことに擬えたものであろう。

「蒼梧(さうご)の霞(かすみ)に隔り給ふ」「蒼梧」は湖南省寧遠県にある山で、中国古代の五帝の一人である舜の墓があるとされる地であるから、ここも前の「鼎湖、雲、治りて」との対句表現で後嵯峨院が、春霞とともに(前に示した通り、旧暦二月十七日でグレゴリ暦換算では三月二十七日である)白玉楼中の人となって永遠に去ったことを示す。

「承久の亂の時」ユリウス暦一二二一年。

「西園寺公經」(承安元(一一七一)年~寛元二(一二四四)年)は第四代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇中宮姞子の祖父であり、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・幕府第五代将軍藤原頼嗣曾祖父となった稀有な人物で、姉は藤原定家の後妻で定家の義弟にも当たる。既注であるが再掲しておく。源頼朝の姉妹坊門姫とその夫一条能保の間に出来た全子を妻としていたこと、また自身も頼朝が厚遇した平頼盛の曾孫であることから鎌倉幕府とは親しく、実朝暗殺後は、外孫に当る藤原頼経を将軍後継者として下向させる運動の中心人物となった。承久の乱の際には後鳥羽上皇によって幽閉されたが、事前に乱の情報を幕府に知らせて幕府の勝利に貢献、乱後は幕府との結びつきを強め、内大臣から従一位太政大臣まで上りつめ、婿の九条道家とともに朝廷の実権を握った。『関東申次に就任して幕府と朝廷との間の調整にも力を尽くした。晩年は政務や人事の方針を巡って道家と不仲になったが、道家の後に摂関となった近衛兼経と道家の娘を縁組し、さらに道家と不和であり、公経が養育していた道家の次男の二条良実をその後の摂関に据えるなど朝廷人事を思いのままに操った。処世は卓越していたが、幕府に追従して保身と我欲の充足に汲々とした奸物と評されることが多く』、『その死にのぞんで平経高も「世の奸臣」と日記に記している』(平経高は婿道家の側近であったが反幕意識が強かった)。『なお、「西園寺」の家名はこの藤原公経が現在の鹿苑寺(金閣寺)の辺りに西園寺を建立したことによる。公経の後、西園寺家は鎌倉時代を通じて関東申次となった』(引用を含め、ウィキの「西園寺公経」に拠った)。

「大相國(だいしやうこく)」太政大臣。

「太政大臣實氏公の御娘(おんむすめ)」公経の子西園寺実氏の長女大宮院(おおみやいん)姞子(きつし)。

「四條〔の〕院仁治三年」四条天皇の一二四二年。

「良實公、關白になり給ふ」弟に第四代鎌倉将軍藤原頼経を持った二条良実(建保四(一二一六)年~文永七(一二七一)年)は、西園寺公経の推挙で同年一月二十日に関白宣下を受けている。但し、公経が死去とともに朝廷は実父(次男)でありながら、仲の悪かった九条道家に掌握されてしまい、不本意ながら、父の命で寛元四(一二四六)年一月に関白を弟一条実経に譲った。ところが寛元四(一二四六)年の宮騒動で父道家は失脚し、道家の死後(建長四(一二五二)年)、再び勢力を盛り返して、弘長元(一二六一)年には再び関白に返り咲いた。その後、文永二(一二六五)年に再び弟の一条実経に関白職を譲ってはいるものの、以後も彼は内覧として朝廷の実権を掌握し続けた。

「後嵯峨〔の〕院寛元四年」一二四六年。前注参照。

「後深草院建長四年」一二五二年。

「兼平」鷹司兼平(安貞二(一二二八)年~永仁二(一二九四)年)は関白近衛家実四男。

「磷(ひすろ)げ」既出既注。「磷」(音「リン」)は「流れる・薄い・薄らぐ」の意で「擦れて薄くする」「力の集中を弱らせる」の意。

「變る變る」「代わる代わる」。

「兩岐にして」二流に分岐させて(内部で対立を起こさせて朝廷のコアの部分をも弱体化させ)。

「淸華(せいくわ)の家」狭義の「清華家(せいがけ)」は公家の家格の一つで、最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する格式の家系を指す。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることの出来る当時の七家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)を指す。

「榮昌(えいしやう)」栄華。繁栄。

「紺宇玉砌(こんうぎよくぜい)」紺色で美しく彩色したかのように見える豪華な軒や、宝玉を彫琢して作られた階(きざはし)。孰れも貴人の絢爛たる豪邸を指す。

「その心」西園寺家当主の御心。

「を取りて」に取り入って。

「崇仰(そうがう)」崇(あが)め奉り、ありがたく拝み申し上げること。

「出で入る輩(ともがら)までも餘の人は眉目(みめ)として、羨しくぞ思ひける」西園寺家に出入りするというだけのことで、その人々までも、他の人々はそれだけでも「眉目」(みめ:面目・名誉の意)として、羨ましく思うたのであった。]

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