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2016/12/24

芥川龍之介 手帳6 (9)

 

○北海碑(墻門) 石階 筧 雜草 麓山寺碑亭(白かべ) ○劉中丞祠 崇道祠(コノ中ニ朱シアリ) 六君子堂 梧桐 芭蕉 ザクロノ花 ○劉人熈 湖南督軍都督 墓――半成

[やぶちゃん注:「北海碑」「北海」は盛唐の名臣で書家としても知られる李邕(りよう 六七八年~七四七年)のこと。玄宗の時、北海太守に任命されたことから、世に「李北海」と称された。ウィキの「李邕」によれば、『英才で文名高く、また行書の名手であった。碑文の作に優れ、撰書すること実に』八百本に『のぼり、巨万の富を得たといわれる』。『晩年は唐の宗室である李林甫に警戒され、投獄され杖殺されて非業の死を遂げた』とあり、これは彼「北海」の書いた麓山寺「碑」のことであろう。建碑は七百三十年で碑文は二十八行・各行五十六字から成るもので、書体は行書、『湖南省長沙の嶽麓書院に現存する。碑の篆額には「麓山寺碑」の』四字を『刻し、碑末の年記の次に「江夏黄仙鶴刻」とあるが、仙鶴とは李邕のことであるという。碑は宋代の頃から、剥落がひどく、拓本で佳品は稀である。麓山寺は嶽麓寺(がくろくじ)ともいわれることから、この碑を『嶽麓寺碑』ともいう』とある(下線やぶちゃん)。中文ブログのこちらで、碑が現認出来る。なお、麓山寺(ろくざんじ)は長沙市の岳麓山にある仏教寺院で、西晋の二六八年の建立。弥勒菩薩・釈迦如来・五百羅漢像・千手千眼観音菩薩を祀る(ここはウィキの「麓山寺」に拠った)

「墻門」「しやうもん(しょうもん)」建物の門口のこと。前の注のブログ写真を見ると、少なくとも現行では碑のための鞘堂の如きものがあって、その戸口の直近に碑が建っているのが判る。

「麓山寺碑亭(白かべ)」芥川龍之介が別な碑を誤認したのではなく、前の「北海碑」の私が鞘堂みたようなと言った建物を指すならば、中文ブログ写真で判る通り、現在は黄土色に塗られている(その写真を見るに、屋根は龍之介の来訪時のものかも知れぬが、壁はかなり新しい感じである。或いは、龍之介拝観当時とは場所が移っている可能性もあるか)。

「劉中丞祠」不詳。「劉中丞」は検索では中文サイトでかなり掛かるが、読めないので比定出来ない。次の「湖南大学岳麓書院数字博物館」の岳麓書院の紹介ページには見た感じでは、この祠はない。現存しない可能性もあるか。

「崇道祠」ウィキの「岳麓書院」によれば、一五二七年、長沙知府王秉良(へいりょう)が増築した建物で、南宋の優れた儒者朱熹を祀るもののようである(中文であるが、「湖南大学岳麓書院数字博物館」公式サイト内のこちらを見られたい)

「六君子堂」ウィキの「岳麓書院」に、一五二六年に六君子堂(朱洞・李允則・劉珙・周式・陳鋼・楊茂元)が学道許宗魯と知府楊表によって建立された、とある。「湖南大学岳麓書院数字博物館」の中に「改建六君子堂碑記」の画像と解説が載る。

「劉人熈」宮原佳昭氏の、清末から一九二〇年代にかけての教育行政について記された論文「近代における湖南省教育会について」の中に、湖南教育総会設立(一九〇七年)当初の会長は劉人煕であった、とある。また、サイト「小島正憲の凝視中国」の「上海の毛沢東 vs 北京の孔子」に、辛亥革命後の一九一四年に、『王船山に傾倒していた湖南開明派の劉人煕が船山学の普及のため、湖南省長沙の地に「船山学社」を創設した』。一九一九年に『劉人煕が死去したあと、閉鎖状態になっていたものを』、一九二一年、『湖南第一師範学校を卒業した毛沢東がマルクス主義の教育と宣伝のために「湖南自修大学」として再開した。もっぱら自学自習に重点が置かれており、最盛期には』二百人ほどの『学生が学んでいたという』。一九二三年、『危険思想を教えているという理由で、軍閥政府によって強制的に閉鎖された』とある「劉人煕」と同一人物であろう。

「半成」半分までしか出来ていないの謂いか?]

