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2016/11/06

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (五)~その2

 

 或る、それは冬の日のことでした。私は火鉢に寄りながら雑誌をひもといていました。

 ふと、私は一文を読んだのです。そして、再三読み返したのです。繰り返し、繰り返し読みました。そして、流れ出る涙を押えることができなかったのでした。

 私は読みました。あまりにも判然と。そして黙ってしまいました。文の終わりに私は、「この悲しさに涙ながるる」と書きつけました。

 彼の名声の日に日に上がるのを見、彼の業績の年ごとに重くなるのを知り、彼の家庭のいや栄えゆく様を聞いて衷心から喜びに耐えないのですが、この時の文面の悲しさ、憎らしさはどうすることもできませんでした。幾たびか確かめるように読み返し、よみ返してついにその雑誌を焼き捨ててしまったのでございます。私は黙りました。夫にも申しませんでした。

 

 忘れぬをかく忘るれど忘られずいかさまにしていかさまにせむ

 

 などいう古歌を口ずさんだりして、夫と共に彼を慕っていた人の好さが哀れに思われるばかりで、私は黙って涙を流したのですが、やはり、とうとう事件が持ち上がってしまいました。或る宵のことですが、夫は浮かぬ顔をして帰宅いたしました。

 「芥川君はね。〝佐野さん〟という題で、ぼくの悪口を書いているのだよ。新潮誌上でね。今日、学校でそれを読んだ。学校当局も問題にしているよ」

 「……………………」

 「お前もその文を読んでごらん。解るだろうこの気持ちが。つまり、物理学なんてやっている人間の非常識な野暮ったい面を突いて強調したような書き方なんだ。ばくも自分のことながら、なるほどなあと思って可笑しくなったくらいだ。芥川君のような文学者から見たら、可笑しく見える要素が多分にあるのだろうな。お前から見たって、ああ見えるかも知れないなあ。こんなことくらい、放って置いてもいいんだけど、海軍機関学校というところも難かしいからね」

 私は新たに涙のあふれ出るのを押えきれませんでした。私は既に読んでおりました。夫を彼一流の眼、彼一流の筆で鋭く嘲笑していたのです。私は既にそれを読み、すでに焼き捨てていたのです。私は、ただ、涙を流していました。そうして黙っていても夫に一向あやしまれるわけはありません。あまりの情けなさに泣くだけなのだと、夫には思われましょう。夫は独りで語りつづけました。

 「しかし、芥川君としては、ちょっと変なことをしたものだ。とは、ぼくも思うな。お前が来ないうちからの交わりで、来てからも、あの通り上乗の交際だったと思うし、彼も良い結婚をして円満のようだし、別に何ごともなかったと思うのだが、不可解な事だ。龍ちゃん、創作に凝り過ぎて少々異常を来たしたかも知れないね。それにしてもあれだけ好意を持ち合って親しくして居ったんだから、どうも変だ。こんな推察をしては悪いけれども、龍ちゃん、ヒヨッとして結婚生活に多少不満でもあるんじゃあないか。考えてみれば、結婚の決意をしたらしい時、そら、うちへ来て、ちょっと不思議なことを言ってたね。結婚した婦人が、ことごとに気に入らなかったら悲惨だとか、一生、恵まれた家庭は作れないとかね。しかし、ぼくにはね。幼な馴じみで嫌いじゃないって言ってたから、別に不満はないだろうがねえ」

 「………………」

 「ヒヨッとすると、お前という人間が龍ちゃんの心に喰い入り過ぎたかも知れないね。ぼくは、うっかりして芥川君を余りうちへ呼び過ぎたかも知れないね。これは、ぼくが龍ちゃんに心酔の余り、やったことで、少しも悪気でしたことではない。悪気どころか、まあ、芥川君に絶大の好意を寄せて下宿生活の単調さを補っても上げたいし、又、お前のためには良い友だちとなってもらえるし、そんなふうに考えたのだよ。芥川君も喜んでよくやって来たねえ。お前も楽しそうに見えた。ぼくも楽しかった。だから、ぼくに疾ましい点は、ちっとも無いんだもの。可笑しいことをしたもんさ。考えてみれば、しかし、いろいろあるよ。約束して、あれほど、待っていたのに結婚写真はつい呉れないし、その果て最近撮した写真だと言って、自分の一人写しのを持って来てさ。それが一番、気に入ったものだそうで『どうぞ永久に記念として、取って置いて下さい』なんて……。お前はあの時、『これも結構ですけど、お揃いのでなくては厭』と頻りに龍ちゃんをやっつけていたが、それでもとうとう呉れなかった。何か闇に迷うという大きなシコリがあったのかも知れない。人間というものは弱いものだからね。お互い気をつけなければいけないよ」

