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2016/11/02

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (二)

 

       ㈡

 

 或るとき、彼は青くなって詑びて来たことがございます。

 「あれは、ぼくの、しわざなんです。ひらにご容赦下さい」

というのは、私どもに何の覚えもないのに、或る朝の時事新聞に、私たちの結婚写真が載っていたのです。誰が出したのだろうと私どもは驚きました。まだ私は女学校の教鞭をとっていましたので、学校は生徒の声で大騒ぎ、ここしばらく当惑の日がつづいていたのでした。そこへ、彼はやって来て、実は自分のしたことだと白状したのです。

 「写真を机上に飾って、眺め眺めして喜んでいたぼくでしたがね。罪は、ぼくにあるんですが。時事新聞にいる例の悪友、菊池寛がやって来ましてね。写真を見るや、

 『出すから借せろ』

と言うんですよ。ぼくは、すみやかに思考をめぐらしました。よし。これは善行に非ずとも、決して悪事に非ず。佐野君におかれてはいざ知らず、奥さんにおかれては、喜び給うとも、よし憤激はなさるまじと、結論はこうなんです。よろしい。君、急ぎもって帰って一刻も早く、紙上に掲載し、満天下の紳士淑女を悩殺せしめよ。と、こういったしだいです。ぼくは、空吹く風と、すましているつもりでいました。ところが、当地の善友諸君の間に起こったセンセイションの甚だしさ。驚いたぼくの良心の苛責。実はぼくのしわざですと白状にまいりました。こうして、しおしおとお詫びに上がったしだい、平にご勘弁願います」

 「まあ。あれは芥川さまでしたの?」

と初めて解ったのでした。

 

 切りなづむ新妻ぶりや春の葱  龍之介

 

 この一句を贈られて、慶造もなお、彼を歓待すること常の如しでございました。

 彼の曰く、

 「ぼくは佐野君の相手が女教師だと聞いたとき、この温和な佐野君が、こわい女性と結婚して一たいどうなることかと衷心から心配したものですよ。ところが予期に反して、本当に安心しましたね。佐野君と奥さんと、どちらが幸福かなあ、と考えてみたりしましたが、学校の教官諸君は、よい奥さんが来て佐野君はしあわせだと言い、ぼくは、これほど心酔されてしまったところをみると、奥さんの方がより、しあわせかと思いますよ。ああしかし、どちらでもよい。同じことだ。ご両人のために乾杯ですね。この良きご家庭が、いや栄えますように」

 こうして祝杯をあげてもくれたのです。私どもばかりが、何だか、しあわせで、彼にわるいような気がするのはどういうものでしたでしょう。夫は言うのです。

 「龍ちゃん。それは、もう、有難う。だからそんなに人の観察ばかりしてないで、早く自分もいい奥さんをおもらいなさい。幾らもいるでしょうが」

 「さあ。そう言われるとたいへんだ。ぼくはこれで、なかなか難かしいんですよ。美人でなければだめ。そう、だめなんです。顔がいいばかりでもだめ。全体の均整がとれて恰も彫刻を見るが如くにありたいですね。それだけでもだめ。いつも愛の泉に浸っているような、そんなふうな細君でありたいものですよ」

 「だから、東京には幾らもいるでしょう」「いや。いや。東京の令嬢階級なんて大したことない。つまらないものですよ。それより奥さんに天真燭漫、素朴純真な田舎の令嬢をお世話して頂くかな」

というふうに逃げられるのでした。

 横須賀という狭い街の、機関学校などというおきまりのところに勤務するということは味気なく、つまらないものであったろうと思います。それに夫は最も同情し、加えて下宿生活の無味乾燥を、私の家庭の潤いでまぎらしてやろうという心組みが、いつも、あたたかく私に蓼み入り、私もそういうこころで、出来得るかぎり、ねぎらったつもりでございました。そして、話はどうしても彼の結婚をすすめるという方へ向かざるを得ません。早くご良縁をと口癖のように申していました。

 彼は或るとき、こういうことを問いかけてまいりました。

 「奥さん。もしもです。もしも、妻子ある男子が処女に恋するとか、青年の身で人妻に恋するとかいうことになった場合、一たいどうしたらよいと思われますか。ぼくは、このことを一度、奥さん尋ねて見たいと思っていました」

 「そんなこと難かしくて、私どもには、とても解りはいたしませんわ。あなたこそ、その方面のご専門でいらっしやるのですもの。私こそ教えて頂きたいと思いますわ」

 「いえ。そんなに難かしく、奥さんと議論しようと思って申し上げてはいません。ただご意見を伺いたいと言う迄です」

こういう問いかかけでしたけれども、私は女高師時代にも、文楽に出てくる小春のような女性、おさんのような女性についてどう思うか、というような研究質問をもって尾上柴舟先生が生徒らに、答えさせたわけですが、私は、どうも、いつも、順番を飛ばされるほど、そういう問題には無智だったのです。結婚してもなお、こういう問題に答えるすべをしらないものでしたから、しかたなく、

