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2016/11/12

谷の響 三の卷 六 踪跡を隱す

 六 踪跡を隱す

 

 嘉永五子の年の事なるよし、深浦町の賈人(あきひと)白幡屋某と言へる者の女(むすめ)、性質(うまれつき)欝氣(うちき)なるものにて、人と對話(はなし)することだにきらひしほどなるが、甲年(とし)廿二とやらにて贅婿(むこ)を去りて寡婦(やもめ)となり、この年の九月何れの溫泉に浴(ゆあみ)しけん、その際に鯵ケ澤の親屬に投宿(とまり)けるが、其夜戊剋(いつゝ)のころ小水するとて戸外へ出たりしに、少時(しばし)あれど來らぬゆゑ呼ぶと言へども應(こたへ)なく、戸外(そと)には影もあらざれば、伴なるものを始め宿の者も大に愕き、四隅を遍く搜(たづ)ぬれどまた見る事の非ざれば、翌日(あくるひ)に神に願(ね)ぎ卜筮(うらなひ)を請うて至らぬ隈なく穿鑿(たづぬる)こと日を累(かさぬ)といへども、遂に見えざれば詮術なくしてやみしとなり。世の人みな海神に勾引(ひかれ)しものかと言へり。こはこの親屬泉屋善太郎と言へるもの語りしなり。

 

[やぶちゃん注:「踪跡」「そうせき」は「蹤跡(しょうせき)」に同じい。「事が行われた跡(あと)・事跡」の意の他に、「跡を追うこと・追跡」或いは「行方」の意で、ここは最後の意。

「嘉永五子の年」嘉永五年は壬子(みずのえね)でグレゴリオ暦一八五二年。

「深浦町」既出既注。再掲する。底本の森山氏の補註に『西津軽郡深浦(ふかうら)町。藩政時代、寛永十二年に津軽四浦の一つとして奉行所がおかれた。日本海北部の良港で、北前船が定期に入港する交易港として栄えたが、明治中期以後衰微し』たとある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「賈人(あきひと)」商人(あきんど)。

「甲年(とし)」二字へのルビ。昔は十干十二支を組み合わせて年月日を表示したころから、それぞれの第一位である「甲子(かっし)」で広義に「年」「年齢」の意の代用とした。ここはその「子」を正規の意味の年齢の「年」に換えた用字であろう。

「贅婿(むこ)」二字へのルビ。既出既注であるが、再掲しておく。音「ゼイセイ」で、これは中国で「入婿」のことを指す。夫が妻の家に入ることから、それを卑しんで、「贅(あまりもの)」と称した。また、「贅」には「質物(しちもの)」の意もあり、貧しい夫が妻の家に金品を納める(聘金(へいきん)という)ことが出来ない場合、代りに妻の家の質品(しちぐさ)となって、労力を提供したことからも、この名があるとされる。

「この年の九月」同年の旧暦九月一日はグレゴリオ暦では一八五二年十月十三日。

「戊剋(いつゝ)のころ」午後八時頃。

「小水」小用。小便。

「戸外へ出たりしに」後で「戸外(そと)」とルビするからここも「そと」と読むべきであろうか。

「遍く」「あまねく」。

「神に願(ね)ぎ」「ねぐ」は「祈ぐ」で、動ガ行四 段活用の他動詞で、神仏に向かって祈る、祈願するの意。「ねぎらう・いたわる」の意の上代語である動詞「労(ね)ぐ」と同源で、上代には上二段活用であったと考えられている非常に古い語である。

「卜筮(うらなひ)」二字へのルビ。

「穿鑿(たづぬる)こと」二字への当て読み。

「詮術なく」「せんすべなく」。

「海神に勾引(ひかれ)しものか」「鰺ヶ沢町」公式サイト内の鰺ヶ沢町の歴史によれば、同地区の歴史は、安東(あんどう)水軍が『津軽を席巻していた時代に、その源流を見ることができると言われ』、『安東氏は、鎌倉時代、十三湊を根城に日本 海交易に活躍した豪族。蝦夷地から若狭小浜あたりまでを自在に駆け巡ったという安東氏の津軽船は、中央にも聞こえた存在で』あった。『日本海沿岸の港には、航海の安全を願って、出航の折の日和を見たという高台が、日和山とか日和見山などと名付けられて各地に点在してい』る『が、 鰺ヶ沢の日和山もその例に漏れ』ず、『七世紀頃、蝦夷征伐に名を馳せた水軍の将、阿部比羅夫』(あべのひらふ)『が渡嶋へ渡るために日和を見たところという伝説が残されてい』ることから見ても、『さらに古い時代から、天然の良港として、船の出入りがあったことが想像され』る。鰺ヶ沢の北方に位置する『十三湊は、室町時代に記された「廻船式目」に全国の主要港』「三津七湊(さんしんしちそう)」の一つに『数えられる北奥羽随一の繁栄ぶりを見せてい』たが、『中世末期には衰退。これに代わって登場するのが鰺ヶ沢湊で』、『藩都・弘前に近く、陸上には、西浜街道が走っているという便利さから、津軽統一を果たした大浦為信は、よくこの港から旅に出たと言われてい』る。『近世に入って、津軽藩は日本海運の拠点を鰺ヶ沢に置き、弘前・鰺ヶ沢間を岩木舟運と沿岸海運で繋ぐ「十三小廻り」と呼ばれるルートをつくり』、『この水路を使って廻米を鰺ヶ沢に集め、ここから西廻りの航路の弁才船に乗せて上方へ輸送する体制を』成し上げた。『鰺ヶ沢は、津軽藩の海の玄関として、また、西廻航路の寄港地として賑わい』、また、『北陸や瀬戸内海方面、遠くは大阪からの弁才船』(べざいせん:和船の一つで、江戸時代の海運の隆盛に対応して全国的に活躍し、俗に「千石船」とも呼ばれた典型的な和船。船首の形状や垣立(かきたつ:和船の左右の舟べりに垣根のように立てた囲い。かきたて)に特徴があり、一本の帆柱に横帆一枚をつけるだけながら、帆走性能や経済性に優れた。菱垣(ひがき)廻船・樽(たる)廻船・北前船なども総てこの形式を用いた)『が日用品などの陸揚げや、廻米の積み込みのために往来し、また、京・大坂の文化が港を介してもたらされ』もした。また、現在の鰺ヶ沢町にある白(しら)八幡宮『境内に立つ玉垣は、船の安定のために積んだ御影石で造られて』おり、これは『鰺ヶ沢に入港した諸国の船や町の船問屋が奉納したもので、刻まれた文字を見ると、文化一三(一八一六)年の日付が見え』るとあるから、ここ鰺ヶ沢では海神信仰が非常に強かったものと考えられる。]

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