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2016/11/07

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (六)~その1

 

       ㈥

 

 僕の最も好きな女性    田端居士

 

 僕は、しんみりとして天真爛漫な女性が好きだ。どちらかと言へば言葉すくなで内に豊かな情趣を湛へ、しかも理智のひらめきがなくてはいけません。二に二を足すと四といふやうな女性は余り好ましく思へないのです。

 かつて或る海岸の小さな町に住んでいたことがありました。そう教育が高いといふのでもなく又さう美人といふでもない一婦人と知り合ひになったことがありました。この婦人に対して坐ってゐると恰も浪々として尽きない愛の泉に浸ってゐる様な気がして恍惚となって来ます。僕はいつか全身に魅力を感じて忘れやうとしても今尚忘れられません。かういふ女性が多ければ多いほど、世界は明るく進歩して男子の天分はいやが上にも増してゆくことでせう。

 

 右の文において私はふっと自分の胸に思い当たるものを感じます。名前も出さず、或る婦人とか、或る海岸の小さな町とか、ぼかして述べてありますけれど、私には思い当たる節があるのでございます。ははあ私のことだとわかるのでございます。これが文学的な方法でございましょう。これと比べて「佐野さん」という文は何んとムキ出しに夫を刺したものだったかと、今更のごとく比べて思いました。そしてもう一度、あの辛辣な文における彼の仕打ちを思い返して見ました。ひらたく言えば、私は好感を持たれ、夫は嫌われ、憎まれているということになりました。それよりほかにないのだと思います。なぜ夫をそれほど憎んだのか、私はようやく解るのでございます。私は彼に好感を持たれていたのだ、愛されていたのだ、どうしようもないほど愛されていたのだと。彼の口から洩れ出た私への思慕のことばは、別に嘘ではなかったのだと。社交辞令と受け流していたのは私で、本気で言っていたのは彼だったのだと。私は彼のテストで受けていたわけになります。というのは、彼に問いかけられた愛の倫理の中で、至極、道徳的な判断と世間並みの解答しか与えなかった私を突き放し、あの地を去り、そして交際を断ち、夫を憎み、私への思慕を残して一片のハガキすら呉れないのだと。このようなことは、後になってしか解らないのでございました。そう思えば糸のほぐれるように、うっとりとした追想がよみがえってまいります。私には何のまちがいもないし、夫の命に従って、誠心誠意、尽くすだけのことは尽くしたと、正しがっている私そのものに罪があったのだと、身も世もない女身を抱く思いでございます。芥川さんは私を見るたびに深く愛されるようになって行ったのか。正しく振るまえば振るまうほど、愛されたのかと自分で自分を見ることのできない私は、後になってから気がついたのでございます。それだけに夫は憎まれ、嫌われ、随筆にまで書かれたのか、それも私のためだったのだと解りますと、罪の深さに消え入りたいようでございます。

 彼との交際が絶えてから、私の家庭には平穏な月日が流れました。両手に縋る愛児と善良な夫を持った私は、変わらぬ愛情を捧げるのになんの屈託もございませんでした。けれども不思議なことが一つありました。何の文句も言わない、穏やかな夫の中に一つ脱落してしまったもののあるのに気づきました。それは、あれほど、興味を持ち、あれほど真摯であった物理学への研究を、いつのまにか忘れたように、呆けたように放擲してしまったことでございます。なんの変化も受けないように見えながら、その実、夫の最も重要な頭脳の部分、物理学への熱意が、欠け落ちてしまった、そして何ごともなかったように穏やかに笑っている夫の哀れさに気づいたのでございます。こういう形で夫は平静を保ち得たのかと涙をこぼしました。詫びたい思いでございました。それでも夫は幸福そうでございました。私は何も言わず、一そう夫を愛したのでございます。例のステッキも夫は移り住むたびに荷物の一つとして持ち歩きました。その荷作りをする毎に私の顔は翳りましたけれど、夫は例の如く穏やかな微笑を浮かべているだけでした。