と、思いの丈をと申しますか、ひとりで語りつづけました。私にはその気持ちがよく解りました。私は長いことばの代わりに、長い長い時間、涙を流したのですから。しかし、夫のことばを聞いて私も自分を反省してみました。自分は何か出過ぎたことをしたのでしょうか。けれど、どう考えても、心には一点の曇りも無かった筈に思えます。分を守って間違ったことは何一つして居りません。彼をよい人だと思い、夫の意志に従って真心を尽くして接していただけです。夫は、なおも独りで語りつづけました。

 「芥川君が学校をやめて新聞社に入社しようとした時も、からだを気遣ったぼくは、やはり規則的の仕ごとをしながら、創作に従事する方がよくないかと話して見たけれど、夏目先生もそうされたことだし、ぼくは実を言うと、機関学校へ来たのは徴兵逃れのためだった。もうそれも逃れたからって、帰心、矢の如しさ。学校勤務は別に厭な様子もなかったがね。それはそれでよいけれど、行くゆくからだをこわさねばよいが」

 「本当ですわ。その随筆とかいう「佐野さん」のことだって変ですもの。これが行くゆく、からだをこわす前ぶれというものにならなければよろしいですけれど。女高師出でも一番で通したような人は、卒業と同時に死んだり弱ったりし勝ちですもの。芥川さんの秀才も、ちよっと心配になりますわね」

と、やはり日頃の彼思いに落ちて行く口憎しさ。

 しかし「新潮」のその一文には私も新しい怒りの湧くのを覚えました。それはあの龍之介に対する真実の怒りでありました。唇はピリピリと震え、顔は紅潮し俄かに青ざめて行くのが解りました。あれ程、夫に対して理解のあったと思う彼が、夫のことを、

 「この男が三十を過ぎて漸く結婚できると有頂天になっているのは笑止千万だ。果たしてどんな売れ残りがやって来るのやら」

と結んであるのですが、これは私を見る前の文です。ずい分、前のことを書いたもので、それだけに顔を合わせていた期間の短かくないことを思うと余計腹立たしいのです。題も明らかに「佐野さん」とあるのです。新潮誌上に麗々と本名を使って発表した随筆。あまつさえ夫を見る影もない変な男とし、そして刺し殺すほどの憂き目に合わせていました。夫はよくこれを読んで怒らずにいられたものと思います。理性の優った夫。奥底に道徳的善良さをいつも失わなかった夫。また、常に如何なる情熱が兆そうとも氷のような冷やかさ押え得る彼の性格。その彼にしてなんと不可解な仕打ちであろう。どのような皮肉冗談にも必ず伴う礼儀好意の片鱗さえ影を潜めてしまった文章でありました。誹謗冷笑に満ちた文辞には改めて茫然としてしまうのでした。人の好い夫、善良な夫は、彼のニヒルの笑のかげには愚鈍な間抜けとして描かれて行くのでした。そこには世間と文学との一線が見られました。一たん、その座につくや、彼の眼は既に彼自身の眼になるのです。思い溜めていたことが一度に角度を変えて変貌してしまうのです。夫はよい材料になるわけでした。それは私にもよく理解できます。私とて文学を解する側の人間でした。ただ、理解できないのは、あまりにもムキ出しに書いたことなのです。名前を本名にし、世間の昼の光の中にさらけ出してしまっている。もう少し書きようもあるのではないでしょうか。書かれた方は、その辛さに耐えられないのです。あきらかに彼は夫を憎んでいました。これを第一として、のちに抒情詩の中に、歌の中に夫らしき男が嘲笑され、刺し殺したいばかりの思いで点在しました。しかし、それは、文学の中においてであり、どこまでも、それらしさで終わりました。それでよいのです。それでよいのだと私は理解いたします。それゆえに「佐野さん」なる一文は文学とは言えない世間的の性格を帯びていました。文は拙いとは申しません。題名から判然と「佐野さん」と名を明らかにされ、内容は明らかにこの本人の本名でありますので、佐野個人、そして私、私ども取り巻く知人、読む範囲の知らぬ大衆、それから目玉のかたまりの機関学校、これらを背負って夫の心身は傷だらけになりました。たのしい交際と思われたあの期間において、彼は夫を実はさんざん持て余し、心でどれほど嘲っていたのだったかと、思い知らされました。名前まで指摘して天下の新潮誌上に発表せねばならぬほど、夫は仕方のない存在だと申すのでしょうか。