 

○愛晩亭 錢南園 張南軒 二南詩刻 ○岳麓寺(万壽寺) 古刹重光(赤壁) 設所釋氏佈教ダンモハン養成所 香積齋堂 山路 雲麓宮 望湘亭

[やぶちゃん注:「愛晩亭」ウィキに写真附きで「愛晩亭」がある。『湖南省長沙市にある亭』(四阿)。『醉翁亭、陶然亭、湖心亭と共に、江南四大名亭の』一つと『される。清代の』一七九二年、『当時の岳麓書院の院長であった羅典によって建立』された、とある。

「錢南園」清の官僚で画家でもあった錢灃(せんほう 一七四〇年~一七九五年)の号である。彼は湖南学政であったことがある。

「張南軒」南宋の儒学者(朱子学の濫觴のグループに属する)で政治家であった張栻(ちょうしょく 一一三三年~一一八〇年)の称の一つ「南軒先生」。ウィキの「張栻」によれば、『広漢(四川省)の出身。宰相・張浚の子として生まれ、将来の大儒を目指して胡宏(五峰)に学ぶ。初めは直秘閣に任じられ、その後は地方官を歴任し、中央に戻ってからは吏部侍郎から右文殿修撰になった。金に対して主戦論を保持し、たびたび国防・民政に関する上奏を奉じ、宰相・虞允文からは疎まれたが』、『孝宗の信任は厚かった。後に王夫之は『宋論』のなかで張栻を「古今まれに見る大賢ではあるが、王安石以来の人材迫害・言論弾圧に懲りて世間を離れることに努め、才能を振るおうとしなかった」と惜しんでいる』とある。ウィキの「岳麓書院」によれば、一一六五年、『湖南安撫使の劉珙は書院を修復する。張栻が書院教事に就任する』。一一六七年、『儒学者の朱熹はここに』於いて講義を行い、一一九四年には湖南安撫使となっていた『朱熹は書院を重修した』とある(下線やぶちゃん)。

「二南」不詳としたら、即座に教え子が調べて呉れた。中文サイトページに解説が載り、中文サイページで岳麓書院にある当該碑の写真が見られる。教え子がその一部を訳して呉れたので転載する。『傾斜した石畳を下ってゆくと、もう、愛晩亭は近い。愛晩亭に行く前に、まず、放鶴亭へ。そこには二南の詩碑がある。二南というのは張南軒と銭南園。張は道学者、銭は第一級の人物。屢々汚職官吏を弾劾した誉れ高い方々。詩や書画などにおいても名声を馳せている』。そうか、銭「南」園と張「南」軒で「二南」か。脳の硬直化した私はそれにさえ気づいていなかった。

「岳麓寺(万壽寺)」中文ウィキの「麓山寺」に、同寺は明の神宗から「万壽寺」の称を賜った旨の記載がある。

「古刹重光」不詳。現在は「重光寺」という寺院を長沙には見出せない。

「設所釋氏佈教ダンモハン養成所」不詳。「釋氏佈教」は、釈迦の教えである仏教に基づくの謂いであろうけれども、「ダンモハン」で検索を掛けると、悲しいかな、私の「芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊)」しか掛かってこないのだ。

「香積齋堂」不詳。但し、「香積」(こうしゃく)とは「香気に満ちた世界」の意で、「維摩経香積品」によれば、そこに住む如来の名(香積如来)でもあるとされるから、ここはそれを斎(いつ)き祀る堂とも採れる。しかし、実はその「香りの満ちた場所」の意から転じて、禅宗では食事を調理する庫裡(くり)をも「香積」と呼び、また「齋」は本邦の「とき」であって、禅僧の御前中の一日ただ一回の食事を指す語でもある。龍之介が禅寺の厨(くりや)の名称をわざわざメモに記すとも思われぬので、一応、前者で採っておく。

