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2016/12/23

芥川龍之介 手帳6 (8)

 

○電報の爲に苦吟す 南軍々中の學者 ○樓上張之洞の寫眞 樓下胡弓の聲 ○廉 李鴻章と合はず 排日 後ニ親日

[やぶちゃん注:「南軍」国民党軍。

「張之洞」(一八三七年~一九〇九年)は清末の政治家。直隷(河北省)南皮生まれ。一八六三年に進士とある。対外強硬論を主張する「清流党」の一員と目されていたが、一八八一年には山西巡撫に抜擢され、次いで両広総督・湖広総督を歴任した。以下、ウィキの「張之洞」によれば、日清戦争(明治二七(一八九四)年~明治二八(一八九五)年)に於いては『唐景崧と共に台湾民主国を援助して台湾へ出兵した日本への抵抗を試みるなど強硬派としての主張が目立ったが、両戦争の敗北後は対外融和的な姿勢もみせた』。一八九三年には『自強学堂(後の武漢大学)を創立』、翌年に『自強軍を設立(後に袁世凱の新軍に編成)、外国借款を通じて鉄道敷設を推進するなど、外国資本と連携した国内開発を推進した。また、湖北・湖南の産物を外国へ輸出、外貨など経済的裏付けを取り貨幣改鋳と独自紙幣の発行で漢口を中心とした経済圏を作り上げた』。一八九八年に『起こった変法運動に対しては、変法派が組織していた強学会の会長を務めていたため理解を示していたが』、一八九八年の著作「勧学篇」の中では『「中体西用」の考えを示し、急進的すぎる改革を戒めた。戊戌の政変で変法派が追放されてからは逼塞していたが』、一九〇〇年の『義和団の乱の際には唐才常ら自立軍の蜂起鎮圧、盛宣懐・張謇を通して劉坤一と共に東南互保を結び』、翌年には『劉坤一と連名で「江楚会奏三折」と呼ばれる上奏で変法の詔勅を発布させた(光緒新政)。上奏では教育改革を唱え』、一九〇四年に『「奏定学堂章程」として政府から発布』、翌年には久しく続いてきた『科挙の廃止、京師大学堂(後の北京大学)中心の近代教育整備に繋』げた。『日本との関わりは深く、変法運動と政変前後』の一八九八年に『中国を訪問した日本の元首相伊藤博文と漢口で会談、漸進主義を重視する伊藤と意気投合、日本からコークスを輸入し』、『八幡製鐵所に必要な鉄鉱石を日本へ輸出する契約を取り付けたり』、「勧学篇」の中でも、『日本を近代化に成功した国として見習い、留学して日本を通し』、『西洋の学問を摂取すべきことを説いている』とある。

「廉」清朝の戸部郎中であった廉泉か?

「李鴻章」(一八二三年~一九〇一年)は清代の政治家。一八五〇年に翰林院翰編集(皇帝直属官で詔勅の作成等を行う)となり、一八五三年には軍を率いて太平天国の軍と戦い、上海をよく防御して江蘇巡撫となり、その後も昇進を重ね、北洋大臣を兼ねた直隷総督(官職名。直隷省・河南省・山東省の地方長官。長官クラスの筆頭)の地位に登り、以後、二十五年の間、その地位にあって清の外交・軍事・経済に権力を振るった。洋務派(ヨーロッパ近代文明の科学技術を積極的に取り入れて中国の近代化と国力強化を図ろうとしたグループ。中国で十九世紀後半におこった上からの近代化運動の一翼を担った)の首魁として近代化にも貢献したが、日清戦争の敗北による日本進出や義和団事件(一九〇〇年~一九〇一年)での露清密約によるロシアの満州進出等を許した結果、中国国外にあっては傑出した政治家「プレジデント・リー」として尊敬されたが、国内では生前から売国奴・漢奸と分が悪い(以上はウィキの「李鴻章」他を参照した)。]

 

○古琴臺(金 群靑)の額 舟 支那子供大勢 乞食 太湖石 煙草廣告 双樹――白壁に梧桐 亭――堂 山水淸音ノ額 女學生 梧桐

[やぶちゃん注:「古琴臺」現在の武漢市漢陽区の亀山の西の麓、月湖(ここ(グーグル・マップ・データ))の湖畔にある楼。ここ(グーグル・マップ・データ)。中国ツアー・サイト「アラチャイナ」の「漢陽の古琴台」に、当地のロケーションとともに、春秋時代の晋の大夫伯牙(はくが)と盟友鍾子期との「伯牙絶絃」の故事で知られる、この地に纏わる伝承が記されてある。