 その後、昭和二年七月二十四日の朝刊において「芥川龍之介謎の自殺」を知ったのでございました。仰向けの死顔の写真も掲載されているではありませんか。こういう最後の顔を写真で見ようとは、いいえ、こういう再会をしようとは思っても居りませんでした。物言わぬ再会と思いました。小穴隆一、久米正雄、菊池寛らが死の床を取り巻いている写真も載りました。遺文を読む久米の口があけられたままで紙面には大きな嘆きの影が漂っていました。自殺をしたという女学生もあったと報道されました。世間は芥川の死に心から驚いて居り、文壇の損失であると書き立てられました。この芥川に私の面影は抱かれたままになったと思いました。確かにそういうところがあったと思いました。

 その後、夫も亡くなり、長いあいだ戦後の苦しみを味わい、そして病床に臥すようになって、しみじみと読み返して見たのでございますが、芥川の作品の端々には何かほのかに顕って来る月のひかりがあって、つめたく白いまぼろしが見えるように思えるのです。女性を描くとき口癖のように<昼の光の中でも月光の中にいるやうだった>と述べるのでございます。月光の女は彼の理想像であったこと、つぶさにその口から聞いております。私に絡めた理想像でもあったと申せない私ではございません。全面的でないとしても必ず一面においては私も加わっていると信じられるのでございます。

 「月光の女」については、文壇も非常に問題にしておりまして、「一たい誰なのか」と話し合っております。久米正雄は、

 「月光の女のなかで、芥川が、月光といふ言葉を、意識して、幾度かくりかへして使ったのは死に際して、過去の思ひ出の中に真に美しく感じた女に対し、愛慕の象徴として考へたものに逢ひない」

 と述べて居りますし、宇野浩二も、

 「私は、芥川が、それぞれ、芥川流の見方で、美しく感じた女を、みな、月光の女にしてしまったのではないかと考へるのである」

と述べております。「昭和三十年十月二十日発行。文芸春秋新社。芥川竜之介(上)」

 「月光の女」を最も問題にさせる作品は、芥川の「或阿呆の一生」でございまして、そこに出てくる四人の女性が数えられます。この四人の女性を同一の人物か、又は、四人が四人とも別々な人物か、どちらとも断言できる自信は誰にもございませず、今のうちに現存の関係人、小穴隆一、殖生愛石、大島理一郎、木崎伊作、滝井等を集めて一夕、非公開の座談会でも開いて、決定版を得ておきたいなどという問題にまでなっておりました。

 私は陰のかげの方にいてそれらを読み知り、誰も私の存在に気のついていないのを感じます。横須賀の家には芥川さんの方から、いつもやって来られたのですし、私どもから出かけて行ったり文壇的に知られるという行動はいっさい取っておりませんので、誰にも知られず、期間も短かいことなので解らないのも当然かも知れません。それでも機関学校での謝罪問題があったりして居りますから、少しそこらを押しひろげて行けば、たとえ小さくとも、私どもが存在しておりましたことから、何かは引き出せるのではございますまいか。芥川の恋人と言って、もしくは、芥川の対象になった女性と申しまして俗に名のあがっている人々には、松村みね子、岡本かの子などがあります。松村みね子は軽井沢の万平ホテルで、岡本かの子は鎌倉の雪の下ホテルH屋で会ったと言われて居りますが、こんなことは只の興味に過ぎないと宇野浩二は言っております。噂の女、謎の女は、みね子もかの子も歌人であり、歌人と言えばほんの噂の九条武子、柳原白蓮もみな歌人であるとも述べておりまして、世間的に名が挙げられているから、真のその人ではなかろうということでございましょう。こういうことは何の問題にもならないとも述べております。

 

[やぶちゃん注:この「㈥」は実は底本では重ねて「㈤」となっている。誤りと断じて特異的に訂した。なお、このパートは本「芥川龍之介の思い出」の最終章であるが、非常に長い(ページ数にして全体の三分の一強)ので、内容を勘案し、ここで切って注する。

