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2016/12/18

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(8) 境の殺戮

 

     境の殺戮

 

 併しそれだけの事由では、まだ耳塚といふ如き小さな名稱が、獨立して永く記念せられるには足りなかつた。是にもやはり獅子舞の御獅子が耳を咬み切られたと云ふ類の、古い神話が來て助けたのである。卽ち耳取りが境の大切なる條件であることを記憶する人々がこの口碑の成長にも參與して居たのである。或は之に基いて鹿よりも今一つの以前の、大昔の生贄慣習を尋ねることが出來るかも知れぬ。實際我々の祖先が信じて居た靈魂の力は餘程今日とは違つて居た。例へば味方の靈でも死ねば害をしたと同じく、敵の怨靈も祭り樣によつては利用する途があつた。殊に堺の山や廣野には、寧ろ兇暴にして容赦の無い亡魂を配置して、不知案内の外來者に襲擊の戈を向けしめようとしたことは、必ずしもよその民族の遠い昔のためしではなかつたのである。人を賴んで川の堤の生柱(いきばしら)に立つてもらひ後に之を水の神に祭つたといふ話などは、勿論たゞの話であらうがあちらこちらに殘つて居る。黑島兵衞だ東尋坊だといふ惡漢が、死ぬると直ぐに信心せられたのも、祟るから祭つたのだといふ説明だけでは、まだ合點の行かぬ所がある。恐らく人間の體内には神と名けてよい部分が前からあつて、それが此上も無く一般の安寧の爲に、必要なものと信ぜられた結果、時としてはわざわざ之を世俗から、引離して拜まうとした風習が曾てあつたので勿論現在の生死觀を適用して見れば、到底忍ぶべからざることには相違ないが、其豫定があつてこそ始めて生牲といふ語が了解せられる。卽ち死の準備の或期間が、人を生きながら神とも爲し得たので、神に供へる鹿の耳切りは、必すしも鹿を以て始まつたる方式で無いのかも知れぬ。

 至つて古い時代の民間の信仰が、獨り其形體を今日に留めて、本旨を逸失した例は無數にある。近世文學の中に散らばつて居る神恠奇異にも、詩人獨自の空想の所産なるが如く我も人も信じて居て實はさうで無いものが多かつた。久しい年代の調練に伎つて、隱約の間に養はれて居た思想が、無意識に折々顏を出すのである。由緒ある各地の行事の中にも同じ名殘は尚豐かに見出される。獅子舞などが既に平和の世の遊樂になつて居ながら、屢殺伐なる逸事を傳ふるも其爲である。伊勢の山田の七社七頭の獅子頭が、常は各町の鎭めの神と祭られつゝ、正月十五日の終夜の舞がすんで後に、之を山田僑の上に持出して刀を揮うて切拂ふ態を演じ、卽座にこれを舞衣に引くるんで、元の社に納めたといふなども、假に如何樣の解説が新たに具はつて居ようとも、到底後の人の獨創乃至は評定を以て、發案せられる類の趣向では無かつたやうである。

[やぶちゃん注:「黑島兵衞」「くろしまひやゑ」と読んでおく。越後の国中心にを荒し廻った巨魁の豪族で、身の丈二メートル五十センチの偉丈夫とする怪人物として伝承に名を残すようである。

「東尋坊」現在の福井県坂井市三国町安島の海岸にある柱状節理の断崖。ウィキの「東尋坊によれば、一説に、『昔、平泉寺には数千人僧侶がいた。その中にいた東尋坊という僧は、怪力を頼りに、民に対して悪事の限りをつくした。東尋坊が暴れ出すと手がつけられず、誰も彼を押さえることが出来なかった。東尋坊はまさにやりたい放題、好き勝手に悪行を重ねていたので、当然のように平泉寺の僧侶は困り果てていた。また東尋坊はとある美しい姫君に心を奪われ、恋敵である真柄覚念(まがらかくねん)という僧と激しくいがみ合った』。寿永元(一一八二)年四月五日、『平泉寺の僧たちは皆で相談し』、『東尋坊を海辺見物に誘い出す。一同が高い岩壁から海を見下ろせるその場所へ着くと、早速岩の上に腰掛けて酒盛りが始まった。その日は天気も良く眺めの良い景色も手伝ってか、皆次第に酒がすすみその内、東尋坊も酒に酔って横になり、うとうとと眠り始めた。東尋坊のその様子をうかがうと』、『一同は目配せをし、真柄覚念に合図を送った。この一同に加わっていた真柄覚念は、ここぞとばかりに東尋坊を絶壁の上から海へ突き落とした。平泉寺の僧侶たちのこの観光の本当の目的は、その悪事に手を焼いた東尋坊を酔わせて、高い岩壁から海に突き落とすことにあった。崖から突き落とされつつ、ようやくそのことに気付いた東尋坊であったが、もはや手遅れ。近くにいた者どもを道連れにしつつ、東尋坊は』、『またたくまに崖の下へと落ちて行った』。『東尋坊が波間に沈むやいなや、それまで太陽の輝いていた空は、たちまち黒い雲が渦を巻きつつ』、起こり、『青い空を黒く染め、にわかに豪雨と雷が大地を打ち、大地は激しく震え、東尋坊の怨念がついには自分を殺した真柄覚念をも』、『その絶壁の底へと吸い込んでいった』。『以来、毎年東尋坊が落とされた』とされる、四月五日の『前後には烈しい風が吹き、海水が濁り、荒波が立ち、雷雨は西に起こり』、『東を尋ねて平泉寺に向ったという』とある。しかし、私は高校時代、破戒僧が死に際に西方浄土をどちらかと尋ね、憎んだ庶民が反対を教え、ここから因果応報で落死したのだ、とバス・ガイドから教わったのを忘れない。]

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