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2016/11/27

谷の響 四の卷 十二 賣僧髮を截らしむ

 

 十二 賣僧髮を截らしむ

 

 又、天保元庚寅の年のことにて有けん、甲斐國身延の者のよしにて觀智といへる日蓮宗の旅僧來り、博識高德にして妖魅につかれたる者など祈禱して癒えざるなしといふ風説專ら高かりけるが、この時下土手町なる竹内四郎左衞門子息岩木山にのがれて二三年も過ぎたる頃なるが、法花の講中のものども此話を觀智に語りければ、觀智の言へるは、祈禱の功力にて親に對面さするはいと易き事なりと言はれしに、鍛冶町に住める嘉之といへる者、四郎左衞門の家にゆきてしかじかのよし語りけるに、さすがに親子の恩愛深くしきりに顏の見まほしくて、嘉之の言の信しきにほだされて、幣物をおくりて祈禱を賴みければ、觀智ははやく承知して講中の者の僧まさりなるを四五人語らひ、いろいろの供物を飾り一七日の間たんせいをこらして祈りたり。四郎左衞門夫婦も日々參詣し、俱に題目を唱へはやく六日もすぎぬれど、少しもしるしとおぼしきことの有らざれば、奈何はせんとかの嘉之に尋ぬれば、嘉之けつそりとしてやがて明る日はきわめて對面あるべければ、心を專らにして題目を唱ふべし、必ずうたがふことなせそとなぐさめける。

 されど明日の祈りも覺束なく、皆々集り相談すれば對面さすべき道のあらざれば、嘉之が髮をきりてよりの者に持せ、明る朝まだほのくらきに祈禱にかゝり、四郎左衞門夫婦も今日こそとて常より早く參詣したるが、やゝはげしく祈れるとき、託(より)に立たるものこの髻(もとゝり)を觀智にわたして言けらく、山神に仕奉りて片時も出べきすきまなく、さりとて祈禱の功力もかしこかめれば、卽ち髻を切りて志にむくふるなり。是にて愛念をはらされよ、折あらば對面の期もありぬべしといふて、其まゝたをれ伏せにけり。四郎左衞門夫婦暫く泪に沈みしが、この髻を手にとりてつらつら見るに、疑はしき事もあれどせんすべなければ、そをふところにして厚く禮をのべて皈りしとなり。左有(さる)にこの話誰いふとなく世上に廣まり、日蓮宗のしやまんなるをとりどりの沙汰ありければ、役所より御詮義ありて嘉之は牢屋に曳かるべかりしを早くも逃走り、觀智坊主は直に碇ケ關口まで追ひ拂はれ、講中の者は勿論本寺まで御叱りを蒙りしとなり。四郎左衞門この事を語りて、若し驗(しるし)あらんには改宗なすべき誓約ありしと言へり。あはれあはれ拙くもはからひしものなりかし。

 

[やぶちゃん注:ここでも日蓮宗が槍玉に上っている。やはり確信犯らしい。

「賣僧」「まいす」。仏法をネタに金品を不当に得る破戒僧。「売(マイ)」は宋音で、元来は禅宗で僧であると同時に商売をしている者を指した語。

「天保元庚寅の年」グレゴリオ暦一八三〇年。「庚寅」は「かのえとら」。

「甲斐國身延」山梨県南巨摩郡身延町と早川町の境にある身延山。「身延山」は日蓮宗総本山久遠寺の山号でもある。

「下土手町」現在、弘前市の中心部をなす土手町(どでまち)があり、ここ(グーグル・マップ・データ)であるが、「下」とは弘前城との関係から、現在のそれの南東部と採っておく。

「竹内四郎左衞門子息岩木山にのがれて二三年も過ぎたる頃なるが」底本の森山氏の補註によれば、『竹内四郎左衛門の倅金兵衛が、文政年間の初夏ころ、下男をつれて岩木山神社』(いわきやまじんじゃ。ここ(グーグル・マップ・データ)。山頂まで実動距離で六キロメートルはあり、高低差は一二〇〇メートルにも及ぶ。物見遊山の素人が登るルートではない)『に詣でた後、下男の止めるのを振り切って岩木山に登り、とうとう姿を消してしまった。家では人を雇って山中をくまなく探したが、中腹の錫杖清水』(しゃくじょうしみず:ここ。リンク先の道標を見ると、ここからでも山頂まで一時間十分とある)『という所で、金兵衛の笠と手拭を見つけただけで終った。世間では搗屋(竹内家の屋号)のアンサマは赤倉のオオヒト』(本「谷の響 二の卷 十五 山靈」の本文及び私の「大人」の注を参照されたい)『にさらわれたといい、久しく語り草となった』とある。ということは、この金兵衛岩木山失踪事件は文政一〇(一八二七)年から翌年か翌翌年の初夏に発生した〈神隠し〉であったことになる(文政は文政一三年十二月十日(グレゴリオ暦一八三一年一月二十三日)に天保に改元している)。

「功力」「くりき」。仏法の功徳(くどく)の力。効験(くげん)。

「鍛冶町」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「信しき」「まことしき」と訓じておく。真実らしさ。

