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2016/12/18

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(7) 耳塚の由來

 

    耳塚の由來

 

 尚此と關聯して考へられる一事は、京都の大佛の前に在る耳塚が、純乎たる近世史の史蹟では無いらしいといふことである。太閤秀吉の朝鮮征伐は、成程つい三四百年前の來事だが、京都人の好奇心はそれから後にも數々の傳説を發生せしめて居る。だから耳塚の如きも只の話かも知れぬと、自分などは曾て考へて居たのであるが、實際は方々の諸侯家に、確かなる證文が殘つて居るといふ。但し其證文に依ると、朝鮮から甕に漬けて送つて來たのは鼻であつた。それを何故に耳塚と呼ばせたかに至つては、やはりまだ解決せられざる疑問である。ところが國々には此以外に同名の塚が、よくも搜して見ないのに既に十何箇處とある。古くしてしかも京の耳塚に似て居たのは、筑前香椎の濱に在つた耳塚、是は延寶年間に發いて見たが、内は僅かに三間ばかりの石室で、四尺程の刀のみが納めてあつた。それを畏れ多くも神功皇后の御事蹟に、久しい前から附會して居たのである。伊豫の新濵の耳塚山なども、今は塚處の有無さへ明かでないが、やはり越智益躬が播州蟹阪に於て、外寇の賊將銕大人及び其從者を誘ひ殺し、其耳を馘して持還つて埋めたと傳へて居た。丸々歷史には無ささうな話である。

 之に由つて考へて見るのに、耳塚は謂ふが如き異賊退治の決算報告では無くして、寧ろ今後の侵犯に備ふべき豫算の如きものではなかつたか。江戸でも上澁谷の長泉寺の境内に加藤淸正が朝鮮から取つて末た耳を埋めたといふ耳塚があつたさうだが、斯うなると全く信じにくい。それから武藏野に入つて行くと、府中の西南分倍河原(ぶばいがはら)の地續きにも、亦小さな耳塚があつたが、其附近に弘長年間の古碑があつたといふのみで由來は知れず、其上になほ頸塚だの堂塚だのもあつて、いくら古戰場でも成程とは言へなくたる。其他備前の龍ケ鼻の耳塚、日向の星倉の耳田塚の如きも、單に古戰迹であるから空漠たる想像が浮ぶといふのみで、實は後からさういふ名を付したのかも知れなかつた。

 信州でも有明山の麗の村に、可なり有名なる耳塚傳説があつた。田村將軍に滅ぼされた中房山の大魔王、魏石鬼(ギシキ)の耳を切つて埋めたと稱し、是にも亦首塚立足村等の地名由來談が附隨して、頗る我々の蚩尤傳説と名くるものに接近して居る。規模に於ては勿論京都の耳塚に劣るが、其宗教的威力に至つては、或は彼を指導するに足るものがあつた。死屍を分割して三つ七つの塚に埋めたといふ口碑は、大抵は山と平野、若くは二つの盆地の堺などに發生する。密教の方には之を説明する教理も出來て居るらしいが、要するに無類の慘虐を標榜して、外より來り侵す者を折伏する趣旨に出たものらしく、しかもそれは近代の平和生活に對しても、多少の實用ある言ひ傳へであつた。土佐の本川郷の山奧などにも、伊豫との堺に接して耳塚があつた。「曾て豫州の者數十人竊かに材木を取る。追つて之を捕へ耳切りて之を埋めたりといふ」と土佐州郡誌には記してあり、寺川郷談には「以前盜人の耳をそぎ、箱に入れ御城下へ出し、其後御境目へ埋め置き候やう申し來り、卽ち埋めて今耳塚といふ」ともある。果して其通りの事があつたか無かつたか。あやふやな所に深い意味があつたやうに思ふ。