「梧桐」アオイ目アオイ科 Sterculioideae 亜科アオギリ属アオギリ Firmiana simplex

「太湖石」蘇州(現在の中華人民共和国江蘇省蘇州市)の主に太湖(江蘇省南部と浙江省北部の境界にある大きな湖で景観の美しさで知られる)周辺の丘陵から切り出される多くの穿孔が見られる複雑な形状をした石灰岩を主とする奇石を総称して言う。]

 

○兵工局 槍礮局 煙突林立 ○月湖 アシ ハス 汚 曇天胡蝶

[やぶちゃん字注:「兵工局」日本の陸軍の砲兵工廠(陸軍造兵廠の旧称。兵器・弾薬・器具・材料などを製造・修理した工場。何故、そんな古い呼称を出したかって? 「こゝろ」フリークだからに決まってるじゃないか! 私の「『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回』」を見られたい)のようなものであろう。

「槍礮局」「礮」は「砲」と同字であるから、恐らく銃砲や大砲などの製造工場であろう。

「月湖」前の条の「古琴臺」の注を参照されたい。]

 

○陸――町――舟(豕聲 芥山)――漢江 泥流に犬の屍骸

[やぶちゃん注:「豕聲」は恐らく「トンセイ」で「豚の鳴き声」、「芥山」はその附近に積まれた「ごみ(の)やま」であろう。]

 

○綠 virigian の葡萄 眞珠の neckrace. Diamond ring. 腕時計 diamond. Medaillon 金鎖白靴 黑靴下 白ヘ靑(淡)の太筋 メイランフアン風の歌 ○鳳蓮 西洋靴(黑) 白靴下

[やぶちゃん注:芸妓の描写であろう。

virigian」という綴りの単語は存在しない。これは直前の「綠」を説明しており、葡萄を形容しているとすれば、“verdure”で、滴るような緑色をした、の意味ではあるまいか?

neckrace」はママ。正しくは“necklace”。

Medaillon」は“Medallion”綴りの誤記。大メダル・肖像画などの円形浮き彫り、メダイヨンのこと。

「メイランフアン」清末から中華民国・中華人民共和国を生きた著名な京劇の女形梅蘭芳(méi lánfāng 本名・梅瀾 méi lán 一八九四年~一九六一年)。京劇の名女形を言う「四大名旦」の一人(他は程硯秋・尚小雲・荀慧生)。ウィキの「梅蘭芳」の旧版(「上海游記 八 城内(下)」で引用したもの。現在は削除・変更されている)によれば、『日本の歌舞伎に近代演劇の技法が導入されていることに触発され、京劇の近代化を推進。「梅派」を創始した』。二十世紀『前半、京劇の海外公演(公演地は日本、アメリカ、ソ連)を相次いで成功させ、世界的な名声を博した(彼の名は日本人のあいだでも大正時代から「メイランファン」という中国語の原音で知られていた。大正・昭和期の中国の人名としては希有の例外である)。日中戦争の間は、一貫して抗日の立場を貫いたと言われ、日本軍の占領下では女形を演じない意思表示としてヒゲを生やしていた。戦後、舞台に復帰。東西冷戦時代の』一九五六年、『周恩来の指示により訪日京劇団の団長となり、まだ国交のなかった日本で京劇公演を成功させた』。一九五九年、『中国共産党に入党』したが、二年後、『心臓病で死去』した。

「鳳蓮」芸妓の源氏名か。]

 

○上海の子供井戸を知らず 漢口の子供橋を知らず

[やぶちゃん注:前者は井戸を必要としないということか? 租界の拡大によって上水道が発達していたということだろうか? 或いはまた、かなり深く掘らないと、飲用可能な水は得られなかったのかも知れない。後者は、長江の激しい水位変化や洪水によって橋を架けても流されるために、古くから渡しを利用し、架橋されなかったということか? 孰れも識者の御教授を乞う。]

 

○長沙 モオタア(ボイ二人) 水陸洲 橘洲 中ノ島 ○女學生――白帽 髮切れる故 ――油紙の傘――寫生道具 ○柳並木(切られしまま) 黃蔡(鍔)兩人の墓の爲國費 道を造る 兩側の稻田 犬水中に入る ○自卑亭 黃瓦上ニ黑瓦

[やぶちゃん注:「長沙」湖南省の省都である現在の長沙市。長沙では反日感情が特に強く、龍之介は「長江游記」では全く語っていない。その雰囲気は後の雜信一束の以下で、よく伝わってくる。

   *

 

