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« 谷の響 五の卷 十六 旋風 | トップページ | 谷の響 五の卷 十八 地中に希器を掘る »

2016/12/06

谷の響 五の卷 十七 地を掘て物を得

 

 十七 地を掘て物を得

 

 文化の末年のころ、越水村の百姓ども、それが領なる天津澤の内へ野堰を掘りたることありしが、三尺ばかりの下に深さ三尺餘り長さ二十間ばかりの間、不殘(みな)蜆貝にてありしとなり。又この越水村の山中より人の骨の燒きたるもの、及錢屑(かなくそ)・炭・ふいごなど出たり。又菰筒村の山中にもこの蜆貝・炭等出る所、所々にありて越水村の彌助といへる老父の話也。

 相馬村の澤目、大助村と關ケ平村の間の田の中に低き處ありて、そこに鴫の澤と言へる岩あり。この岩の中に田の水を落し、その下は流になれり。この岩に帆立貝の小さきもの幾つもついてあり。又この所の内に龍毛岱といへるあり。古年(ふるとし)この處崩れて、天秤(はかり)・圭鑽(けさん)などその外色々の器物出たりとなり。又、相馬藤澤村の後の山に女(め)ノ子館(こだて)といへるあり。此廓の中より燒米の半(なかば)石になりたるもの多く出るとなり。又、この燒米の石に化(な)れるものは飯詰村なる茶右衞門館、森山【西濱邑】なる茶右衞門館【同名也】、この二ケ處よりも出る也。

 天保九戊の年の四月のよし、小泊村の龜老母(うば)といへるもの、その領砂山の中より古錢十二貫文ばかり掘り出せり。箱といふもなくて久しく埋れるものから、たゞ一塊(ひとかたまり)となりてこれをくだくに百にして七十をそこねしと。さるに其錢は大小ありて大きなるは一寸より一寸三分あまり、小なるは六七分、中なるは常の大きさにしてたいてい浩武なりしと。好事の者通用錢と取りかえて、今は老母の處に一錢もなかりしとなり。その大小の二ツのものは極めて珍らしき物なるべきに、奈何なりしか。又、文政の年間(ころ)一ツ森村の六兵衞と言へる者、大然村の畑をしひて古錢二貫文ばかり掘り得たりしが、大體永樂錢なりとぞ。又、天保の頃飯詰村の源八と言へるもの、あぜを崩して古錢一貫文ばかり掘り得しとなり。又、同町なる角田傳之助と言へる人、自分の屋敷なる稻荷堂の後を掘りたるに、二斗計なるべき甕の三つありけるが、皆口きわまて錢の有りければいく百年へぬるにや、ひとかたまりとなりてくだくまにまに全きもの一錢もあらざれば、元のごとく埋めて置しとなり。こは文政三年にてありし。

 文政の年間(ころ)、八幡崎村の八幡宮の境内を掘りて甕を多く得たりと。この甕の出る處多くあり、二(つぎ)々にあぐへし。その中一ツの甕に五色の絹糸みてりとなり。又、この廓を掘りて帆柱出たるを、掘り上ぐることをとゞめてその柱の先きに堂を建て、粟嶋大明神を祝へりと。又、嘉永のはじめ小栗山村の者、畑をおこして古き鍬七枚得しと。又、この畑より人のどくろに似たる石多く出でたりと。又、同四年のころ田舍館邑の者、堰を掘りて一ツの箱を得たるが、その内に紫なる馬の三繫(さんかい)ありしが、取あぐるやいなや粉になりて形を損ひしと。又、安政五年の三月堅田村の者、常源寺の寺跡を畑におこせしに、鏡一面得たりし。徑(わたり)八寸ばかり裏は松竹梅に鶴龜の模樣にて、撮(つまみ)に附けし絹糸の揚卷の緒の、未だ朽もやらでありけるが、そが菩提の爲めとて常顏寺に納めしとなり。又、この鏡の出たる穴より短刀一口、長さ一尺許りのものなるがいたく朽ちて鐡の心のみ殘り、鍔はこぶしの如くなりて錢屑(かなくそ)にひとしかりしとなり。又、この處よりいと大きなる人の骨出たり。そは前に擧げしなり。

 

