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2016/11/16

甲子夜話卷之二 50 鷹司准后、關東下向のときの事

2―50 鷹司准后、關東下向のときの事

去春、鷹司准后參向ありしとき、桑名渡海の折節、天氣能、海面穩なりければ、舟中にて詠哥もあり。又奏樂も歸春樂、靑海波などありけるとなん。又催馬樂の伊勢海を歌はれしよし。繪島參詣の時、辨天の窟の前に海へ出たる大石あるに氈など敷、奉納とて琵琶を彈ぜられ、其音海波の響に通ひて、いと興あることなりしと云。寉岡は其前囘祿せしかば、假屋へ參拜あり。これも奉納の樂せらるべしとのことなりしに、准后殿參詣なればとて、宮付の伶人ども、田舍めきたるあやしき吹物にて、賀殿を奏し待受たる所へ參られ、代々の武家崇奉の宮居なればとて、武德樂を笛もて吹出され、陪從の輩、各諸管を合奏しければ、田舍伶人みな管を置て感聽しけりとなり。流石は攝家の身がら相應の殊勝なることどもなりき。府に着の後、水戸殿は間柄ゆへ、互に往來もありしが、一日准后殿、宰相殿合樂せらるべしと云ことになり、准后殿は音取を吹べしと云れしに、宰相殿は調子を吹んと云はれ、これには准后殿こまられしとなり。東府の文物盛なること、此一つにても知るべし。又宰相殿邸へ准后殿を招かれしとき、後樂園など見せられしに、准后殿調馬の所望あり。俄に水戸殿にて有合ふ馬を、家士に乘らせて觀せ玉ひしとぞ。准后殿は馬好みなりとぞ。發程の日は、仙臺より贐に送れる馬に騎りて旅館を立れしと云。仙臺も間柄なり。

■やぶちゃんの呟き

「鷹司准后」この時代の「鷹司」の「准后」というと、藤氏長者で従一位・関白であった鷹司政熙(たかつかさまさひろ 宝暦一一(一七六一)年~天保一二(一八四一)年)で、「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年十一月であるが、寛政一二(一八〇〇)年に彼は准三后(じゅさんごう:次注参照)となっており、摂関准后は文化一二(一八一五)年に宣下されてはいる。しかし、この当時(以下で推定するように文政四(一八二一)年)では既に六十歳を超えており、下向云々やこの「鷹司准后」の極めて活発な行動を見る限り、どうも相応しくない。とすると、彼の嫡男鷹司政通(寛政元(一七八九)年~明治元(一八六八)年)ならば、満三十二歳で、以下のシチュエーションにしっくりくる。彼はこの直後の文政六(一八二三)年に関白に就任、後の天保一三(一八四二)年には太政大臣に就任、安政三(一八五六)年に辞任するまで三十年以上の長期に亙って関白の地位にあり、朝廷内で大きな権力を持った。彼への摂関准后は安政三(一八五六)年の宣下であるが、それ以前に父同様の准三后を受けていたものと思われる。そもそも「鷹司准后」というと彼の呼称としての方が知られているからでもある。誤りであれば御指摘戴きたい。

「准后」は「じゆごう(じゅごう)」で「准三后(じゅさんごう)」の略。平安以降、三宮(太皇太后・皇太后・皇后)に準ずる待遇として年給を給せられた功労者を指し、公卿・武官・僧侶なども任ぜられた(説明に「三宮」が挙げられ、しかも「后」とあるために誤り易いが、男女を問わない)。親王・法親王・摂政・女御・大臣などが対象となったが、後には給付はなくなって名目上の名誉称号的なものとなった。「じゅんこう」と読んでもよい。准三后(准三宮とも)のこと。

「去春」前に記した通り、「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年十一月であるから、これはその年の春のことか(以下の「其前囘祿せしかば」を参照のこと)。但し、鷹司政通がこの年に下向した事実は行き当たらなかった(ある書物がそれに答えてくれると思うのだが、生憎、それを私は所持しない)。識者の御教授を乞う。