 「それは、あきらめるより仕方がないのではないでしょうか」

というしだいでした。

 「はあ。あきらめる。そうですか。しかし奥さん。それが非常に真剣なものであった場合、なお、どうしたらよいと思いますか」

 「そんなに真剣であったとしても、道徳というものが許しませんでしょう。あきらめるより仕方がありません」

 「あきらめる――あきらめきれるのですか。奥さんは偉いですね」

 「私だって、あきらめきれるかどうかわかりませんのよ。でもやっぱり仕方がないのではないでしょうか。深い仲になってしまえば人にはうしろ指をさされますし、社会からも葬り去られてしまいます。犠牲になる者も出ます。心中しても同じことですわ。二人はそれでよいかも知れませんが、あとに残った者達、親の嘆き、子の思い。夫の憤激。それだけでも大低のことではありません。いっそ、そんな恋などしない方がよろしいのではありませんの?」

 「ぼくは一たいどうしたらよいのでしょう。ぼくは一生独身でいようかしら。奥さんと同じ女性がいない限り、結婚してもつまらないと思うからですよ」

 そしてつけ加えて言うのを私は聞いており、今もひどく気になるのですが、

 「結婚しても、あなたを忘れることはないように思います」

ということばでございました。真実がこめられていたのかも知れません。私はあっさりと流していましたのです。

 夫は、また、はからって、私の和歌を彼に見て貰えとのことで、添削などを依頼したことがございましたが、結局、ことわりの宣告を受けるに至りました。はじめは承諾してくれたのですけれど、途中から、「もう見ることができなくなった」という理由でことわりを言われました。

 「感情上、批判ができなくなるのです。だから悪しからず」

 しかし、

 「ぼくは今まで、歌というもの、例の百人一首にしても、うわの空で読んでいました。ところが実にいいものがあるということを奥さんのお歌を見てから気づくようになったのです。『さしも知らじな燃ゆる思ひを』『昼は消えつつものをこそ思へ』などとね」

 そして、持てあましたように立ち去って行かれたのです。

     ○

 こう思い出を書いていて、読み返して見ては、どうも私のことに引きつけているようで気になりますが、ありのままのことなので、このまま書きつづけて参ります。

 

[やぶちゃん注:「或る朝の時事新聞に、私たちの結婚写真が載っていた」「時事新聞にいる例の悪友、菊池寛がやって来」て「『出すから借せろ』」佐野夫婦と芥川龍之介が懇意になった大正六(一九一七)年五月から同校退職(翌四月に大阪毎日新聞社客員社員となる)の大正八年三月三十一日の間、龍之介の盟友菊池寛は大正五(一九一六)年の京都帝国大学英文科を卒業後(龍之介と同年卒)、上京、実際に同年十月に時事新報社会部記者となっており、彼が時事新報社に在職していたのは大正八(一九一九)年二月までである(同年、彼はまさに芥川龍之介の紹介もあって同じ大阪毎日新聞社客員社員となっている)。従って、この花子の語る内容には事実措定上の齟齬はない但し、私は当時の「時事新報」を照覧したわけではないから、実際に佐野夫妻の夫婦の写真が掲載された事実があったのか、また、あったとすれば、それはどのような形、記事として掲載されたものなのかは確認出来ていない。花子が当時、「女学校で教鞭をとってい」たという事実については、佐野正夫氏の論文「芥川龍之介はなぜ横須賀を去ったかⅡ」(ネット上でPDFで入手可能)によって『汐入女学校』であることが判明した(これは恐らく明治三九(一九〇六)年に汐入の谷町に開校した、当時の横須賀町及び豊島町の組合立高等女学校が翌年に横須賀高等女学校と校名を改め、明治四一(一九〇八)年に深田台に新築移転、昭和5(1930)年に県に移管して県立となって大津に移転(現在の共学の県立大津高等学校)するまで、横須賀市の女子教育の中心となった、其れであろうと推測する)。しかし、寧ろ、ここの彼女の「学校は生徒の声で大騒ぎ、ここしばらく当惑の日がつづいていたのでした」というリアルな述懐が、花子の勝手な創作や或いは妄想だなどとは到底、私には思えないとも述べておく。「借せろ」は「貸せよ」の方言か。龍之介は江戸っ子、菊池は香川高松、佐野花子は信州諏訪。識者の御教授を乞う。

「切りなづむ新妻ぶりや春の葱  龍之介」この句自体は他に相同句がない、やはり龍之介俳句の新発見句である。なお、芥川龍之介の「手帳(1)」(新全集編者によれば、この手帳の記載推定時期は大正五(一九一六)年から大正七(一九一八)年頃である)、

 

人妻のあはれや〔春の葱〕(〔 〕は芥川による末梢)

 

及び、

 

妻ぶりに葱切る支那の女かな

 

というやや類似した断片及び句がある。私は実は芥川龍之介の「手帳」の電子化注も手掛けており(作業中)、最初の句については★こちら★、後者はこちらで確認出来る。前者は本句の草稿、後者の句はこの佐野花子を詠んだ句の改作ともとれる。特に「人妻のあはれや〔春の葱〕」の句については、★そこで★本「芥川龍之介の思い出」を引用しつつ、既に考察を行っている。是非是非、お読み戴きたい。ともかくもこの「切りなづむ新妻ぶりや春の葱」という句は、私は紛れもなく芥川龍之介が佐野花子に心から贈答した一句に他ならぬと考えているのである。

