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2016/11/20

谷の響 三の卷 十九 鬼火往來す

 

 十九 鬼火往來す

 

 深砂宮の原(もと)宮といへる杉林の内に、五輪の石塔ありき。千年餘りのものにや、文字など更に見ゆることなく、すこしもさはるときはかけ崩るゝと言へり。さるに田舍館村なる土産神(うぶすなかみ)の社の林より、夜二更(よつ)の頃に至ればひとつの陰火飛揚(とび)來りて、この五輪の塔の傍におちて火耀(ひかり)をかくせるが、五更(なゝつ)に向んとするとき又陰火顯(あらは)れ出て、土産神の林の中に飛皈れりとなり。こは八月の下旬(すゑ)より十月の下旬までには幾囘(いくたび)もありて、そのあたりのもの間々見るといへり。されどその陰火林の何處(いづく)より出てけるにや、又五輪の傍に何地(いつぢ)隕(おち)けるにやたしかに見たるものなしといへり。こは田舍館村の三之丞といへるものゝ語りし也。

 

[やぶちゃん注:「深砂宮」底本の森山泰太郎氏の補註に『南津軽郡尾上町にある猿賀神社は、深砂大権現を祀るので深砂宮という。大同二年坂上田村麿創建の伝説がある』とある。現在は平川市尾上である。猿賀(さるか)神社も既出既注で底本の森山氏の補註に『南津軽郡尾上町猿賀(さるか)。津軽の古社猿賀神社』『で知られる』とある。現在は青森県平川市猿賀。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、「猿賀神社」公式サイト内の境内案合図を見ても、「原宮」というのはない。しかし、先のデータを航空写真に切り替えて見ると、本殿の周囲には鬱蒼とした森がある。本殿左手にある「矢場」の写真の背後には杉林と思われるものがあり、この本殿背後かその周辺を指していると考えてよかろう。

「千年餘りのものにや」本書は幕末の万延元(一八六〇)年成立であるから、千年前は八百六十年で、「猿賀神社」公式サイトの「由緒」ウィキの「猿賀神社」を見ると、「日本書紀」によれば、蝦夷討伐の将で仁徳天皇五五(三六七)年に伊峙水門(いしのみと)で敗死し、後に大蛇の姿になって蝦夷を平定したとされる上毛野君田道命(かみつけののきみ たじのみこと)は仁徳天皇五五年(三六七年)に『「勅命を受けて北夷の反乱平定のため東北地方に兵を進めたが、戦利あらず、伊寺の水門で戦死なさる。後に大蛇の姿となって平定した」とある。又社伝によれば「五十六年蝦夷の毒手に敗死なされ、従者その屍を仮葬し、賊を捨て帰京す。蝦夷その墳墓をあばくに、たちまち遺体大蛇と化して毒気を吐発す。土人大いにおそれて鹿角郡猿賀野に祀って産土神となす。その後、二百年の星霜を経て、欽明天皇二十八年(五六七年)に大洪水あり。この時、田道命の神霊、白馬にまたがり漂木を舟として流れにしたがい、当地に移遷し給う、当地住民神霊を迎え奉て古木(鍋木)の洞穴に祀る」と、云われている』。『桓武天皇の御代に再び暴夷を平定することになり、坂上田村麻呂将軍が兵を進め苦戦となった際、田道命の霊感を受けて大勝した。よって将軍は延暦十二年(七九三年)八月二十三日現在の地に祠を祀り、その趣を天皇に奏上した処、勅命により、大同二年(八〇七年)八月十五日社殿を造営、奥州猿賀山深砂大権現として勧請し、神威天長、国家安穏、黎民豊楽、悪鬼退散を祈願した。以来猿賀の深砂宮(神蛇宮)と崇められ御神徳四方に遍く、地方唯一の霊場と仰がれるに至った。かつては国司、探題、(藤原秀衡公、北畠顕家卿、阿倍氏代々等)の崇敬篤く、藩政時代に入り藩主津軽為信公により、祈願所と定められ社殿の改修造営、また社領の寄進などしばしばであった』とあるから、この大同二(八〇七)年以後のものではあろう。

「田舍館村」は既注で「いなかだてむら」と読み、弘前の北東に完全に同名の村として現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「土産神(うぶすなかみ)」本邦古来の土地神。ウィキの「産土神」によれば、『神道において、その者が生まれた土地の守護神を指す』。『その者を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられ』、『産土神への信仰を産土信仰という』。『氏神と氏子の関係が血縁を基に成立するのに対し、産土神は地縁による信仰意識に基づく。従ってその意識が強く表れるのは都市である。例えば京都では同族集団の結束が弱まり、地縁による共同体意識が形成されると共に、中世には稲荷神社、御霊神社、賀茂神社、北野神社などの有力な神社を中心に産土神を基にした産子区域の観念が発達した。そして産土詣での語が一般に使われるようになり、生まれた子の初宮参りをはじめ、成年式、七五三等に産土詣でをする風習が盛んになった』とあり、『産土神は安産の神である産神とも関連がある。現在は全国的に同族神としての氏神信仰が衰え、あらたに起こった産土神の信仰に吸収されていく傾向が多くみられる』とする。

「二更(よつ)」午後十時頃。

「飛揚(とび)來りて」二字へのルビ。

「傍」「かたはら」。

「火耀(ひかり)」二字へのルビ。

「かくせるが」「隱せるが」。

「五更(なゝつ)」午前四時頃。

「向んとするとき」「むかはんとするとき」。なろうかという時刻に。

「飛皈れり」「とびかへれり」。

「間々」「まま」。しばしば。

「その陰火林の何處(いづく)より出てけるにや」「その陰火、林の何處(いづく)より出てけるにや」。

「又」「また」。

「五輪の傍に何地(いつぢ)隕(おち)けるにや」五輪塔の傍らのどの箇所・位置に落ちるのやら。]

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