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2016/11/06

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (五)~その1

 

       ㈤

 

 彼を神経質な人と私は申しましたが、その上に影のような暗さが尾を引いていると思うことは、やはり拭い去れない事実でございました。

 「煙草と悪魔」を携えて、或る宵のこと、暗欝な表情で彼はやって参りました。当方からお招きしたのでございましたが、丁度、すぐ、雨になりました。濡れないで来られたこと喜ぶでもなく、窓際へ行ってガラスに顔を押しつけて外を見ていられますが、灯を背にした彼は、ひどく力なく肩を落して、からだ全体で泣いているかのように見えるのでございます。私はなぜか、ドキンと胸を打たれて、それでも牛鍋の用意や燗の仕たくにまぎらしておりました。

 「もう、何でも構わず結婚してしまおうかと思うのですよ」

と彼は座に返って来て言いました。極めて難かしいことをいう彼に、いよいよ理想の婦人が見つかったのであろうと喜ぶには、なんと暗いことば、暗い表情でありましたろう。

 「ぼくは、それに、どうも神経衰弱で」

とも言うのです。

 「それは、早く美しい奥様をお迎えになればよいことなのですわ。お可愛らしいお子様もできてごらん遊ばせ。神経衰弱なんてものは飛んでってしまいますよ。家庭の楽しみというものは、あなたのように孤独な方が思っていらっしゃるより、ずっとあたたかいものでございましてよ」

と、私はお酒をすすめながら申します。夫も同じ考えですから、

 「そうとも。そうとも。ぼくだって三十まで独身でいて、下宿生活をしていたので、それで言えることなんだが、結婚すると、その今までの空虚だった心が薄らいで行くのは妙なものなんですよ」

 すると、彼は力ない中にも元気をしぼるふうで、

 「そら。そこのところですよ。あの頃、ぼく、小町園で申し上げたでしょう?あのことばね。まさに適中ですよ。あなた方のご結婚が非常によいご結婚だったから、このようなよい結果が生まれたんですよ。それは確実ですね。しみじみ佐野君のために喜んでるのです」

 相手のしあわせを祝し、同時に自分の将来を計算して力の出しようのない様子に見えるのを私は案じました。やはり、さきほどのことば通り、進まぬ気持ちで、周囲に押され、とにかく、なんでもいいから結婚してやろうと思っているようでした。その証拠に、次のようなことを彼は申しました。

 「結婚後、自分の理想とまったく相反した状態になったら」

と、口を切って、

 「ああ」

と、ためいきを洩らし、そして一気に言いつづけたのです。

 「あなた方はおしあわせですね。ぼくが、もし、結婚したとして、その婦人がことごとに自分の気に入らなかった場合、実に悲惨ですね。ぼくは果たして恵まれた家庭を持てるのでしょうか」

 「どうしてそういうふうにお考えになりますの?そんなことはありません。あってはいけません。あなたの奥様になりたい人は、一ぱいなのですもの。候補者が山ほどあって、選択にお困りなのでしょう。早くいい奥様をお持ち遊ばせ。そして今度は私ども笑いに羨やましがらせて下さいまし。そして、一そう近しくしていただきたいのが、私どもの願いでございますもの。こちら二人で、芥川様がお一人でいらしては、物足りなくていけせんものね」

 夫もこれに相槌を打って励ましたのですが彼はそれでも沈んでいたのでございます。私は気を引き立てるようにつとめ、

 「お決め遊ばす方、なんというお名前の方でいらっしゃいますの?」

と伺ってみましたが、お答え下さいませんでした。ただ、

 「ぼくは新婚旅行は、あなた方のように箱根へ行きますよ。箱根はいいですね。結婚したら、家内には奥さんから和歌を仕込んでいただきましょう。今からお願いしておきます」

 冗談も、まじめともつかぬ大仰な申し出で、私はびっくりするほどでしたけれど、ようやくこの宵のふんいきは微笑を生み、楽しさを呼んだようでございました。けれどもやはり哀感を伴う影がありまして、お帰りになるうしろ姿も初めのときのように寂しいものでした。

 その後、彼は私ども夫婦の住んでいる海岸の近くに居を転じました。学校も近くなった場所で、その家を探しましたのは私でした。彼のため、よいところをと一心に探し当てました。

