フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 譚海 卷之二 螢火丸まむしを療する事 | トップページ | 甲子夜話卷之三 22 蜷川將監、曾我伊賀守の事 »

2016/12/30

譚海 卷之二 甲州栗・柹・ぶどう等の事

甲州栗・柹・ぶどう等の事

○甲州の内、栗・梨子・ぶどう等の最上なるを産する地は少しばかりの所也。一所は岩崎、一所は勝沼と云(いふ)所也、其餘は尋常のものを産する也。勝沼にては源五右衞門と云ものの葡萄殊の外よろしく出來る也。岩崎にては淸藏といふもののぶどう出來よろし、此はこやしの方(はう)其(その)家傳ありとぞ。其國の方言に、此二箇所のぶどうを親玉と稱す、ぶどうは砂地赤土の所わきてよろし。根のかくるゝまであくたをかけてこやしにする也。つるを切(きり)てみれば殊の外水出來(いでく)るもの也。梨子は實をならする事を平生(へいぜい)心に觀(くわん)じこみてゐる程ならでは、よく出來ぬもの也、とかく煙のくる所よろし。ある人の云、されば本草にも梨は家木の内に有(あり)、これらにてもいはれはしられたりと。甲州にてぶどう・なしなど、よくこやししてみのれば、其遣方(やりかた)によりて、金子十四五兩・二十兩程は壹箇年の入(いり)有(あり)、な まじひの田地(でんち)持(もち)たるよりはまされりといへり。

[やぶちゃん注:「ぶどう」総てママ。歴史的仮名遣なら、本来は「ぶだう」。

「柹」「かき」であるが、本文には出ない。しかし、次注の引用には名産品として柿が出る(下線部)。

「岩崎」現在の山梨県甲州市勝沼町岩崎地区。附近(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「勝沼町の「近世」の項に、『勝沼村には甲州街道の宿場である勝沼宿が設置され』、『勝沼村・上岩崎村下岩崎村・菱山村の四ヶ村では甲州葡萄の栽培が』行われ、「和漢三才図会」「裏見寒話」などの地誌に於いて『梨やと共に甲斐特産の果樹の総称である「甲斐八珍果」のひとつとして挙げられている』とある(下線やぶちゃん)。当該ウィキを読むと、この「岩崎」という独立した村名は、下岩崎に『武田一族の分流で、戦国時代に武田信昌と守護代跡部氏の抗争において滅亡した岩崎氏の館跡』があることから由緒が知れる。

「源五右衞門」次の「淸藏」とともに不詳。本書の記載年代(安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年)から考えても、甲州葡萄発展史の中に名を残していてしかるべき人物と思われるのだが。識者の御教授を乞うものである。

「こやしの方」堆肥の施し方。

「親玉」この呼称は現在は通用していない模様である。

「梨子は實をならする事を平生(へいぜい)心に觀(くわん)じこみてゐる程ならでは、よく出來ぬもの也」ほう、禅宗のような観想精神をおっしゃる。

「とかく煙のくる所よろし」「梨は家木の内に有」から、ものを燃やす煙であることが判る。

「金子十四五兩・二十兩程」ネット上のある換算サイトでは、安永年間なら江戸中期で一両は現在の八万円、寛政期なら後期で五万円ほどに当たるとするので、中期なら百十二~百六十万円、後期なら七十~百万円相当となる。

« 譚海 卷之二 螢火丸まむしを療する事 | トップページ | 甲子夜話卷之三 22 蜷川將監、曾我伊賀守の事 »