「僕の最も好きな女性    田端居士」前章末に「その後、大正八、九年の何月号でございましたか、淑女画報に左のような文が載りました」とあるものである(下線太字やぶちゃん)。『淑女画報』は博文館が明治四五(一九一二)年四月創刊(同年は七月三十日に大正に改元)した婦人雑誌(終刊は昭和一八(一九四三)年四月)である。この箇所に就いては私は既に、『芥川龍之介 僕の好きな女/佐野花子「芥川龍之介の思い出」の芥川龍之介「僕の最も好きな女性」』で抜粋紹介をしているのであるが、実は「田端居士」の署名で「僕の最も好きな女性」という題名の随筆或いはアンケート記事は現行の全集には載らない(アンケート記事の場合は採録洩れがないとは言えず、絶対に存在しないとは言い難いが、それらも可能な限り渉猟したと思われる岩波新全集にも載らない(私は新字採用の同新全集を嫌悪しており、数巻のみを所持するだけであるが、それに基づいてリスト化された平成一二(二〇〇〇)年勉誠社刊「芥川龍之介作品事典」のアンケートにも載らない))。但し、これに酷似した題名で「芥川龍之介」書名の随筆「僕の好きな女」という作品が、大正九(一九二〇)年十月発行の雑誌『夫人倶樂部』創刊号に掲載されている。既に私のサイトで公開してあるが、短いので、以下に全文を引く(底本の旧全集は総ルビであるが、談話であるから、読みに確度はないので、一部の読みのみを附すにとどめてある)。なお、これは現行ではなく談話筆記である可能性が強い(ご覧の通り、末尾に『(談)』とある)。

   *

 

 僕の好きな女   芥川龍之介

 

 何しろ既に妻帶してゐる人間に、どんな女が好きか話せと云ふ、こりや註文の方が無理なんです。どうせ碌な事は話せないものと、前以て覺悟をして下さい。まづ何よりも先に美人――と云ふ所なんですが、どうもこの人こそ、正銘の美人だと思ふやうな女には遇つた事がないんです。誰(たれ)でもさうぢやないですかね。皆好(い)い加減な所に安住して、美人のレツテルを安賣りに貼つてゐるんぢやないですかね。その邊がどうも判然しないんですが、兎に角一世の美人と云ふのには一度も拝顏の榮を得てゐないんです。そりや一世の美人を得る爲だつたら、すべてを拗つても惜しくはないでせう。少くとも拗つ人の心もちはよくわかると思ひますがね。その代り一世(せい)の美人でなけりや、中々拗つ氣にやなれませんよ。しかし世間には二世か三世位(くらゐ)の美人の爲に、抛つ人だつて大勢ゐます。僕も實はいつ何時、その仲間にはひるかもわからない、と云ふのは一世の美人に惚れる事も眞理(しんり)だが、惚れると一世の美人に見えるのも眞理(だうり)に違ひないですからね、しかしいくら惚れた所で、一世の美人に見えるのは、精々二世か三世位の美人でせう。十世以上の美人がクレオパトラに見える事は、まあ僕には無ささうですね。何時か鎌倉の或自動車の運轉手が土地の藝者に迷つた揚句、女房を殺した事があつたでせう。その藝者を後に酒席で見たんですが、これがまづ十五世か十六世位な美人なんですね。あの位ぢや僕は女房でなくつても、其處にゐる猫でも殺しませんよ。一世の美人なら、文句はないでせうが、二世以下の美人となると、浮世繪風の美人よりは西洋人じみた美人の方がどつちかと云へばすきですね。但し西洋人じみたと云ふのは御化粧を云ふんぢやない、顏立ちを云ふんです。御化粧だけで好きになれるんなら、オペラの女優は皆好きになれますからね。序だから云ひますが、この頃は日本の女の顏が、だんだん西洋人じみて來るやうですね。あれは體格が好くなつたり、御化粧が然らしめたりするんでせうが、その外にも我々の眼の玉が、西洋人じみた美しさを見つける事が出來るやうに教育されて來たんでせう。確にありや外部的な原因ばかりぢやありませんよ。