 しかし、やがて私は初産も軽く、母となり、彼は彼で、美しい婦人を娶り、新居は更に鎌倉に構えられました。

 新夫人を伴った彼の訪問を受けたのも、まだ私の産褥中でありましたので、夫だけが、にこにことして彼らを迎えましたのです。私の初産のため郷里から出て来た母は、私に代わって何くれとなくもてなしていました。夫と母とは美しい客を送り出してのち、私の枕元へ参りまして、口を揃えて、お似合いのご夫婦だというのです。母などはすっかり感動してしまいまして、

 「まあ。なんてご立派なご夫婦でしょう。信州などではとても見られませんよ。だんな様はお背が高く、すっきりとした瘦せ型。ハイカラというのは、ああいうふうを申すのでしょうね。奥様は、また、ふくよかな本当に美しい方。お似合いですとも」

 私は嬉しいような悲しいような涙ぐましさを覚えました。いよいよ芥川さんも結婚なさったのだわ。そして、自分は母になったと何か一安堵の思いで眼を閉じたのです。

 

 汲み交はすその盃に千代かけて君がみ幸を寿ぎまつる  花子

 

 とはそのときの胸中に浮かんだ歌でございました。

 或る日、帰宅した夫は、今度は当方から芥川君の新居をお祝いかたがた訪問することにして来たと申しました。私は子供連れでたいへんだからと、ためらっては見ましたもののやはり夫の意見に従い、出かけることにいたしました。

 新居は松原を背に茂る青葉に包まれた小ぎれいな構えでございました。門辺には大きな芭蕉の葉がそよいでおりました。

彼は私ども一家揃っての訪問を心から待ち受けて呉れておりました。新夫人も初めての挨拶を私に与えられ、都育ちのあでやかさを清楚に整えた初々しさで若紫ということばにも例えたい佳人でいられました。この新妻のもてなし振りに私はすっかり嬉しくなり、しまいには初対面ということも忘れて寛いでおりました。私の田舎育ちの荒さや、女学校時代のスパルタ教育の名残りがどこかに出るようで、注意をしながらもはしゃいでしまうのです。彼の方は今日の訪問客のために髪を洗い、仕立て下ろしの浴衣を着て、すがすがしさを身につけた感じでした。若主人振りを私は心中まことに可愛らしいと思ったのです。

 「実は今日、親友、久米正雄をご紹介しようと思いましてね。もうすぐ来ることになっているんですよ。どうぞ、夕方までおくつろぎ下さい。赤ちゃんは女中さんと海岸へでもおやりになっては如何ですか。うちの女中もお伴させますよ」

と、しきりに引きとめられたのですが、子供連れであり、初めての外出でございましたので、名残り惜しくも、頃よい時に辞去することになりました。

 考えればこのときが、あとにも先にも、私にとっては彼を訪う一度の日だったのです。

 ついでに思い出を書きますと、このとき、彼から贈られた初着は、男の子の柄ですから如何にも、すかっとした、見立てのよいもので、私自身がすっかり気に入り、実は、主人を通して彼の承諾も得てありましたが、私の羽織の裏に使わせていただくことになったのです。

 機関学校では各々に子供誕生の折りには、初着用三丈の布を贈り合うことになっていたのです。彼もその規則にしたがって、彼自身の見立てで贈ってくれたのでございました。

 また、当方からのお返しには、お盆をそれぞれ送りましたが、まだ、独身の彼のみは、お盆でも困るだろうとの話が、うちうちに交わされまして、主人と私で、お誘いかたがた横須賀の町でご馳走し、「さいか屋」という店で財布を買って差し上げ喜ばれました。財布は使って下さった由。羽織裏は長く、色あせるまで使用いたしました…………。

 彼はそれから創作一路に東京へ去って行きました。

 

 帰らなんいさ草の庵は春の風  龍之介

 

 墨痕あざやかにしたためられた、彼の愛著<傀儡師>を記念にと私に手渡して行きました。遠く離れる儚なさを私は悲しみましたけれど、彼の前途のため、それは祝うべきことであると思いきめましたのです。

 「啓。その後暫らくごぶさたしました。皆さん。お変わりもございませんか。私は毎日、甚だ閑寂な生活をしています。時々、いろんな人間が遊びに来ては気焰をあげたり、のろけたりして行きます。ところで横須賀の女学校を昨年か一昨年に卒業したのに岩村京子という婦人がおりましょうか。これは奥様に伺うのです。もし、居たとすれば、容貌人物など大体を知りたいのですが、いかがでしょう。手前勝手ながら当方の名前が出ない範囲でお調べ下さればあり難いと存じます。

 

 この頃や戯作三昧花曇り  龍之介」

 