「ほだされて」情に惹かされ、必ずしも自分の考えにはない行動をとってしまい。

「幣物」「へいもつ」狭義には「幣(ぬさ)」であるから「神前に捧げる供物・幣帛(へいはく)」であるが、ここは広義の「贈り物・進物・聘物(へいもつ)」の意。

「はやく承知して」二つ返事で承諾して。

「僧まさりなるを」ここは、僧侶ではないが、相応に経典や日蓮の著書などを読んで、ちょっとした僧にも匹敵しそうな連中を(従僧に仕立て上げ)、の謂いと採る。

「一七日」これは「いちしちにち」或いは「ひとなぬか(ひとなのか)」などと読み、初七日の如く、仏教の法式(祈願祈禱等を含む)上の基本単位日数で、七日間を指す(だから直後に「六日もすぎぬれど」と続くのである)。十七日と読み違えないように注意されたい。

「たんせいをこらして」「丹誠を凝らして」。

「けつそりとして」ママ。「げつそりとして」であろう。

「皆々集り相談すれば對面さすべき道のあらざれば、嘉之が髮をきりて」その相談、というより謀議の中心にいるのは売僧(まいす)の観智である。

「よりの者」緣者。この場合は口が堅くなくてはまずいので親族で尚且つ、彼の所属している日蓮宗講中の者。

「持せ」「もたせ」。ここでも命じているのは観智である。

「託(より)に立たるもの」「より」とは「依代(よりしろ)」で、所謂、霊を憑依させて語らせる役として特別に選んで立たせていた(設定しておいた)者。しかも、これ、すべて主犯の観智と共同正犯の嘉之を中心として台本が作られたヤラセの演出であり、託宣があったわけでも、金兵衛の魂(生霊)が憑依したわけでも何でもないのは言うまでもない。

「言けらく」「いひけらく」。言うことには。「けらく」は連語で、過去の助動詞「けり」のク語法(くごほう:用言の語尾に「く」を付けて「~(する)こと・ところ・もの」という意味の名詞を作る語法(厳密には一種の活用形))。

「仕奉りて」「つかへたてまつりて」。もともと既に金兵衛は山の神霊(大人(おおひと)・山神・天狗など)に攫われたと認識されていたのであるから、ショボくさい発言である。

「出べき」「いづべき」。

「かしこかめれば」「畏かめければ」であるが、活用はおかしい。「かしこかれければ」で採っておく。畏れ多いので。

「むくふるなり」「報(むく)ゆるなり」。歴史的仮名遣は誤り。「報ゆ」はヤ行上二段活用で、断定の助動詞「なり」は活用語の場合は連体形接続。

「はらされよ」「晴らされよ」。

「其まゝたをれ伏せにけり」「その儘、倒(たふ)れ伏せにけり」歴史的仮名遣は誤り。実にニグサい大根芝居である。

「泪」「なみだ」。

「この髻を手にとりてつらつら見るに、疑はしき事もあれど」如何にもこの数日前に髪結いに行ったような感じのする綺麗なもので、鬢付け油もごく新しいわ、元結も真新しかったりする、わけだよな!

「皈りし」「かへりし」「歸りし」。

「しやまん」「邪慢」で「じやまん(じゃまん)」であろう。仏教用語で「徳がないのに、あると偽って奢り昂ぶること」を指す。しかし、だったらその意味から「奢慢(しやまん)」でもいいかな? とも考えたことを言い添えておく。

「とりどりの沙汰ありければ」特に目立っていろいろな不評や悪しき噂が流れていたので。このケースも、髻があまりにも綺麗過ぎるとか、嘉之がほっかむりをして病み伏せっていると称して表に出ようとしないとか、如何にも怪しげな事実が数日の内に浮上してきたのであろう。詮議の結果、デッチアゲらしいことが推定出来たのである。

「曳かるべかりしを」今にも拘引されんとしたところが。

「逃走り」「にげさり」と訓じておく。なお、この小悪党の日蓮信徒鍛冶町の嘉之は性懲りもなく、またまた次の「十三 祈禱の禍牢屋に繫がる」でも似たようなケチ臭い悪事を働いてとうとう牢屋入りするのである。

「直に」「ただちに」。

「碇ケ關口」森山氏補註に、『南津軽郡碇ケ関(いかりがせき)村。秋田県境に接する温泉町。藩政時代に津軽藩の関所があり、町奉行所が支配していた』とある。現在は合併によって平川市碇ヶ関として地名が残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。「口」は関所外に強制退去させられたことを意味していよう。

「本寺」江戸幕府は仏教教団を統制管理するために「本末(ほんまつ)制度」を設けており、各宗派の寺院を重層的な上下、本山と末寺の関係に置き、支配構造内でも統制システムを強化、それによって各宗派に対する統制を測った。原則、無本寺寺院を認めず、寺院相互の本末関係を固定化し、不祥事によっては有無を言わせず連帯責任を負わねばならないように構築を行った。これは江戸初期に既に始動しており、ウィキの「本末制度」によれば、寛永八(一六三一)年には、『新寺の創建を禁止し、翌年以降、各本山に対して「末寺帳」の提出を義務づけた。これによって、各地方の古刹が幕府の命によって、形式的に特定の宗派に編入されることとなった』。『幕府は、江戸に設置された各宗派の「触頭(ふれがしら)」を通じて、自らの意向を宗派の末寺に対して周知徹底させることが可能になった』とある。この場合は、先の身延山久遠寺である。

「拙くも」「つたなくも」。ここは誓約證文まで書いてしまい、危うく改宗させられそうになった四郎左衛門(夫婦)のことを評した語である。]

 

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