       七 學校

 

 長沙の天心第一女子師範學校並に附屬高等小學校を參觀。古今に稀なる佛頂面をした年少の教師に案内して貰ふ。女學生は皆排日の爲に鉛筆や何かを使はないから、机の上に筆硯を具へ、幾何や代數をやつてゐる始末だ。次手に寄宿舍もー見したいと思ひ、通辭の少年に掛け合つて貰ふと、教師愈(いよいよ)佛頂面をして曰、「それはお斷り申します。先達(せんだつて)もここの寄宿舍へは兵卒が五六人闖入し、強姦事件を惹き起した後ですから!」

 

   *

しかし、この長沙訪問があってかの名作湖南の扇が誕生したとも言えるのである(リンク先は私の詳細注附き電子テクスト)。

「モオタア」遊覧用の大型のモーター・ボートか。

「ボイ」ボーイ。

「水陸洲」長沙の長江にある中洲(以下の「中ノ島」はそのことであろう)で「橘子洲」の別名。以下の「橘洲」も同じであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「白帽 髮切れる故」意味不明。

「黃蔡(鍔)兩人」「不詳」として公開したところ、教え子から以下のメール情報を得たので引用しておく。『清から民国にかけての軍人または革命家である黄興(一九一六没)と蔡鍔(さいがく 一九一七没)の墓は、ともに岳麓山の麓にあります。それを言っているのではないでしょうか。私が岳麓山を散策したのは夏、そして晩秋の季節でした。彼らの墓には全く注意を払わずに通り過ぎました。丁度、岳麓書院の裏手は山になっており(市街からの高さにして百五十メートルといったところでしょうか)その中腹と言ってもいいような場所だったはずです。従って、道を造るといっても、直線的な所謂参道とでもいうべきものは思い出せないのではあるのですが……』。教え子に感謝!

「自卑亭」長沙の岳麓書院(次条注を参照)の入口にある。]

 

○湘南公立工業學校 惟楚有材 於斯爲盛――白堊號房 ○成立大會 ○學達性天(コウキ)(靑へ金)○日本國旗 紙旗 紙花 黑ベンチ 白エンダン ○道南正脈 (金へ藍靑) 乾隆(白カベ) 周圍に龍 ○教室 hunting Cap. 電氣工學 ○米教師二人 ○閲書室 實習室(何もなし) ○庭は石ダタミに草 小さキ桐 石上ニハフ鷄 傘(飴色)干さる ○化學藥品室 iron-humonium, iron-salphate. 牡丹花の白瓶 詩あり

[やぶちゃん字注:「湘南公立工業學校」湖南公立工業専門学校のことであろう。ウィキの「湖南大学によれば、一九二六年二月一日に、『湖南公立工業専門学校・湖南公立商業専門学校・湖南公立法政専門学校が合併し』て、「省立湖南大学」が設立したとある。現在の湖南大学である。

「惟楚有材 於斯爲盛――白堊號房」「惟(おもん)みるに、楚に材、有り。斯(ここ)に於いて盛(せい)たり」で「楚には確かな人材がある。ここに於いてこそ、それは最も多いのである」の謂いであろう。住友電工社長松本正義氏のブログの「中国・長沙への出張」に、長沙市内の「中国四大書院」(学校)の一つである「岳麓書院」(ウィキの「岳麓書院」を参照されたい)を訪問されたとあり、ここは北宋の開宝九年(九七六年)に開校され、宋・元・明・清を経、現在の「湖南大学」に受け継がれている、とある。そこに『書院の門に「惟楚有材」、「於斯為盛」と書かれた二枚の縦額が掲げられており、いかに、楚の国は人材が多かったか、また、岳麓書院が人材を輩出していったかを訪問者に告げているのが印象的で』あったと記され、この文句が、門の左右に白亜の地に黒々と記されている対聯の前での松本氏に写真が載る。「白堊號房」とは、「白い受付の建物」の謂いである。

「成立大會」不詳。岳麓書院の再興を意味する額文か?

「學達性天(コウキ)」岳麓書院にある、一六八七年に康熙帝が贈った額文。

「エンダン」「演壇」?

「道南正脈」岳麓書院にある、一七四三年に乾隆帝が贈った額文。

「小さキ桐」はママ。

iron-humonium」なる化学物質は存在しない。綴りの誤りと思われる。以下の“iron-”が衍字と考えるならば、“Iron ammonium sulfate”(硫酸アンモニウム鉄)が考えられ、 “iron-salphate”“iron sulfate”(硫化鉄)の誤りとも考えられる。]

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