「ぼくは、これほど心酔されてしまったところをみると」とは芥川龍之介が今は佐野花子にすっかり心酔してしまっているという表明であることに注意されたい。

「さあ。そう言われるとたいへんだ。ぼくはこれで、なかなか難かしいんですよ。美人でなければだめ。そう、だめなんです。顔がいいばかりでもだめ。全体の均整がとれて恰も彫刻を見るが如くにありたいですね。それだけでもだめ。いつも愛の泉に浸っているような、そんなふうな細君でありたいものですよ」この芥川龍之介の女性観はすこぶる彼らしいと私などは腑に落ちる告白であると思う。しかして、底本に載る佐野花子の唯一の写真を見ると、「いつも愛の泉に浸っているような」女性かどうかは別として、花子はまず誰もが「美人」と言うであろう顔立ちであり、しかも「顔がいいばかりで」はなく、まさしく龍之介が言う通り、「全体の均整がとれて恰も彫刻を見るが如くにあ」るのである! 嘘だと思われる方は、是非是非、図書館ででも本書の写真をご覧あれ!

「話はどうしても彼の結婚をすすめるという方へ向かざるを得ません」既に「㈠」で注した通り、芥川龍之介はこの海軍機関学校に就職した十二月には龍之介の友人山本喜誉司の姪塚本文(ふみ)と婚約し、文の卒業を待って結婚する旨の縁談契約書を取り交わしているのである。花子の当時の記憶に誤りがないとすれば、龍之介は既に婚約者がいることを佐野夫妻に全く話していなかったことになる。そうして、私はその通り――龍之介は慶造にも花子にも婚約者の存在を黙っていたのだ――と思うのである。

「文楽に出てくる小春」「おさん」「小春」は近松門左衛門の傑作として名高い「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)で紙屋治兵衛と心中する曽根崎新地の遊女紀伊国屋小春。「おさん」はその治兵衛の妻で、夫を愛する故に、小春へ一途な夫のため、小春の身請けを自ら勧め、その支度金をさえ拵えようとするけなげな女である。コーダは治兵衛が小春の喉首を刺し、自らはおさんへの義理立てのために別に背を向けて首を吊って心中を完遂する。近松は本作で以って、相対死をするものへ、神としての創作者として、無残なる結末を用意して罰している、とも言えるように私は思っている。そうしてまた、自裁した芥川龍之介もある意味、現実の中で恋多く生きた自分自身に対して、「神」として自死を演じさせた、とも大真面目に思っているのである。これについて私は芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫で少しく考察したつもりである。未見の方は、是非、お読みあれかし。

「尾上柴舟」(明治九(一八七六)年~昭和三二(一九五七)年)は詩人・歌人で国文学者。岡山県苫田郡津山町(現在の津山市)出身。一高時代に落合直文に師事し、明治三四(一九〇一)年に「ハイネの詩」を刊行、金子薫園と共に「叙景詩」を刊行して、『明星』の浪漫主義に対抗、「叙景詩運動」を推し進めた。東京帝国大学文科大学卒業後、幾つかの教職を経ているが、その間、花子の在学した東京女子高等師範学校でも教鞭を執っており(ここまではウィキの「尾上柴舟に拠った)、ここはその折りの授業風景の思い出に基づく。底本の山田芳子氏「母の著書成りて」によれば、東京女子高等師範時代に、花子は、

 

よどみなく坂を車の登るごとわがはたとせは過ぎさりにけり

 

と詠んで尾上柴舟に褒められた、とある(同歌の改稿と思われる相似歌は同書の花子の「遺詠」巻頭を飾っている。ちなみにそちらでは、

 

音もなく坂を車ののぼるごとわがはたとせは過ぎ去りにけり

 

となっている。「よどみなく」は当時の現在時制の青春の爽やかさがあり、後者は「はたとせ」を淋しく追想している枯れた哀感が漂うように感ぜられる。いい短歌である。

「さしも知らじな燃ゆる思ひを」「百人一首」の第五十一番、藤原実方朝臣の「後拾遺和歌集」「戀一」所収の(第六一二番歌)、

 

 かくとだにえやは伊吹(いぶき)のさしも草(ぐさ)

  さしも知らじな燃ゆる思ひを

 

の下の句。

「昼は消えつつものをこそ思へ」「百人一首」の第四十九番、大中臣能宣の「詞花後和歌集」「戀上」所収の(第二二五番歌)、

 

 御垣守(みかきもり)衞士(ゑじ)のたく火の夜(よる)は燃え

  晝は消えつつ物をこそ思へ

 

の下の句。孰れも、同年代の女へは、如何にもな、恋情の迂遠にして技巧的な何だかな和歌の引用である。因みに私は実は強烈な和歌嫌いである。悪しからず。]

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