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2016/11/05

谷の響 三の卷 四 震死

  四 震死

 

 且説(さて)、この日丙辰七月六日なり。大水おちて間もなく黒雲宙(そら)にうちまき、暴雨篠をつくが如く迅雷(いかつち)物すさまじくなりわためきて、十餘ケ處に震隕(おち)たるうち、東光寺村の伊兵衞といへるものゝ家におちて、そのまゝ燃上り家二軒を燒きたるが、ふびんなるはこの伊兵衞の處女(むすめ)は十三妹は十一なる二人の子みぢんになりて燒死せり。又、柏木町村の喜右衞門といへるものゝ馬大田村の山中にてうたれ死し、碇ヶ關の某の馬大淸水の村頭(はし)なる樹の下にてうたれたりき。さてこの時、伊兵衞の姉處女は小屋にありて馬の飼草をきりてゐたるに、雷鳴の強きに怖れ母屋に入りて妹と共に雷にうたれ、碇ケ關の馬士は馬をすて茶屋にかけこみて難を逃(のが)れ、柏木町のものは樹の下によりて難をのがれ、碇ヶ關の馬は樹の下にありてうたる。橫難の身にかゝるにや、内外行止規(のり)とすべきにあらざるなり。

 且説(さて)、之に類する一語あり。そは伴蒿蹊が閑田耕筆と言へる册子に、一友語らく永源寺末下の僧關東に在りし日、其の野中にて雷雨甚しきにあひて、辻堂を見つけてやすらひしに、一婦人(ひとりのをみな)の子を抱きたるもの同じくかけ入りて晴るをまつに時うつりぬ。僧はいそぐことありしに、止むことを得ず雨を犯して出行たり。一町餘もすぎぬる頃、あとの方に雷落し音せしほどにふり返りて見しに、今まで宿りつる辻堂雷火に燃上りぬ。さてはかの婦人も小兒もうたれて死つらんとあはれさ限りなく、吾のがれしを不思議におぼえぬと話せられぬとぞ。然るに近き年、洛南竹田街道油小路の下にて、四五人雷雨を佗(わ)びて一茶店に休(やすらひ)ひしか、其中兩人は何(いか)ばかりの事かはとて出行たり。人々とゝめしかときかず。程なく雷近く落たりしが、やゝ晴れて殘る人々も南をさして行て見れば、先きの二人路中にうたれて死して有しとぞ。これは強いて出て災にあひ、さきの僧は出てまぬかれたり。或は隣家ヘ雷落ちてこなたの人は震死(ふるひ)しその家は恙(つつが)なき類ひ、年々に聞くことあり。おのおのが命分いかにかせんと言へるは實にさる事なり。

 

[やぶちゃん注:「震死」本文末にある「ふるひじに」と訓じておく。雷電による感電死を認識していたかどうかは判らないが(認識していた可能性はある。実際に山岳部の顧問をしていた際、八ヶ岳で激しい雷雨に遇ったが、比較的近くに落ちた際、生徒の一人がびりびりとした感電を確かに体で感じたと蒼白になって訴えたことがあるからである)、およそ、単なる落雷による地「震」(ない:地面の震動)とともに発生した雷撃による火災(落雷が火のない所に火災を起こすことは当然の如く知られていた)による焼「死」などという迂遠な意味ではあるまい。

「この日丙辰年七月六日」特異点の連関記事で、前条「三 壓死」の大雪崩で萬次郎が木端微塵になって圧死した同日に別な場所で発生した落雷死の記載である。即ち、これは安政三年「丙辰」(ひのえたつ)の旧暦七月六日の出来事で、既に示した通り、同日はグレゴリオ暦で一八五六年八月六日である。

「迅雷(いかつち)」二字へのルビ。

「震隕(おち)たる」二字へのルビ。

「東光寺村」底本の森山氏の補註によれば、『南津軽郡田舎館村東光寺(とうこうじ)』とある。「田舎館村」は「いなかだてむら」と読み、弘前の北東に完全に同名の村として現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。それにしても「田舎」を含む地名って、結構、珍しくないか?