[やぶちゃん注:「文化の末年」文化は十五年であるが、同年四月二十二日(グレゴリオ暦一八一八年五月二十六日)に文政に改元している。

「越水村」底本の森山氏の補註に、『西津軽郡木造町越水(こしみず)。津軽半島の基部で、木造新田(きずくりしんでん)の西端に当り、屏風山を隔てて日本海になる』とある。現在はつがる市木造越水。ここ(グーグル・マップ・データ)。鰺ヶ沢の北東直近。

「天津澤」不詳。識者の御教授を乞う。

「野堰」「のぜき」。簡易水路。

「三尺」約九十一センチメートル。

「二十間」三十六メートル三十六センチ。

「蜆貝」「しじみがい」。この部分に限るなら、縄文・弥生の貝塚であった可能性が一つ、疑われはする。

「及」「および」。

「錢屑(かなくそ)」。鉄精錬の際に飛び落ちるかす。スラグ。

「ふいご」「鞴」。これらは金属精錬を生業とした古代の民の遺物ととれる。

「菰筒村」底本の森山氏の補註に、『木造町菰槌(こもつち)。越水の北方』とある。現在はつがる市木造菰槌(きづくりこもつち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「相馬村の澤目、大助村と關ケ平村の間」現在の弘前市大助はここ、その南の相馬川上流の弘前市藍内関ケ平はここ(孰れもグーグル・マップ・データ)であるから、このロケーションは、その中間点附近(「澤目」「鴫の澤と言へる岩」とあるから、相馬川沿いの沢の分岐附近か。「関ケ平」の西方に「鴫ケ沢山」という山がある)に当たるものと思われる。

「この岩に帆立貝の小さきもの幾つもついてあり」これは先史時代の化石である。

「龍毛岱」「りうげたい」と読むか。「岱」はピークの意。位置不詳。

「圭鑽(けさん)」「卦算・圭算」で「けいさん」とも読み、文鎮のこと。易の算木(さんぎ))の形に似ることによる呼称。

「相馬藤澤村」現在の弘前市藤沢。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の「大助」の東北直近。

「女(め)ノ子館(こだて)」不詳。嘗てそうした名の館跡があった(とする伝承からの)地名であろう。

「此廓」「このくるは」。同地区内。館跡とされる遺跡内部。

「燒米」弥生頃の調理或いは祭祀加工物の、塊りの米の炭化して堅く石のようになったものか。

「飯詰村」底本の森山氏の別の補註に、『五所川原市飯詰(いいずめ)。戦国時代この地の高楯城に土豪朝日氏が拠っていたが、天正十六年津軽為信に亡ぼされた。藩政時代この地方開発の中心地であった』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「茶右衞門館」前と同じく遺跡地名。次注参照。

「森山【西濱邑】なる茶右衞門館」底本の森山氏の補註に、『西津軽郡岩崎村森山は日本海に臨むところで、慶長頃、土豪(また海賊ともいう)小野茶右衛門がここに拠ったと伝える。その館跡から焼米が出る、いわゆる白米城伝説がある』とある。現在は西津軽郡深浦町森山。ここ(グーグル・マップ・データ)。「白米城(はくまいじょう)伝説」とは、古く、水攻めにされて窮した山城で、水が豊かにあるように敵方に見せかけるため、白米で馬を洗ったり、崖上から滝のようにそれを流して敵を欺いたという伝説を指す。一般には、その事実が密告されたり、或いはそうした米に烏や犬が群がって露顕して落城するという結末を持つ。「青森県歴史観光案内所」公式サイト内の「深浦町」の森山城(茶右衛門館)に詳しい。

「天保九戊の年」天保九年は一八三八年。

「小泊村」底本の別の補註に、『北津軽郡小泊(こどまり)村。津軽半島の西側に突出た権現崎の北面が小泊港である。古く開けた良港である。大間は大澗で入江のこと』とある。現在は青森県北津軽郡中泊町(なかどまりまち)小泊である。この「小泊港」周辺である(グーグル・マップ・データ)。