 それからあまり實際的でない女が好きですが、――さう云ふより實際的でない方面にも理解のある女と云つた方が好(い)い。實際的でない女と云ふものは殆(ほとんど)ないやうですからね。少くとも大抵の女は皆實際的らしいぢやありませんか、或女が或小説家の作品が好きだと云ふから、――何、差支へがある譯ぢやありません。本名を云へば谷崎精二君の作品が好きだと云ふから、その理由を尋ねると、谷崎君は小説もうまいが、同時に又男振りが好(い)い癖に、堅さうな所が好いと云ふんです。つまりその女自身が夫を持つ場合には、谷崎君のやうな藝術趣味のある堅人(かたじん)が好いと云ふ事なんです。こりやほんの一例ですが、仔細に氣をつけて見ると、どうも女は心臓が算盤珠(そろばんだま)の恰好(かくかう)に似てゐさうな氣がするんですね。そりや女が男に欺されると云ふ場合だつて多いでせう。しかしそんな事があつたつて、女が實際的でないと云ふ證據にや全然なりやしません。精々或女が或男より實際的でないと云ふ位ですね。それさへ事によると疑問かも知れませんよ。まあそんな事はどうでも好いが、さう云ふ實際的な女なるものゝ中でも、前に云つた通り實際的以外の方面にも理解のある女が好きなんです。さうかと云つて婦人雜誌の口繪に、短册を持つて立つてゐたり何かする、あゝ云ふ女史は落第なんです。あれ程藥の利きすぎない、森先生の安井夫人と云ふ歷史小説の女主人公のやうな、際物(きはもの)じみない女が好(い)いんですね。殊にさう云ふ人で、しつとり心に沾(うるほ)ひのある、優しい氣立ての人だつたら、何、五世か六世位の美人でも有難く御説を拝聽します。

 今云つたやうな内外(ないぐわい)の美が具(そなは)つてゐる人があつたらそりや僕もきつと惚れるでせう。惚れると云ふんで思ひ出したが、スタンダアルの「愛(ド・ラアムウル)」[やぶちゃん注:(ド・ラアムウル)はルビ。]と云ふ本に惚れ方を大別して、ウエルテル式とドン・ジユアン式と二つ擧げてありますね。勿論ア・ラ・ウエルテルと云ふのは、一人の女に惚れこむので、ア・ラ・ドンジユアンと云ふのは大勢の女を片つ端から征服して行くんです。僕は僕自身考へて見ると、どうも兩方の傾向があるやうなんですが、こりや僕ばかりぢやない、男は大抵さうなのかも知れませんね。尤も僕の友達の久米正雄君なんぞは、可成(かなり)ウエルテル式のやうです。そこでどうでせう。女の讀者に人氣のある小説家は、少くともその作品に現れた作者の惚れ方が、皆ウエルテル式ぢやないですか。(但し日本だけですよ。)どうもさうらしいやうですね。前に女は實際的だと云つたが、――さうなると又話が長くなるから、この邊でやめて置きますがね。ウエルテル式にしても、ドン・ジユアン式にしても、兎に角僕なぞは惚れる事に消化器の狀態が關係してゐるのは、動かすべからざる事實ですよ、少し位惚れたと思つても、腹具合が好くつて、ぐつすり眠られる時は大抵二晩か三晩位すると、けろりと忘れてしまひますからね。そんな事を考へると聊か寂しくなりますよ。ミユツセやハイネを探したつて、胃袋と戀なぞと云ふ殺風景な詩は、恐らく一つだつてありやしますまい。藝術にも天才が必要なやうに惚れるのにもきつと天才が必要なんでせうね。それなら僕は惚れる方ぢや、どうも下根(げこん)の凡夫のやうです。 (談)