という彼の通信に接し、私は真心をもって、調査に当たりました。そして、彼の悠々自適の生活を心から礼讃し祝福した手紙を夫と共にしたためて送ったのでございました。

 この調査の要は何のためであったか、そのままに知らず過ぎてしまいました。が、とにかく、遠く離れても、私どもは彼に寄せる手紙によって、また、彼から来る手紙によって彼との交友の深まりを願い、特別の心情をねがうばかりでした。それゆえ、かえって、この交際は末長くつづくであろうことを確信しておりましたのです。

 

 心より心に通ふ道ありきこの長月の空の遙けさ 花子

 

 とは、その当時の私の心境を歌ったものでございます。

 彼が少し健康を害したことがありまして、私どもは案じて見舞状を出したこともございました。

 「お見舞ありがとうございます。煙草をのみ過ぎたことが、わざわいして咽喉を害し甚だ困却しています。しかし、もう大部よろしい方ですから、はばかり乍らご休心下さい。

 

 病間やいつか春日も庭の松  龍之介」

 

という返事をもらって胸なでおろす私でもございました。

 その後、彼から男子出生の吉報を得て私どもは、取り敢えず、その町における最上という赤ん坊の帽子と、よだれ掛けを心祝いに贈りました。応えて、あの可憐な夫人より丁重な礼状が届けられましたが、不思議なことにそれきり、まったく、それきり、私どもの寄せる音信にも、なしのつぶての、たった一度の返信さえも来なくなってしまいましたのです。一たい、これは、どうしたことでございましょうか。何か自分たちに落ち度でもあったのではないか、失礼なことでもしたのではないかと、いくら考えて見ても更に解らないのでございました。なんとしても腑に落ちないことでございました。

 突然に音信の絶えたこと、いろいろに考えあぐねて見ますが、夫は、ただ、創作生活一本にはいって、創作に忙しいのだろうと、あっさりしておりますが、私の方は、どうにも収まらない気持ちで一ぱいになるのです。

 つきつめて考えれば、私も彼を好きでたまらないわけでございました。今までの心的交友のあり方が、私の心を高揚した友情に慣れさせ、急に外されると、どうしてよいか解らない気持ちにさせました。こうなって初めて私は友人として彼をどのように好きであったかを知りました。ユーモアと機智に富んだ話し振りや、薄く引き締まった唇。長い睫の奥に輝く漆黒の瞳。時には、じっと見つめる面ざしの、はかり知れぬ深さ、対座していると、どうにも引き入れられずには居られなかったのでした。

 「奥さん」

と声を掛けられると、無口な私も一心になって、身構えして太刀打ちすべく彼に向ったものでした。うっかりしていると、きらりと刺されそうな恐れに対しての身構えでした。

 「奥さんには適いません。インテレクチュアルですから奥さんは」

と勝利の上にいても彼は冷かすように私をほめるのを忘れませんでした。

 私が丸髷に結って見た折り、彼は来訪して来たことがあり、それをたいへんにほめまして、夫にも、

 「佐野君。ぼくなら丸髷に結わせるためにも、女学校の教師などは止めさせますがね」

と言いました。午前中だけ町の女学校に教えに行くのさえ、あまりお気に入らなかったようです。……とにかく音信の絶えたこと……。

 今こそ打ちのめされた思いでした。それから時が流れ年が逝き、夫も外遊をして、約束のステッキは買って来ましたものの、手渡すこともできない間柄になってしまったのを、どうしようもありませんでした。それほど絶えて音信も友交関係も切れてしまいましたのです。境遇が変わったことが、まず第一の条件でもありましょうか。すっかり先方は専門家の生活環境にはいられたのですから。それにしても年賀状一枚来なくなってしまいました。

 

[やぶちゃん注:ここは本「芥川龍之介の思い出」の「㈣」の中間点(より少しだけ後ろ)であるが、この直後に非常に重大な事件が発生する転換点があるので、特異的にここで注を挟むこととする(文章は実際には空行もなく、上記の段落の後、改行して「或る、それは冬の日のことでした。私は火鉢に寄りながら雑誌をひもといていました。」(改行)「ふと、私は一文を読んだのです。そして、再三読み返したのです。繰り返し、繰り返し読みました。そして、流れ出る涙を押えることができなかったのでした。」と、そのまま続いている)

