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2016/12/26

突堤にて   梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和二九(一九五四)年八月号『文学界』に発表された。底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集第六巻」を用いた。

 その解題によれば、本篇は現行の梅崎春生の「魚の餌」(昭和二八(一九五三)年十月号『改造』に発表。「青空文庫」のこちらで電子化されている。私の偏愛する一篇である)とともに『もともと一つの小説であり』、戦前の昭和一七(一九四二)年、同人誌『生産人』に「防波堤」という題名、「丹尾鷹一」というペン・ネームで発表されたものが原型であり、かく戦後、『分割して再発表するにあたって、梅崎は部分的に加筆や削除をほどこしており、とくに』この『「突堤にて」の後半を占めている〈日の丸オヤジ〉のエピソードは完全に戦後の加筆であるが、その他の素材や文体は、ほとんど手つかずのまま当時の作品が流用された』と記されてある。

 一部、段落末にオリジナルに語注を施した。]

 

 

   突堤にて

 

 

 どういうわけか、僕は毎日せっせと身支度をととのえて、その防波堤に魚釣りに通っていたのだ。ムキになったと言っていいほどの気の入れかただった。太平洋戦争も、まだ中期末期までは行かず、初期頃のことだ。

 その防波堤は、青い入海に一筋に伸びていた。突端のコンクリートの部分だけが高くなっていて、そこに到る石畳の道はひくく、満潮時にはすっかり水にかくれてしまう。防波堤の役にはあまり立たないのだ。これは戦争が始まって資材が不足してきたせいで、未完成のまま放置されたものらしい。

 だからまだ水のつめたい季節には、引潮のときに渡り、また引潮をねらって戻らねばならぬ。

 しかし春も終りに近づいて水がぬるんでくると、海水着だけで釣道具をたずさえ、胸のあたりまで水に没して強引に渡る。帽子の中にはタバコとマッチを入れ、釣竿とビクと餌箱を胸の上にささげ持ち、すり足で歩く。その僕の身体を潮が押し流そうとする。また本来ならば、畳んだ石にカキが隈(くま)なくくっついているのだが、撒餌に使う関係上みんなが金槌で剝がして持ってゆく。剝がした跡には青い短い藻が一面にぬるぬると密生して、草履をはいていても時には辷(すべ)るのだ。辷ると大変だ。潮にさからって元のところに泳ぎ戻るまでには、たいてい餌箱から生餌が逃げてしまっている。逃げられまいと餌箱を空中にささげれば、今度はこちらが海水を大量に飲まねばならない。

 餌にも逃げられず、自分も海水を飲まないためには、始めから滑らないように用心するに越したはない。そこで僕らはのろのろと、潮の流れの反対に体を曲げて、長い時間の後三町ほども先にある突端にやっとたどりつくのだ。突端は海面よりはるかに高いから、満潮時でも水に浸ることはなかった。僕はそこでビクを海に垂らし、餌箱を横に置き、コンクリートにあぐらをかいて釣糸をたれる。帽子の中からタバコを振出し、ゆっくりと一服をたのしむのだ。僕のはく煙は、すぐに潮風のためにちりぢりに散ってゆく。

[やぶちゃん注:「三町」約三百二十七メートル。]

 その突端の部分は、幅が五米ぐらい、長さが三十米ほどもあったと思う。表面は平たくならされたコンクリートで、雨の時には雨に濡れ、晴れの時には日に灼(や)ける。海をへだてて半里ぐらいのところから、灰色の市街が横長く伸びている。戦争中でもここだけは隔絶された静かな場所だった。

