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2016/11/13

甲子夜話卷之二 48 荻原林阿彌、石橋の答の事

2―48 荻原林阿彌、石橋の答の事

御同朋頭の荻原林阿彌は、殊に輕率なる生なり。或時御能ありて賜饗のとき、番組に石橋の能あり。御用部屋に見物の間、折々老臣衆休息して居られ、林阿彌に此次は何の能なりしやと問れければ、即應じて此次は執着に候と云たりとぞ【執着とは、坊主歌舞伎にて、能の石橋の體を替て爲れるものなり】。時に松平豆州【信明、老職】その坐に居られしが、常々儼然持重の人なりしが、こたへかねて吹出せりと【豆州若輩の比は世上浮華なりし故、賤伎のことをも辨へゐられし也】。是より人、林阿彌を號して執着と呼ける。

■やぶちゃんの呟き

「荻原林阿彌」不詳であるが、こちらの国立国会図書館デジタルコレクションの画像を元にした「町会所一件書留」の天保七(一八三六)年の資料の中に、『元數寄屋町荻原林阿彌拜領町屋敷類燒後貸付金高之儀二付御𢌞し濟』(恣意的に正字化した)という一節があり、同一人物と思われる。

「御同朋頭」「ごどうばうがしら(ごどうぼうがしら)」は江戸幕府の職名で、若年寄に属し、同朋(室町と江戸に於いて将軍・大名に近侍し、雑務や諸芸能を掌った僧体の者。室町時代には一般に「阿弥」の号を称し、一芸に秀でた者が多かった)及び表坊主(江戸城中で大名や諸役人の案内・着替・連絡等を務めた)・奥坊主(江戸城内の茶室を管理し、将軍や大名・諸役人に茶の接待をした)を監督指揮した役職。

「石橋」「しやくきけう(しゃっきょう)」。能の五番目物の一つで、ダイナミックな獅子舞いで知られる。作者未詳。出家した大江定基が入唐し、清涼山の石橋で童子に会う。童子は橋の謂われと文殊の浄土の奇特を教えて去る。やがて獅子が現れて牡丹の花に戯れながら壮絶華麗な舞いを見せる。

「殊に輕率なる生」「生」は「うまれ」。生まれつき(天性)、何とも殊更に呆けまくったところのある性質(たち)。

「賜饗」「しきやう(しきょう)」。将軍主催の晩餐の宴。

「御用部屋」江戸城に於ける最上級管理職である大老・老中・若年寄の詰所。ここで幕政の決議が行われた。前期は将軍の居室に近い「中の間」であったが,貞享元(一六八四)年八月に若年寄稲葉正休(まさやす)による大老堀田正俊刺殺事件が起きてから、将軍の居室からは遠ざけられている。

「問れ」「とはれ」。

「即應じて」「そく、おうじて」。

「執着」「しふぢやく」「執着とは、坊主歌舞伎にて、能の石橋の體を替て爲れるものなり」ここがよく判らぬのであるが、どうもこの坊主衆の古くからの仲間内の楽しみとして、正規の将軍の嗜む能楽をパロディ化した、「かぶいた」芸能、オチャラけた芸が存在し、その中に「石橋」(「しゃっきょう」という特殊な読みにも引っ掛けた)、題を「執着」(「しゅうちゃく」)というのがあり、この大呆けの「荻原林阿彌」、思わず「石橋(しやくきけう)」と言うべきところを「執着(しふぢやく)」と言ってしまったという馬鹿話なのであろう。

「時に」たまたまその時。

「松平豆州【信明、老職】」複数回既出既注であるが、再掲する。三河吉田藩第四代藩主で、幕府老中・老中首座を務めた松平信明(のぶあきら 宝暦一三(一七六三)年~文化一四(一八一七)年)。老中在任は天明八(一七八八)年~享和三(一八〇三)年と、文化三(一八〇六)年~文化一四(一八一七)年。ウィキの「松平信明」によれば、『松平定信が寛政の改革をすすめるにあたって、定信とともに幕政に加わ』って改革を推進、寛政五(一七九三)年に『定信が老中を辞職すると、老中首座として幕政を主導し、寛政の遺老と呼ばれた。幕政主導の間は定信の改革方針を基本的に受け継ぎ』、『蝦夷地開拓などの北方問題を積極的に対処した』。寛政一一(一七九九)年に『東蝦夷地を松前藩から仮上知し、蝦夷地御用掛を置いて蝦夷地の開発を進めたが、財政負担が大きく』享和二(一八〇二)年に非開発の方針に転換、『蝦夷地奉行(後の箱館奉行)を設置した』。『しかし信明は自らの老中権力を強化しようとしたため、将軍の家斉やその実父の徳川治済と軋轢が生じ』、享和三(一八〇三)年に病気を理由に老中を辞職している。ところが、文化三(一八〇六)年四月二十六日に彼の後、老中首座となっていたこの「大垣侯」戸田氏教(うじのり)が老中在任のまま『死去したため、新たな老中首座には老中次席の牧野忠精がなった』。『しかし牧野や土井利厚、青山忠裕らは対外政策の経験が乏しく、戸田が首座の時に発生したニコライ・レザノフ来航における対外問題と緊張からこの難局を乗り切れるか疑問視され』たことから、文化三(一八〇六)年五月二十五日に信明は家斉から異例の老中首座への『復帰を許された。これは対外的な危機感を強めていた松平定信が縁戚に当たる牧野を説得し、また林述斎が家斉を説得して異例の復職がなされたとされている』。『ただし家斉は信明の権力集中を恐れて、勝手掛は牧野が担っている』とある。その後は種々の対外的緊張から防衛に意を砕き、経済・財政政策では『緊縮財政により健全財政を目指す松平定信時代の方針を継承していた』が、『蝦夷地開発など対外問題から支出が増大して赤字財政に転落』、文化一二(一八一五)年頃には『幕府財政は危機的状況となった。このため、有力町人からの御用金、農民に対する国役金、諸大名に対する御手伝普請の賦課により何とか乗り切っていたが、このため諸大名の幕府や信明に対する不満が高まったという』とある。

「儼然」「げんぜん」で「厳然」に同じい。厳(いかめ)しく厳(おごそ)かなさま。動かし難い威厳のあるさま。

「持重」「ぢちよう(じちょう)」。常に重々しくし、軽々しく振る舞わないこと。慎重であること。

「こたへかねて」堪(こら)えかねて。

「吹出せり」「ふきいだせり」。プファッツ! と思わず吹き出し笑いしてしまった。

「比」「ころ」。

「世上浮華なりし」「浮華」は「ふくわ(ふか)」で、上辺(うわべ)は華やかであるが、中身の乏しいこと或いはそうしたさまを指す語。

「賤伎」芸能事は近世以前は、おしなべて皆、賤民の技として本質的には蔑まされていた。

「辨へ」「わきまへ」。

ゐられし也】。是より人、林阿彌を號して執着と呼ける。

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