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2016/12/25

芥川龍之介 手帳6 (11) / 手帳6~了

 

○漢口のバンド プラタナス アカシア (支那人不可入)芝生 ベンチ 佛蘭西水兵 印度巡査 路の赤 樹幹の白 垣のバラ 讌月樓 水越ゆる事あり(大正四年?) Empire Holiday. 

[やぶちゃん注:「バンド」英語の“bund”で、埠頭のこと。

「讌月樓」現代仮名遣で「えんげつろう」であるが、不詳。因みに「讌」は「宴(うたげ)」の意である。旅館や料理屋よりも、女郎屋の名前っぽい気が私にはする。

「大正四年」一九一五年。芥川龍之介特派の六年前。

Empire Holiday」は五月二十四日を指している 即ち、これはEmpire Day”で“Commonwealth Day”の旧称、ヴィクトリア女王の誕生日であるイギリス連邦記念日である。芥川龍之介は大正一〇(一九二一)年五月二十四日の朝、廬山を出発、九江から大安丸に乗船して漢口に向かった。漢口到着は二十六日頃であるから、この記載は、溯上し終えた最後の日に纏めて記したメモかとまずは思われるしかし、実は彼は漢口から五月二十九日に長沙に出かけ、その後に洞庭湖を見たと思われ、新全集の宮坂覺氏の年譜では、再度、漢口に六月一日頃に戻っているらしい(年譜は推定で書かれてある)から、時系列を考えると、これはその時にそれら総てを纏め書きしたものとも思われる。]

 

○京漢線 車室――fan. 小卓 ベッドNo3. boyの□ 沿道――麥刈らる 靑草に羊群 墓の常緑 牛 驢 土壁

[やぶちゃん注:「京漢線」現在の鉄道路線である京広線(北京西から広州に至る路線で全長二千三百二十四キロメートル)の北側部分(北京から漢口までの間)。一九〇六年四月に開通した時点でこの路線を「京漢線」と呼称した。

fan」扇風機。

「□」は底本の判読不能字。

「驢」ロバ。]

 

○穴居門 方形アアチ 方形石積 門ニ對聯 門外ニ塀アリ 屋上即畑 ○赤土 草 ポプラア 層 ○鞏縣前殊に立派なり

[やぶちゃん注:「穴居門」不詳。

「鞏縣」現在の河南省鄭州(ていしゅう)市の県級市鞏義(きょうぎ)市。芥川龍之介は鄭州で京漢線を降りて隴海線(ろうかいせん)に乗り換え、洛陽に向かっているので通過している。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

○洛水 蘇岸の家 舟 偃師縣後風景明媚 ――後 洛水に沿ふ 旋風を見る 羊 畑 井戸 麥刈らる

[やぶちゃん注:「洛水」黄河の支流の一つである「洛河」のこと。古くは「洛水」の名で知られる。参照したウィキの「洛河」によれば、『華山西南部の陝西省洛南県を源とし、東の河南省に流れ込み、河南鞏義で黄河に入る。全長』四百二十キロメートルと、非常に長い』。『大きい河川ではないが、中国中部の歴史上最も重要な地区を流れているため、中国国内では非常に有名な河川である。洛河周辺の重要な都市は盧氏、洛寧、宜陽、洛陽、偃師、鞏義などがある。三国時代の曹植作の有名な「洛神賦」は洛水の女神に仮託して故人の情懐を述べ表している』とある。

「蘇岸」不詳。

「偃師縣」現在の河南省洛陽市にある県級市偃師(えんし)市。かの玄奘三蔵の出生地である。]

 

○忠義神武靈佑仁勇威顯關聖大帝林 (石龜 圍――龍 )建安二十四年洛陽城南 ○乾隆三十三年河南府知府李士适 ○丹扉 煉瓦壁 丹柵 柏 白馬 白羊

[やぶちゃん注:「忠義神武靈佑仁勇威顯關聖大帝林」

「建安二十四年」後漢の元号。二一九年。

「乾隆三十三年」清の元号。一七六八年。

「河南府知府李士适」(一七九八年~?)は日本語の音なら「リ シカツ」。但し、中文サイトで見ると、彼が河南府知府に任ぜられたのは、乾隆三十五年である。芥川龍之介が「五」を「三」に読み違えたか、或いは旧全集編者の誤読かも知れぬ。

「丹扉」「丹柵」丹(に)塗りの扉・柵の謂いであろう。]

 

○睿賜護國千祥庵 碑林 煉瓦門 草長し ○迎恩寺 麥の埃の香 薄暮 路の高低 大寺(タアシイ)だと云ふboy.