「煙草と悪魔」前の「㈢」で注した通り、これは大正六(一九一七)年十一月十日刊行(新潮社)の第二作品集「煙草と悪魔」の佐野慶造への献本で、その見返しに芥川龍之介自筆の前書附きの三句(「龍之介」の署名もある)が載る(これも前に述べたが、この三句は他に類型句のない驚天動地の新発見句であり、その筆跡は明らかに龍之介のものである)。底本の冒頭写真版で現認出来る。因みに、同作品集の所収作品は「煙草と惡魔」「或日の大石藏之助」「野呂松人形」「さまよへる猶太人」「ひよつとこ」「二つの手紙」「道祖問答」「Mensura Zoili」「父」「煙管」「片戀」の十一篇である。最後の「片戀」(かたこひ)は飲み屋の女中「お德」が「活動寫眞」(映画)の俳優に片思いを抱いたという小品(芥川龍之介と思しい「自分」が「京濱電車」の中で「親しい友」と逢い、そこで彼が語った話という設定)であるが、私はその末尾で「お德」の謂ったと言う台詞、『みんな消えてしまつたんです。消えて儚くなりにけりか。どうせ何でもそうしたもんね。』、それを友人が「これだけ聞くと、大に悟つてゐるらしいが、お德は泣き笑ひをしながら、僕にいや味でも云ふような調子で、こう云うんだ。あいつは惡くすると君、ヒステリイだぜ。」「だが、ヒステリイにしても、いやに眞劍な所があつたつけ。事によると、寫眞に惚れたと云ふのは作り話で、ほんとうは誰か我々の連中に片戀をした事があるのかも知れない。」と語る末尾を、私は何故か、ここでふと、思い出した。この後の方で花子が「遠く離れる儚なさを私は悲しみました」というのと響き合うような気がしたから。「片戀」は大正六(一九一七)年十月発行の『文章世界』を初出とするが、作品末には『六、九、十七』のクレジットがあり、これは実に芥川龍之介が横須賀に転居した三日目に当たる

「そら。そこのところですよ。あの頃、ぼく、小町園で申し上げたでしょう?あのことばね。まさに適中ですよ。あなた方のご結婚が非常によいご結婚だったから、このようなよい結果が生まれたんですよ。それは確実ですね。しみじみ佐野君のために喜んでるのです」これは「㈠」の小町園での、「さて、ご説明申し上げましょう。よい奥さんを持たれて羨やましい。心ひかれる女性だ……とこういう意味ですよ」という龍之介の言った言葉を指す。

「ぼくは新婚旅行は、あなた方のように箱根へ行きますよ」芥川龍之介は新婚旅行で箱根に行った記録はない。新婚旅行自体をしていない模様である。

「その後、彼は私ども夫婦の住んでいる海岸の近くに居を転じました。学校も近くなった場所で、その家を探しましたのは私でした。彼のため、よいところをと一心に探し当てました」「その後」とあるのは記憶違いであろう。芥川龍之介が鎌倉から転居し、横須賀市汐入の資産家尾鷲梅吉方の二階の八畳に間借りしたのは、前注で示した通り、大正六(一九一七)年九月十四日で、「煙草と惡魔」の刊行は大正六(一九一七)年十一月十日だからである。作者用の出版前献本としても、二ヶ月前以前にそれが出版社から届けられ、それを贈呈した可能性は考え難いからである。なお、横須賀の間借り住居を花子が探したという事実は知られていないが、あっても当然で、自然なことである。

「彼は彼で、美しい婦人を娶り、新居は更に鎌倉に構えられました」文とは大正七(一九一八)年二月二日(龍之介は満二十五(彼の誕生日は三月一日)、文は満十七)で田端の自宅で式を挙げ、自宅近くの「天然自笑軒」という会席料理屋で披露宴をしているが、佐野夫妻は出席していない(呼ばれていない)ものと思われる。なお、これは花子が出産直後で、彼女が出ていないのは自然であるが、慶造は呼ばれてもおかしくないのに、出席していない様子なのは、やや解せない。二人が当時の鎌倉町大町字辻の小山別邸に新居を構え(女中と三人のみ)たのは一ヶ月後の三月九日である。因みにこの間、二月十三日に芥川龍之介は機関学校教官のまま、大阪毎日新聞社社友となっている(社の定額給与分(原稿料は別)は月額五十円であった)。

「私は嬉しいような悲しいような涙ぐましさを覚えました」産褥中とは言え、全く逢っていないのは少し不自然である気はするが、この感懐などは後発性のマタニティ・ブルーとして腑に落ちるし、直後に「いよいよ芥川さんも結婚なさったのだわ。そして、自分は母になったと何か一安堵の思いで眼を閉じたのです」と落ち着いており、言祝ぎの一首を胸中に詠むなど、特に奇異とは私には思われない。