 それから数日後の夕食どきに夫は声ひくく申しました。

 「今日、芥川君が学校に来た」

 私は驚いてなお語ることばに耳を立てましたのです。

 「例の新潮の随筆の件で謝罪に来たのだ。学校で手を廻したことと見える。芥川君は、学校当局にも、ぼくにも謝罪をしてね、以前のような元気はなく帰って行ったよ。ぼくはちよっと送って出て、是非うちにも寄ってくれ、ぼくは何んとも思ってないし、あれもすっきりすることだろう。一泊してもよいからゆっくり話してやってくれと言ったけれど、奥さんには君からくれぐれもよろしくお詫びしておいてくれと帰って行ってしまった。淋しかったね。うしろ姿も淋しかったよ」

 「そうですか。それではやっぱり以前のようにはしないおつもりですね。あんまりですわ」

 私は又、涙ぐんでしまうのでございます。

 「本当だ。ぼくも一生変わらぬ交際をしていい人だと思っていただけに、それだけ一入、憂欝になるね。しかし、まあこれも成り行きだろう。何を言っても、もう駄目だ。かげながら芥川君の成功を祈るとしょう」

 まことにやるせないその夜の思い出でございます。

 機関学校の校長はじめ一同があの文を読んで憤慨し、芥川を呼びつけて謝罪させたことは、私にとっては、せめてもの慰めでありました。学校では佐野を弁護し、かばってくれたわけですが、夫が信用を受けて居り、捨てておけない人物であったからと思えます。焼き捨ててしまった例の新潮はその後、一冊も眼にふれることなく、また、見たいとは思いませず、終わりのところの文のみ覚えているのでございますが、天下の芥川を庇う文壇ジャアナリストらの方でも、同時に申し合わせたように、あの随筆のみは彼の全集にはおろか、何の小集にも載せることなく消してしまいました。おそらく、あの文を覚えている人、所持している人もないのではございますまいか。あれば解っていただけると思います。

 その後、大正八、九年の何月号でございましたか、淑女画報に左のような文が載りました。

 

[やぶちゃん注:奇異に感じる方がいると思うので述べておくと、以上で、「㈣」のパートは終わっており、次の「㈤」の冒頭は、その『淑女画報』なる雑誌に載ったとされる芥川龍之介の「僕の最も好きな女性」という短文(二段落構成)から始まっている。

「或る、それは冬の日」シークエンスの時制は、「火鉢に寄りながら」でなくてはならぬ「寒さ」なのであるから、十二月中下旬から三月中旬ぐらいか。「雑誌をひもといていました」「雑誌をひもと」くという謂いはやや古風であるが、しかし「ひもと」いているからといって、何かの調べもののために古雑誌を渉猟している、精査しているという意味であろうはずはない。以下の展開から見ても、これはその読んでいる当月発売の雑誌、遅くとも前月発売のそれを普通に読んでいると考えるのが自然である

「ふと、私は一文を読んだのです。そして、再三読み返したのです。繰り返し、繰り返し読みました。そして、流れ出る涙を押えることができなかったのでした」たまたま目に入ったある人の書いた比較的短い文章(「一文」はその意味である。だからこそ、その場で「再三」どころか「繰り返し、繰り返し」五、六度も「読み返し」すことが出来るのである)を見つけ、そうして花子は、その内容に胸痛み、止めどない涙を流した、というのである。