   *

ご覧の通り、凡そ内容は全く以って一致しない。

 佐野花子が言う「田端居士」の署名で「僕の最も好きな女性」という題名の文章(アンケートへの答えの感が強い)が、今後、どこかの雑誌から発見されることを願うものである(「佐野さん」同様、私は『淑女画報』のバック・ナンバーを縦覧したわけではないことは申し添えておく)。

 これは皮肉ではない。これが佐野花子によって創作された架空の文章であるかどうかは私には断定出来ない。しかも私は、この花子の示した「田端居士」の署名で「僕の最も好きな女性」という題名の文章自体は、芥川龍之介が書いたとして、少しもおかしくない文章だとさえ感じているのである。それは私が佐野花子の肩をなるべく持ってやりたいと感ずる人種だからである。それは――芥川龍之介を愛する等価の義務として――である

「私は彼に好感を持たれていたのだ、愛されていたのだ、どうしようもないほど愛されていたのだ」「彼の口から洩れ出た私への思慕のことばは、別に嘘ではなかったのだ」「社交辞令と受け流していたのは私で、本気で言っていたのは彼だったのだ」「私は彼のテストで受けていた」「というのは、彼に問いかけられた愛の倫理の中で、至極、道徳的な判断と世間並みの解答しか与えなかった私を突き放し、あの地を去り、そして交際を断ち、夫を憎み、私への思慕を残して一片のハガキすら呉れないのだ」ある種の精神科医ならば、恐らくこれを病跡学的に、典型的な関係妄想の様態であると断ずるかも知れぬ。しかし、私は百歩譲って、これが花子のなかの関係妄想であったとしても、では、芥川龍之介はここに書かれているような恋愛感情や誘惑染みた問いかけを彼女にしなかったかといえば、明確に「否」と答える龍之介は花子に恋愛感情を抱いていたことは明白であると私は断言するものである。

『昭和二年七月二十四日の朝刊において「芥川龍之介謎の自殺」を知った』これは昭和二(一九二七)年七月二十五日の誤認である。芥川龍之介の自殺は確かに二十四日未明であったが、この日の朝刊には報知は無論間に合わず(自殺の公表は同日の夜、午後九時。親族が反対したものの、久米正雄の説得により、貸席「竹むら」で久米が或舊友へ送る手記」を発表、それを以って自殺が公にされたものである)、しかもこの日は日曜日であり、夕刊はなく(死亡の報知だけならば、そこで公表はあったかも知れない)、自殺の報道は翌日の朝刊となったからである。因みに、画像で見ると、

『東京日日新聞』の同日朝刊のトップ見出しは、

『文壇の雄芥川龍之介氏』/『死を讃美して自殺す』/『昨曉睡眠劑を呑んで』/『夫人親友らに遺書を殘し』/『一般自殺者の心理を詳細に認む』(最後は「したたむ」であろう)

『東京朝日新聞』の同日朝刊のトップ見出しは、

『芥川龍之介氏』/『劇藥自殺を遂ぐ』/『昨晩、瀧野川の自宅で』/『遺書四通を殘す』(「瀧野川」「たきのがわ」で当時、田端が含まれていた町名)

である。

「仰向けの死顔の写真も掲載されている」「こういう最後の顔を写真で見ようとは」盟友の画家小穴隆一が描いたデス・マスクでスケッチ画。狭義の写真(フィルム)ではないので注意。上記『東京日日新聞』朝刊に掲載されてある。

「小穴隆一、久米正雄、菊池寛らが死の床を取り巻いている写真」これは確かに写真(上記二紙ともに載る)であるが、芥川龍之介の「死の床」は誤認で、「竹むら」での久米によって「或舊友へ送る手記」が部屋の中央で読み上げられ、その周囲に友人らが居るという一枚である。