「能」「よく」。

「穩」「おだやか」。

「歸春樂」不詳。これは或いは同音「きしゅんらく」の「喜春樂」の誤りではあるまいか。雅楽の舞曲で唐楽の一曲で四人舞い。

「靑海波」「せいがいは」と読む。知られた雅楽の唐楽の一曲。二人舞い。舞姿が優美なことで知られる。

「催馬樂」「さいばら」と読む。古代歌謡の一つで、平安時代に民謡を雅楽風に編曲したもの。

「伊勢海」「いせのうみ」と読む。催馬楽でも最も知られた一曲。歌詞は、

〽伊勢の海の 淸きなぎさに しほがひに

〽なのりそや摘まむ 貝や拾はむや 玉や拾はむや

室町末の動乱期に一度、伝承が絶えたが、寛永三(一六二六)年に再興された。

「繪島」江ノ島。

「辨天の窟」現在の江ノ島の裏手にある御岩屋。稚児が淵から下りた俎板岩辺りの崖下か。

「氈」「もうせん」。

「敷」「敷(し)き」。

「響」「ひびき」。

「寉岡」「つるがおか」。鶴岡八幡宮寺。

「其前囘祿せしかば」鶴岡八幡宮寺はまさに、この文政四(一八二一)年一月十七日の夜、西側の雪ノ下村で発生した火災のために、上宮・武内社・楼門・廻廊・白旗社・大仏供所・愛染堂・六角堂・裏門鳥居などの境内の主要な建物が焼失している(ここは昭和三四(一九五九)年吉川弘文館刊「鎌倉市史 社寺編」の鶴岡八幡宮の記載に拠った)。

「宮付の伶人」「みやづきのれいじん」。鶴岡八幡宮専属の雅楽を奏する楽人(がくにん)。

「吹物」「ふきもの」。管楽器。

「賀殿」「かてん」と読む。雅楽の唐楽の舞曲の一つ。四人舞い。

「待受たる」「まちうけたる」。

「武德樂」「ぶとくらく」。こちらの記載に、本来は笛の演奏だけで演伎を伴っていたものとされるが、その後、演技は忘れられて管楽部楽人らによって笛の曲として伝承され、後に雅楽管弦の楽曲として作調編曲され、今日に伝えられているとある。

「吹出され」「ふきいだされ」。

「陪從」「ばいじゆう」。一般には天皇や貴人などの供として従う人を指すが、限定的な用法として、賀茂・石清水・春日のそれぞれの神社の祭りの時などに舞人と伴に参向し、管弦や歌の演奏を行う地下(じげ)の楽人を指し、ここは鷹司卿の御成りに付き従ったまさにそうした朝廷方の伶人を指しているから、後者限定的な意でとるべきである。

「輩」「やから」。

「水戸殿は間柄ゆへ」鷹司政通の正室鄰姫は第七代水戸藩主徳川治紀の娘であった徳川清子である。

「往來」言わずもがなであるが、書簡上のやりとりを指す。

「宰相殿」これが文政四(一八二一)年のことであれば、水戸藩第八代藩主徳川斉脩(なりのぶ 寛政九(一七九七)年~文政一二(一八二九)年)である。当時、満二十四歳。

「合樂」「かふがく」と音読みしておく。合奏。

「音取」「ねとり」。雅楽演奏の中の管弦に於いて行われる、一種の最初の「音合せ」的楽曲。この「音取」の規模を大きくしたものに以下に出る「調子」或いは「品玄(ぼんげん)」などがあって、後にこれが芸術的・形式的に高められ、演奏形態も一定化し、楽曲の演奏に先立って必ず奏される曲となったものである。

「これには准后殿こまられしとなり」恐らくは鷹司准后は「音取」を発展拡大させた新しい雅楽である「調子」を演奏したことがなかったのである。

「東府の文物盛なること」江戸の文化の、いや盛(さか)なること。

「宰相殿邸」水戸藩江戸上屋敷。現在の東京都文京区後楽とその周辺。

「後樂園」現在の小石川後楽園。

「有合」「ありあふ」。有り合せの。突然の兵馬調練観覧の御所望であったために、急遽、寄せ集めたのである。

「發程」帰洛出立。

「仙臺」仙台伊達藩。

「贐」「はなむけ」。

「仙臺も間柄なり」東山天皇の孫で鷹司家の養子となった第二十一代当主鷹司輔平(政通の祖父)の子政熙(政通の父)の妹の興姫は陸奥仙台藩第八代藩主伊達斉村(なりむら)の正室誠子(のぶこ)である。

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