「あまりにも判然と」これは前文との倒置、「あまりにも判然と私は読みました」の倒置表現ではないと私は思う。その場合の「判然と」は意味が上手くとれない。何度も繰り返し読んでそこに書かれている内容を明確に認識し、読解したというのであれば、面白くもおかしくもない倒置穂法だからである。これは寧ろ、「私は」その人の文章を「読みました」、そうして「あまりにも判然と」記されてある事柄、余りにも露骨におぞましい内容が、そこに「判然と」、如何にもあからさまに書きつけられているのを、反芻するように何度も何度も読み返し、そうしてその意味を苦く知って、「そして黙ってしまいました」。しかし、そのままではやりきれなくて、誰に見せるでもなく、誰に訴えるでもなく、そうすることに何かの意味があるかというようなことにも思い至る余裕もなく、直ちにその印刷された『文の終わりに私は、「この悲しさに涙ながるる」と書きつけました』と述懐しているのである。

「彼の名声の日に日に上がるのを見、彼の業績の年ごとに重くなるのを知り、彼の家庭のいや栄えゆく様を聞いて衷心から喜びに耐えないのですが、この時の文面の悲しさ、憎らしさはどうすることもできませんでした。幾たびか確かめるように読み返し、よみ返してついにその雑誌を焼き捨ててしまったのでございます。私は黙りました。夫にも申しませんでした」この段落で、花子に衝撃を与えた文章が芥川龍之介自身の文章であったことが明示されてあると言ってよい。ここでも花子は、その文章をまた何度も繰り返し読んだとしている。さればこそ、その文章は花子の脳裏に刻みつけられ、それ以降、二度と目にしたことがない(ここがミソだが、本「㈤」末尾で花子が述べているように(「終わりのところの文のみ覚えているのでございますが、天下の芥川を庇う文壇ジャアナリストらの方でも、同時に申し合わせたように、あの随筆のみは彼の全集にはおろか、何の小集にも載せることなく消してしまいました。おそらく、あの文を覚えている人、所持している人もないのではございますまいか」)、意識的に見ようしないのではなく、物理的にそれを現在(本「芥川龍之介の思い出」執筆時点の昭和二五(一九五〇)年八月二十六日以降。「㈠」の冒頭参照)ではまず最早、誰も見ることが出来なくなっているというのである)にも拘わらず、そのないようの梗概は当然の如く記憶し(だから以下で書ける)、「終わりのところの文のみ」は明確に記憶しているのであろう

「忘れぬをかく忘るれど忘られずいかさまにしていかさまにせむ」「などいう古歌」これは「藤原義孝集」(この歌集の幾つかの歌は藤原実頼家集「清慎公集」に混入して実頼の歌と誤認され、現在もそう載せる記事があるようである)に載る、

 

 忘れぬをかく忘るれど忘られずいかさまにしていかさまにせむ

 

である。初句を「忘るれど」とする一本がある。この歌は「源氏物語」の第三十帖、我が道を行く女玉蔓絡みのすったもんだの「藤袴」に出る、式部卿宮の左兵衛督が慕う玉蔓の入内に憂えて詠む、

 

 忘れなむと思ふもものの悲しきをいかさまにしていかさまにせむ

 

がインスパイアした元歌と考えられている。

   ★

「私は黙って涙を流したのですが、やはり、とうとう事件が持ち上がってしまいました。或る宵のことですが、夫は浮かぬ顔をして帰宅いたしました」「芥川君はね。〝佐野さん〟という題で、ぼくの悪口を書いているのだよ。新潮誌上でね。今日、学校でそれを読んだ。学校当局も問題にしているよ」このタイミングは、花子が前のシーンで雑誌を読んだ時から、長くても一、二週間、早ければ、数日(五、六日後)と考えるのが自然である。そもそもがある雑誌に発表された内容がスキャンダルとして燎原の火の如くに拡散し、衆目の好奇心を集め、社会的な問題に発展しそうになるのは、発売直後の二、三日をピークとして一週間程度であろう。とすれば、この「或る宵」も、そのスパンの中にあると考えて問題ない。さても問題は、ここで与えられた、以下の二点である。