「雲麓宮」現在の長沙市岳麓山にある道観(道教寺院)。ウィキに「雲麓宮」がある。明代の一四七八年に『吉簡王・朱見浚により創建された。当時は洞真観と称した』。嘉靖(一五二二年~一五六六年)年間に『太守孫複と道士李可経は道観を再建』、隆慶(一五六七年~一五七二年)に『再建された際、関聖殿(前殿)、玄武祖師殿(中殿)、三清殿(後殿)の建立にあたっては、従来通り』、『復元することが求められた。明末、清兵入関の火難で、道観は両度焼き捨てられた』。清代の一六六二年、『長沙分巡道張睿は道観を再建した。乾隆年間』(一七三六年~一七九五年)『は道観を重修した』。一八五二年、『道観は戦災で壊された』。道光(一八二一年~一八五〇年)年間、『望湘亭が修築され』一八六二年には『望江亭、五岳殿、天妃殿、宮門を増築した。翌年、武当山太和宮道士の向教輝が資金を募り全面修復した』。この後の、一九四四年の『日中戦争の時、雲麓宮は日本軍の戦闘機で爆破された』。一九四六年、『道士鄔雲開と呉明海が資金を募』って『全面重建し、翌年に落成した』。一九五七年に地元政府が修復をしたが、『文化大革命の初め、神像、法器は徹底的な破壊に遭い、道士はしかたなく還俗した』。一九七六年、『関帝殿を修復』とある(下線やぶちゃん)。

「望湘亭」前の道観雲麓宮にある亭。前注下線部参照。]

 

〇二階 白 天窓 三段の書架 35万卷 經史子集 宋 元板は上海に送つた 元板の文選 北宋金刻本の捭雅 南宋本ノ南岳 總勝集 端方贈(巡撫時代の紀念) ○紺ノ馬掛子 金のメガネ 白皙 葉尚農(德輝) ○白壁 甎 天井高し 伽藍ノ感ジ ○板木ニ朱卜黑ト二種アリ ○高イ墻の屋根ニ小サナ木ガ生エテヰル ○入口 門(黑) 石敷 植木鉢 室輿四五(綠色の蔽) 皇帝畫像

[やぶちゃん注:「元板」彫琢した印刷用版木の原板の謂いであろう。

「捭雅」不詳。

「南岳」中身は判らぬが、中文サイトに『宋刻本』『南岳稿』という書か。

「總勝集」宋の陳田夫撰になる湖南の地誌「南嶽總勝集」。「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典籍総合データベース」のこちらで読める。