[やぶちゃん注:「睿賜護國千祥庵」「睿賜」とは唐朝の皇帝睿宗(えいそう)が創建したということか? 「千祥庵」は、Q&Aサイトの答えに、かつて洛陽にあった寺院で、解放前には古代の石刻を多く所蔵していたらしい、とある。

「迎恩寺」中文サイトを見ると、現在の洛陽市内に現存する模様。「福王朱常洵」(明朝の第十四代皇帝の三男)の事蹟を記した邦文のページに、洛陽の、この寺の名が出るが、同一かどうかは不明。

「(タアシイ)」はルビではなく、本文。「大寺」の中国語“dàsì”の音写であるが、正確には「ダァスゥ」である。]

 

〇龍門 25淸里 高梁一尺 麥刈らる 麻 驢六(藍) 步四(鼠) 小使二(白) 騾逐ひ(白衣藍袴) 那一邊是龍門(ナイペンシロンメン)○十尸村は泥上の如し(村四つ) 裸の子供 皆指爪をいぢる 立て場の屋前 葭天井あり 刈しままの黍天井あり 燒餠(シヤオピン) 麻餠(マアピン)(汽車中) 糯の中に棗を入れしもの(チマキ式) 茹玉子 魚の油揚

[やぶちゃん注:「龍門」現在の河南省洛陽市の南方約十三キロメートルのところにある、後に出る伊河の両岸に存在する石窟寺院である龍門石窟のこと。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「龍門石窟」によれば、『北魏の孝文帝が山西省の大同から洛陽に遷都した』四九四年から始まる非常に古い石窟寺院である。『仏教彫刻史上、雲岡石窟の後を受けた、龍門期』(四九四年~五二〇年)『と呼ばれる時期の始まりである』。『龍門石窟の特徴は、その硬さ、すなわち雲岡石窟の粗い砂岩質と比較して、緻密な橄欖岩質であることである。そのため、北魏においては雲岡のような巨大な石窟を開削することが技術的にできなかった』。「魏書」の「釈老志」にも、五〇〇年に、『宣武帝が孝文帝のために造営した石窟は、規模が大きすぎて日の目を見ず、計画縮小を余儀なくされた顛末を記している』。『様式上の特徴は、面長でなで肩、首が長い造形であり、華奢な印象を与える点にある。また、中国固有の造形も目立つようになり、西方風の意匠は希薄となる。裳懸座が発達して、装飾も繊細で絵画的な表現がされるようになる』。最初期は五世紀末の『「古陽洞」窟内に見られる私的な仏龕の造営に始まる。宣武帝の計画を受けて開削された「賓陽洞」』三窟(後出)の内、『実際に北魏に完成したのは賓陽中洞のみであり、南と北洞の完成は唐の初期であった。その他、北魏時期の代表的な石窟としては、「蓮華洞」が見られる。また、北魏滅亡後も石窟の造営は細々とながらも継続され、「薬方洞」は北斉から隋にかけての時期に造営された石窟である』。『唐代には、魏王泰が賓陽』三『洞を修復し、褚遂良に命じて書道史上名高い』「伊闕仏龕碑を書かせ」、六四一年に『建碑した。初唐の代表は』、六五六年~六六九年『(顕慶年間〜総章年間)に完成した「敬善寺洞」である。その後、「恵簡洞」や「万仏洞」が完成し、この高宗時代に、龍門石窟は最盛期を迎えることとなる』。『絶頂期の石窟が』、六七五年に『完成した「奉先寺洞」である。これは、高宗の発願になるもので、皇后の武氏、のちの武則天も浄財を寄進している。その本尊、盧舎那仏の顔は、当時既に実権を掌握していた武則天の容貌を写し取ったものと言う伝説があるが、寄進と時期的に合わず今では否定されている。また、武則天は弥勒仏の化身と言われ尊像としても合わない。龍門最大の石窟である』。『武則天の時代には、西山の南方、「浄土洞」の付近まで造営が及んだので、武則天末より玄宗にかけての時期には、東山にも石窟が開削されるようになった。「看経寺洞」がその代表である』とある。因みに、芥川龍之介の配下と目された作家たちは芥川龍之介の生前から「龍門」と呼ばれたから、そういう意味でも彼にはここは何か親しみを感ずるものがあったのかも知れぬ。

25淸里」清代の一里は五百七十六メートルであるから、十四キロメートル強。

「騾」は、奇蹄目ウマ科ウマ属Equusのウマとロバの交配種ラバ(騾馬)Equus asinus♂× Equus caballus。因みにラバは不妊である。

「(ナイペンシロンメン)」及び「(シヤオピン)」「(マアピン)」は総てルビ。「那一邊是龍門」“nà yībiān shì lóngmén(ナ イピエン シ ルゥォンメン)で「ここら一帯が龍門です」の意。

「燒餠」は“shāobĭn”(シァオピィン)、「麻餠」は“mábĭn”(マァーピィン)。前者はうどん粉を練って薄くのしたものを焼いて表面にゴマをまぶしたもの。後者は甘い餡饅(あんまん)の一種かと思われる。

「步」不詳。「步兵」で軍服を着た人間のことか?