「自殺をしたという女学生もあったと報道されました」不詳であるが、あっても当然の如くおかしくない。

「の芥川に私の面影は抱かれたままになったと思いました。確かにそういうところがあったと思いました」非常に意味深長な言葉である。事実、花子はそう思ったのだ、と私も思う。

「病床に臥すようになって」花子はその後、結核に罹患している。

「芥川の作品の端々には何かほのかに顕って来る月のひかりがあって、つめたく白いまぼろしが見えるように思えるのです。女性を描くとき口癖のように<昼の光の中でも月光の中にいるやうだった>と述べるのでございます。月光の女は彼の理想像であったこと、つぶさにその口から聞いております。私に絡めた理想像でもあったと申せない私ではございません。全面的でないとしても必ず一面においては私も加わっていると信じられるのでございます」これは非常に重要な箇所である。そうして私はここに何らの妄想も感じない私が女で、芥川龍之介とかくも親交があったならば、「月光の女は」「私に絡めた理想像でもあったと申せない私ではございません。全面的でないとしても必ず一面においては私も加わっていると信じられるのでございます」と確かに思いたいし、思うであろう。しかもここで花子は「月光の女は彼の理想像であったこと」を「つぶさにその」芥川龍之介自身の「口から聞いて」いると証言しているではないか。これのどこが危ない妄想であろうか!

『久米正雄は、/「月光の女のなかで、芥川が、月光といふ言葉を、意識して、幾度かくりかへして使ったのは死に際して、過去の思ひ出の中に真に美しく感じた女に対し、愛慕の象徴として考へたものに逢ひない」/と述べて居ります』花子は、これを次に示す宇野浩二の「芥川龍之介」(昭和三〇(一九五五)年十月文芸春秋新社刊。これは昭和二六(一九五一)年九月から同二七(一九五二)年十一月までの『文学界』に一年三ヶ月に及ぶ長期に連載されたものに、後に作者がさらに手を加えたもの)の上巻の「十一」から孫引きしたものと判断する。ここ。リンク先は私のブログ版電子テクスト注で、全文はサイトHTML版の上巻下巻で読める。縦書も用意してあるので、どうぞ。当該箇所とそれに続く宇野の見解を引いておく(傍点「ヽ」は太字に変えた。下線やぶちゃん)。

   *

 さて、前の章で、『或阿呆の一生』の中に出てくる女は三四人ぐらい、と述べたが、久米が、『月光の女』のなかで、芥川が、月光という言葉を、意識して、幾度かくりかえして使ったのは、「死に際して、過去の思ひ出の中に真に美しく感じた女に対し、愛慕の象徴として考へたものに違ひない、」と述べているが、私は、芥川が、それぞれ、芥川流の見方で、美しく感じた女を、みな、月光の女にしてしまったのではないか、と考えるのである

 それから、久米は、また、おなじ文章のなかで、その相手は、四章にわかれて書かれているから、「読者はひよつとすると、この四人が四人とも同じ人の摸写だと思ふかも知れないが、――それが私の最も危険な独断だらうが、実に、四人が四人とも、全く別な人だと思へるのだ。そして其の一々(いちいち)に、多少思ひ当る筋があるのだ。但しその推定人物が、実際に当つてゐるかどうかは私に取つても全幅の自信はなく、実はひそかに私の企画で、今のうちに現存の関係人、小谷隆之、殖生愛石、大島理一郎、木崎伊作、滝井等を集め、一夕、非公開の座談でも開いて、此のおせつかいな決定版を得ておきたいやうな気もするが、この顔ぶれに失礼だが、信輔夫人とそれから彼の最も近親の、藤蔓俊三氏を加へて、あの『痴人の生涯』の全部にわたり、検討を加へておく事も、一つの傷(きず)いた大正作家の文芸史であらうかと考へる、」と述べている。

