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2016/11/20

谷の響 三の卷 十七 樹血を流す

 

 十七 樹血を流す

 

 目谷村市邑の毘沙門堂の境裡(けいだい)に佛桂(ほとけかづら)といふ樹あり。この樹は幹はもとより、小さき枝まても傷(きづつく)る時は血出るというて、土(ところ)の人析(き)る事を許さず。御藏町の善藏といへるもの、試し見んとて密(ひそか)に枝を析りたるに、如何にも淡紅(うすあか)き水出て他(ほか)の樹の類(たぐひ)にあらずと言へり。

 且説(さて)この樹を佛桂と言ふよしは、何(いつ)の頃にか有けん、村の杣士等この樹を伐りしに血の出る事人に一般(おなじ)かりければ、僉々(みなみな)寒慓(おそれ)て神に言和解(いひわけ)して、その木の中心(なか)にて高さ五尺ばかりの佛像を彫作(ほり)て、この桂の精を和(なご)め祭れるよりの名なりと言へり。その佛像今に毘沙門堂の中に安置せり。又、今ある佛桂はこの佛を作りし木の根株より出たる新(ひこばえ)とかや。さて、樹の血を出せることは和漢ともに間々あることなり。また此堂の林に池の杉といふて十抱周匝(とほかゝへまは)る古杉ありて、こを池の杉と號(なづ)くるは、兩又(ふたまた)の處に水溜りて魚の生れたるより呼し名なりと。今はその隻(かた)枝枯れて無れど、希らしき巨(おほ)杉なり。[やぶちゃん字注:「」=「木」+「卉」。]

 

[やぶちゃん注:「目谷村市邑」底本の森山泰太郎氏の補註に『西目屋村村市(むらいち)。砂子瀬より岩木川沿い下流に当る』とある。ここ(マピオン地図データ)。

「毘沙門堂」底本の森山泰太郎氏の「雌野澤」の補註に『いま鹿島明神。大同二年、坂上田村麿が勧請したという伝説がある。今も境内に杉の老木が多い』とある。YUKI氏のブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」の「鹿嶋神社 (鹿島神社)  毘沙門堂 (西目屋村村市)」が画像豊富で、なんたって本作の筆者平尾魯仙の「香取神社村市村区中の図」(青森県立郷土館蔵)もある! 必見!

「佛桂(ほとけかづら)」実和名にはありそうで、ない。私は野坂昭如の小説の中でも「火垂るの墓」についで熱愛する「骨餓身峠死人葛」(ほねがみとうげほとけかずら)でしか知らぬ。先のYUKI氏のブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」の「鹿嶋神社 (鹿島神社)  毘沙門堂 (西目屋村村市)」によれば、少なくとも当地には現存していない。

「御藏町」既出既注であるが、再掲する。現在の青森県弘前市浜の町のことと思われる。ここgoo地図)。「弘前市」公式サイト内の「古都の町名一覧」の「浜の町(はまのまち)」に、『参勤交代のとき、もとはここを経て鯵ヶ沢に至る西浜街道を通って、秋田領に向かっていました。町名は、西浜に通じる街道筋にちなんだと思われますが』、宝暦六(一七五六)年には『藩の蔵屋敷が建てられ、「御蔵町」とも呼ばれました』とある。「如何にも淡紅(うすあか)き水出て他(ほか)の樹の類(たぐひ)にあらずと言へり」樹液が赤いものは国外では幾つか知られ、単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科(或いはリュウゼツラン科)スズラン亜科ドラセナ属 Dracaena の仲間或いは同属のリュウケツジュ(龍血樹)Dracaena draco  マメ目マメ科マメ亜科ツルサイカチ連インドカリン属のブラッドウッド・ツリー Pterocarpus angolensis などが知られ、これは確かに血のように赤い。本邦でもミズキ目ミズキ科ミズキ属ミズキ(水木)Cornus controversa のように多量の樹液を分泌する種に、ある種の酵母が作用すると、薄い赤或いは橙色の多量の樹液を分泌することが知られている。私は見たことはないが、ネット上ではかなりの本邦での本種が赤い樹液を多量に滴らせている画像や動画を視認出来る。また、この「佛桂」の文字からは、ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ(桂)Cercidiphyllum japonicum が想起される。但し、カツラの木の樹液が赤いとは聴かない。しかし、。先のYUKI氏の「鹿嶋神 (鹿島神社)  毘沙門堂 (西目屋村村市)」を見ると、現在の鹿嶋神社拝殿内にある仏像は坂上田村麻呂の手彫りと伝えるが、これは彼がこの一帯を征服した際に「桂の木」を伐り出して彫刻したものであるとあり、また、

   《引用開始》

青森の伝説によりますと、『境内に、仏桂という老木があった。いつのころか、村の山子(木こり)たちがこの桂の木を切ったところ、血が流れ出した。そこで神様に詫び、その木で仏像を刻み、堂の中に安置して桂の霊を慰めたという。』

   《引用終了》

ともある(下線やぶちゃん。ただ、この記載は「仏桂」という名から無批判に「桂の木」と読み換えただけのように見える)。私が何故、かくも拘るかというと、「ほとけかつら」と和語で呼称する場合、「佛鬘(ととけかつら・ほとけかづら)」である可能性を完全には排除出来ず、仮にそうだとすると、その木はツル性植物或いは枝葉が蔓様になる樹木である可能性も出てくるからである(水木や桂ではそうはならない。但し、平尾は後で「桂」と書いてはいる。しかし、平尾がこの木を現認したという確証はなく、この全体の記載は聞き書きに過ぎない可能性を深く疑わせるから、彼が「桂」と書いたからといって狭義の「桂の木」に断定することは出来ないと私は考えるのである)。ともかくも、他に同定候補があるならば、是非とも御教授を乞うものである。