「門辺には大きな芭蕉の葉がそよいでおりました」以前にも注で述べたが、私の父方の実家は川を挟んで、この小山別邸の向かいにある。小さな頃、その実家の川向うのに実際に私は芭蕉を確かに見た記憶があるのである。

「この新妻のもてなし振りに私はすっかり嬉しくなり、しまいには初対面ということも忘れて寛いでおりました。私の田舎育ちの荒さや、女学校時代のスパルタ教育の名残りがどこかに出るようで、注意をしながらもはしゃいでしまうのです」当時の花子は満二十三か二十二で、文より五、六歳年上である。

「実は今日、親友、久米正雄をご紹介しようと思いましてね」この時、花子は久米に逢わなくてよかったと心底、私は思う。久米正雄は漱石の長女筆子との失恋と筆禍事件などで判る通り、異様に女に惚れっぽい男で、美貌の花子に逢っていたら、とんでもないことになっていたのは火を見るより明らかだからである。鷺忠雄氏などは「作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊)で久米を『恋愛病患者』と断じてさえいる。

「彼から贈られた初着は、男の子の柄ですから如何にも、すかっとした、見立てのよいもので、私自身がすっかり気に入り、実は、主人を通して彼の承諾も得てありましたが、私の羽織の裏に使わせていただくことになったのです」これは、ごく当たり前のことである。私の産着も、亡き母は袱紗に仕立てて、亡くなるまで大事にしていた。

「三丈」着尺の一反に相当する。幅約三十七センチ、長さ約十二メートル五十センチほどが標準。正絹だと、かなりの値段がする。

「さいか屋」現在の「横須賀さいか屋」(現在の横須賀市大滝町にあるのは新館)ウィキの「さいか屋」(ここの創業者名表記には疑問があるので「ノート」に「創業者の表記について」の意見を書き込んでおいた)などによれば、創設者でかつての雑賀衆(さいかしゅう:鉄砲傭兵・地侍集団)の出自であった岡本伝兵衛が明治五(一八七二)年にここ横須賀本町に雑賀(さいか)屋呉服店を開業したのをルーツとする「さいか屋」の旧本店(後の吸収合併によって「川崎店」が本店となった)。因みに私は藤沢の「さいか屋」を幼少より贔屓としているが、お恥ずかしいことに、二十代の初めまで「さいかいや」とずっと発音し続けていたことをここに告白しておく。

「彼はそれから創作一路に東京へ去って行きました」芥川龍之介の海軍機関学校の退職は大正八(一九一九)年三月三十一日(二十八日が最後の授業。授業後職員室のストーブの中に出席簿や教科書などを放りこんで焼き捨てており、その幾分、尻をまくったような、さっぱりとした心境が次の詠となったとされる)で、翌四月二十八日に芥川龍之介は文とともに鎌倉を引き払い、終生の棲家となった田端の自宅に戻った

 

「帰らなんいさ草の庵は春の風  龍之介」表記はママ。「我鬼窟句抄」では、

 

歸らなんいざ草の庵は春の風   (學校をやめる)

 

とある。濁音を打たないのはごく当たり前のことで、誤りではない。

「墨痕あざやかにしたためられた、彼の愛著<傀儡師>を記念にと私に手渡して行きました」第三作品集「傀儡師」は大正八(一九一九)年一月十五日に新潮社から刊行されている。収録作品は「奉教人の死」「るしへる」「枯野抄」「開化の殺人」「蜘蛛の糸」「袈裟と盛遠」「或日の大石内藏之助」「首が落ちた話」「毛利先生」「戯作三昧」「地獄變」と名作揃いで、芥川龍之介の作品集中の白眉と呼んでよい。因みに、私は本作品集の「芥川龍之介作品集『傀儡師』やぶちゃん版(バーチャル・ウェブ版)」を公開している。是非、ご覧あれかし。

「啓。その後暫らくごぶさたしました。皆さん。お変わりもございませんか。私は毎日、甚だ閑寂な生活をしています。時々、いろんな人間が遊びに来ては気焰をあげたり、のろけたりして行きます。ところで横須賀の女学校を昨年か一昨年に卒業したのに岩村京子という婦人がおりましょうか。これは奥様に伺うのです。もし、居たとすれば、容貌人物など大体を知りたいのですが、いかがでしょう。手前勝手ながら当方の名前が出ない範囲でお調べ下さればあり難いと存じます。