[やぶちゃん注:「京都の大佛の前に在る耳塚」「京都の大佛」とはその旧跡である方広寺のこと。というより、現在は豊国神社の前(西方)と言った方が判りがよい。ここ(グーグル・マップ・データ)。「鼻塚」とも言うが、こういう部分になると、俄然、柳田の書き方は官僚的学者丸出しで、如何にも歯切れが悪い。お分かりと思うが、この耳は鼻は鹿でも兎でもない、豊臣秀吉が「文禄・慶長の役」(文禄元年から翌二年(一五九二~一五九三年)と、休戦を挟んだ慶長二年から翌三年(一五九七~一五九八年の国外への侵略戦争)で朝鮮の人々を虐殺、その戦功の証しとして首級を持ち帰る代わりに彼らの鼻や耳を削ぎ落とし、塩漬けにして持ち帰って、この地に埋めて供養したとされる遺跡である(約二万人分という)。「都名所図会」の方広寺の条には、

   *

耳塚は二王門の前にあり。文祿元年朝鮮征伐のとき、小西攝津守、加藤肥後守を大將として數萬(すまん)の軍兵(ぐんぴやう)を討取り、首を日本へわたさんこと益なければ刵(みみきり)・劓(はなそぎ)して送り、このところに埋(うづ)み、耳塚といふ。

   *

とある。ウィキの「耳塚」によれば、この塚は慶長二(一五九七)年に築造され、同年九月二十八日に『施餓鬼供養が行われた。この施餓鬼供養は秀吉の意向に添って』行われ、『京都五山の僧を集め盛大に』催されたものとされる。『当時は戦功の証として、敵の高級将校は死体の首をとって検分したが、一揆(兵農分離前の農民軍)や足軽など身分の低いものは鼻(耳)でその数を証した。これをしないのを打捨という。また、運搬中に腐敗するのを防ぐために、塩漬、酒漬にして持ち帰ったとされる。検分が終われれば、戦没者として供養し』、『その霊の災禍を防ぐのが古来よりの日本の慣習であり、丁重に供養された』という。まあ、こんなことした罰だわな、秀吉が死んでから甕に塩漬けにもされたのだろうよ。

「筑前香椎の濱に在つた耳塚」これは現在の福岡県福岡市東区香椎(かしい)にある香椎宮付属とされる「耳塚(みみづか)」(馘塚(きりみみづか)とも)で、古伝承では神功皇后が三韓征伐の際に討ち取った新羅人の耳或いは首を納めて祀ったとされる塚。元寇襲来の時のものであるとか、近年では前の京のそれと同じく、文禄慶長の役の際の朝鮮人の耳塚とする近代以降の説も出ているが、これらの説には根拠はないという(ウィキの「耳塚」に拠る)。

「延寶年間」一六七三年~一六八一年。

「三間」約五メートル四十五センチ。

「四尺」約一メートル二十一センチ。

「伊豫の新濵の耳塚山」現在の愛媛県松山市高浜新浜飛地北山にあるというが、現在はの所在は不明(「愛媛県生涯学習センター」公式サイト内のこちらの資料に拠った)。

「越智益躬」「おちのますみ」と読んでおく。ウィキの「予章記」(よしょうき)によれば(「予章記」は中世、伊予国を根拠として栄えた「越智氏」一族の「河野氏」が自らの氏族の来歴を記した文書とされ、現在の研究では応永元(一三九四)年に死去した同族の河野通義の没後に成立したものではないかと推測されている)、『河野氏の祖先は小千益躬(越智益躬)という武将とされる。小千益躬は「百済の軍勢が鉄人を押し立てて日本に攻めてきた時、鉄人の足の裏を射抜いてこれを撃退した」人物であるという。小千益躬の子孫に小千玉輿という人物が出たが、この人物の異母弟が南越国から父を捜して難波までやって来たので、越国との縁を表す為に小千の時を越智に変え、さらにこの人物(越智玉澄と名乗った)の子孫が河野氏となったとされる』とある。何だか、ギリシャ神話の自動人形タロスみたような話やないかい。

「播州蟹阪」兵庫県明石市和坂(かにがさか)のことか?

「銕大人」「てつだいじん」。

「上澁谷の長泉寺」現在の渋谷区神宮前にある曹洞宗慈雲山長泉寺か。

「分倍河原」現在の東京都府中市内である多摩川河畔の分倍河原。

「弘長」一二六一年~一二六三年。

「堂塚」前が「頸塚」じゃ、これは「胴塚」じゃあ、ねえのかい?