「端方」清末の満州族出身の官僚端方(ドゥワン ファン 一八六一年~一九一一年)。ウィキの「端方」によれば、一八八二年に『挙人となり、員外郎、候補郎中を歴任した。戊戌の変法を支持したが、戊戌の政変後には栄禄(ジュンル)と李蓮英の保護を受けて、処罰を免れた』。一八九八年、『直隷霸昌道に任命されたが、朝廷が北京に農工商局を創設すると、端方は召還されて局務を任された』。その折り、勧善歌を上呈して『西太后の称賛を受けて、三品頂戴を授かった』。『その後、陝西省に派遣され、按察使、布政使、巡撫代理を歴任した』。一九〇〇年、『義和団の乱により北京が』八カ国連合軍に『占領され、西太后と光緒帝は陝西省に逃れた。端方はその応対に功績があったとして、河南布政使に転任し、さらに湖北巡撫に昇進』、一九〇二年には『湖広総督代理となり、さらに両江総督代理や湖南巡撫を歴任した』。一九〇五年、『北京に呼び戻され、閩浙総督に任命されたが就任する前に、載沢(ヅァイジェ)・戴鴻慈・徐世昌・紹英(ショーイン)とともに外国へ立憲制度の視察に赴くように命じられた』(但し、『出発日に革命派の呉樾の自爆テロがあったため、出発は延期され、徐世昌と紹英が李盛鐸と尚其亨に交代し』ている)。十二月七日、『軍艦で秦皇島から上海に赴き』、十二月十九日に『アメリカ船で上海を出発した。五大臣は日本、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、オーストリア=ハンガリー、ロシアの十ヶ国を視察し、翌年の』八月に『帰国した。帰国後、視察の結果を総括して、『請定国是以安大計折』を上奏し、日本の明治維新にならって憲法を制定することを主張した。さらに自ら編纂した『欧美政治要義』を献上した。これは立憲運動の重要な著作とみなされている』。『帰国後、両江総督となり』、一九〇九年に『直隷総督となった』。一九一一年、『清朝の鉄道国有化政策に対して四川省で保路運動が展開されると』、九月に『朝廷は四川総督の趙爾豊を解任し、端方に代理を命じた。端方は新軍を率いて資州に入ったが』、十一月二十七日に『新軍の反乱が起き、端方は刺殺された』。『端方は中国の新式教育の創始者の一人である。湖北・湖南巡撫にあったときには各道・府に師範学院を創設した。江蘇巡撫在任時には中国初の幼稚園「湖北幼稚園」と省立図書館を創設し、多くの留学生を派遣した。両江総督在任時には南京に南学堂(現在の南大学)を設立した』。『湖北幼稚園は張之洞が設置を計画し、後任の端方が』一九〇三年に『担当者を日本に派遣し、教材教具の購入と保母として日本人教習』三名を招請、『その中の元東京女子高等師範学校教諭だった戸野みちゑが初代園長に就任し』、一九〇四年に開園させている。戸野らは一八九九年に『公布された日本の「幼稚園保育及設備規程」を元に「湖北幼稚園開弁章程」を作成し、中国における公的な幼児・女子教育制度の先鞭となった』とある(下線やぶちゃん)。

「巡撫」明・清時代の地方長官職。「巡行撫民」の略で、当初は中央から派遣される臨時職であったが明の宣徳年間(一四二六~三五)頃から主要地方に常設され、省又はその一部を管轄するようになった。

「馬掛子」「馬掛兒(マアクワル)」(măguàér)のことであろう。日本の羽織に相当する上衣で対襟となったもので、「掛」は本来は「褂」が正しい。

「白皙」「はくせき」。皮膚が白いこと。

「葉尚農(德輝)」葉徳輝(一八六四年~一九二七年)は清末から民国初期の考証学者にして蔵書家。内藤湖南や徳富蘇峰など、多くの日本人と交流があったことでも知られる。以上は深澤一幸氏の論文『葉徳輝の「双梅景闇叢書」をめぐって』(PDF)に拠った。

「甎」音で「セン」と読み、「磚」「塼」の字も当てる。東洋建築に用いられた煉瓦 のこと。正方形や長方形の厚い板状のもので、周代に始まって漢代に発展、城壁・墓室などに用いられた。

「墻」「かき」。音は「シヤウ(ショウ)」。垣根。障壁。

「室輿」不詳。貴人の邸宅で、椅子の下部の脚下)に竿がついていて、時には座ったままで、移動可能なものを言うか(脚下としたのは轎のように中間部で出っ張っていては、却って座るのに不便であるからである)。識者の御教授を乞う。]

 

○家ノ大イナルハ木材卜石材多キニヨル

 

○大平亂以後十八省ノ巡撫湖南人トナル ソノ上米ヨク出來ル 故ニ町立派ナリ 學校モ多シ ――古川氏の話

[やぶちゃん注:「大平亂」太平天国の乱。清朝の一八五一年から一八六四年に起こった大規模な反乱。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織「太平天國」によって起きた。「長髪賊の乱」とも称する。

「古川氏」不詳。在中の現地日本人案内人であろう。]

 