 

①その佐野慶造をカリカチャライズし、「悪口を書いている」という文章の題名が「佐野さん」であること

②その「佐野さん」が掲載されたのは雑誌『新潮』であると明記されていること

 

の二点である。『新潮』は現在も続く、新潮社発行の月刊文芸雑誌で明治三七(一九〇四)年創刊である。

 ①について結論を述べると、

 

●芥川龍之介の作品(小説・随筆・短評・アンケート回答を含む)に「佐野さん」と題するものは存在しない。

 

これと、以下の驚天動地の内容芥川龍之介がこの件について海軍機関学校に謝罪に訪れその「佐野さん」と言う実録(風)随筆(以下の叙述からそうとしか読めない)が載った『新潮』が世間から完全に消え去り(販売された全冊が図書館などからも総て回収されたとでもとらないと成立しない事態である)、しかも現在までに出版された如何なる全集にも、その「佐野さん」なる作品は収録されていない、というのである。しかし、もし、ここで佐野花子が言っていることが総て事実であるとしても、現在のようなスキャンダルへの異常な嗜好を持った「噂社会」にあっては、それは全集に当然の如く収録されるはずであり、仮にそうでなかったとしても(この程度の内容ではそういう全回収・全廃棄・なかったことにするなどということは完全に永遠にあり得ぬ話であることは言うまでもない)、必ず、鵜の目鷹の目の有象無象のアカデミックな専門研究者や私の如き「龍ちゃん」フリークが、鬼の首を獲ったように探し出してきて、論ずるに決まっているのである。

 さて結局、佐野花子の「芥川龍之介の思い出」が芥川龍之介研究に於いて「トンデモ本」の如くに葬られてしまい、語ることもタブーというより、私に対してある芥川龍之介研究者が言い放ったように「妄想に附き合う君自身の頭が疑われるよ」的な扱いを受けるものとなったのは、偏えにこの叙述部分に主原因がある(後は、後半部で花子が自身こそが芥川龍之介の「月光の女」の真のモデルだとする拘りであろうが、これは私にはそれほど変奇異常な主張だとは感じていない。それはまたそこで論じる)

 そうした花子の精神の変調を疑い、妄想として差別する連中が致命的に誤っているのは、この「佐野さん」の一件を妄想と片付け、一事が万事で本叙述全体の資料価値を無効とする烙印を押して、黴臭い書庫の底に投げ去った行為にあると私は考えている。この佐野花子の「芥川龍之介の思い出」を真剣に考証しようとしないのは、間違っている、といよりも、勿体ない、と私は真剣に感じているのである。少なくともこの「㈤」の、私が「その1」とした部分までの内容を読まれ、そこに精神疾患に基づくような全体に感染が及んだ重大な大系的妄想があるように読まれた方は、私は一人もいないと存ずる。もしおられたなら、あなたはここで私の注も佐野花子の後の本文も読むのを、おやめになるのが最善である。あなたは、自分が神のように健全で、唯一明白で、自身の感覚と知だけが真理だと思う救い難い人間だからであり、そういう人間は佐野花子はおろか、芥川龍之介の実相にさえ近づくことも永遠に出来ぬと断言出来るからである。

 前置きのように述べたが、私は実は既にある、推理をこの「佐野さん」にはしているのである。それが最初にもリンクさせた、

 

『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察』(二〇〇七年二月一日の記事)

 

である。そこでの結論を言えば、ここで言う、

芥川龍之介が書いたとする実録物「佐野さん」=「さのさん」

とは、

芥川龍之介が書いた実在する小説 「寒さ」 =「さむさ

ではないか?(発音の類似性に着目されたい)

という推論である。

 小説「寒さ」は大正一三(一九二三)年四月の雑誌『改造』を初出とし、同年七月に新潮社から刊行した第七作品集「黃雀風」に再録された。私の作った正字正仮名の電子テクスト版があり、短いのですぐに読めるので参照されたい。短時間で何度も「繰り返し」読めるほど短い。原稿用紙でたった十二枚半しかない。