「備前の龍ケ鼻の耳塚」これは「耳塚」ではなく、備前市香登本(かがともと)にある「千人鼻塚」 のことではないか? 宇喜多秀家の家老長船紀伊守の旗持ちであった六助なる人物が朝鮮出兵から帰国した後、塩漬けにして送られた鼻を貰いうけ、故郷に持帰って手厚く葬ったと伝えるものである。

「日向の星倉の耳田塚」場所は宮崎県日南市大字星倉か。ここ(グーグル・マップ・データ)。耳田塚は不詳。

「有明山の麗の村に、可なり有名なる耳塚傳説があつた」「有明山」は、現在の長野県安曇野市及び北安曇郡松川村に属する北アルプスの山。標高二千二百六十八メートル。ウィキの「魏石鬼八面大王」(ぎしきはちめんだいおう)によれば、魏石鬼八面大王は『長野県の安曇野に伝わる伝説上の人物。「八面大王」とは、「魏石鬼(義死鬼)」の別称である。出典となった『信府統記』に読み仮名がないため、正式な読み方は不明である。やめのおおきみ(八女大王)と読んで、福岡県八女の古代豪族磐井との繋がりも考えられている』。『妻の「紅葉鬼神」ともども坂上田村麻呂によって討伐されたという『信府統記』の記述に基づく伝説が、広く松本盆地一帯に残っている。『仁科濫觴記(にしならんしょうき)』に見える、田村守宮を大将とする仁科の軍による、「八面鬼士大王」を首領とする盗賊団の征伐を元に産まれた伝説であると考えられている』。『松本藩により享保年間に編纂された地誌、『信府統記』(第十七)に記される伝承の概略は次のようなものである』。『その昔、中房山という所に魏石鬼という名の鬼賊が居た。八面大王を称し、神社仏閣を破壊し民家を焼き人々を悩ましていた』。延暦二四(八〇五)年、『討伐を命ぜられた田村将軍は安曇郡矢原庄に下り、泉小太郎ゆかりの川合に軍勢を揃え、翌』大同元(八百六)年に『賊をうち破った』という。『穂高神社の縁起では、光仁天皇のころ義死鬼という東夷が暴威を振るい、のち桓武天皇の命により田村利仁』『がこれを討ったという』。『また、八面大王に関連した地名や遺跡に関する以下のような記述もある』。『中房山の北、有明山の麓の宮城には「魏石鬼ヶ窟」がある』。『討伐軍が山に分け入る際に馬を繋いだのが今の「駒沢」で、討ち取った夷賊らの耳を埋めたのが「耳塚」、賊に加わっていた野狐が討ち取られた場所が「狐島」であるという』。『八面大王の社と称する祠もあるという。一説には、魏石鬼の首を埋めたのが「塚魔」であり、その上に権現を勧請したのが今の筑摩八幡宮(つかまはちまんぐう)とされる』(下線やぶちゃん)。『魏石鬼の剣は戸放権現に納められたというが、この社の所在は不明である。剣の折れ端は栗尾山満願寺にあり、石のような素材で鎬(しのぎ)があり、両刃の剣に見える』。『この件に関する『信府統記』の記述はすこぶる表面的であり、上記のように坂上田村麻呂と藤原利仁の混同』『をはじめとするおとぎ話的な側面を多く含むことは否めない。決定的なことは、坂上田村麻呂は』、延暦二〇(八〇一)年の『遠征以降、征夷の史実はないという点である。加えて、文中のコメントは伝聞調で「云々(うんぬん)」、「とかや」が散見しているため、史実としての信頼性を疑わせる』とする一方、「仁科濫觴記」に見られる記述は、お伽話的要素を含まず、実見したように詳細であり、歴史的整合性もあって、さらに部分的には典拠も示されている点で対照的であり、『ここでは「八面大王」という個人ではなく』、八人の『首領を戴く盗賊集団あるいはその首領の自称として「八面鬼士大王」の名で登場する。概略は次のようなものである』。神護景雲(七六七年~七七〇年)末から宝亀年間(七七〇年~七八〇年)にかけて、『民家や倉庫から雑穀や財宝を盗む事件がおきた』。宝亀八(七七七)年の秋に『調べたところ、有明山の麓に盗賊集団(「鼠(ねずみ)」、「鼠族」)の居場所を発見した。その後、村への入り口に見張りを立てたが、盗賊は隙を窺っているらしく、盗みの被害はいっこうにやまなかった。