 この突堤にその頃集っていた魚釣りの常連のことを僕は書こうと思う。

 先に書いたように、満潮時でもこの突堤にたどり着こうというからには、常連たちは万一を考えて水泳術を身につけていなくてはならない。それに一応の体力をも。――しかし僕より歳若いのはこの突堤に、日曜や休電日をのぞいては、ほとんどあらわれなかったようだ。(戦争中のことだからこれは当然だ)。皆僕と同じくらいか、大体に年長者ばかりだった。そして概して虚弱な感じの者が多かった。僕はその前年肺尖カタルをやり、いわばその予後の身分で、医師からのんびりした生活を命じられていたのだ。医者はその僕に、特に魚釣りに精励せよと命令したのではないが、僕の方で勝手に魚釣りなどが予後には適当(オゾンもたっぷりあるし)だろうと、ムキになって防波堤に通っていたわけだ。無為でのんびりというのは僕にはやり切れなかった。今思うと、魚釣りというものはそれほど面白いものではないが、生活の代償とでも言ったものが少くともこの突堤にはあった。それがきっと僕を強くひきつけたのだろう。

[やぶちゃん注:「休電日」戦時中、渇水や石炭不足などから慢性的な電力不足となり、全国で(但し、実施曜日は各地域でバラバラ)電気供給を停止する日を設けていた。

「僕はその前年肺尖カタルをやり」「肺尖カタル」は肺尖(肺の上部の尖端部。鈍円形で、鎖骨の上側の凹部に位置する)のカタル(英語:catarrh:広く、感染症によって生じる諸臓器の粘膜腫脹と、粘液と白血球からなる濃い滲出液を伴う病態。但し、当時は肺尖部に生じたそれは肺結核の初期病変をわざとぼかして称することが多かった。「加答兒」と漢字を当てたりした)。梅崎春生は事実、東京都教育局教育研究所に勤務していた昭和一七(一九四二)年一月、召集を受けて対馬重兵隊に入隊したものの、そこで肺疾患が見つかって即日帰郷となり、同年一杯、福岡県津屋崎療養所、後に福岡市街の自宅で療養生活をしている。]

 

 ここには何時も誰かが釣糸を垂れていた。僕は夜釣りはやらなかったが、夜は夜でチヌの夜釣りがいる。大体二十四時間誰かがここにいることになるのだ。少しずつ顔ぶれはかわって行くようだが、それでも毎日顔を合わせる連中は自然にひとつのグループをつくっていた。この連中と長いこと顔を合わせていて、僕は特に彼等の職業や身分というものを一度も感じたことはなかった。彼等は総体に一様な表情であり、一様な言葉で話し合った。いわば彼等は世間の貌(かお)を岸に置き忘れてきていた。

[やぶちゃん注:「チヌ」条鰭綱スズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii の別名、或いは中型の成魚の呼称。主に関西以南で、かく呼ばれる。]

 そしてこの連中のなかで上下がつくとすれば、それはあくまで釣魚術の上手下手によるものだった。こういう世界は常にそのようなものだ。碁会所、撞球場、スケートリンク。そんなところのどこでも、上手の人が漠然とした畏敬の対象となるように、この突堤でも上手なやつはやや横柄にふるまうし、初心者は控え目な態度をとる。その傾向があった。意識的でなく、自然に行われていた。しかしそれもはっきりときわ立ったものではない。きっぱりと技術だけが問題になるのではなく、やはりそこらに人間心理のいろんな陰影をはらんでくるようだったが。

 そしてこの連中には漠然とではあったけれども、一種の排他的とでも言ったような気分があった。僕が始めてここに来た時、彼等は僕にほとんど口をきいて呉れなかった。僕が彼等と話を交わすようになったのは、それから一ヵ月も経ってからだ。僕だって初めは彼等に変な反撥を感じて、なるべく隔たるようにして釣っていたのだが、どういう潮加減かある日のこと、メバルの大型のがつづけさまに僕の釣針にかかってきたのだ。その日から彼等は僕に口をきき始めた。そして僕は連中の仲間入りを許された。思うに連中の排他的気分というのは、つまりこのような微妙な優越感に過ぎないのだ。僕もこれらに仲間入りして以来、やがてそんな排他的風情(ふぜい)を身につけるにいたったらしいのだが。