 

 この頃や戯作三昧花曇り  龍之介」旧全集初書簡番号五三五。大正八年五月二十七日附で田端発信、佐野慶造宛。以下に示す。

   *

啓 御無沙汰致しました皆さん御變りもございませんか私は毎日甚閑寂な生活をしてゐます時々いろんな人間が遊びに來て気焰をあげたりのろけたりして行きます所で王橫須賀の女學校を昨年か一昨年卒業したのに岩村京子と云ふ婦人が居りませうかこれは奥樣に伺ふのですもし居たとすれば容貌人物等大體を知りたいのですが如何でせう手前勝手ながら當方の名前が出ない範圍で御調べ下さればあり難有いと存じます 以上

   この頃や戲作三昧花曇り

                 芥川龍之介

   佐 野 樣 侍曹

   *

「侍曹」は「じさう(じそう)」と読み、脇付の一つ。「傍(そば)に侍する者」の意で「侍史」に同じい。「岩本京子」不詳。但し、芥川龍之介の日記「我鬼窟日錄」の大正八年の五月二十六日(本手紙の前日である)の条の末尾に、「受信、南部、岩井京子、野口眞造」とある。恐らく、愛読者として何かを書き送ってきた文学少女であり、出身校が花子の勤めていた汐入の横須賀高等女学校卒であったことに由来する依頼であろう(リンク先は私の電子テクスト注)。「この頃や戲作三昧花曇り」の句は「餓鬼句抄」の大正七年のパートに、

 

この頃や戲作三昧花曇り   (人に答ふ)

 

と出る旧句である。因みに、彼の名篇「戲作三昧」はさらに遡る大正六(一九一七)年十月二十日から十一月四日まで『大阪毎日新聞』に連載されている。

「心より心に通ふ道ありきこの長月の空の遙けさ 花子」大正八年の長月、九月となると、これは花子の思いとはうらはらに、芥川龍之介は、この月、かの後に蛇蝎のように嫌悪することとなる歌人秀しげ子への恋慕が急発(初めて出逢ったのはこの年の六月)、肉体関係を持つも、急速に失望していった月であったのである。この花子の透明な一首は、その爛れきった龍之介を知ってしまっている私には限りなく、哀しいものとして響く。

「お見舞ありがとうございます。煙草をのみ過ぎたことが、わざわいして咽喉を害し甚だ困却しています。しかし、もう大部よろしい方ですから、はばかり乍らご休心下さい。

 

 病間やいつか春日も庭の松  龍之介」前の書簡の時制とは前後する(別に徒然に古い記憶を思い出しつつ記している花子を責めるのは全く当たらない)。旧全集初書簡番号四九八。大正八年二月二十六日附で田端発信、佐野慶造・花子宛。以下に示す。

   *

御見舞有難うございます日頃煙草をのみ過ぎた事が、祟つて咽喉を害し甚困却して居りますしかしもう大分よろしい方ですから乍憚御休心下さい

   病閒やいつか春日も庭の松  龍之介

   *

「病閒やいつか春日も庭の松」の句は同日発信の松岡讓宛(旧全集初書簡番号四九七)で、同じく、煙草の吸い過ぎで喉を害して、発熱気味の由の記載の後に、

 

春日既に幾日ぬらせし庭の松

 

と異形を示す。私は「病閒やいつか春日も庭の松」の方がいいと思う。

「その後、彼から男子出生の吉報を得て」芥川龍之介の長男比呂志は大正九(一九二〇)四月十日に出生している(戸籍上は学齢を考えてであろうか、三月三十日生まれとして戸籍に入籍されてある)。

「インテレクチュアル」“intellectual”は意志・感情に対して「知的な・知性の優れた・理知的な」の意。

「それから時が流れ年が逝き、夫も外遊をして、約束のステッキは買って来ましたものの、手渡すこともできない間柄になってしまったのを、どうしようもありませんでした」既注乍ら、クドく拘って再掲する。これが後に、本書の内容を素材とした、田中純の小説「二本のステッキ」(昭和三一(一九五六)年二月発行の『小説新潮』初出)の題名となる。私のブログ記事『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察 最終章』でも取り上げているが、来年二〇一七年一月一日午前零時零分を以って田中純に著作権が切れるので、来年早々には、このブログで「二本のステッキ」の全電子化をしようと考えている(TPPが国会で本年中に承認されようと、TPPの発効が行われない限り、著作権延長は出来ない)。]

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