 これには私も大賛成である。それは、「今のうちに現存の関係人」と述べた当人の久米がなくなくなつた今、久米の遺言どおり、小穴隆一、室生犀星、小島政二郎、佐佐木茂索、滝井孝作のほかに、芥川夫人と葛巻義敏を加えて、非公開でなく、『或阿呆の一生』の全部にわたって検討を加える、公開の座談を是非(ぜひ)ひらくべきである。そうして、それは芥川ともっとも縁故の深かった「文藝春秋」が進んでもよおすベきであろう。そうして、もしそういう座談会が実現されたら、(実現されたら、である、)佐藤春夫と私もその末席に加(くわ)えてほしい。

   *

以上の、久米の「月光の女」(昭和二六(一九五一)年一月発行の『中央公論 文藝特集』初出)は、私は未見であるが、芥川龍之介の実録物でありながら、ご覧の通り、登場人物名を変名にしてある(後注参照)。

『宇野浩二も、/「私は、芥川が、それぞれ、芥川流の見方で、美しく感じた女を、みな、月光の女にしてしまったのではないかと考へるのである」/と述べております』前注引用の二つ目の下線部参照。

「殖生愛石、大島理一郎、木崎伊作、滝井等を集めて一夕、非公開の座談会でも開いて、決定版を得ておきたいなどという問題にまでなっておりました」前注引用の三つ目及び四目の下線部を参照されたい。これは「殖生愛石」が「室生犀星」、「大島理一郎」が「小島政二郎」、「木崎伊作」が「佐佐木茂索」、「滝井」が滝井孝作のことである。

「私は陰のかげの方にいてそれらを読み知り、誰も私の存在に気のついていないのを感じます」――いいえ、花子さん、少なくとも私は、気がついていましたよ、そうして、これからもずっと、貴女を芥川龍之介の思い人「月光の女」たちの「一人」として数え続けますよ、花子さん――

「機関学校での謝罪問題があったりして居りますから、少しそこらを押しひろげて行けば、たとえ小さくとも、私どもが存在しておりましたことから、何かは引き出せるのではございますまいか」……そうですね、花子さん、まさに、その通りですね、しかし何故か、沢山の芥川龍之介のアカデミズムの専門学者や在野研究家がいるのに(最近では中国人の優れた芥川龍之介研究の学者までいるのですよ)、だのに、誰一人として、それを発掘出来ないんですよ、それって、実におかしなことですよね、花子さん……

「松村みね子」芥川龍之介の最後の思い人であったアイルランド文学者で歌人であった片山廣子(明治一一(一八七八)年~昭和三二(一九五七)年)のペン・ネーム。私は彼女を追い続けている。私の彼女の電子テクスト群や、私のブログ・カテゴリ「片山廣子」を参照されたい。芥川龍之介より十四年上阿呆一生の(リンク先は私の古い電子テクスト)、

 

       三十七 越し人

 

 彼は彼と才力(さいりよく)の上にも格鬪出來る女に遭遇した。が、「越し人(びと)」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍(こゞ)つた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

 

   風に舞ひたるすげ笠(がさ)の

   何かは道に落ちざらん

   わが名はいかで惜しむべき

   惜しむは君が名のみとよ。

 

は片山廣子である。廣子は明らかに芥川龍之介にとって最後にして最愛の「月光の女」であったと私は信じて疑わない。但し、それを話し出すとエンドレスになってしまうし、何より、花子さんが妬くだろうから、これまでとする。

「岡本かの子」小説家で歌人の岡本かの子(明治二二(一八八九)年~昭和一四(一九三九)年)。芥川龍之介より三つ年上。芥川龍之介をモデルとした実録風小説「鶴は病みき」(昭和一一(一九三六)年六月号『文學界』初出。リンク先は「青空文庫」)で知られ、作家仲間として親しくは付き合ったが、私は彼女は「月光の女」の一人どころか、龍之介は一度として彼女に惹かれたことはなかったと断言出来る。少なくとも、彼女は芥川龍之介の好みの女性では、全く、ない