[やぶちゃん注:「メバル」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科又はメバル科メバル属メバル(アカメバル)Sebastes inermis 或いは同属の近縁種シロメバル Sebastes cheni・クロメバルSebastes ventricosus の孰れかである。]

 たとえば日曜日になると、この防波堤はたくさんの人士でうずめられる。勤人、勤労者、学生、それに女子供などが、休日を楽しみにやって来るのだ。それを突堤の常連は『素人衆(しろうとしゅう)』と呼んで毛嫌いをした。だから日曜日には常連の顔ぶれは半減してしまう。素人衆とならんで釣るのをいさぎよしとしないらしい。素人とさげすみはするものの、しかし僕の見るところでは、両者の技倆(ぎりょう)にそれほどの差異があるようには思えなかった。本職の漁師から見れば両者とも素人だし、それに実際並んで釣ってみると、日曜日の客の方がよけい釣ったりすることがしばしばなのだ。ただ両者に違う点があるとすれば、魚釣りにうちこむ熱情の差、そんなものだっただろう。それにもひとつ、日曜日の客たちは常連とちがって、ここに来てもひとしく世間の貌で押し通そうとするのだ。たとえば人が釣っているうしろで大声で話をしたり、他人のビクを無遠慮にのぞいて見たり、そんなことを平気でやる。そうした無神経さが常連の気にくわなかったのだろう。僕もそれは面白くなかった。

 

 常連と口をきくようになってから、僕は彼等からいろんなことを教えられた。たとえば糸やツリバリの種類、どういう場合にどんな道具が適当であるかなど。また餌の知識。釣具店で売っているデコやゴカイより、岩虫の方が餌として適当であり、さらに突堤のへりに付着する黒貝が最上であることも知った。それから釣竿を自分でつくるなら、この地方における矢竹の産地や分布なども。

[やぶちゃん注:「デコ」。環形動物門多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ超科ゴカイ科 Perinereis 属イソゴカイ Perinereis nuntia var. brevicirris。「岩デコ」「ジャリメ」「スナイソメ」などとも呼ぶ。

「ゴカイ」現在はゴカイ科カワゴカイ属のヤマトカワゴカイ Hediste diadroma・ヒメヤマトカワゴカイHediste atoka・アリアケカワゴカイHediste japonica の三種に分割されているものの総称通称。かつてはカワゴカイ属ゴカイHediste japonicaの正式単一和名と学名で示されてきたが、近年の研究によって、同属の近縁なこれら三種を一種と誤認していたことが判明、「ゴカイ」という単一種としての「和名」は分割後に消滅して存在しないので注意されたい。

「岩虫」多毛綱イソメ目イソメ科 Marphysa 属イワムシMarphysa sanguinea。「イワイソメ」「マムシ」などと呼ばれる大型種。

「黒貝」斧足(二枚貝)綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イガイ属イガイ Mytilus coruscus

「矢竹」単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ヤダケ属ヤダケ Pseudosasa japonica

 しかし畢竟(ひきょう)そんな道具や餌に凝っても、この突堤で釣れるのは雑魚に過ぎなかった。メバルやボラ、ハゼ、キスゴやセイゴ、せいぜいそんなものだったから。

[やぶちゃん注:「ハゼ」条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科 Gobiidae に属する多様な種及び体型の似た別な魚類を総称するが、食用目的ならば、天麩羅にして美味いゴビオネルス亜科マハゼ属マハゼAcanthogobius flavimanus である。

「キスゴ」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目キス科 Sillaginidae のキス類、或いは狭義では知られたキス科キス属シロギス Sillago japonica の異名。

「セイゴ」出世魚のスズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus の呼称の一つであるが、この呼称は地方によって異なる(例えば関東では全長二十センチから三十センチ程度までのものを「セイゴ」(鮬)と呼ぶようだが、私の一般的認識では、もっと小さな五センチから十八センチのものを「セイゴ」と呼ぶように思う)。]