○湖南長沙蘇家巷怡園 葉

[やぶちゃん注:「長沙蘇家巷怡園」の「怡園」(いえん)は、長沙に蘇家巷という小路にあった葉徳輝の邸のこと。先に示した深澤一幸氏の論文『葉徳輝の「双梅景闇叢書」をめぐって』(PDF)を参照のこと。]

 

○張繼堯〔湯(弟)〕ト譚延闓トノ戰の時張の部下の屍骸土を蔽ふ事淺ければ屍骸湘江を流る

[やぶちゃん注:「張繼堯」これは恐らく、清末から中華民国初期の軍人張敬堯(ヂャン ジンヤオ ちょうけいぎょう 一八八〇年~一九三三年)の誤りであろう。北京政府及び軍閥の安徽派に所属、後に北方各派・満州国に属した軍人で安徽省霍丘出身。武昌蜂起後の湖北で戦い、一九一五~一九一六年の護国軍の討伐等に参加、一九一八年には段祺瑞(だんきずい)の命を受けて湖南省督軍兼代理省長となったが、専横著しく、一九二〇年六月には直隷派の呉佩孚(ごはいふ)や馮玉祥(ふうぎょくしょう)及び趙恒愓(ちょうこうてき)らによって戦わずして職を追われた。その後、奉天派の張作霖を頼るも、一九二二年の第一次奉直戦争で奉天派が敗れるや、呉佩孚に寝返った。一九三二年には今度は満州国軍に所属、日本軍に連携した諜報活動に従事するも、国民党特務機関のヒットマンに刺殺された。

「湯(弟)」不詳。

「譚延闓」(タン ユエンカイ たんえんかい 一八七九年~一九三〇年)は湖南省茶陵県出身の軍人。一九一二年に袁世凱から湖南都督に任命されたが、同年八月の国民党成立後はこれに参加、国民党湖南省支部長となった。一九一三年の第二革命では省の独立宣言をするも失敗、その後、一九一五年の護国戦争勃発後は当時の湖南都督の専横に対する追放運動が湖南省で発生、一九一五年七月には、当時の湖南都督を追放、一九一六年八月に北京政府から湖南省長兼督軍に任命されている。その後の政権抗争で一時辞職するが、一九二〇年六月には湖南督軍張敬堯を追放、湖南省督軍兼省長に復帰している。しかし、今度は湘軍総司令趙恒愓ら湖南省軍内の権力者との内部抗争が激化、内乱に発展、それを鎮圧出来なかったために、同年十一月に辞職して湖南省から退いた。その後、一九二二年には孫文に接近、一九二三年に大元帥府内務部長から建設部長兼大本営秘書長となり、同年七月には、孫文から湖南省省長兼湘軍総司令に任命され、仇敵趙恒愓と激戦を展開した。趙恒愓は直隷派の呉佩孚から支援を受けて戦局は膠着したため、孫文の命により戦線を離れ、広東省へ向かい、広州での一九二四年の中国国民党第1回全国代表大会で中央執行委員会委員に選出された。孫文の死後も国民党の軍属とし活躍、蒋介石の北伐の後方支援を担った。一九二八年に初代国民政府主席や初代行政院院長を歴任している。実はこの芥川龍之介のメモの、「張繼堯」「ト譚延闓トノ戰の時張の部下の屍骸土を蔽ふ事淺ければ屍骸湘江を流る」というのは、彼の「湖南の扇」に、『「ああ、鳶が鳴いてゐる。」/「鳶が?………うん、鳶も澤山ゐる。そら、いつか張繼堯(ちやうけいげう)と譚延闓(たんえんがい)との戰爭があつた時だね、あの時にや張の部下の死骸がいくつもこの川へ流れて來たもんだ。すると又鳶が一人の死骸へ二羽も三羽も下りて來てね………」』と利用されているのであるが、以上の二人の事蹟を時系列で並べて頂くと分かるのだが、二人がそれぞれの頭目として戦った「張繼堯と譚延闓との戰爭」に相当するものは、ない、と言ってよい。一九一五年の護国戦争及び一九二〇年六月の湖南督軍張敬堯追放時に接点があるが、前者を「張繼堯と譚延闓との戰爭」と呼称するには無理があり、後者は多くの記載が「戦わずして」「追放」という語を用いている。逢えて言うなら、後者によって名前が知られるようになった、この二人が、嘗て加わったところの護国戦争の惨状を、極めて乱暴な非歴史的な形で表現した、と取ることは可能かもしれない。筑摩全集類聚版の「湖南の扇」の脚注では「張繼堯」の表記を「張敬堯」の誤りとし、しかも、さらにそれを湘軍総司令「趙恒愓」の誤りととっているように読める。即ち、一九二三年の「趙恒愓と譚延闓との戦争」(中国で「譚趙之戦」と呼称)ととっている節(ふし)がある。そこでは確かに川面に死体累々たる惨状があったかも知れない(あったであろう)。しかし、それは、ない、のである。何故なら、この主人公及び芥川龍之介が中国に渡航したのは一九二一年だからである。芥川はもしかすると(本篇の執筆は一九二六年)、その後の軍閥抗争の事実と誤ったか、もしくは確信犯で擬似的虚構をここに持ち込んだのかもしれない。現在、この件については中国史の専門家に検討を依頼している(以上は私の「湖南の扇」の注を引いた。但し、残念ながら、二〇一六年十二月現在、依頼した方からの答えは、ない)。]

