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2016/12/21

北條九代記 卷第十 蒙古の使を殺す 付 蒙古日本を伐たむ事を企つ / 北條九代記 卷第十~了

 

      ○蒙古の使を殺す  蒙古日本を伐たむ事を企つ

 

同四年に改元有りて、弘安元年とぞ號しける。正月上旬に、北條右京大夫時村、上洛して六波羅の北の方となり、京都西國の沙汰を執行(とりおこな)ふ。同二年正月に將軍惟康を正二位に叙せられ、位記(ゐき)、既に鎌倉に下著す。同三年二月に大元より使者として杜世忠を遣し、大宰府に著岸せしかば、やがて捕へて鎌倉に告げたりければ、關東に召下し、龍口(たつのくち)にして首(かうべ)を刎(は)ね、由井濱に梟(かけ)られけり。蒙古の王、傳聞(つたへき)きて大に怒り、大將軍等を催し、兵船を造りて、大軍を遣し、日本を伐亡(うちほろぼ)さんとて、武勇の兵を選びける由、又本朝に聞えしかば、年比には替りて頗る大事の時節なりとて、公家よりは伊勢へ勅使を立てられ、奉幣御祈禱、精誠(せいじやう)を盡され、諸寺諸社に仰せて、御祈念護摩の行(おこなひ)は、日を重ねて怠(おこたり)なし。北條相摸守時宗は、鎌倉にありながら筑紫の軍士に催促して、防戦の武備を致さしめ、兵糧、秣(まぐさ)に至るまで、事闕(ことか)けざる用意あり。「蒙古の軍(いくさ)、若(もし)強くして、西國傾く事あらば、東國の軍兵を上せて、主上東宮を守護し奉り、本院、新院をば關東へ御幸なし奉るべし。又筑紫の左右に依て兩六波羅の兵共(ども)、鎭西へ下向し、命を量(ばかり)に防戰し、勳功(くんこう)あらん輩(ともがら)には忠賞(ちうしやう)を行ふべし。天下の大事、この時なり」と下知せらる。諸國の武士共、是を聞きて、「假令(たとひ)如何なる事ありとも、この日本を異賊(いぞく)には奪はるまじ、忠戰(ちうせん)の功を現(あらは)し、重賞(ぢうしやう)に預(あづか)らん。是(これ)、世の位の常の叛逆(ほんぎやく)には替りて、面々、身の上の、大事ぞかし」と、諸軍一同に齒金(はがね)を鳴し、牙を嚙みて思はぬ人はなかりけり。

 

[やぶちゃん注:本章を以って「北條九代記 卷第十」は終わる。

「同四年に改元有りて、弘安元年とぞ號しける」文永は十二年四月二十五日(ユリウス暦一二七五年五月二十二日)に後宇多天皇即位によって弘安に改元している。

「北條右京大夫時村」(仁治三(一二四二)年~嘉元三(一三〇五)年)は。第七代執権北条政村の嫡男。ウィキの「北条時村(政村流)によれば、『父が執権や連署など重職を歴任していたことから、時村も奉行職などをつとめ』、建治三(一二七七)年十二月に(本書では翌建治四年としか読めないが、それが現地への着任実時であるなら、問題あるまい)『六波羅探題北方に任じられた。その後も和泉や美濃、長門、周防の守護職、長門探題職や寄合衆などを歴任した』。弘安七(一二八六)年、第八代『執権北条時宗が死去した際には鎌倉へ向かおうとするが、三河国矢作で得宗家の御内人から戒められて帰洛』。正安三(一三〇一)年、『甥の北条師時が』次期の第十代『執権に代わると』、『連署に任じられて師時を補佐する後見的立場と』なっている。ところが、それから四年後の嘉元三(一三〇五)年四月二十三日の『夕刻、貞時の「仰せ」とする得宗被官』や御家人が、当時、『連署であった北条時村の屋敷を』突如、襲って『殺害、葛西ヶ谷の時村亭一帯は出火により消失』したとある。『京の朝廷、及び六波羅探題への第一報はでは「去二十三日午剋、左京権大夫時村朝臣、僕被誅了」』(権大納言三条実躬(さねみ)の日記「実躬卿記」四月二十七日の条)、『「関東飛脚到著。是左京大夫時村朝臣、去二十三日被誅事」』(大外記(だいげき:朝廷の高級書記官)であった中原師茂の記録)とあって、孰れも「時村が誅された」と記している。この時、『時村を「夜討」した』十二人は、それぞれ、『有力御家人の屋敷などに預けられていたが』、五月二日に『「此事僻事(虚偽)なりければ」として斬首され』ている。五月四日には『一番引付頭人大仏宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事、越訴頭人、幕府侍所所司北条宗方』(北条時宗の甥)『を追討、二階堂大路薬師堂谷口にあった宗方の屋敷は火をかけられ、宗方の多くの郎党が戦死し』た。「嘉元の乱」と『呼ばれるこの事件は、かつては』「保暦間記」の『記述により、野心を抱いた北条宗方が引き起こしたものとされたが、その解釈は鎌倉時代末期から南北朝時代のもので』、同時代の先に出た「実躬卿記」の同年五月八日条にも『「凡珍事々々」とある通り、北条一門の暗闘の真相は不明である』とする。なお、生き残った時村の『孫の煕時は幕政に加わり』、第十二代『執権に就任し』ている。