 ある日僕は持って行ったゴカイを使い果たしたものだから、常連から得た知識にしたがって、海中にざんぶと飛び込んで黒貝を採坂しようとした。水面近くのは皆採り尽してあるから、かなり深いところまでもぐらねばならない。苦労して何度ももぐり、やっと一握りの黒貝を採ったけれども、さて突堤に上ろうとすれば、誰かに上から手を引っぱって貰わねば上れない。ところが皆知らぬふりをして、釣りに熱中しているふりをよそおって、誰も僕に進んで手を貸そうとして呉れなかったのだ。知らんふりをしているのに、助力を乞うことは僕には出来なかった。莫迦(ばか)な僕は、水泳は医師から禁じられているのにもかかわらず、防波堤の低い部分までエイエイと泳いでしまった。

 その時僕はずいぶん腹を立てたが、後になって考えてみると、特に彼等が僕だけに辛く当ったわけではないようだ。そういうのが彼等一般のあり方だったのだ。彼等は薄情というわけでは全然ない。つまり連中のここにおける交際は、いわば触手だけのもので、触手に物がふれるとハッと引っこめるイソギンチャクの生態に彼等はよく似ていた。こういうつき合いは、ある意味では気楽だが、別の意味ではたいへんやり切れない感じのものだった。

 

 こんなことがあった。

 その日は沖の方に厭な色の雲が出ていて、海一面に暗かった。ごうごうという音とともに、三角波の先から白い滴がちらちらと散る。三十分後か一時間あとかに一雨来ることだけは確かだった。しかしその時突堤の内側(ここは波が立たない)で魚が次々にかかっていたから、誰も帰ろうとしなかった。雨に濡れたとしても、夏のことだから困ることはないし、第一突堤にやって来るまでに海水に濡れてしまっている。だから皆困った顔をするよりも、むしろ何時もより変にはしゃいでいるような気配があった。

「一雨来るね」

「暗いね」

「沖は暗いし、白帆も見えない、ね」

 そんな冗談を言い合いながら、調子よく魚を上げていた。その時、僕の傍の男が、ぽつんとはき出すように言った。

「もっと光を、かね」

 もっと光を、というところを独逸(ドイツ)語で言ったのだ。僕はそいつの顔を見た。そいつはそれっきり黙ってじっとウキを眺めている。

[やぶちゃん注:「もっと光を」ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)の最後の言葉とされるもの。“Mehr Licht!”で、音写するなら「メア・リィヒト!」。]

 その男は四十前後だろうか、どんな職業の男か、もちろん判らない。いつも網目にかがったワイシャツを着込んで、無精髪をぼさぼさと生やしている。さっきの言葉にしても、思わず口に出たのか、誰かに聞かせようとしたのか、はっきりしない。はっきりしないが、僕はふいに「フン」と言ったような気持になった。魚釣りの生活以外のものを突堤に持ちこんだこと、それに対する反撥だったかも知れない。それにまたえたいの知れない自己嫌悪。

 この弱気とも臆病ともつかぬ、常連たちの妙に優柔な雰囲気のなかで、ときに争いが起ることもあった。とり立てて言う原因があるわけでもない。ごく詰まらない理由で――たとえば釣糸が少しばかりこちらに寄り過ぎてるとか、くしゃみをしたから魚が寄りつかなくなってしまったじゃないかとか、そんな詰まらないことからこじれて、急にとげとげしいものがあたりにみなぎってくるのだ。しかしそれが本式の喧嘩(けんか)になることはまれで、四辺(まわり)からなだめられたり、またなだめられないまでも、うやむやの中に収まってしまう。しかしそんな対峙の時にあっても、そいつら当人の話は、相手を倒そうという闘志にあふれているのではなく、両方とも仲間からいじめられた子供のような表情をしているのだ。そのことが僕の興味をひいた。彼等は二人とも腹を立てている。むしゃくしゃしている。が、それは必ずしも対峙した相手に対してではないのだ。それ以外のもの、何者にとも判然しない奇妙な怒りを、彼等はいつも胸にたくわえていて、それがこんな場合にこうした形で出て来るらしい。うやむやのままで収まって、また元の形に背を円くして並んでいる後姿を見るたびに、僕は自分の胸のなかまでが寒くなるような、他人ごとでないような、やり切れない厭らしさをいつも感じた。そういう感じの厭らしさは、僕がせっせと防波堤に通う日数に比例して、僕の胸の中にごく徐々とではあるが蓄積されてゆくもののようだった。