「龜老母(うば)」「かめうば」と称する以上は土地の古くから土着していた一族で、老女しか生き残らなかったものであろうか。

「その領砂山」その自身の有する耕作地である砂山の謂いであろう。

「一寸より一寸三分」三~四センチメートル。

「六七分」一センチ八ミリ~二センチほど。

「浩武」「洪武」(こうぶ)の誤り。底本の森山氏の補註でも、『浩武銭、つまり浩武通宝のこと。中国明の大祖が浩武年間に発行した銅銭で、わが国でも民間に通用した』とあるが、「洪武」は明代の元号で一三六八年か一三九八年。

「文政」一八一八年~一八三〇年。

「一ツ森村」底本の森山氏の補註に、『西津軽郡鰺ケ沢町一ツ森。赤石川上流の山村』とある。現在は鰺ヶ沢町(まち)一ツ森町(まち)。(グーグル・マップ・データ)。

「大然村」底本の森山氏の補註に、『一ツ森部落の近くの大然(おおじかり)』とある。現在の一ツ森町の南に「白神大然河川公園」というのがある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「しひて」不詳。「敷(し)く・布(し)く」で「耕す」の意か。

「永樂錢」底本の森山氏の補註に、『明の成祖が永楽九』(一四一一)『年に鋳造した青銅銭。室町時代からわが国でも流通し、足利義持は国内通用の永楽銭を鋳造した』とある。

「天保」一八三〇年から一八四四年。

「屋敷なる」屋敷内にある。

「二斗計」「にとばかり」。三十六リットルほど入る。

「甕」「かめ」。

「口きわまて」「まて」はママ。「口際まで」。

「文政三年」一八二〇年。

「八幡崎村」底本補註を見ると、『南津軽郡尾上町八幡崎(やわたざき)』とあるのであるが、とすると、現在の尾上町は、附近(グーグル・マップ・データ)となる。しかし、この「八幡崎」なる地名も「八幡宮」も見当たらぬ。そこで調べてみると、現在の尾上町の西方の平川市八幡崎宮本に八幡宮を見出せた。(サイト「日本神社」の同八幡宮のページ)ではあるまいか?

「二(つぎ)々にあぐへし」以下、挙げて見よう。

「みてり」「滿てり」。

「粟嶋大明神」恐らくは現在の弘前市城東北にある「淡島神社」であろう。(グーグル・マップ・データ)。

「嘉永のはじめ」嘉永は一八四八年から一八五四年。

「小栗山村」底本補註に、『弘前市小栗山(おぐりやま)。岩木山神社・猿賀神社と共に、古来』、『津軽の農民の信仰厚い小栗神社がある』とある。附近(グーグル・マップ・データ)。

「鍬」「くは(くわ)」。

「どくろ」「髑髏」。

「同四年」嘉永四年は一八五一年。

「田舍館邑」「いなかだてむら」と読み、弘前の北東に完全に同名の村として現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「馬の三繫(さんかい)」底本補註に、『馬具。面繫(おもがい)(くつわをつなぐために馬の頭から両耳を出してかける組糸又は革の装具)、胸繫(むながい)(胸から鞍橋にかけわたす緒)、尻繋(しりがい)(尻にかけて車の轅』(ながえ)『や鞍橋を固定させる緒)の三つを総称していう』とある。

「安政五年」一八五八年。

「堅田村」底本の森山氏の別の補註によれば、『現在の弘前市和徳堅田(かただ)』とある。現在は和徳町と堅田にわかれているようだが、この附近(グーグル・マップ・データ)。

「常源寺の寺跡」曹洞宗白花山常源寺。この寺は移転(慶長一六(一六一一)年。これはYuki氏のブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」の記事に拠った)にしたので「寺跡」なのであるが、現在も弘前市西茂森に現存する。(グーグル・マップ・データ)。

「徑(わたり)八寸」直径約二十四センチメートル。

「揚卷」揚巻結びの緒。左右に輪を出し、中を石畳のようにした飾り結び。鎧・御簾(みす)などに用いる。

「朽もやらで」「くちもやらで」。腐り落ちることもなく。

「そ」出土した鏡を指す。古来、鏡は神聖な物とされた。

「鍔」「つば」。

「こぶし」「拳」。

「この處よりいと大きなる人の骨出たり。そは前に擧げしなり」谷の響 三の卷 一 大骨を参照。]

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