 その前半に登場する物理教官宮本は、最早、疑いようなく、海軍機関学校時代の同僚であった佐野慶造その人である。「寒さ」冒頭の「口髭の薄い脣に人の好い微笑」(原本に写真版で載る大正七年撮影の写真(慶造と花子と赤ん坊の長男清一が写っている)を見る限り、彼の口髭は濃いといえない)とは、芥川龍之介にしては、明らかに悪意と皮肉に満ちた表現であることが、これ、読み進めると判明してくる。以下の、人間の男女の性愛に演繹した『傳熱作用の法則』を得意気に語る宮本のシークエンスは、まさに佐野慶造が本章で言っている、『つまり、物理学なんてやっている人間の非常識な野暮ったい面を突いて強調したような書き方なんだ。ぼくも自分のことながら、なるほどなあと思って可笑しくなったぐらいだ。芥川君のような文学者から見たら、可笑しく見える要素が多分にあるのだろうな。お前から見たって、ああ見えるかも知れないなあ。』という台詞と完全に一致する内容である。

 さて。本書の慶造の花子への台詞を今一度、見て貰いたい。

 

――芥川君はね。〝佐野さん〟という題で、ぼくの悪口を書いているのだよ。――

 

読者のあなた! これを声に出して、自身が慶造になったつもりで、穏やかに言ってみてみて貰いたい。

そうして次に、以下の台詞を同じように言ってみて貰いたい。

 

――芥川君はね。〝寒さ〟という題で、ぼくの悪口を書いているのだよ。――

 

花子は読んで焼き捨てて以降、そのおぞましい作品を読んでいないと言っている。

彼女はあのシーンでその作品題名を記していない。

花子がその作品の名前を、内容の衝撃性から受けた強いトラウマによって、亡失したとしてもおかしくはない。そのようにさえ、見えるじゃないか! しかも実際の小説「寒さ」は読まれる判るが、後半は女性の読者ならトラウマになりそうな、凄惨な踏切り番の轢断死の近くを保吉は通るのである!

以下、現在も私は『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察』で考えたことを変更する必要を感じていないので、以下、ほぼそのまま、そこで書いたことを繰り返す。

 ここに至って僕は、幻の「佐野さん」という作品は、実は、この小説「寒さ」であったのだという強迫観念から逃れることが、最早、全く出来なくなっていると告白する。

 勿論、これには大きな問題はある。それは発表雑誌が『新潮』であるという齟齬がある。しかし、多くの雑誌をその発表舞台としていた芥川のことを考えれば、ここでの誌名の記憶違いは容易にあり得よう。但し、佐野花子は耳にタコが出来るほど、粘着的に雑誌『新潮』」の名前をこの本の中で繰り返している(いやだからこそ、この齟齬は実は佐野花子の確信犯的誤認認識(所謂、強烈な思い込み)とも思える部分があるのである)。因みに、「寒さ」が再録された作品集「黄雀風」の出版社は「新潮社」なのである。更に言うなら、後年、この佐野慶造と芥川龍之介を巡る佐野花子の話を元に、田中純が創作した小説「二本のステッキ」が載ったのは(この話は実は本「芥川龍之介の思い出」の終りの方で実際に花子の言葉で語れる)、昭和三一(一九五六)年二月の『小説新潮』だったのである。

 しかし、僕がこの推理を「強迫観念」と言う所以は、次のような一大齟齬が存在するからである。佐野花子は以下、次のように書いている。『あれ程、夫に対して理解のあったと思う彼が、夫のことを、/「この男が三十を過ぎて漸く結婚できると有頂天になっているのは笑止千万だ。果してどんな売れ残りがやって来るのやら」/と結んであるのですが、これは私を見る前の文です。ずい分、前のことを書いたもので、それだけに顔を合わせていた期間の短かくないことを思うと余計腹立たしいのです。題も明らかに「佐野さん」とあるのです。新潮誌上に麗々と本名を使って発表した随筆。あまつさえ夫を見る影もない変な男とし、そして刺し殺すほどの憂き目に合わせていました』。勿論、これはどこをどう読んでも「寒さ」に、このように読める箇所は、存在しない。そもそも、「寒さ」の物理教官宮本は結婚しているのである。