「騾逐ひ」ラバを追う農夫であろう。

「那一邊是龍門(ナイペンシロンメン)」始めっから、例の教え子にオンブにダッコした。それによれば、意味は「あの辺りが龍門です」である。但し、通常なら「那邊是龍門」と言うところであるが、「一」を入れることによって場所を特定させるための、ワン・クッション効果が高まるという。教え子はここに『更にご参考までに申し上げれば、北方では「那邊」を「ネイビエン」と読むのが自然です(「一」が入った場合の発音と近いので敢えて付記しました)』と附記し、『蛇足ですが、もし「哪一邊是龍門」だと疑問文「どのあたりが龍門ですか?」なので要注意です』と教えて呉れた。これは「那」が第四声、「哪」は第三声で、声調によって意味が異なってくるからだそうである。さて、「那一邊是龍門」をピンインで表記すると“nà yī biān shì lóng mén”で、カタカナの最も近い表記は「ナーイービエンシーロンメン」だということである。謝謝!

「十尸村」不詳。村名としては何だか、洒落にならない気がするのだが。]

 

○洛水の渡し――伊水 對岸に香山寺あり 賓陽三洞(案内人曰中央ハ中央、右ハ右云々) 左の洞に竈あり 燻る事最甚し 洞に至る前もう一洞あり perhaps 蓮華洞 その洞前水を吐く所あり 石欄 靑石標 樹木 見物人支那人二三人 車にのりし女 乞食と犬と立て場に食を爭ふ 男は梅毒

[やぶちゃん注:「伊水」洛河の支流で洛陽の南方を流れ、龍門石窟を抜ける。先の龍門石窟の地図データを参照されたい。

「香山寺」龍門石窟の向い側の川岸に「香山」という山があり、石穴の数は少ないがやはり山腹に石窟がある。ここに白居易が長年住んだ香山寺があり、彼の墓所もここにある。

「賓陽三洞」「龍門」の注を参照。個人サイト「おもしろくない? タイリポート」の中の「西安・洛陽旅行記」の河南省・龍門石窟~賓陽三洞の歴史~が画像もあり、歴史も詳しく載っている。

「竈」「かまど」。

「燻る」「くすぶる」。

「蓮華洞」龍門」の注を参照。やはり、個人サイト「おもしろくない? タイリポート」の中の「西安・洛陽旅行記」の河南省・龍門石窟~蓮花洞~に解説があり、窟内の画像も素敵! 行ってみたくなった。]

 

○鴻運東棧囘々教 豚を忌む 道士ト店 北京の骨董屋 庭中に大鉢植 醋の匀 マアチヤンの群 星空 吉田博士の宿 アラビヤ字の軸 珈琲 棧房Chan (tsan) fan.

[やぶちゃん注:「鴻運東棧」ここで切れているのではあるまいか? これは恐らく旅館の名ではないか?

「囘々教」「豚を忌む」で判る通り、イスラム教のこと。

「道士ト店」の「ト」は表記通り、カタカナ「ト」であるが、ここで格助詞「と」がカタカナになるのはやや不自然にも思える。回教寺院の中に道士と売店の取り合わせというのも妙である。一つの可能性として「道士卜店」で、道士による占いを生業とする店舗という意味ではあるまいか?

「醋」「す」。酢。

「マアチヤン」は“merchant”(商人)の謂いか。

「棧房Chan (tsan) fan」は旅館の室房。「棧」の音をウエード式ローマ字で示した“chàn”(拼音“zhàn”:チァン)に、発音しやすい類似音表記である“tsan”を併記し、「房」の音“fáng”(ウエード式・拼音共通:ファン)を簡易表記で示したものであろう。即ち、「棧房」の中国音「チャンファン」のメモである。

 

○洛陽 停車場――支那町 不潔――石炭場――黑土――左に福音堂(米) 右に城壁――麥黃――乞食

[やぶちゃん注:「福音堂(米)」アメリカの宣教師が建てた教会の意か?]