そのうち盗賊たちは、「中分沢」(中房川)の奥にこもって、8人の首領をもつ集団になった。山から出るときは、顔を色とりどりに塗り「八面鬼士大王」を名乗り、手下とともに強盗を働いた。これを憂いた皇極太子系仁科氏3代目の仁科和泉守は、家臣の等々力玄蕃亮』(三代目田村守宮)『を都(長岡京)に遣わして、討伐の宣旨を求めさせた』。延暦八(七八九)年二月上旬、『朝廷より討伐命令が下ったため、等々力玄蕃亮の子の』四代目田村守宮(生年二十五歳)を追手の大将とし、総勢二百名ほどで偵察を行い、それに基づいて搦手の『大将高根出雲と作戦計画を立てた後、まず退治の祈祷を行った』上で、延暦八年二月二十三日に作戦が決行された。『まず、前々の夜から東の「高かがり山」(大町市)に火をたかせた。田村守宮率いる部隊は、夜半に「八面大王」一派のいる裏山に登り、明朝の決行を待った後』、翌二十四日の夜明けとともに、『ほら貝を吹き時の声をあげながら一気に山を下った。搦手も太鼓を打ち鳴らし時の声をあげた。寝起きを襲われた盗賊団は驚いて四散したが、多くの者は逃げ切れなかった。大将の田村は大声で「鬼どもよく聞け。お前たちは盗賊を働き人々の家の倉庫を打ち壊して財宝を盗んだことは都にも知られている。勅命に従って討伐に来た。その罪は重いが、これまで人命は奪ってはいない。速やかに降参すれば、命だけは助けよう。手向かえば、一人残らず殺すが、返事はいかに」といった。すると盗賊団はしばらく顔を見合わせた後、長老が進み出て、太刀を投げ出し、考えてから両手を付いた。そして「貴君の高名はよく承知しております。私の命はともかくも、手下たちの命はお助け下さい」といった。そして、抵抗を受けずに全員が縄にかけられ、城に連行された』。『合議によって、長老一人を死罪とし、残りは耳をそいでこの地から追放することとなった。すると、村の被害者たちが地頭(この職も平安末期以降であり、当時は無かった)とともに、私刑にしたいので彼らを引き渡して欲しいと嘆願に来た。これを切っ掛けとし、等々力玄蕃亮は考え直し、もう一度合議して、長老の死罪を許し』、八人の『首領を同罪として両耳そぎ、残りの手下は片耳そぎに減刑することに改めた』。『耳そぎの執行の日、田村守宮は罪状と判決を述べた後』、『立ち去った。そのため、役人が耳をそぎだすと、恨みある村人が我も我もと争って』、七十人あまりの『盗賊の耳そぎが執行された。そがれた耳は、血に染まった土砂とともに塚に埋められて、耳塚(安曇野市穂高有明耳塚)となった。その後、盗賊の手下たちは島立(松本市島立)にて縄を解かれ』、『追放された。一方の残る』八人の『首領は、恨みを持った村人たちによって道をそれて山の方に連れて行かれた。そして口々に、「これまでは公儀の裁きであった。これからは我らの恨みをはらすぞ。天罰であると思い知れ」といって、掘った大穴に突っ込まれた後、石積みにされて殺された。そのために、この場所を「八鬼山」(松本市梓川上野八景山(やけやま))というようになった』(下線やぶちゃん)。『その後追放された盗賊団の手下たちは、もともと安曇の地に産まれた者たちであったので、日が経つにつれて徐々に親兄弟、知人を頼って、秘かに故郷に戻りかくまわれていた。そのことを聞き知った仁科和泉守は』、延暦二四(八〇五)年に、父の仁科美濃守の百歳の『祝いにあわせて彼らを免じ、八鬼山の地と』三年分の『扶持を与えて、開墾を奨励した』とする。「仁科濫觴記」の話は『具体的であることから、この戦いに実際に参画したか』、『あるいはその近辺にいた者による記述の可能性が考えられている』。『これを史実として認めるとすると、上記の「八面大王」と呼ばれた盗賊団を捕えた大将とは、田村守宮であった。この田村守宮の「田村」が征夷で著名な坂上田村麻呂の「田村」と混同され、さらに上述した藤原利仁との混同が起る形で、さまざまな伝説として残ることとなった可能性が、在野の郷土歴史家仁科宗一郎によって詳しく考察されている』とある。