 そうして、芥川のその「佐野さん」なる作品の文章に対し、花子は『どのような皮肉冗談にも必ず伴う礼儀好意の片鱗さえ影を潜めてしまった文章』であり、『誹謗冷笑に満ちた文辞には改めて茫然としてしまう』ほど、『ムキ出しに書いた』もので、『名前を本名にし、世間の昼の光の中にさらけ出してしまっている』と続けているこれが、「佐野さん」なる作品の文体・叙述の特徴であることは押さえておきたい。そうして、それは凡そ、「寒さ」を批評する言辞としては、機能しない、お門違いな評言であるのである。

 再度、言う。「佐野さん」なる作品は存在しない(国立国会図書館で『新潮』のバックナンバーを調べればいい、と私に言った方がおられるが、私は未だやっていない。というより、実在するなら、誰かがそれもやっており、見当たらないことの証左なのだと思い込むこととしている。私は最早、それほど、何でも出来るような身の自由な人間では、最早、ないのである)。それが存在していると信じている佐野花子は、明らかに思い違いをしている。その思い違いは確かにやや妄想的な体系的構成力を持ったものとして、その周縁的な仮想事象をも生み出している。それは精神病理学的には病的と呼び得る部分は確かに、ある。しかし、それはまた、本電子化の最後で病跡学的に考察したいと考えている。

 しかし――それでも――私は――佐野花子の語りに――心から耳を傾け続ける。今後もずっと――である。

   ★

「この男が三十を過ぎて漸く結婚できると有頂天になっているのは笑止千万だ。果たしてどんな売れ残りがやって来るのやら」このような文字列を芥川龍之介の作品の中に見出すことは出来ないし、芥川龍之介が対象者を明確にして随筆でこんな文句を書くことは到底、考えられない。

『題も明らかに「佐野さん」とあるのです』ここで初めて自律的にその作品の題名を「佐野さん」と同定している。これは、寧ろ、夫慶造の先の台詞から、その題名を、そう理解した、思い込んだ、と理解することも、ごく自然であると私は認識する。

「夫はよくこれを読んで怒らずにいられたものと思います」私も、彼女の言う「佐野さん」が存在し、そこに、以上で述べたような叙述があるのなら、その通りである。怒らぬ方がおかしい。怒らないのは何故か? 逆にそれは、花子が言っているような、花子が誤認しているような、以上に記されたおぞましい叙述が、とりもなおさず、ない、ということの証しなのだとは言えないだろうか?

「また、常に如何なる情熱が兆そうとも氷のような冷やかさ押え得る彼の性格。その彼にしてなんと不可解な仕打ちであろう。どのような皮肉冗談にも必ず伴う礼儀好意の片鱗さえ影を潜めてしまった文章でありました」この最初の一文の「彼」は突然、芥川龍之介になっていることに注意されたいこの表現転換には、ちょっと奇異なものを私は感ずる激した心因反応によって、冷静に対象を認知分析し、叙述しようとする姿勢が、花子から失われている印象を私は受けるのである。

「誹謗冷笑に満ちた文辞には改めて茫然としてしまうのでした。人の好い夫、善良な夫は、彼のニヒルの笑のかげには愚鈍な間抜けとして描かれて行くのでした。そこには世間と文学との一線が見られました。一たん、その座につくや、彼の眼は既に彼自身の眼になるのです。思い溜めていたことが一度に角度を変えて変貌してしまうのです」ここも同様。夫慶造と芥川龍之介の置換が、読者への配慮を無視して、突然、変換しているのである。

「あきらかに彼は夫を憎んでいました。これを第一として、のちに抒情詩の中に、歌の中に夫らしき男が嘲笑され、刺し殺したいばかりの思いで点在しました」所謂、遺稿の「澄江堂遺珠」のことを指している。それは後掲されるので、そこで問題にする。なお、私は「澄江堂遺珠」については、別のブログ・カテゴリ「澄江堂遺珠」という夢魔で今も追跡し、探索し、考証している最中である。