 

○鄭州 兵營grey) 練兵 馬 乞食(臥) 室は白 龍舌蘭二鉢 白い拂子bedにかかる

[やぶちゃん注:「拂子」「ほつす(ほっす)」「ほっ」も「す」もともに唐音。元来はインドで虫や塵を払うための具で、獣毛や麻などを束ねて柄をつけたもの。後世、中国・日本で僧が説法などで威儀を正すために用いる法具となった。]

 

○光はうすき橋がかり

 か行きかく行き舞ふ仕手は

 しづかに行ける楊貴妃の

 きみに似たるをいかにせむ

[やぶちゃん注:以下、六篇の定型文語詩は、恐らく、芥川龍之介の遺稿を佐藤春夫が編集した昭和八(一九三三)年三月岩波書店から刊行された芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠Sois belle, sois triste.」の詩群の最初期草稿と採ってよい。私は既に同作を注附きで公開しており(HTML横書PDF縦書)、ブログ・カテゴリ「澄江堂遺珠」という夢魔」では徹底追及を進行中である。次の一篇の私の注も参照されたい。そうすれば、これらが原「澄江堂遺珠Sois belle, sois triste.」の詩群であることを否定しようという人は誰もおらぬはずだからである。]

 

○光はうすき橋がかり

 靜はゆうに出でにけり

 昔めきたるふりなれど

 きみに似たるを如何にせむ

[やぶちゃん注:この一篇は、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」に収められた、抹消されていると佐藤が言う一篇、

 

光は薄き橋がかり

靜はゆうに出でにけり

昔めきたるふりながら

君に似たるを如何にせむ

 

と酷似している。しかも、前の一篇は一行目が本篇と全く一致している。これらは明らかに「澄江堂遺珠Sois belle, sois triste.」の詩群の最初期草稿なのである。]

 

○女ごころは夕明り

 くるひやすきをなせめそ

 きみをも罪に墮すべき

 心強さはなきものを

[やぶちゃん注:この一篇は、岩波版旧全集に於いて――昭和六(一九三一)年九月発行の雑誌『古東多方(ことたま)』から翌七年一月発行の号まで、四回に亙って「佐藤春夫編・澄江堂遺珠」として掲載され、後、昭和八(一九三三)年三月岩波書店から芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」に収められ、その後、昭和一〇(一九三五)年七月発行の「芥川龍之介全集」(それを普及版全集と称する)第九巻に「未定詩稿」の題で所収された――と全集後記で称する(これは正しい謂いではないので注意! それについては、やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅱ ■2 岩波旧全集「未定詩稿」の冒頭注を参照されたい)ところの末尾に『(大正十年)』という編者クレジットを持つ詩群の中に、

 

女ごころは夕明り

くるひやすきをなせめそ

きみをも罪に堕すべき

心強さはなきものを

 

相同の一篇が載る。]

 

○遠田の蛙きくときは(聲やめば)

 いくたび夜半の汽車路に

 命捨てむと思ひけむ

 わが脊はわれにうかりけり

[やぶちゃん注:この一篇は、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」に収められた、抹消されていると佐藤が言う一篇、

 

遠田の蛙聲やめば

いくたび■よはの汽車路に

命すてむと思ひけむ

わが夫はわれにうかりけり

 

(「■」佐藤が一字不明とするものを、かく示した)と酷似している。さらに言えば、旧全集未定稿詩篇の中にもこれがあり、そこでは何と! 最終行に、「わが夫(せ)はわれにうかりけり」とルビが振られているのである。]

 

 

○松も音せぬ星月夜

 とどろと汽車のすぐるとき

 いくたび

 わが脊はわれにうかりけり

[やぶちゃん注:前の一篇と最終行が完全に一致している。]

 

○墮獄の罪をおそれつつ

 たどきも知らずわが來れば

 まだ晴れやらぬ町空に

 怪しき虹ぞそびえたる

[やぶちゃん注:この一篇は、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」に収められた、抹消されていると佐藤が言う断片(完全でない)、

 

たどきも知らずわが來れば

ひがしは暗き町ぞらに

怪しき虹ぞそびえたる

 

 

などとよく似ている。特に「怪しき虹ぞそびえたる」は芥川龍之介の好んだフレーズで、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」草稿と思しいものに複数箇所、発見出来のである。]

 

○人食ふ人ら背も矮く ひそと聲せず 身じろがず

[やぶちゃん注:「矮く」「ひくく」と訓じているか。不気味な七・五・七・五の定型文語詩であるが、分かち書きもしておらず、内容面(如何にも不気味で鬼趣と言える)からも、私は前の六篇の詩群とは別個なものと採る。

 但し、この一篇は私に直ちに、「湖南の扇」のエンディングで、名妓玉蘭が処刑された愛人黄老爺の血を滲み込ませたビスケットの一片を「あなたがたもどうかわたしのやうに、………あなたがたの愛する人を、………」と言って「美しい齒に嚙」むコーダのシークエンスを想起させる。そうして、そういった視点から見ると、実は前の六篇の詩篇も含めて、「湖南の扇」のモデルとなった先に出る「支那人饅頭を血にひたし食ふ」という聴き書きのエピソードを元に創作した仮想詩篇であるような気もしてくるのである。

 

 以上で、芥川龍之介の手帳6は終わっている。]

 

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