「みぢん」「微塵」。雷撃の直撃を受けて、肉体が完全に裂けていたのであろう。長い時間、高温で焼かれた焼死体では破砕することや男女の区別もつかなくなるケースもままあるが、この時代の民家の単純火災事例では普通は遺体が「微塵」になることは少ないと思われるからである。

「柏木町村」底本の森山氏の補註によれば、『南津軽郡平賀町柏木町(かしわぎまち)』とある。南津軽郡平賀町は弘前の南東のここ(グーグル・マップ・データ)で、しかもその町域の施設を見ると、平賀町を入れずに「柏木町」と表記する住所が存在する例えば「平川市立柏木小学校」の住所は「平賀町」内に確かにありながら、「青森県平川市柏木町柳田」である)。行政上の「町」の中にさらに「町」を附す地区があるというのは旧町名を保存するよい仕儀と思う。味気ない丁目など、私は嫌いだ。

「大田村」不詳。現在の青森県北津軽郡板柳町に古くは「太田村」ならあり、ここなら前の柏木町村から馬を連れ行く範囲ではある。但し、航空写真を見る限りでは、山中というよりは丘陵程度にしか見えない。そのずっと北の五所川原市の北の飛び地内(弘前の北で十三湖の北部)にも古く「太田村」があり、そこなら確かに「山中」なのだが、ここはあまりに遠過ぎる気がする。

「碇ヶ關」既出既注だが、再掲する。森山氏補註に、『南津軽郡碇ケ関(いかりがせき)村。秋田県境に接する温泉町。藩政時代に津軽藩の関所があり、町奉行所が支配していた』とある。現在は合併によって平川市碇ヶ関として地名が残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大淸水」現在の弘前の南直近の青森県弘前市大清水であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「村頭(はし)」「頭」一時へのルビ。村の入口。

「飼草」「かひば」。飼(い)葉。牛馬の餌として与える草や藁など。「秣・馬草(まぐさ)」のこと。

「橫難の身にかゝるにや、内外行止規(のり)とすべきにあらざるなり」「橫難」は「わうなん(おうなん)」で「思いがけなく起こる災い・不慮の災難」の意。「内外行止」「ないがいかうし」と音読みしておく。これは「家屋の中か内かの違い及び歩行等の運動行動をしているか立ち停まって凝っとしているかという違い」の意であろう。それらは必ずしも「規(のり)」、決定的で最善の選択・処置・退避の大原則として、一方に規定しすることは出来ないものなのである、という結論である。この事例の中、屋外にあって大木の直下にいるというのは、落雷を受ける危険度が有意に高まることは知られている。しかし、平尾の謂いは、基本、正しい。また、化繊の着衣や金属物質をいろいろ持っている現代人の落雷リスクは当時の彼らよりも遙かに高くなっているとは言えるように思うが、結局、地震も噴火も落雷も、我々の科学的知見では、基本、予測することは不可能なのである。

「伴蒿蹊が閑田耕筆と言へる册子」江戸後期の元商人で歌人・文筆家であった伴蒿蹊(ばん こうけい 享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年:生家は近江八幡出身の京都の商家であったが、八歳で本家の近江八幡の豪商伴庄右衛門資之の養子となり、十八歳で家督を継ぎ、家業に専念、三十六歳で家督を譲って隠居・剃髪、その後は著述に専念した。ここはウィキの「伴蒿蹊に拠った)の享和元(一八〇一)年刊の随筆(因みに、彼は多くの著作を残したが、中でも伝記集「近世畸人伝」は優れた作品で、私の愛読書でもある)。以下の話は同書の「卷之二」の「人部」にある一条。以下に引く(吉川弘文館の「日本随筆大成」版を参考にしつつ、恣意的に漢字を正字化した)。