 

○日淸汽船の傍、中日銀行の敷地及税關と日淸汽船との間に死刑を行ふ 刀にて首を斬る 支那人饅頭を血にひたし食ふ ――佐野氏

[やぶちゃん注:これも「湖南の扇」で美事に利用されている。

「日淸汽船」清末から中華民国期にかけて、中国に於いて長江流域を中心に船舶を運航していた日本企業。

「中日銀行」不詳ながら、日本が資金を出した銀行であろう。

「佐野氏」不詳。]

 

○趙爾巽(前淸巡撫) 關口壯吉(理學士) 赫曦臺も聖廟を毀たんとするに反す 麓岳

[やぶちゃん注:「趙爾巽」(一八四四年~一九二七年)は清末民初の政治家。ウィキの「趙爾巽」によれば、『清末に地方官を歴任し、特に東三省総督時代は辛亥革命勢力の押さえ込みに成功し、後世の史家をして「最も革命の遅れた地方」と言わしめた。辛亥革命後は袁世凱・段祺瑞政権下で『清史稿』編纂の主幹を担った。弟に清末のチベット攻撃などで有名な趙爾豊がいる』とある。詳細事蹟はリンク先を参照されたい。

「關口壯吉」不詳。浜松高等工業学校初代校長が同姓同名であるが、同一人物であるかどうかは分らぬ。

「赫曦臺」「かくぎだい」は岳麓山山頂にある。こちらのブログによれば、『「赫曦」というのは赤い太陽が昇るということです。当時、有名な哲学家である張栻の招きに応じて、朱熹は遠く福建省の崇安から長沙の岳麓書院に講義をしにお越しいただきました。長沙で』二ヶ月あまり『滞在して、朝はよく』、『張栻と一緒に岳麓山の頂上に登って日の出を見ていたんです。朝日が東からのぼって、その日差しがギラギラ光っていて、山、川や町などすべてのものは朝日に浴びています。このシーンを見るたびに、朱熹は興奮してたまらなくて、』「赫曦! 赫曦!」と『手を叩いて叫んでおりました。この故に、彼らが日の出を見るところを「赫曦」と名付けました。その後、栻はそこに舞台を作り上げ、記念の意を表すために「赫曦台」と命名』した、とある。以上のエピソードの時制は中文サイトによれば、宋の一一六七年で、その後、荒廃したが、清の一七九〇年に再興されている。

「聖廟を毀たんとするに反す」後の「麓岳」は岳麓山としか読めないから、さすれば聖廟とは「赫曦臺」であるが、そこを破壊しようとしたのは誰か、それに反抗したのは誰か、判らぬ。後者は麓山寺の僧たちか? 識者の御教授を乞う。]

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