「立足村等の地名由來談」旧長野県南安曇郡にあった村。後に穂高町となり、現在は安曇野市となっている。サイト「名前の由来」の『「体」の地名』の「耳塚(みみづか)」の項に、「角川日本地名大辞典」からとして、『長野県安曇野市穂高有明耳塚。地名は地内の耳塚と称する古墳にちなむ塚には、古くから耳の神様として近在の人々に知られる「大塚様」の祠鳥居がある耳塚の成立については安曇氏の墳墓で、「みみ(耳)」はその尊称であるとも魏石鬼八面大王の耳を埋めた塚であるとも伝承される。付近の立足村は八面大王の足を埋めた地、新屋地内の矢村は坂上田村麻呂が八面大王を射殺した時の山鳥の羽の矢を献じた人にちなんだものなどの地名説話がある。いずれも有明山の霊地をめぐる伝説である』とある(下線やぶちゃん)。

「蚩尤傳説」「蚩尤」は「しいう(しゆう)」と読み、本来は中国の伝説上の人物で、黄帝と戦い、濃霧を起こして苦しめたが、指南車を作って方位を測定した黄帝に涿鹿(たくろく)で敗れたとされる。ウィキの「蚩尤」によれば、『獣身で銅の頭に鉄の額を持ち、また四目六臂で人の身体に牛の頭と蹄を持つとか、頭に角があるなどといわれる』。『砂や石や鉄を喰らい、超能力を持ち、性格は勇敢で忍耐強く、黄帝の座を奪うという野望を持っていた。同じ姿をした兄弟が』八十人くらい『いたという。戦争にあっては、神農氏の時、乱を起こし、兄弟の他に無数の魑魅魍魎を味方にし、風、雨、煙、霧などを巻き起こして黄帝と涿鹿の野に戦った(涿鹿の戦い)。濃霧を起こして敵を苦しめたが、黄帝は指南車を使って方位を示し、遂にこれを捕え殺したといわれている』。『捕らえられた蚩尤は、諸悪の根源として殺されたが、このとき逃げられるのを恐れて、手枷と足枷を外さず、息絶えてからようやく外された。身体から滴り落ちた鮮血で赤く染まった枷は、その後「楓(フウ)」となり、毎年秋になると赤く染まるのは、蚩尤の血に染められた恨みが宿っているからだという』とある。所謂、中央政権にまつろわぬ異民族集団が、「戦さ神」とされ、零落したパターンである。

「密教の方には之を説明する教理も出來て居る」不詳。識者の御教授を乞う。

「折伏」「しやくぶく(しゃくぶく)」。

「土佐の本川郷の山奧などにも、伊豫との堺に接して耳塚があつた」「本川」は「ほんがは」で高知県中央北部で土佐郡の村。かつてこの村から東隣の大川村を含む一帯は本川郷と呼ばれ、周囲から隔絶した山間地で中世には〈本川五党〉と称する五人の土豪がいたという。こちらのページに、「自念子(じねんこ)越えの耳塚」とあり、土佐藩の時代(一六四〇年頃)、『この辺り一帯は藩直轄の「お留山」であり、良林であったので、伊予側から国境を越えてやってくる森林盗伐組が跡を絶たず、よって盗人を捕えると耳をそぎ、墓をつくって埋めたといわれる。その跡を耳塚又は、耳墓と呼んでいる』とある。

「寺川郷談」「てらかはきやうだん」と読む。江戸中期、同地に駐在した土佐藩山廻役春木氏の記した書。]

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