「位記(ゐき)」律令制に於いて位階を授けられる者に、その旨を書き記して与えた文書。

「同三年二月に大元より使者として杜世忠を遣し、大宰府に著岸せしかば、やがて捕へて鎌倉に告げたりければ、關東に召下し、龍口(たつのくち)にして首(かうべ)を刎(は)ね、由井濱に梟(かけ)られけり」綾なす誤りが頂点に達した箇所。「同三年二月」とは弘安三(一二八〇)年二月となるが、既に見たように、事実とは齟齬する。くどいが、第七回目の元からの使節団のモンゴル人正使の礼部侍郎杜世忠が、幕閣との対面もなく問答無用で江ノ島対岸の龍の口刑場に於いて斬首されたのは建治元年九月七日(ユリウス暦一二七五年九月二十七日)である。なお、ここには今一つの勘違いが加わっている可能性がある。それは、杜世忠が問答無用で斬殺されたことを知らず(幕府はそれを元に伝えていなかった)、クビライが最後の最後に「第八回使節」を送って、その使節団も斬首されている事実との混同であるウィキの「元寇」によれば、第二次日本侵攻を命じようとしたクビライに対し、元に征服された『南宋の旧臣・范文虎は、ひとまず日本へ再び使節を派遣して、もう一度、日本が従うか否かを見極めてから出兵することを提案したため、クビライはその提案を受け入れ』、『杜世忠ら使節団が斬首に処されたことを知らないまま、周福、欒忠を元使として、渡宋していた日本僧・暁房霊杲、通訳・陳光ら使節団を再度日本へ派遣した』のであった。『今回の使節団は南宋の旧臣という范文虎の立場を利用して、日本と友好関係にあった南宋の旧臣から日本に元への服属を勧めるという形をとった』もので、『大宋國牒状として日本側に手渡された牒状の内容は「宋朝(南宋)はすでに蒙古に討ち取られ、(次は)日本も危うい。よって宋朝(南宋)自ら日本に(元に服属するよう)告知」する内容であった』。弘安二(一二七九)年六月、『日本側は周福らが手渡した牒状が前回と同様、日本への服属要求であることを確認すると、博多において周福ら使節団一行を斬首に処した』(下線やぶちゃん)のであった。なお、この二ヶ月後の同年八月、逃げ出した水夫により、『杜世忠らの処刑が高麗に報じられ、高麗はただちにクビライへ報告の使者を派遣した』。『元に使節団の処刑が伝わると、東征都元帥であるヒンドゥ(忻都)・洪茶丘はただちに自ら兵を率いて日本へ出兵する事を願い出たが、朝廷における評定の結果、下手に動かずにしばらく様子を見ることとなった』とある。傀儡である使者南宋の旧臣范文虎らは、〈いい面の皮〉としか言えない。そもそもが南宋からは多数の僧が日本に亡命しており、禅僧が殆んどだが、彼らは内心、元への強い敵愾心を持っていた。ウィキの「元寇」にも弘安四(一二八一)年、「弘安の役」の『一月前に元軍の再来を予知した南宋からの渡来僧・無学祖元は、北条時宗に「莫煩悩」(煩い悩む莫(な)かれ)と書を与え』、『さらに「驀直去」(まくじきにされ)と伝え、「驀直」(ばくちょく)に前へ向かい、回顧するなかれと伝えた』。これはのちに、「驀直前進」(ばくちょくぜんしん:いじいじと考えずにただ只管に真っ直ぐに進むのみ)という『故事成語になった。無学祖元によれば、時宗は禅の大悟によって精神を支えたといわれる』。なお、『無学祖元はまだ南宋温州の能仁寺にいた』一二七五年、『元軍が同地に侵入し包囲されるが、「臨刃偈」(りんじんげ)を詠み、元軍も黙って去ったと伝わる』とあり、最早、范文虎などは唾棄されこそすれ、およそ支持する在日同胞さえいなかったのである。

「年比には替りて頗る大事の時節なり」前の章の最後の「主上、東宮御元服ましまし、洛中の上下、世は大事の運(うん)にかなひ、時は淳厚(じゆんこう)の德を兼ねたり。諸國、同じく五穀豐(ゆたか)に、東耕(とうこう)の勞(らう)、空(むなし)からず。西收(せいしう)の畜(たくはへ)、庫(くら)に盈(み)ちたり。聖代(せいだい)明時(めいじ)の寶祚(はうそ)、仁慈理政(りせい)の致す所なりと、萬民百姓、樂(たのしみ)に榮え、月花を賞し、歌曲に興じて悦ぶ事、限なし」という祝祭が、ここで急速に暗転する手法は、正直、上手いと思う。

「秣(まぐさ)」兵馬用の餌。

「事闕(ことか)けざる用意あり」細心の注意を払って欠けるところのない万全の防備体制を敷いた。

「主上東宮を守護し奉り、本院、新院をば關東へ御幸なし奉るべし」こうなって(鎌倉時代に早くも恒久的に朝廷が鎌倉に遷って)、そうして元寇が本州を蹂躙していたら、と考えると、これ、なかなか面白いではないか。戦国時代どころか、第二次世界大戦後の「日本分割」も真っ青かも知れんぞ?!

「筑紫の左右に依て」筑紫を中心とした九州全土の戦況によっては。

「命を量(ばかり)に防戰し」命の限り、防戦し。

「齒金(はがね)を鳴し」「齒が根」でも面白いが、それでは以下と畳語で実はつまらぬ。ここはやはり、武士なればこそ、「鋼」「刃金」で、刀剣を鳴らして、怒りに起因する武威を逞しくすることであろう。

「牙を嚙みて」歯を食いしばって。同じく、怒りの形容。]

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