   *

○一友人かたりて、永源寺末下の僧、關東に有し日、某の野中にて雷雨甚しきに逢ひて、辻堂を見つけて休らひしが、一婦人の子を抱きたる者、同じく駈(カケ)入て晴るをまつに、時うつりぬ。僧はいそぐこと有しからに、止ことを得ず雨を犯して出行たり。一町餘も過ぬる頃、あとのかたへ雷の落し音せし程に、ふり返りて見しに、今までやどりつる辻堂、雷火に燃(モヱ)上りぬ。さては彼婦人も小兒もうたれて死(シ)つらんとあはれさ限なく、吾免しを不思議におぼえぬと、話(ワ)せられぬとぞ。然るに近き年、洛南竹田街道油小路の下にて、四五人雷雨を侘て、一茶店に休らひしが、其中兩人は、何ばかりの事かはとて出行たり。人々とゞめしかどもきかず。程なく雷近く落たりしが、やゝはれて後、殘る人々も南へさして行て見れば、さきのふたり、路中にうたれて死てありしとぞ。これは強(シヒ)て出て災にあふ。さきの僧は出てまぬかれたり。或は隣家へ雷落て、こなたの人は震死し、其家は恙なきたぐひ、年々に聞ことあり。おのおのが命分いかにかもせん。

   *

これと平尾の引用を比べると、殆んど狂いがない。やはり平尾の堅実さが知れる。

「永源寺」伴蒿蹊のフィールドから考えて、これは現在の滋賀県東近江市永源寺高野町にある臨済宗瑞石山永源寺であろう。同寺は南北朝期に臨済宗永源寺派を起こし、大本山である。

「末下」末寺。同永源寺派は滋賀県を中心に、現在も約百五十の末寺を持つ(ウィキの「臨済宗に拠る)。

「一町」約百九メートル。

「洛南竹田街道油小路」「竹田街道」は江戸時代に開かれた京と伏見を結ぶ街道の一つで、京の七口の一つ「竹田口」から現在の伏見区竹田を経て、伏見港へと繋がっていた。非常に優れた平安京の解説サイトである大路・小路」の「油小路」によれば、『平安時代中期以降の右京の衰退と、それに伴う朱雀大路の衰退によって、この小路は市街のほぼ西限となった』とあり、『室町時代には商業街となり、酒屋が集中』応永三二(一四二五)年から翌年にかけての記録である「酒屋交名」に『よれば、一条大路から七条大路にかけて』二十六軒もの『酒屋があったようである』と記すが、その後の応仁の乱によって荒廃してしまう。天正一〇(一五八二)年、『「本能寺の変」が起こった当時の本能寺は、西側をこの小路に接していた』。天正一八(一五九〇)年になると、『豊臣秀吉によって再開発』が開始され、天正一九(一五九一)年には『油小路通の東側に沿って梅小路通の北~九条通に、秀吉によって「御土居」(おどい/京都市街を囲った土塁と堀)が築かれ、九条通付近で西に屈曲していた。この御土居をめぐらす際、この通りを中心としたという』。『当初は油小路通には出入り口は設けられなかったと考えられるが』、元禄一五(一七〇二)年に描かれた「京都惣曲輪御土居絵図」に『よれば、九条通付近に江戸時代に入ってから御土居の出入り口が開かれたようである』とある。『江戸時代には、南で伏見への往還道に通じており、脇さし屋・鞘ぬし・小袖表・質屋・ほり物師・針屋・仏具屋などの商家があった』。『また、京都では最も多い十数藩の京屋敷が軒を連ね』ていたともある。知られた洛中洛外図屏風(アメリカ・ボストン美術館蔵)には、この『油小路通を進む朝鮮通信使の行列が描かれている』とある。

「下」「しも」。油小路の南の端の方。八条大路と南端の九条大路の間か。

「休(やすらひ)ひしか」「か」はママ。「が」。

「出行たり」「いでゆきたり」。

「とゝめしかときかず」ママ。「停(とど)めしかど聞かず」。

「隣家ヘ雷落ちてこなたの人は震死(ふるひ)しその家は恙(つつが)なき」隣りの家に落雷したのに、その落ちた家の家人は全く無傷であったのに対し、その隣家の家人が死んだのである。あり得る話である。

「年々に」「としどしに」。年ごとに、まま。昨今、人家に落雷して死傷するケースは今はあまり聴かないのは、現代建築がたまたま一種のアースを持ったファラデー箱状態であるからか。

「おのおのが命分いかにかせん」それぞれの「命分(みやうぶん(みょうぶん)」(天から与えられた寿命)はこれ、如何ともし難いものである、ということをいうのであろう。

「實に」「げに」。]

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