[やぶちゃん注:「対峙」二つの対象(勢力)が向き合ったまま、動かないでいること。]

 

 一度だけ殴(なぐ)り合いを見た。

 その当事者の一人は『日の丸オヤジ』だった。

 日の丸オヤジというのは、僕よりもあとにこの突堤の常連に加わってきた、四十がらみの色の黒い男たった。背は低かったが肩幅がひろいし、指も節くれ立ってハリや竿のさばきがあまり器用でない。工員というタイプの男だ。

 この日の丸オヤジはいつもの態度は割におどおどしている癖に、へんに図々しいところがあった。いつも日の丸のついた手拭いを持っている。腰に下げていることもあるし、鉢巻きにしていることもある。工場からの配給品なのだろう。そこで日の丸オヤジという仇名がついていた。もっともこの突堤では、常連はお互いに本名は呼び合わない。略称か仇名かだ。ここは本名を呼び合う『世間』とはちがう、そんな暗黙の了解が成立していたからだろう。

 その日の丸オヤジがナミさんという男と言い合いになった。どういう原因かと言うと、餌の問題からだ。大の男たちがただの餌の問題で喧嘩になってしまった。

 その日、日の丸オヤジは持ってきた餌を全部魚にとられてしまったのだ。

 そこで日の丸オヤジががっかりして周囲を見廻すと、コンクリートの地肌の上をゴカイが二匹ごそごそと這っている。これさいわいとそれを摑(つか)んでハリにつけたと言うのだが、ナミさんの言によるとそのゴカイは自分の餌箱から逃げ出したもので、逃げ出したことは知っていたが、魚の方で忙しかったし、たかがゴカイの脚だからあとで摑えようと思ったとのこと。それを勝手にとったのは釣師の仁義に反すると言うのだ。

 僕らは口を出さず、黙って見ていた。

 すると両者の言い合いはだんだん水掛論になってきた。たとえばゴカイが逃走して、餌箱から何尺離れたら、そのゴカイの所有権はなくなるか、と言ったようなことだ。こういうことはいくら議論したって結論が出ないにきまっている。

 誰も眺めているだけで止めに出ないものだから、ついに日の丸オヤジが虚勢を張って、何を、と立ち上ってしまった。ナミさんもその気合につられたように立ち上ったが、そのとたんに二人とも闘志をすっかり失ってしまったらしい。あとは立ち上ったその虚勢を、如何にして不自然でないように収めるか、それだけが問題のように見えた。ところがまだ誰も仲裁に入らない。見物している。

 二人は困惑したようにぼそぼそと、二言三言低声で言い争った。そして日の丸オヤジはおどすようにのろのろと拳固をふり上げた。それなのにナミさんがじっとしているものだから、追いつめられた日の丸オヤジはせっぱつまって、本当にナミさんの頭をこつんと叩いてしまったのだ。

 叩かれたナミさんはきょとんとした表情で、ちょっとの間じっとしていたが、いきなり日の丸オヤジの胸をとって横に引いた。殴(なぐ)った日の丸オヤジは呆然としていたところを、急に横に押され、よろよろと中心を失って、かんたんに海の中にしぶきを立てて落っこちてしまったのだ。泳ぎがあまり得意でないと見えて、あぷあぷしている。