「杣士」木樵(きこり)。

「寒慓(おそれ)て」二字へのルビ。

「言和解(いひわけ)して」三字へのルビ。木の出血を神の怒りと見たのである。木の出血はダイレクトに山(大地)の「穢れ」を意味するから、木樵らはそれによって山に入ることを畏れ、仕事が出来なくなってしまうのである。そこでそれを謝罪し、出血した木を神木となし、崇め奉ってその怒りを鎮めたのである。これは一種の御霊信仰と同義的であると言ってよいと思われる。

「その木の中心(なか)にて」伐ってはまずいのだから、ここはその「佛桂」に自然に出来た洞(うろ)である。

「五尺」一メートル五十センチ。

「その佛像今に毘沙門堂の中に安置せり。又、今ある佛桂はこの佛を作りし木の根株より出たる新(ひこばえ)とかや」「新(ひこばえ)」(「」=「木」+「卉」)は「蘖(ひこんばえ)」で新芽を出して伸びた新たな同木の意。先のYUKI氏の「鹿嶋神社 (鹿島神社)  毘沙門堂 (西目屋村村市)」に現在の同社殿内には坂上田村麻呂手彫りと伝承する(単なる伝承)二体の仏像が安置されており(一体は破損)、その高さはそれぞれ約一・四メートルと一・八メートルとある。前者の大きさはこれに近い。

「樹の血を出せることは和漢ともに間々あることなり」前掲注参照。

「池の杉」先のYUKI氏の「鹿嶋神社 (鹿島神社)  毘沙門堂 (西目屋村村市)」に、『池の杉・竜の杉と呼ばれる老杉の幹があり、昔は中ほどから折れ、くぼみには雨水が溜まって池となり、フナが住み着いていたと伝えます。この池には竜神も宿っており、日照りが続くと姿を現して雨を降らせたという伝説もあります。現在はこの木は存在しないようです』とあり、さらに、『菅江真澄が以下のように記しています『太秋(たやけ、大秋)という村にはいり、左方に鶴田というところも見えて、危げな橋をわたり、郷坂というおそろしいほどの坂を左にして、ふか沢という、たとえようもないやけ山にわけいった。滝の沢というところをへて、遠方に合頭という岳を眺め、川にそってはるかにたどり、村市村を過ぎて、つづら折りの道をくだり、大路にでて、ここに宿を求めた。(中略)藤川という村の、こちらの畳平という村からはいり、おおひらの山の麓、守沢というあたりに、大同年間の由来をもつといい伝えられている多門天の堂があった。(中略)六、七尺ほどの朽ちた古像がふたつたっていた。この堂の後方に人の丈の高さのところではかると、周囲七尋』(十二メートル程)『ばかりある大杉があった。(中略)この幹の真中あたりのところが朽ちて、その空洞に水がたまり、これを池の杉とよんでいる。三枚平という峰にのぼって、この杉の真中の空洞をみていると、ときには鮒のおどることがあるなどと、案内人が指さし見上げながら語った。』』と引かれておられる。菅江真澄の図もあるので是非、リンク先を参照されたい。底本の森山氏の補註に『菅江真澄の「雪のもろたき」(寛政八年)にこの杉を観察した記事がある。「此堂のしりに、人のたけしたる処にはかれば、七尋斗めぐる大杉あり。此木のなから斗[やぶちゃん注:「ばかり」。]折くちて、そのうつほに水渟りぬ。これなん池の杉とて、むかしより今猶立てり。三枚ひらといふ嶺に登りて、かゝる杉の半[やぶちゃん注:「なかば」。]を見をれば、ときとして、鮒なんおどることありなど、あなひの、手をさしあふぎ見て語る。」』とあるのが、その原文である。真澄がこの「池の杉」を見たのは寛政八年で一七九六年、本「谷の響」の成立は万延元(一八六〇)年だから六十四年後である。或いは、この真澄の見た杉は天災によって倒壊消滅し、新たに二股杉を神木として《新規捲き直し神木》とした可能性が疑われるように私は思う

「十抱周匝(とほかゝへまは)る」一抱えを前にしたように一・七五メートルで換算すると、十七メートル五十センチに相当するが、ちょっと大袈裟である。YUKI氏の「鹿嶋神社 (鹿島神社)  毘沙門堂 (西目屋村村市)」菅江の絵では、同杉の根元で立って手を繫いでいる人が描かれており、それはこちら側半分に四人(左右の円周上に一人ずつ)であるから、計八人で、これだと、この杉の円周は十四メートルとなる。さらに、菅江の文章(YUKI氏による現代誤訳か)では『周囲七尋』でこれは凡そ十二メートルと、さらに現実的に小さくなる。

「兩又(ふたまた)の處」不審。菅江の絵では、太い一本の杉の幹に生じた洞(うろ)である。

「魚の生れたるより呼し名なりと」これはまあ、中国の説話にある(思い出せぬ! 授業でやったのに!)、たまたま魚商人が鰻(だったよなあ?)を木の洞の水溜りに入れおいたところ、それを見た人々が木から生まれた神聖な魚だと言って、社(やしろ)を作って崇めたという落し咄と同じことで、誰かが、悪戯でやったことであろう。或いは、当時の村全体が確信犯で共犯で行った「村おこし」の一種だったかも知れぬ。

「隻(かた)枝」二股に分岐した片方の上部。ここまで書かれると、真澄の絵とのギャップが甚だしく、激しく不審である。]

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