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2016/11/17

甲子夜話卷之三 1 白川城の災後、越州、家老に憤る幷狂歌の事

 

甲子夜話卷之三 所載三十三條

 

3-1 白川城の災後、越州、家老に憤る狂歌の事

先年白川城の内外とも一同大火ありしことあり。樂翁未だ隱退せられず、在江戸のときなれば、飛脚を以て告來ること、櫛の齒を引が如し。尋で家老一人出府す。樂翁悦ばず。對面して慍色あり。聲を勵ふして申さるゝには、度々言上して仔細詳に聞けり。今復申べき事や有ると尋しかば、家老窘して閉口し、坐をも立かねて有しかば、樂翁傍の硯引よせ、一首の狂哥を書て、夫を投出して奧へ入れたり。

 

 でんがくの串串思ふ心から

      燒たがうへに味噌をつけるな

 

家老これを見て、安心して坐を退きしと云。この出府を慍られしは、非常のときは人心さはぎ立ものなるを、鎭定せず、周章して出たると云を、咎められしなるべし。又家老あまりに恐怖せば、もしや切腹などすまじきにも非ずとて、其深慮より、わざと戲辭を吟ぜられしなるべし。兎にも角にも不凡の人ならずや。

■やぶちゃんの呟き

 狂歌の前後は一行空けとした。

「白川城」陸奥白河藩の藩庁で陸奥国白河郡白河(現在の福島県白河市)にあった白河小峰城。

「白川城の災」文化六年二月二十五日の回禄(火災)。二の丸・三の丸のみならず、城下も広汎に焼亡した(それを本文では「一同」(城の内外(うちそと))と言っているのである)。本火災とそれに纏わるこの狂歌は、既に根岸鎭衞の 之九 白河定信公狂歌尤の事が取り上げている。リンク先の私の電子テクスト本文と注を参照されたい。

「越州」「樂翁」松代定信。彼は越中守で後者は号。尊号一件を背景として寛政五(一七九三)年七月に将軍輔佐と老中を辞任した定信は、藩政に専念した(地位上は溜詰(たまりづめ)となっている。溜間(たまりのま)とは黒書院溜之間ともいい、通称を松溜(まつだまり)、またここに詰める者を溜詰と称した。代々、溜間に詰める大名家を定溜(じょうだまり)・常溜・代々溜(だいだいたまり)などといい、会津藩松平家・彦根藩井伊家・高松藩松平家の三家があった。また一代に限って溜間に詰める大名家を飛溜(とびだまり)といい、伊予松山藩松平家・姫路藩酒井家・忍藩松平家・川越藩松平家などがあった。さらに老中を永年勤めて退任した大名が前官礼遇の形で一代に限って溜間の末席に詰めることもあり、これを溜間詰格といった。定信はこれである。初期の段階では定員は四~五名で、重要事については幕閣の諮問を受けることとなっていた。また儀式の際には老中よりも上席に座ることになっており、その格式は非常に高いものだった。江戸中期以降は飛溜の大名も代々詰めるようになった。また、桑名藩松平家・岡崎藩本多家・庄内藩酒井家・越後高田藩榊原家の当主もほぼ代々詰めるようになったと参照したウィキの「伺候席」(しこうせき)の「溜間」にある)が、これは文化九(一八一二)年三月六日に長男の定永に譲って隠居するまでの間の出来事であり、それ故に彼は江戸にいたのである。なお、隠居後も藩政の実権は彼が掌握していた。

「在江戸とき」「江戸に在る時」。

「告來る」「つげきたる」。

「櫛の齒を引が如し」「くしのはをひくがごとし」。櫛の歯は一つ一つ、何度も何度も鋸で挽いて作るところから、物事が絶え間なく続くことの喩え。

「尋で」「ついで」。

「慍色あり」「いかるいろあり」。顔色が激しい怒気を含んでいた。

「勵ふして」「はげしふして」。激しくして。

「度々言上して仔細詳に聞けり。今復申べき事や有る」「たびたびごんじやうして(したによつて)、しさい、つまびらかにきけり。いま、また、まうすべきことや、ある」。「何度も何度もちまちまと飛脚なんぞを飛ばして参ったによって回禄の仔細は詳らかに聴いておる! 今さらにまた、わざわざ江戸まで出府して来よって、何を言うべきことがあると申すか?!」。

「尋しかば」「たづねしかば」。

「窘して」「きんして」。「窘」は「苦しむ・悩む」。

「立かねて有しかば」「たちかねてありしかば」。

「傍」「かたはら」。

「硯」「すずり」。

「引よせ」「ひきよせ」

「書て」「かきて」。

「夫」「それ」。

「投出して」「なげいだして」。

「奧へ入れたり」「入れたり」は「いられたり」奥へすっとお入りになってしまわれた。

「でんがくの串串思ふ心から/燒たがうへに味噌をつけるな」「でんがくのくしくしものをおもふこころからやけたがうへにみそをつくるな」。「串」「燒け」「味噌」が「田樂」の縁語で、「串々」(くしくし)は副詞の「ぐぢぐぢ(ぐじぐじ)」、則ち、「うろたえて言葉がはっきりしないさま」「弁解染みたことをぶつぶつ呟くさま」「ぐずぐずしてはっきりしないさま」の意を掛けてある。「味噌をつくるな」とは、田楽は、何よりしっかり焼いた後に火から取り上げた上で徐ろに生味噌をつけて喰うのが王道である(個人的に私は焼きながらつけて味噌を焦がした方が好きだが)が、それに「味噌をつける」=「失敗して評判を落とす」「面目を失う」の意を掛けてあるのである。因みに、先の 之九 白河定信公狂歌尤の事の方では、

 

 でんがくのくしくしものを思ふとて

      やけたりとても味噌をつくる

 

となっている。

「云」「いふ」。

「さはぎ立」「騷ぎ立つ」。

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