 そこで皆も大さわぎになり、濡れ鼠になった日の丸オヤジをやっとのことで引っぱり上げたが、可笑しなことには、下手人のナミさんが先頭に立って、シャツを乾かすのを手伝ったりして世話を焼いたのだ。そして別段仲直りの言葉を交わすこともしないで、漠然と仲直りをしてしまった。シャツが乾いて夕方になると、いつもは別々に帰るくせに、この日に限ってこの二人は一緒に談笑しながら防波堤を踏んで帰って行った。

 正当に反撥すべきところを慣れ合いでごまかそうとする。大切なものをギセイにしても自分の周囲との摩擦を避けようとする、この連中のそんなやり方を見て、やっと彼等に対する僕のひとつの感じが形をはっきりし始めたようだった。もちろんその中に僕自身を含めての感じだが、それはたとえば道ばたなどで不潔なものを見たときの感じ、それによく似ているのだ。

 

 日の丸オヤジはこの突堤へ二ヵ月ほども通って来ただろうか。そしてある日を限りとして、それ以後姿を全然あらわさなくなった。へんな男たちから連れて行かれてしまったのだ。

[やぶちゃん注:最終一文の「から」はママ。]

 その日は秋晴れのいい天気で、正午をすこし廻った時刻だったと思う。丁度引潮時で、突堤と岸をむすぶ石畳道はくろぐろと海水から浮き上っていた。その道を踏んで、見慣れない風態の男が三人、突端の方に近づいてきた。見慣れない風態というのは、釣り師風ではないというほどの意味だ。石の表のぬるぬる藻で歩きにくいと見え、靴を脱いで手に持ち、裸足に縄をくるくる巻きつけている。近づいてきたのを見ると、その一人は警官だった。そして彼等はヤッとかけ声をかけて突軽に飛び上った。

 あとの二人もがっしりした体つきの、いかにも権力を身につけた顔つきをしていた。

 僕らはもちろんそ知らぬ顔で糸をたれたり、エサをつけかえたりしていた。

「……はいないか」

 と警官が大きな声を出した。警官の制服で足に縄を巻きつけている図は、なんとも奇妙な感じだった。

 日の丸オヤジはその時弁当のニギリ飯を食べていたが、ぎくりとしたように警官の方にむき直った。

「お前だな!」

 背広姿の男の一人が日の丸オヤジを見て、きめつけるように言った。日の丸オヤジは、ヘエッ、というような声を出して、どういうつもりかニギリ飯の残りを大急ぎで口の中に押し込んだ。

「ちょっと来て貰おう」

「ヘエ」

 日の丸オヤジは口をもごもごさせながら、釣道具をたたもうとしたが、思い直したようにそれを放置して、男たちの方に進み出た。背広の一人が言った。

「釣道具、持って来たけりゃ持って来てもいいんだぞ」

「ヘエ、いいんです」

「じゃ、早く来い」

 と警官が言った。日の丸オヤジはうなだれて、まだ口をもごもご動かしながら警官の前に立った。その時背広の一人が僕らを見廻すようにして、

「ヘッ、この非常の時だというのに、こいつら呑気に魚釣りなどしてやがる」

 とはき出すように言った。僕らはそっぽ向き、また横目で彼等を眺めながら、誰も何とも口をきかなかった。

 やがて日の丸オヤジは三人に取り巻かれるようにして突堤を降り、石畳道を岸の方にのろのろと遠ざかって行った。その情景は今でも僕の瞼の裡にありありとやきついている。

 日の丸オヤジがどういうわけで連れて行かれたのか、僕は今もって知らない。あるいは工場に徴用され、それをさぼって魚釣りなどをしていたのをとがめられたのか。常連たちもそれについて論議をたたかわすことは全然しなかった。外見からで言うと、日の丸オヤジはその翌日から常連のすべてから忘れ去られてしまった。

 オヤジの釣道具、放棄したビクや釣竿などは、誰も手をつけないまま、三日ほど突堤上に日ざらしになっていた。そして三日目の夜の嵐で海中にすっかり吹っ飛んでしまったらしい。四日目にやって来たら、もう見えなくなってしまっていた。

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