「松村みね子は軽井沢の万平ホテルで」「会った」私は芥川龍之介と片山廣子の密会について、軽井沢の万平ホテルで実地に調査し、変奏曲片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲という評論をかつて(二〇〇九年)書いた(藪野唯至名義)。未見の方は是非、お読みあれかし。

「岡本かの子は鎌倉の雪の下ホテルH屋で会った」先に注した小説「鶴は病みき」(リンク先は「青空文庫」)を参照。鎌倉駅西口直近にあった平野屋別荘。かの子が同宿したのは、大正十二(一九二三)年八月。

「こんなことは只の興味に過ぎないと宇野浩二は言っております」先と同じ「芥川龍之介」の「十一」の。以下の引用しておく(下線やぶちゃん)。先に私が引いた阿呆一生の「三十七 越し人」を引用した後、

   *

 つまり、久米の考えは、この『越し人』は、大方(おおかた)の意見によると、松村みね子夫人が「殆んど確定的」であるが、しかし、「確定的」というだけで、岡本かの子とも見られるところがあるから、これを「確認しておく必要が多分にあるかも知れない、」というのである。

 ところで、私も、「確認しておく必要」はある、とは思うけれど、私は『確認』などなかなか出来ない、と考えるのである。ところが、いずれにしても、おもしろいのは、芥川は、松村みね子とは、軽井沢の万平ホテルで、逢っており、岡本かの子とは、鎌倉の雪の下ホテルH屋[註―かの子の『鶴は病みき』による]で、何日間か、となりの部屋で、同宿している事である。が、しかし、こういう事は、唯の興味のようなものである。興味といえば、時の人の謎の女(つまり、小穴のS女史)も、この、みね子も、かの子も、みな、歌人であり、噂だけでいえば、ほんの噂の、九条武子も、柳原白蓮も、また、歌人である事などである。が、こういう事は何の問題にもならない

   *

なお、厳密に言えば「となりの部屋」ではなく、庭を隔てた向いの部屋であった。因みに「S女史」とは、かの芥川龍之介を終生悩ませた、最初の不倫相手で歌人の秀しげ子のこと。

「九条武子」(明治二〇(一八八七)年~昭和三(一九二八)年)は教育者で歌人。才色兼備として持て囃され、柳原白蓮(次注参照)・江木欣々(えぎきんきん:芸妓)とともに「大正三美人」と称された。仏教系の京都女子専門学校(現在の京都女子学園、京都女子大学)の創立者としても知られる。芥川龍之介より五つ年上。

「柳原白蓮」(明治一八(一八八五)年~昭和四二(一九六七)年)は歌人。大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、恋に生きた女として有名。芥川龍之介の妻文が晩年、龍之介の自殺願望を知り、監視を兼ねて依頼して近づけさせた幼馴染み平松麻素子(ますこ)の師で、自死の年の四月、龍之介がこの平松と心中を帝国ホテルで企てた際(但し、これは龍之介の自棄的発作的企画であり、私は龍之介は平松を必ずしも愛していなかったのではないとさえ考えている。実は私は平松を「月光に女」の一人として数えるのさえ、やや躊躇を感じるぐらいである)、白蓮が止めに入って事なきを得たことを、白蓮自身が龍之介の死後に回想している。芥川龍之介より七つ年上。

「ほんの噂もみな歌人であるとも述べておりまして、世間的に名が挙げられているから、真のその人ではなかろうということでございましょう」前二者(九条と柳原)の女性は芥川龍之介との関係が「ほんの噂」として取り上げられたことは確かに事実としてあるが、それは私も「只の」世人の「興味」本位のガセネタに過ぎないと私も認識しており、少しも彼女らを「月光の女」の候補に入れようなどと考えたことは、一度として、ない。特に私は実は柳原白蓮は生理的に受けつけられない厭なタイプに女性である。

「こういうことは何の問題にもならないとも述べております」宇野浩二が、である。先の引用下線部を参照のこと。]

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