「今日、芥川君が学校に来た」「例の新潮の随筆の件で謝罪に来たのだ。学校で手を廻したことと見える。芥川君は、学校当局にも、ぼくにも謝罪をしてね、以前のような元気はなく帰って行ったよ」こうした事実は現在の最新の年譜上の記載にも一切、見当たらない

「かげながら芥川君の成功を祈るとしょう」「しょう」はママ。

「機関学校の校長はじめ一同があの文を読んで憤慨し、芥川を呼びつけて謝罪させた」私はこの件に就いては、別な作品(「佐野さん」でない「寒さ」ではなくて、という謂いでである)なら、あり得ることと実は考えている。それはやはり、『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察』で述べたのであるが、大正一二(一九二三)年五月の雑誌『改造』に載せた芥川龍之介の「保吉の手帳」(後に「保吉の手帳から」に改変。リンク先はその初出形の私の初期の電子テクスト)である。例えば、その冒頭の「わん」に登場する愚劣極まりない海軍機関学校主計部主計官の粘着質な描写「午休み――或空想――」に於ける「ファウスト」よろしき機関学校総体の完膚なきまでのカリカチャライズ「西洋人」及び「恥」の学校の教師(自身も含めた)・生徒の存在の、蛇のように耐えがたいダルの感覚「勇ましい守衛」の実直と卑小の入り混じった大浦守衛への意地悪い笑みである。――そのどれもが、海軍機関学校がゆゆしき問題とし、また、謝罪を要求したとしても尤もな内容と言ってよいのである。

「焼き捨ててしまった例の新潮はその後、一冊も眼にふれることなく、また、見たいとは思いませず、終わりのところの文のみ覚えているのでございますが、天下の芥川を庇う文壇ジャアナリストらの方でも、同時に申し合わせたように、あの随筆のみは彼の全集にはおろか、何の小集にも載せることなく消してしまいました。おそらく、あの文を覚えている人、所持している人もないのではございますまいか。あれば解っていただけると思います」既に述べた通り、これは明らかに一読、現実的事実的な印象を感じさせない、かなり普通でない印象を受ける。精神的にやや正常でないという感じを私は確かに受けるのである。言わせて貰うなら、私が高校教師時代の経験上から痛感することなのである。不定愁訴を訴える生徒や親との会話の中で『これはちょっと普通でないな』と感じた語り口と、花子のこの箇所の言い方は酷似しているのである。それら私が不審を抱いた生徒や親は、実際、残念なことに、それは私の杞憂や思い違いではなくて、事実、ある種の発達障害を抱えていたり、強迫神経症や統合失調症の前駆症状であったことが実は非常に多かったのである(私は概ね、彼らには相応しい医療機関を紹介して事なきを得たものが多かったが、私の力が至らずに不登校になって退学したり、精神病が悪化して配偶者から離縁された親もいた事実もあったことを告白しておく。教師は精神科医ではないが、しかし、そうした相手を上手く導けなかった体験は今も慙愧の念に堪えない)。そうして、また、必ずと言っていいほど、彼らは非常に迂遠な語りの最後に、『あなたにはそれが分って頂けないと思いますが、絶対に今お話ししたことは紛れもない事実なのであり、私だけしかそれが真実であることは分らないのです。あなたにそれを知れる証拠をみせれば、必ず「解っていただけると思います」、だから私はその証拠を探して先生(或いはそれは学校や警察や市役所や日本国政府であったりする)にお示ししたいと思います』といった絶対的な断定と断言をするのが常であったのである。前にも述べた通り、この佐野花子の一連の心因反応(閉じられた系の中では絶対に真理と信じて疑わない傾向)に就いては後半で考察をする。

「その後、大正八、九年の何月号でございましたか、淑女画報に左のような文が載りました」冒頭で述べた通り、次の「㈤」の冒頭にそれが載る。こうした章立て構成の切り方はは、やや奇妙である。事実記載をしている雰囲気というよりも、創作小説の連載で、次回に期待させるような、如何にもな書き方であり、私は生理的には不快を感じる章末である。]

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